ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ウクライナ侵略

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photo by Austrian National Library

 24日の朝、ブースター接種を受けてから丸一日以上すぎたというのに、倦怠感がつづいていた。

 すでにロシア軍はウクライナへの侵攻を開始していた。

 メディアで自説を開陳していた、おおかたの政治学者たちの予測は外れた。

 アメリカ合衆国政府の情報筋が再三にわたり、侵攻があると予告していたにも拘わらず、それじたい牽制球だと解されていたらしかった。それも、ロシアのヴラヂミール・プーチン大統領国益に鑑み、理性的な判断をするという前提に拠ったためだ。

 しかし、ロシア軍がウクライナで子どもを殺している様子を、SNSの動画などをつうじて世界が目撃するうち、訓示を垂れるプーチンの平静さを欠いた様子にも注目があつまり、はては精神疾患説までが噴出してきたのだった。

1)緒戦

 東部地域への進撃と同時に、斬首作戦を企図した首都キエフ(キイウ)への侵攻がはじまった。報道によると、民間軍事会社の要員によって編成された大統領を殺害するための任務部隊が送り込まれている。とりわけ「ワグネル」社が、これまでもロシア軍の別働隊として使われてきたことは、たとえば小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房、2021)などで指摘されている。

 BBCウクライナ危機の6つの理由のうちのひとつに数えた、バイデン米政権のアフガニスタンでの失策は、やはり重大であったと思われた。

 ガニ政権下の政府軍らは、ターリバーンにたいして歯向かうことなく、地方政府からカーブルの中央政府まで一気に崩壊した。アフガニスタンの歴史がどうあれ、たかだか20年の体制だったのだ。

 歴史を紐解けば、かつてのチェコスロヴァキアも建国後20年でヒトラーの進駐を受けいれたとき、組織的抵抗をしなかった。徹底抗戦を主張した士官は解任され、のちに個々でパルチザン活動に身を投じるしかなかった。1968年のワルシャワ条約機構軍の侵攻のときもそうだった。共産化してから20年だった。チェコスロヴァキア軍は動かなかった。このやる気のなさに抗議して焼身自殺を図ったのが、ヤン・パラフ青年だった。

 ウクライナは違った。10年の差がおおきかったものか。ソ連崩壊から約30年が経っている。若い市民のおおくが物心ついたときには、すでに独立した国家が在った。それが無くなることは想像できないにちがいない。結果、ウクライナ軍は踏みとどまって、必死の抵抗をみせている。──この敢闘も、おおかたの識者が誤算したところらしかった。

 ウクライナ側の健闘のいっぽう、ロシア軍の士気が低いことも指摘されている。侵攻前の演習のさなかから厭戦ムードが漂っており、ウォトカを飲み明かすのは伝統芸だとしても、燃料を横流しするケースまであったという報道である。演習場から駆り出され、到着した先はウクライナ戦線であった。

 史家のジョン・ダワーは、太平洋戦争の背景にあった日本人への差別意識を暴いたが、今回のロシア兵が撃つべき相手は、人種どころか、同じ言語ないし、ほぼ同じ言語をしゃべるウクライナの人間だった。士気など上がるわけがない。2008年のグルジア侵攻のときとは違う。

 ただ、戦争そのものの行方は、そもそも戦力差もおおきく、予断が許されぬ状況ではある。あの太平洋の日本軍も、大戦劈頭だけは快進撃をみせていた。「エスカレーション抑止」のためと、核兵器とて投入しかねないロシア軍のことでもある。

 

2)ゼレンスキー大統領

 象徴的存在は、ゼレンスキー大統領だ。

 ブラジルのボウソナーロ大統領も「コメディアンに国運を委ねた」と、まるでウクライナの民の自業自得だというようなニュアンスのことを語ったと報じられている。たしかに、開戦前にはそうしたムードもひろがっていた。

 知識人層ほど、所詮はポピュリスト政治家だと莫迦にしていた。2019年の大統領当選時に70%以上あったという支持率が低下するにつれて、ロシアを挑発するような言動をつよめていった。開戦直前には、じつに19%まで下落していたという。とくに停戦協定「ミンスク合意」を蔑ろにしたことで、ロシア側につけこまれる余地をひろげた。その反面、大規模侵攻直前まで動員令をかけていなかった。ちぐはぐだった。

 だから、すぐに遁走すると思われていた。ちょうど、歴史上のガニ大統領やベネシュ大統領のように。

 ところが「弾薬が要るんだ、逃亡手段じゃなく(I need ammunition, not a ride.)」と、亡命を促した米国政府筋に言い返したと報じられている。

 直前の2月19日には、ミュンヒェン安全保障会議において堂々たる演説をぶって、株を上げた。元俳優の面目躍如だった。前職が何であれ、誰でも民意によって指導者になれるのが民主主義ではある。こうした風潮が自国に波及するのを恐れているのが、他ならぬプーチンのロシアだ。

 スタッフに放送や番組制作会社の人脈が多かったのが幸いしたものか、はたまた英米の軍事顧問団の入れ知恵のお陰か。ゼレンスキーは、戦争に突入してからも、SNSなども駆使しつつ情報発信をつづけ、ネット空間の「ナラティヴ」を支配した。つまり、プロパガンダの巧みさでプーチン政権を圧倒した。

 こうしてアピールされた徹底抗戦の姿勢は、大統領への国民の支持率を押し上げたようだ。真偽はわからないが、率にして90%以上に跳ね上がったと言われている。これが全軍の士気にも影響しないとは考えにくかった。

 ドイツをはじめ、EUの消極的な態度をも一変させた。ショルツ宰相に面と向かって「欧州の理想のために死ぬ」と迫ったのが決定的だったとも伝わる。各国が物資面での援助をはじめた。

 さらに外人義勇兵の募集がはじまると、フランスはウクライナ出身の自軍兵士に装備をもったままの帰郷を許可し、デンマークなどは自国民にも義勇兵としての応募を容認した。ネットを通じた募金だけでなく、謎の集団「アノニマス」がサイバー戦の領域で参戦するなど、おもわぬ援軍もウクライナは獲得した。試してみたが、クレムリンの公式サイトはアクセスできない状態になっていた。ついでに、イーロン・マスクTwitter上での副首相の求めに応じて、ウクライナ領域における衛星通信システムStarlinkの運用を開始した。

 くわえて、週末には世界各地の都市で反戦・抗議デモが巻き起こった。これを冷笑的に捉えた大阪の元政治家の見解が物議を醸していたが、そういう向きは、米軍がヴィエトナムから撤退する羽目になったきっかけについて思い出してみるとよいだろう。

 そんな外交上の「ソフトパワー」の側面も発揮したゼレンスキーであるが、代表作とされるTVシリーズ『国民の下僕』は、YouTubeでも視聴できる。タイトルが暗示する「国家第一の僕」で知られるプロイセンの君主だけではなく、歴史上の統治者たちの含蓄ある金言が詰まっている。ゼレンスキー演じた主人公の教師が、ひょんなことから大統領になるというコメディだった。そこでリハーサル済みの職務を、いま果たしているかのようだ。

 もともとロシア語話者というだけでなく、あるいは名から連想されるように、ルーツとしてはホロコーストを生き延びたユダヤの家系でもあるという。18世紀まで遡ると、そもそもヨーゼフ2世が寛容令を発布したのは、わけてもガリツィアに多く在住したユダヤ教徒を、経済活動に参加させるだけでなく、役人に登用するためであったといわれる。いずれにしても、今日の情勢など、さすがのヨーゼフ帝とて知る由もなかった。

 ところで、プーチンがもとめる「非軍事化・中立化」というのは、結果的にローズヴェルト=トルーマンが日本帝国にたいして行ったことを思わせる。米ソ冷戦や朝鮮動乱の勃発で、路線はやや変更されたとはいえ。つまるところ、無条件降伏を求めていることになる。ロシアの脅威にならない国という意味では、ふつう「フィンランド化」と呼ばれているが、「日本化」といっても当たらずと雖も遠からず。この意味では、両者の差異としての日米安保条約の存在の重さは計り知れない。そのフィンランドすら、北大西洋条約機構NATO)加盟を検討し始めた。

 何よりも、GHQをつうじて憲法を改変、産業や経済の構造を変えられるも、日本という国は残った。世界がリアルタイムでウクライナの生存闘争を目撃している以上、さしあたりウクライナという国がなくなることはないだろう。欧州連合EU)も、例外的な手続きで早急にウクライナを加盟させる案が検討されているようだ。

 

3)プーチン大統領

 前掲の『現代ロシアの軍事戦略』は、控え目にいっても現代人必読の書であるが、著者の小泉悠は、プーチン大統領は「頭の中が100年単位で古い」と喝破している。

 そのプーチン大統領の「頭の中」については、昨夏に発表された、当人の手になる論文が注目されていた。ロシア人はひとつの民族であって、ウクライナ人など存在しないという主旨だった。個人的には、「民族」こそ存在しない、空疎な概念にすぎぬ、といってやりたかったが。これは、2月22日にケニヤの国連大使が「危険なノスタルジア」と呼んだところのイレデンティズムであった。

 100年前といえば、たまたま好例となる書物が手許にある。トマーシュ・マサリクが第一次大戦のさなか、「チェコスロヴァキア人」の存在をアピールしようと構想した『あらたな欧州』の復刻版である(Tomáš G. Masaryk, _Nová Evropa_, Brno 1994)。

 その巻末に、「ヨーロッパの民族学的地図」と題された地図が付いている。そこに書かれたRUSOVÉ(ロシア人)を仔細に見ると、VELKORUSOVÉ(大ロシア人)のほか、BĚLORUSOVÉ(白ロシア人)とMALORUSOVÉ(小ロシア人)に大別されている。

 

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Tomáš G. Masaryk, _Nová Evropa_より。フランス語版と英語版は1918年、チェコ語版は1920年にそれぞれ刊行された。

 まさに、プーチン論文の民族観が可視化されたのごとくである。ただし、そのころ独立国家が一時的に成立したこともあり、著者マサリクの場合、本文中では小ロシア人を括弧つきでウクライナ人としている。

 マサリクが、のちのチェコスロヴァキアに含まれることになるドイツ人やハンガリー人マイノリティを、地図上で省略しているように、プーチンもまたウクライナのマイノリティを勘定にいれていないようだ。ルーマニアハンガリータタールは言うに及ばず、ふるくは15世紀に滅したトレビゾンド帝国から逃れてきたという、ギリシア系のマイノリティも9万人以上が暮らしている。少数派を数え上げればきりがなくなるが、ウクライナ通の友人によると、経済的な結びつきのつよさを反映してか、近年は中国人やインド人の姿も目立つようになっていたという。

 ほかにも、プーチンをめぐっては、イヴァン・イリインのファシズム思想の影響も指摘されている。また「ハイブリッドな戦争」の諸相は、ウェブ上にもいろいろの記事や論文が出来しており、東部地域の傀儡「汪兆銘政権」確立のからくりまでも、そうとう解明されているようだ。

 とはいえ、プーチン大統領当人の心の闇については謎がのこる。すくなくとも、時代遅れの「民族自決」思想が背景にあることも間違いないが、それが単に政策を正当化する宣伝にとどまるものだったのかどうか。こうした思想を強調すると、同胞を殺していることになるが、矛盾は感じないものらしい。あるいはそこに、ヒトラーの「世界観戦争」との差異がある。

 邦人保護を目的としたウクライナの「非ナツィ化」という表向きの戦争目的からすると、プーチンが、ウクライナ型の民主主義の波及を恐れていることはまちがいない。マイダン革命のような「西側」による工作を招きかねないと。「過去の密約に違反したNATOの東方拡大が、ロシアの安全保障を脅かしている」というのも、侵攻の論理的理由とされているものの、二次的なものであろう。いずれにしても、追い詰められたプーチンの慄きが、亡霊のごとく漂うロマン主義的な種々の妄執とともに、パンドラの匣を開けてしまったように見えるのである。

 イアン・ブレマーなどは早々に、冷戦の再来を予言している。また、全面核戦争へエスカレートする可能性を思えば大したことではないのかもしれないが、エネルギー問題やインフレの懸念もおおきくなっている。やっとパンデミック生活が終わりそうだと胸を撫で下ろしていた人類だが、前途にはさらなる暗雲がひかえている。

 

  *参考文献ほか:

 

 

 

bunshun.jp

www.cnn.co.jp

www.cambridge.org

www.rferl.org

www.cnn.co.jp

mainichi.jp

www.cnn.co.jp

 

ラム酒でつくる〈グロク〉と〈ヤーガーテー〉

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photo by Maximalfocus

 ラム酒が、大陸ヨーロッパの内陸部で何世紀も愛飲されている──というと、奇妙に聞こえるかもしれない。

 ラムは廃糖蜜から作られ、その原料となるサトウキビは、熱帯や亜熱帯、つまり欧州から遠く隔たった暖かい地方でのみ栽培が可能なのだから。

 ところが、「合成ラム」というものが存在するのだ。

1)おらが国の合成ラム⭐︎

 もとは、馬鈴薯などに由来する食用アルコールにカラメル等で着色をほどこし、香料でそれらしい香りに調整された代物だった。

 かつてオーストリア・ドイツ語では「インレンダールム」と呼ばれ、チェコ語では「トゥゼムスキー・ルム」と銘打って売り場に並んでいた。記憶はさだかではないが、後者では「チェスキー・ルム」と称した製品もあったようだ。

 いずれも輸入された本物のラムと区別するための呼称で「ドメスティックなラム酒」すなわち「国産ラム」ないし「ご当地ラム」くらいの字義ではあった。けれども高価な酒に縁がない大衆酒場でラムといえば、これしかなかったりしたものだ。

 いぜんは漠然と、ナポレオン戦争の時代に発明されたものだろうと思っていた。大陸封鎖令と自由拿捕令によって仏英はたがいに兵糧攻めを企図したが、そうなるとカリブ海からラムを輸入するのは至難となるはずだ、と勝手に想像していたのだ。

 どうやら違った。たとえば『オーストリア外食・ホテル産業新聞』(2014年11月7日付)の記事にある。それよりはるかに遡った時代に、たんに安あがりに製造・売買・消費できる商品として開発されたものだったというのだ。サトウキビが必要なラムは、アルプス以北の寒冷地では戦争など関係なく、もとより高価な舶来品だった。

 ドーナウ河畔のクレムスは、風光明媚なヴァッハウ渓谷の観光がてら訪れるのがよい。オーストリア・ワインの産地として名高いが、行ってみたら存外にしずかな町であった。

 ここで17世紀に薬剤師が考案したのが、くだんの合成ラム酒であったといわれる。やがて、同様の品を製造販売する業者は、ボヘミアハンガリーなど帝国各地にひろがっていった。日本酒にも「合成清酒」というのがあるし、みりん(味醂)にすら「みりん風調味料」というのがある日本であるから、このへんの感覚はよくわかる。

 しかしながら、欧州連合EU)の食品や種々の製造物にたいする姿勢はきびしいもので、あらたに加盟した旧帝国の継承諸国にもガイドラインが適用された。──"RUM"の字句を表示することはまかりならない、となった。そもそも「ラムもどき」なのだから、当たり前の話だ。他所のふつうの国でこれをラムだと強弁することには無理がある。それで消費者保護の見地からは客観的で公正にみえるも、メイカーは戸惑ったことであろう。地元では何百年ものあいだ「ラム」扱いだったのだから。

 結果、オーストリアでは「インレンダー・スピリトゥオーセ」、チェコ共和国では「トゥゼマーク」、ハンガリーでは「ハヨーシュ」などと、いずれも「ラム(ルム)」という語や形態素を含まない、つまり誤解を生じさせない表示に改められた。たほうで、原産地呼称の規定も適用され、それぞれの国で製造されたものだけが許される品名となっているそうである。

 ただ、さいきんでは原料にサトウキビを用いているものもあって、こうなるもはや本来のラムと区別する意義がわからなくなってくる……。

 

2)レシピ──ラム酒であたたかい飲み物を⭐︎

 ところで、ラムという酒には先入観をもっていた。むかし飲んだのが、あまりうまくなかったのだ。だからこそ、ロン・サカパの23年物をはじめて口にしたときには、あまりの美味におどろいた。それでラムの市場があんがい大きいことにも納得できるようになった。どうやら近年は拡大しているらしいのであるが、それも不思議とは思われない。

 こういう経緯から、ラムが苦手だという声があっても理解はできる。が、そんな向きにもおすすめなのが、ラムでつくる温かい飲み物だ。「グロク」や「ヤーガーテー(イェーガーテー)」である。寒い季節にはぴったりだ。

 原則的には「ご当地ラム」でつくるものとされる。上掲記事には、試飲会の様子も描写されていて、S・シュピッツ社の「ご当地もの」をつかった一杯が、地元のひとに「これだ。まさに子どもの頃の味だ!」などと称賛されているくだりなどは、いかにも業界紙という風情なのだった。

 じっさいには、上等なラムをつかっても差はない。捨てるわけでなし、気に入った銘柄がいちばんだ。──そういえば、例のウイルスが世界を席巻しはじめたころ、蒸留酒が家庭内の消毒液がわりにつかわれ、SNS上の写真では惜しげもなく高級な品が用いられていることが多々あった。なぜ飲まないのかと憤慨した飲み助は、わたくしだけではあるまい。つまり、良い酒は無駄にしてはならぬという、変な倫理観には共感するところではある。

 さて、先日も触れた、レティゴヴァー女史の『家庭の料理書』(初版は1826年刊)から「グロク」のレシピを拝借してみる。19世紀ボヘミア流。といっても、かなり簡単だ。

 グロク
 この飲料は、ラム酒と砂糖と沸かした水だけでつくられる。グラスに砕いた砂糖を入れ、ラム酒を好みの量そそぎ、熱湯を加えよ。

 これだけだ。

 「砕いた砂糖」とある。19世紀における砂糖は、砲弾にも似た円錐状のシュガーローフの形態で流通していたから、家庭で砕く必要があったわけで、上白糖やグラニュー糖をもちいる現代人には要らない工程だ。なお、コーヒー用のブラウン・シュガーも好適だと思うが、氷砂糖をゆっくり溶かしながら飲むのも一興かもしれない。

 「ヤーガーテー」のほうも、いろいろのレシピが知られている。ざっと見わたすところ「グロク」との違いは、「テー」という手前、熱湯の代わりに「紅茶」を用いるくらいにすぎない。シナモンやクローヴをくわえるレシピがおおいが、お好み次第だろう。ちなみに、ボトル入りの既製品もあって、こちらも原産地呼称制度で保護されている。

 

クリスマスには鯉(2)

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 クリスマスは、異教の冬至の祭りに由来する。ジェイムズ・フレイザーなどを読むと、そういうことが延々と論証されている。のち、それをキリスト教会が採り込んだものであると。

 中部ヨーロッパにおいて、クリスマス・ディナーのさいに鯉をたべる慣らいがあることは、以前も書いた。魚ということで、ついキリスト教と結びつけたくなるし、じっさい中世のむかしから説教師はいろいろこじつけたという記述もあるにはあるが、がんらいクリスマス自体がキリスト教に連関がなかったのだから興も醒める。

 一説に「クリ鯉」が習慣として一般庶民にひろく普及したのが第一次大戦後であったとされるのは、戦争末期からつづいた食糧難の影響かもしれない。ウィーン料理の歴史をひもとくと、この時期、おおよそ用いられないような食材が活用されたというのだ。鴉の肉まで喰ったというくらいで、なんだか気味が悪いが、それほど逼迫していたものと偲ばれる。クリスマスくらいはまともな食事を、というニーズが戦後の市中に急増したとしてもふしぎはない。鯉は養殖しやすい魚といわれ、入手もまたすぐに容易になったのではないか。

 じっさい、鯉はそれ以前から日々の食卓にのぼっていた。日本の内陸部においてと同様、海からへだたった土地では、ふるくから重宝された食材だった。19世紀前半からハプスブルクの帝国において絶大な人気を博していた料理の書というのがあって、そこにも鯉料理のレシピが載っているのである。

 マグダレナ・ドブロミラ・レティゴヴァー(レティヒ夫人)による『家庭の料理書──ボヘミアモラヴィアの子女のための肉料理と精進料理に関する論考』というのがそれだ。この書は、帝国じゅうで愛読され、作成者不明の海賊版すら出まわっていたというほどだった。チェコ語とドイツ語の版で増刷されつづけ、いまでも復刻版が売られている。チェコスロヴァキアでは「ブルジョワ文化」として家庭料理の文化が衰退の極みにあった社会主義時代にも、使い古された同書が母から娘へとたいせつに受け継がれたそうである。

 さて、いまもクリスマスの団欒にこのんで供される「鯉のフライ(スマジェニー・カプル)」にしても、単純な料理であるがゆえに、同書にあるレシピも現代のそれと調理法じたい大差はない。

 ──捌いた鯉を切り身にしたのち、塩してから半時間ほどおき、その身を布で拭いてから、穀粉、卵、「すりおろしたゼンメル」の順につけて衣を形成し、熱したバターで「赤く」なるまでよく揚げ焼きすべし──というものだ。カワカマスやペルカやほかの魚も同様に調理できる、とされているが、川魚ばかりが例に挙げられているところが内陸のボヘミアモラヴィアらしい。

 また、現代チェコ語にはstrouhankaという語があるが、同書では上のように「おろしたゼンメル」と表現されている。ちなみに粗挽きが特徴的な日本のパン粉も、いまやpankoとして世界で知られるようになっている。だから、流通や小売りの業界では、strouhankaの一種ではありながらも、pankoは特定の種類の商品をさす語でもある。

 文法面で面白いのは、現代のチェコ語のレシピが直説法か命令法の一人称複数、すなわち「……しましょう」と書かれるのにたいし、同書では命令法・二人称単数、つまり「……せよ」「……しろ」「……すべし」というふうに書かれているところだ。「指南書」ということばがしっくりくる。

 ほかにも、同時期のウィーンでは、アナ・ドルン夫人がものした料理書がよく知られているが、こちらにも鯉料理のレシピが複数でてくる。それほど、ハプスブルク帝国ではひろく鯉が好まれていたらしい。

 ところで今年はというと、世界的な物価高騰のなか、文化を継承した国ぐにではクリスマスをまえに鯉の小売り価格もつり上がったと報道されていた。さらに気がかりなのは、これから年明けにかけてのウクライナ情勢である。集結したロシア軍との鞘当てのゆくえ次第によっては、インフレやエネルギー危機にも拍車がかかり、カラスまで喰ったという100年あまり前の悪夢の食生活がもどってこないともかぎらない。

 ウクライナとて旧帝国領の例にもれず、鯉食文化があるのだ。……もうすこしオーストリア=ハンガリーチェコスロヴァキアという文脈を気にかけていれば、そもそも2014年からのウクライナ情勢にも異なったエピローグを準備できたのではあるまいか。

 ポロシェンコ大統領らによる、ウクライナ語をめぐる一方的な言語政策は、全人口のほぼ半数にのぼるロシア語を母語とする人びとの反発も招いて、すぐに撤回された。時宜を得て、付け込んだロシア連邦クリミアを占領し、ドンバス地方にも工作をすすめた。けっきょく、ロシア系住民が多数派を占める地域は、かつての「ズデーテンラント」のごとく、掠め取られた。こうしてみると、やはりプーチンのやり方はヒトラーのそれをなぞっている。

 19世紀の魚フライの作りかた以上のことを学び直さねば……。

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

*上掲画像はWikimediaより

 

犬かけて──チェコ共和国・ゼマン大統領と憲法論争

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photo by Florian Olivo

 ソクラテスが「犬にかけて誓う」といったのは、正確には「エジプトの犬」、つまりアヌビス神を引き合いに出して、みずからの言の真実を約したのだ──という話がある。

 絶対的な存在を挙げて誓う習慣は、洋の東西を問わずひろく見うけられる「人情」であるように思える。日本語でも「神掛けて」という連語が、じつに『源氏物語』における用例とともに辞書にあるくらいだ。

 ドイツ連邦共和国憲法たる「基本法」においては、第59条で連邦大統領が就任するときの宣誓の文言が規定されているが、さいごに「神」がでてくる。

私は、私の力をドイツ国民の幸福に捧げ、その利益を増進し、損害を回避し、基本法および連邦の法律を守り、かつ擁護し、良心に従って私の義務を果たし、何人に対しても正義を行うことを誓う。神よ、我れの、かくあるべく助け賜え。

──ドイツ連邦共和国基本法・三カ国語対訳

 とはいえ、これでは「信教の自由」(同4条)に抵触するおそれがあるからであろう、つづく第二項によって留保されている。──「宣誓は、宗教上の誓約なしに行うこともできる。」と。

 いっぽう、1993年に施行されたチェコ共和国憲法でも、やはり59条で共和国大統領の宣誓を定めている。

私は,チェコ共和国への忠誠を誓う。 私は,共和国の憲法と法律を遵守することを誓う。私は自らの名誉にかけ,全人民の利益のために自らの最高の見識と良識をもって,自己の職務を遂行することを誓う。

──早川弘道ほか訳「チェコ共和国憲法」『比較法学』36巻1号、2002

 ちなみに同69条には、共和国首相の宣誓についても規定がある。

私はチェコ共和国への忠誠を誓う。私は,共和国の憲法と法律を遵守し,それらを実施することを誓う。私は自らの名誉にかけて,自己の職務を誠実に遂行し,その地位を濫用しないことを誓う。

──同上。

 いずれにせよ、こちらの憲法には「神」が出てこない。「自らの名誉」という曖昧で相対的な代物がこれに替えられている。

 同共和国における「思想・良心・宗教の自由」については、同憲法と同時に成立した「基本的権利および自由の憲章」によって保障されている。憲法はこれを厳格にまもっているともとれるが、歴史的な無神論大国であるから、もとより「神」をもちだすことが馴染まないとされても何の不思議もありはしない。

 ただ、「共和国への忠誠」を誓うのに「自らの名誉」という、いわば自由裁量でもってするのは、やや不釣り合いな気がする。「人情」に欠ける気もする。いずれにしても「政治家の口約束」にすぎぬことにかわりはないわけだが。

 となると、現職のミロシュ・ゼマン大統領がなにをもって「自らの名誉」としているのか、不安になってくる。「共和国への忠誠」にしても、それが「『中華人民』共和国への忠誠」でないとは否定しきれまい──という皮肉のひとつもいいたくなるのは、このところ同大統領が、またぞろ相応の態度を示しているからである。

 先週、『ポリーティコ』でも報じられていたけれど、任命済みのペトル・フィアラ首相の次期内閣において外務大臣に就任することになったヤン・リパフスキー元代議院議員(海賊党)について、任命を拒否したのだった。──ただ、この問題は週明けには解決し、金曜日には無事に新内閣が発足する見込みと報じられている。つまり、いったん拒否した人事を大統領はしぶしぶ了承したわけだ。

 大統領が人事を拒否した時点では、憲法68条がとりあげられていた──「①政府は,下院に対し責任を負う。②首相は,共和国大統領によって任命される。首相の提案に基づき,大統領は,政府のその他構成員を任命し,政府構成員に省またはその他の官庁を指揮する権限を与える。」

 同条文によると、大統領には拒否する権限がない、というのが憲法学者らによる、おおかたの解説であった。それだから、フィアラ新首相にしても憲法裁判所に提訴する意向を表明してもいた。

 報道によると、ゼマン大統領の拒否の言い分としては、リパフスキー氏が学士号しか取得していないのが不満との由であった。ほかに同氏のヴィシェグラード・グループと距離をおく態度や、ズデーテン・ドイツ人問題への融和的な姿勢、さらに対イスラエル外交における方針を問題視し「新政府の準備したプログラムと相反する」と主張してもいたが、これらのほうが主たる理由であったことは間違いない。

 もともと、チェコ共和国のようなドイツ文化圏の大学では修士号にあたる「マギストゥル」がながらく基本的な「大卒」の学位であって、欧州連合EU)加盟後にブリュッセルのお達しによって、学士号にあたる「バカラーシュ」課程が無かった専攻にも急ぎ設けられたという経緯があった。リパフスキー氏の有するプラハ・カレル大学の「学士」では、頭のふるい世代には「大卒」とは認め難いという理屈も成り立つのだろう。ところが、前政権で外相もつとめたヤン・ハマーチェク副首相などは、それすらも有しておらない、いわば「高卒」だったことから、大臣就任を拒否する理由にはなっていないとの批判が相次いだのだ。ちなみに、チェコ共和国の高等教育や学位にかんしては、たとえば『チェコとスロヴァキアを知るための56章』(薩摩秀登編、明石書店、2003)の「チェコの教育制度──ドクトルがたくさんいるわけ」に簡潔にまとめられている。

 「中卒」の宰相で近年も人気が高まった田中角栄の例などを知るわれら日本人としては理解に苦しむ。だが、リパノフスキー氏の経歴に「マッキンゼー」とあるのを見るや、ゼマン大統領ら「共産主義者」たちが拒否反応を示す心境について、ぴんとくるのである。要するに、外相が親米派では困るのであろう。なにより、中国やロシアに対する強硬な姿勢で知られる御仁である。

 端的に、ゼマン大統領が駄々を捏ねたわけは何かと邪推すれば、今夏の『人民網』の記事がまず浮かぶのである。同大統領が中国の習近平主席との電話会談をおこなったというものだ。

習主席はゼマン大統領との会談で、「中国及び中国の発展を正しく受け止め、中国とチェコの意思疎通及び協力の強化に尽力し、関係する問題を適切に処理して、両国関係の健全性及び活力の維持を図る関係者がチェコ側に増えることを希望する。双方は『一帯一路』(the Belt and Road)共同建設などのプラットフォームを活用し、新コロナウイルス感染症との闘いにおける協力を深め、経済活動の再開及び回復を推進し、相互投資及び貿易を促し、注目点となるような協力を増やすべく努力する必要がある」とした。

ゼマン大統領は、「チェコ側は中国との友好協力の強化に尽力しており、中国側と緊密に意思を疎通し、妨害を排除し、両国関係の健全で順調な発展を確保することを望んでいる。双方が共に努力して、経済協力を促進することを希望する」とした。

──習近平国家主席がチェコ大統領、ギリシャ首相と電話会談--人民網日本語版--人民日報

 「妨害を排除」すると習主席に誓った手前、これまでも中国へ恭順の意を示してきたゼマン大統領としては、いずれにしても海賊党から外相をだすことは阻止したに違いない。同党はリパフスキーのみならず、なかんづく台北への留学経験まであるズデニェク・フジプ・プラハ市長に象徴されるけれども、親台湾政党といっていい。また、ヴィシェグラード・グループにしても、いまやEU内の「半グレ」集団に堕した観もあるが、ハンガリー・オルバーン政権に典型的にみられるように親中国の傾きもあり、ゼマン大統領も外交の枠組みとして重視してきたものだった。

 せんじつ同大統領が入院していたさいには、憲法第66条にある「共和国大統領が重大な理由によりその役職を行使できない場合」の「権力移譲」についての議論が盛んになったものだった。これだけ憲法の規定をおびやかしつつも必死に抵抗しているとも言える。そのゼマン大統領が「自らの名誉」をかけても共産中国に忠誠をつくす、その真意があきらかになる日はくるのだろうか。

 

*参照:

ct24.ceskatelevize.cz

www.politico.eu

www.derstandard.at

j.people.com.cn

ペトル・フィアラ──チェコ共和国の新首相

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photo by Richard Ley

 11月28日の日曜日、市民民主党ペトル・フィアラ党首が、チェコ共和国首相に任命された。同党は政党連合SPOLUとして先日の選挙を制していた。

 ミロシュ・ゼマン共和国大統領は、選挙に先だつ10月10日から集中治療室で加療中で、ようやく11月25日木曜日に退院。ところが、プラハから40kmほど西のラーニにある大統領公邸に移動したのちに、新型コロナウイルスに感染していることが判明し、翌金曜日に元いた中央軍事病院に舞い戻った。そのため、新首相の任命式は日曜日にずれ込んだ。

 任命式において、水槽のような衝立のなかにひとり車椅子ごと鎮座するゼマン大統領と、その前に直立して抱負を述べるフィアラ新首相の映像が放送・配信された。金魚のようで滑稽な自国の国家元首を目の当たりにした市民らが、リモートで行うという手もあったのではないかとSNSでさかんに批判していたのも当然と思われた。

 フィアラ新首相は任命後、雪の降るなか記者に会見した。そこで「自由には責任が伴うことを理解し、予防接種を受けた市民に感謝します。ワクチンを打っていない方がたには、ぜひ接種を受けることを検討して、この一歩を踏み出していただくよう要請したい」と述べ、あわせて、すべての医療関係者と医師にたいする謝意を表明した。

 アンドレイ・バビシュ前首相の「接種を受けていない連中は自分勝手だ」という言辞が日本の報道記事にもあったが、ほぼ同じ意味内容ながら対照的な物言いという印象をうけた。

 新政権の政策はまもなく明らかになるとして、ペトル・フィアラ首相の来歴を簡単に紹介しておこう。

 一般には、政治学の研究者・教師だと思われている。

 選挙ビラ等の資料によると、1964年、同共和国ブルノに生まれた。

 1983年に同市内の大学、哲学部に入学(民主化後のマサリク大学)。当初の専攻はチェコ語と史学であった。

 1986年、スタレー・ブルノ地区の聖母被昇天聖堂にて受洗。

 1987年、友人らとサミズダト雑誌『レヴュー88』を編集。

 1988年、徴兵に応ずる。

 1989年11月、民主化デモに参加し、将来の妻・ヤナと知り合う。

 1990年、仲間たちと同学部に政治学科を開設し、のち29年にわたって主任を務める。

 1992年、結婚。追い追い三人の子どもにめぐまれる。

 1998年、同大学の社会科学部の開設に参画し、のち学部長にも就任。2004年、同大の学長就任。

 2012年(ペトル・ネチャス内閣にて)学校教育・青少年・体育大臣に就任。

 2013年、市民民主党(ODS)南モラヴィア県連推薦の無所属候補として出馬し、代議員に当選。2014年、同党首に選出さる。

 2017年、有権者のつよい支持をうけて、ふたたび代議員に選出……などと紹介されている。

 同国では、25日深夜から非常事態宣言が発効しており、商店の営業時間が制限されるなどしている。また、南アフリカに由来するオミクロン型変異種によると思われる症例も、27日までに確認されていると伝わっている。週明けからの、新首相の初動に注目したい。

 

*参照:

www.jiji.com

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不平等条約と斜陽の帝国

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photo by AG-Pics

 前まえから予定されていた、気候変動枠組条約締約国会議「COP26」も、気がつけばとっくに閉幕していた。石炭火力の廃絶をめぐって紛糾したが、ついに当たり障りのない形だけの「合意」を結ぶにとどまった。いずれにせよ、茶番だと言われても仕方がない。

 この手の気候保護にかかわる地球規模の交渉で、まいかい聞かれる不平が「不平等」だというものだろう。そもそも排出量も産業構造も一様ではないのに、同一の条件に合意したところで、国によって産業や国民生活への影響もまた、さまざまだ。

 日本などは同意を見送ったものの、他の多くの国ぐにが不平等に目をつぶって調印したのには、交渉の過程でそれを補って余りある利益が見出せたために違いない。最終的な国益のまえに、名を捨てて実を取るがごとし。中国に懐柔された国ぐにも責めることはできまい。

 日本人としては、思い当たるふしも多い。なかでも、文脈の説明もなしに「不平等条約」と言ったばあい、しぜん、幕末から明治にかけて欧米列強と締結した一連の条約がおもいうかぶはずだ。

 幕末1854年の「日米和親条約」と4年後の「日米修好通商条約」にはじまって、明治二年(1869)の「日本國澳地利洪噶利國修好通商航海條約」に完成をみたとされる、欧米列強との「不平等条約」群のことである。

 列強のしんがりとして明治日本のまえに立ち現れたのが「澳地利洪噶利國」、すなわちオーストリア=ハンガリー帝国だった。つい大政奉還とおなじ年に、ハンガリーとの間にアオスグライヒ(妥協)を結んで成立したばかりだ。すでに「斜陽の帝国」へと傾きはじめていた。

 このときの「条約書」が面白い。いまや、文書の写しが国立公文書館国立国会図書館のサイトから入手できるようになっている。

日本天皇陛下と澳地利皇帝婆希密等のキン兼洪噶利アポストリックキン陛下兩國の交際を永久親睦にし且兩國臣民の貿易を容易ならしめん事を欲し其か爲和親貿易航海の條約を結ん事を決し[...]

──単行書・澳地利国条約書・全(適宜ひらがなに表記を改めた。以下同)。

 「澳地利」には「ヲースタリア」、「婆希密」には「ボヘーミア」、「洪噶利」には「ホンガリア」と、それぞれ読み仮名が振ってある。なかなか味わいがある表記だ。

「キン」というのは英語のキング(king)のことで、「アポストリックキン」というのはハンガリー王の公称「使徒にして王」を英語から音訳したものと察しがつくが、やはりそうらしい。東京で調印された「條約」は「日、獨、英文」とあり、じっさいあった(墺地利洪牙利国)。

 あれこれ腐心して翻訳したのであろう。なんといっても大政奉還から昨日の今日で、明治改元の詔から1年ほどのことである。まだ、明治五年までは、旧暦が使用されていた。急ごしらえの近代国家だ。

 いずれにしても、明治政府は、領事裁判権などによる多少の不平等を不問に付しながら「貿易を容易ならしめん事を欲し」たのだろう。条約文に正直に書いてあるとおりだ。ペルリ来航から15年あまり。開国の流れに疑問の余地はなく、背に腹はかえられなかった。

 ところが、まもなく意気揚々と敵地に乗り込んだ岩倉使節団のお歴々の目には、欧州の文明はあまりにも眩しく輝いていたらしい。それが祖国の後進性を痛感せしめ、いったんは不平等諸条約の撤廃を断念せざるを得なかった。

 けっきょく上の「條約」が改正されたのは、日清戦争に勝利して国際的に地歩を固めたのちで、明治三十一年(1898)のこと。その「通商航海條約」の文面もオンラインで閲覧が可能。

日本國皇帝陛下及墺地利ボヘミヤ國洪牙利國皇帝陛下は両國臣民の交際を皇張増進し以て幸に両國間に存在する所の厚誼を維持せむことを欲し而して此の目的を達せむには従来両國間に存在する所の條約を攺正するに如かざるを確信し公正の主義と相互の利益を基礎とし其の攺正を完了することに決定し[...]

──帝国ト墺地利洪牙利国トノ通商航海条約及追加条約・御署名原本...

 ずいぶんと翻訳が洗練された印象がある。すでに明治二十三年には「大日本帝国憲法」も施行され、日本は近代的立憲国家に脱皮していた。

 仔細に視ると、オーストリアの表記が「澳地利」から「墺地利」へ、つまり「さんずい」から「つちへん」に替わっている。当時はまだアドリア海トリエステの軍港なども領有していたとはいえ、狭義のオーストリア内陸国であることを思えば、より相応しい感もある。ボヘミア王国については「ボヘミヤ」とカタカナ表記になっている。「天皇」は「皇帝」になっているが。

 なによりも、屈辱であった不平等条約を改正するのだと、文面からも明治政府の力みようが伝わってくる。「公正の主義」と「相互の利益」にもとづくというのは、要するに、対等の立場から、というのを強調しているわけだ。最初の「日澳条約」締結からは、およそ30年が経っていた。

 ところが、それから僅か20年のち、この列強の一角であったドーナウ帝国が崩壊しようなどとは、締結にかかわった明治の指導層も夢想だにしなかったのではないか。しかもその際には、日本帝国は戦勝国の一員として、君主政の解体と継承国家群の創造に関与していたのだった。ある意味、不平等を呑まされた相手を、半世紀にわたる臥薪嘗胆を経て打ち負かしたかのようにもみえる。ゆきがかりじょう、日英同盟の手前もあった。それでも要領よく漁夫の利も得たのだから、不平等の嘆きも「今は昔」の感すらいだく。

 ヴィルヘルムにしろ、フランツ・ヨーゼフにしろ、皇帝みずからが国政に積極的に関与しつづけた君主国は、どちらも崩壊してしまった。伊藤博文にしても、ほかでもないベルリンやウィーンにて憲法を学んだのだから、皮肉なものである。けっきょくシュタインの助言も手伝って、プロイセン憲法を手本に帝国憲法を制定することになったわけだ。そういえば、帰国後の伊藤が欧州に書き送った礼状の一通は、このブログによく出てくるモラヴィアにあって、同ブルノの公文書館に保管されている。「東京でお世話になった先生が埼玉に住んでいる」くらいの感覚である。ウィーンが近代的立憲国家としての日本の「揺籃の地」であるとすれば、それをうらづける「証人」も近郊で眠りについている。

 とまれ、まったく将来が見通せないなか、忍びがたき不平等を忍んで国運を賭けた、往年の元勲らであった。数十年のスパンでみれば、それは吉と出たといえるのだろう。

 ひるがえって、東シナ海もきな臭くなってきた昨今である。人権問題が物議を醸しつつも、北京における冬季オリンピックも近づいている。前回の大会、つまり2008年の北京五輪の前後が、中国にとって対米開戦の絶好のタイミングである由と放言する者もかつてあったが、今回はどうか。数十年の間に大国として興隆した中国を尻目に、日本は衰退をきわめる。経済は「失われた30年」を見、人口は今後も減少の一途だ。クリーンなエネルギーを云々するまえに、日本という国が50年後にも存在しているものかどうか、心細くもなってくる。

 

*参照:

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暗い血の旋舞

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photo by Marie Schneider

 承前クーデンホーフ=カレルギー光子の話がでてきた。

 まず思い出されるのは、松本清張『暗い血の旋舞』ではないだろうか。「香典なんとかミツコなんか知らない、聞いたこともない」とおっしゃる向きは、読んでおいて損はない。けれども、ちょっと残念な作品でもあるのだ。僭越ながら言わせてもらえれば。

 冒頭から、杉田という男とマキという女が、なにやら深刻そうに歴史の話をしている。情景描写もむやみに深刻だ。舞台であるフリートホーフとは墓地のことである。そして、くろぐろ雲がみちてきて、いまにも小糠雨すら……。どんよりと暗すぎて「このひとたち死んじゃうのかな」と思わせるが、そうではない。意味もなく深刻ぶっているだけなのだ。

 現地ウィーンで観光局に勤めるというマキに、杉田がクーデンホーフ光子について尋ねはじめる。──なるほど、杉田とは取材に来た小説家で、すなわち松本清張の分身なんだな、と読者は解する。でも、それにしては悩みが深そうだ。

 クーデンホーフのひとりが「副王」とよばれたことが引っかかっているようだ。よく読むと「クーデンホーフ家はボヘミアの副王だった」と光子の次男、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの自伝にあったとして、それでどうやら誇大な誤解が生じている。

 そりゃ、たぶん「シュタットハルター」の訳語でしょう、やはり「総督」くらいに訳したほうがよかったかもしれませんが──と具申したくなる。が、いやな予感もしてくる。芥川賞受賞の作家先生にたいして、編集者連は誰も教えてさしあげなかったのか、と。

 しかし、そうした誤解やら疑問やらが、取材旅行のあいだに氷解してゆくのを読者は期待しつつ、ページをくるわけだ。けれども、入れ替わり立ち替わり現れるのはリヒャルトの回想や概説書や何やからの引用文である。概説っていうくらいで、大雑把なものだ。しかも、相互の関連性にうすい、ありていに言えば、関係のない挿話が作家の思いつきというかたちで語られる。取材ノートを兼ねたスクラップブックを読まされているいるかのようだ。

 主題はクーデンホーフ光子の話だとおもっていたら、急にフランツ・ヨーゼフ帝の話がでてくる。そうかとおもうと、世紀末ウィーンの文人や画家について、ガイドブック並みの解説が割り込んでくる。現地で入手する文献もあるにせよ、日本から持参した資料をホテルや機内で読むうちに疑問が解けてしまうこともあり、なんのための旅なのかわからない。

 それでも文庫版100ページ前後からは興が乗ってくる。やっと中盤と終盤で、作家が構想している小説が具体的に明かされもする。予期される物語のプロットないしストラクチャーめいたものが披露されるから、そこで読者は作者の意図を最終的に了承するわけだ。すなわち、このひとはけっきょく歴史の謎を解くために来たわけではないのだ、と。ほんとうに小説のすじを考えるためだけにやってきて、協力者の女性たちとおしゃべりして、いろいろ由無し事を書き連ねているのだ。

 それがわかったときには残りのページはあとわずかだ。「暗い血」と言ったって、ハプスブルクの同族婚をほのめかして、すべてを説明したつもりになっているだけかと呆気にとられる。しかもクーデンホーフ光子は関係ない話になっておるじゃないかと憤ったところで、あくまで小説の構想として頭に浮かんだことですから、といわれたら仕方がない。それだから、はじめて読んだときは失望を覚えたものだった。

 むろん、時代的な限界は考慮されるべきだろう。文庫版の奥付では「1991年12月10日_第1刷」となっているが、もとの単行本については「昭和62年4月日本放送出版協会刊」とあって、1987年にNHKが企画したものだろうとわかる。

 「NHKアーカイブス」のサイトに紹介がある。1973年に『国境のない伝記~クーデンホーフ家の人びと』という伝記物が放映され(ここ)、そこで光子を演じた吉永小百合を起用して撮られたのが1987年の『NHK特集・ミツコ──二つの世紀末』だった(ここ)。「松本清張の小説執筆と同時進行で制作」と説明されている。

 1987年といえばプラザ合意の後で、ちょうど海外旅行がさかんになってきた時期だ。日本旅行業協会のサイトにはグラフ付きで説明されていて「1964年にわずか13万人だった海外旅行者数は [...] 85年秋の『プラザ合意』以降の急激な円高とバブル景気の後押しを受けて90年には1,000万人の大台を突破した」とやはりある。当時の日本の国民・市場はきっと、巨匠の手になる「旅行をたのしくする副読本」のようなものを必要としていたのだ。そう考えればたしかに、物語はシェーンブルン宮殿の墓地から始まるのである。まだ共産圏だったプラハまで足を延ばすひともさほど多くはなかったろうが、ウィーンを訪れるならば知っておきたい歴史の挿話が満載されてあるのもうなずける。ハプスブルクの「暗い血」についても、今日ほどは知られていなかったのだろう。

 ところで「残念」というのはいろいろの意味がある。けっして価値のないぞっき本という意味ではない。なんせ、傘寿もちかい社会派小説の白眉による円熟した筆致だ。その清張にしてからが明治の生まれで、光子の父・青山喜八をめぐる推理のくだりなどは、さすがと唸ってしまう。

 ところがヨーロッパに舞台がうつると、概説書を斜め読みしたくらいの予備知識しかもち合わせないらしく、とたん思い込みにもとづく牽強付会が鼻についてくる。

 たとえば「ロンスペルクの居館の周囲はチェコ人ばかりだった」とさらっと書いてある。「ロンスペルク」はチェコ語で「ロンシュペルク」と、おそらく往時から発音されていたに違いない。1920年チェコスロヴァキア政府が「ポビェジョヴィツェ」の名を併用することを決定して以来、今日まで行政上はその名で通っている。「南ボヘミア」とよく文中にでてくるが、現在の区画ではプルゼニュ県であるから、どちらかといえば「西ボヘミア」と認識されている。つまるところ広義にズデーテンと呼ばれる地域にあって、ドイツ語話者が多数派を占めた町であった。

 つまり「ドイツ人ばかりだった」というほうがちかい。現に、作中引用されているリヒャルトの回想にも「ロンスペルクはドイツ系ボヘミアのちいさな町であった」とあるのに。そのくらい、プラハで落ち合ったガイドにでも訊いていれば教えてもらえそうなものだ。作中人物ではあるが、モデルはいたはずだと踏むが。じっさいのところ、ドイツ語を話す住民が各地で追放に遭った1945年に、ロンスペルクで「移送」を免れたのは1世帯のみであったという(後出のシュミットの言)。こうした事実の誤認を基礎として「チェコ人民族運動が光子に『ボヘミアでの生活を不可能にさせた』のである」と断言してしてしまうのはいかがなものであろう。むろん、理由のひとつではあった可能性は否定しきれないとしても。

 さらに「チェコ農奴」を城の周囲で使役していたというのだが、どうも混乱しているようだ。時代的にとっくに農奴制は撤廃されていたはずだ。しかしそもそも中世史と近現代史をごっちゃに叙述してしまうのも、胡乱な行為である。喩えるなら「神風」と「カミカゼ」を混同させかねないからだ。ほかにもこまかいことを言い出せばきりがないが……。

 ただ、今回よんでいるうちに、他の箇所で気づいたことがあった。プラハ近郊から北ボヘミアにかけて、ホテク家の旧跡を訪ねている場面だ。読者が強引な論理展開に辟易しているのを見透かしたかのように、自らの推理について「この史料を読んで画一的な概念であるのを知った。類型的な思考に一撃を喰らった思いであった」と杉田に言わせているのである。

 つまり、作家が披瀝してきた数々の理屈や仮説が、かならずしも史実にてらして本当のことではないんだよ、と主人公の反省という形で示唆しているような気がしたのだった。あたかも、むかしのロマン主義の小説が「いままでの話はすべて夢だったのです」で終わってしまうようなものか。いやむしろ、そもそもこれは清張じゃないか、と思い出させる。つまり初めからルポルタージュではなくて小説だったのだ、なんでノンフィクションだと思いこんでいたのだろうと。けっきょく読者は文豪の手のひらの上で「旋舞」していただけだったのかもしれない、と気づくのだ。

 惜しむらくは、『暗い血』から10年以上たってから、あるいは清張が没して6年ほど経過してから、シュミット村木眞寿美『クーデンホーフ光子の手記』が刊行されたことだ。あるいは逆に『暗い血』が反響を呼ばなんだら、この『手記』は世に出ていないという言い方もできそうだが。

 その『手記』とは、娘のオルガに口述筆記させた光子の「肉声」を公文書館にもとめ、これを翻訳・編集したものである。チェコ共和国の公的施設の塩対応はお馴染みではあるが、編著者が取材したクラトヴィの文書館も、コピー料金が高いなどと大いに憤慨している。はては「今まですべてドイツが悪いことになっていたのが違うことがばれるので、相手が構える。真実が露と消えないよう、ドイツ人の調査は見えない妨害を受けてきた」とまで明かされる。エピローグでは、地元でタブー視されたはずのロンスペルク城の修復に自ら奔走するも果たせなかった件に触れられているが、そこから来る観照もまた正鵠を射ている。呪われた国で現代にも生きつづける闇のほうが、むしろ「暗い」のだ。

 なにより清張は、エリートで学究肌のハインリヒと初等教育ていどの学しかない光子の結婚は、不幸なものであったと断じた。しかし、光子みずから、ハインリヒとの暮らしがいかに幸福なものであったか娘に歌ってきかせるように語るのを読むとき、明治生まれゆえの先入観にもとづいた机上の空論であるの感をつよくする。知る由もない内心ではあるにせよ、なんといっても「所詮は女にすぎない」というような謂いもあって、松本清張だけにマッチョですなと嘆ずるしかない。時代が時代だったのだ。

 ただ、物語の過程で、光子の談話にもとづくリヒャルトの回顧が「資料的な裏づけを欠く」ために誇張であろうと抛り出されることはやむを得ない。じっさい、杉田はそのように看做して真相に迫ろうとする。史家やジャーナリストであれば当然のことで、首肯できよう。しかし、ほかの面での論の強引さそのものについては、クーデンホーフ家の虚飾を是が非でもあばいてやるのだという、作家の執念の発露にも思える。それこそ、清張じしんの「暗い血潮」だなと揶揄してみたくもなる。

 ところで、じつはチェコ語でも近年、光子の伝記的小説が刊行されている。2015年のヴラスタ・チハーコヴァー=ノシロによる『ミツコ』である。美術史家にして日本学の研究者でもある著者は、チェコスロヴァキア民主化まで20年ちかく日本に在住して日本人の配偶者があったこともあり、光子への同情にもふかいものがありそうだ。自身による光子を扱った博論とは趣きを変えて、大仰な文体による読み物という色合いがつよいものの、編年体のような体裁をとって年ごとに世界の出来事を付すなど、はばひろい読者の理解に配慮してもいる。いまもって触れてほしくないという者もあるに違いないが、変化の萌しもまた感じる。いずれにせよシュミット村木の挫折からも今や一回りの時が過ぎたのだ。

 ともかく、より多くの情報や史資料があればもっと……と執筆された時代を度外視して空想するのは読者の勝手であるが、そういう意味で『暗い血』を再読してみて「残念」という気がしたのもたしかだ。

 クーデンホーフ家にかんして清張が用いているのは、主としてリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの『回想録』と『美の国』で、それに木村毅『クーデンホーフ光子伝』や昭和初期の雑誌記事が少々。それからゲロルフの『思い出』を編集部に翻訳させたとおぼしい紙束が作中、だしぬけに出てくる。するとこれが、兄・リヒャルトの『回想』よりも客観的な記述で、疑問が自己解凍されてゆくという展開になる。要するにデウス・エクス・マキーナーのように思えたものだった。

 

*参考:

www2.nhk.or.jp

www2.nhk.or.jp

www.jata-net.or.jp

学び直しとアップデートの語学

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photo by Leonhard Niederwimmer

 NHKラジオ「まいにちドイツ語・応用編」が、この10月から「記憶に残る近現代の女性たち」と題したコースを放送している。じつはSNSで紹介されていたのだ。

 各課でひとりづつ、ドイツ語圏にゆかりのある女性について書かれたエッセイを読みながら、文意をとりつつ関連する語彙や文法をまなぶという流れである。教授法としては訳読法という旧弊なスタイルながら、初中級から中級以降の授業としては、オーソドックスなものであろう。

 扱われるテーマのリストはマリア・テレーズィアにはじまっており、アンゲラ・メルケルにおわるという、予定調和的なものだった。しょうじき、そう思った。けれどもよく見ると、その中間にマレーネ・ディートリヒとか、レニ・リーフェンシュタールとか、ペトラ・カリン・ケリーとかの名があった。ほかの面子もなかなか面白かったので、ためしに聴いてみることにしたのだ。

 こういうときにはスマートフォンの〈ゴガク〉アプリが便利だ。NHKラジオ講座の音声が2回分だけ聴取できる。世界のどこにいても。さらにテキストが欲しくなったらば、たとえばAmazonページKindle版のテキストをポチッと購入すれば、すぐにスマートフォンの〈Kindle〉アプリで閲覧することができるようになる。

 したがって基本的にはスマートフォン一台あれば、カジュアルな語学学習が完結してしまう。現代的だ。これでは、三日坊主の言い訳を考えるのが難しい。くわえてノートと筆記具に辞書くらいあれば言うことはないが、それすらスマートフォンで代用しようと思えばできる。

 テキストのエッセイはおそらく書き下ろしで、よく知られた人物の「知られざる一面」に焦点を当てられている。

 たとえば──マリア・テレーズィアについては、16人の子を生みながらドーナウ帝国を統治した女帝であることはご存知でしょうが、このひとが疫病に罹ったことがあるのを皆さん知らないでしょう──という具合である。おいおい存じねえよ、と受講者は興味を引かれるはずだ。しかも疫病といえば、ここ数年の世界的なトレンドであることは周知のとおり。その前後ではメディアが用いる語彙の傾向もおそらく変わってしまっている。

 つまりコースとして「学生時代に第二外国語として学習したが勉強し直したい」というような需要を意識した内容になっていることが、まず前提にある。そこに、かつては重視されていなかった語彙や語義や、昔つかっていた辞書には収録されていない新しい語や言い回しが投入されるわけだ。今どきの内容は、代わり映えしない古典の引用などよりも多数のニーズに合致するにちがいないから、コースデザインの面から正義があり、なにより学習者の学習意欲を刺激するはずだ。

 さらに第二課は、クーデンホーフ=カレルギー光子である。このひとのばあいも、異文化コミューニケイションや人種問題のような新しめの視角から文章が構成されていた。そこでは、postmigratischとか、Alltagsrassismusとかいった、およそ昔の学習辞書には採録されていない「新語」がでてくる。社会が変化すれば、とうぜん語彙も変化する。移民社会になっているドイツにあって「最近はふつうの言い方になりました」などと補足説明しているあたり、実用面において綿密に配慮されたコースだと、唸ってしまう。

 文法も同様である。jemandにつづく関係代名詞にしても、むかしはすべからくderで受けるべし、つまり男性形を代表として用いるべしというルールであったものが、いまではdieと女性形をつかってもよくなっています、という説明があった。うすうす気がついてはいたという人も多いだろうけれども、昔日の学習者は文法を学習し直したほうがいいかもしれない。ポリコレが語彙をつくり、文法を変えたのだ。好むと好まざるとに拘わらず、アップデートはしておかないと。いずれにせよ、言語の学習とはシジフォスの岩運びにも似た、終わりなき作業なのである。

 ……しかし、ここで受講者の興味は「光子」に移ってしまうかもしれない。じつは面白すぎる教材も、学習者にとってはよくないのだ。それは恰好の三日坊主の言い訳となるからだ。──つづく。

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バックスライディングのゆくえ──チェコ共和国の「選挙2021」

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photo by Denis Poltoradnev

 選挙の秋である。チェコ共和国では、10月8日の午後と翌日の午前に投票がおこなわれた。

 開票の結果、中道右派連合・SPOLUが得票率27.79%を獲得し、第一党におどりでた。第二党が政権与党のポピュリスト政党・ANO(ANO_2011)で、得票27.12%と僅差であった。代表で現首相のアンドレイ・バビシュは敗北を認めざるを得なかった。

 海賊党と首長党の政党連合(Piráti a STAN)は、15.62%で第三党。極右ポピュリストにして擬イスラモフォビア政党「自由と直接民主政──トミオ・オカムラ」(SPD)も健在で、9.56%の票を獲得した。

 さらに政権与党の一角であった社会民主党(ČSSD)と、政権を最近まで閣外で支えたボヘミアモラヴィア共産党(KSČM)は、得票5%の阻止条項ラインを越えられず(それぞれ4.65%と3.60%)、議席を失った。両党にとっては、すくなくともチェコ共和国始まって以来およそ30年で初の事態である。社会民主党は、オーストリア=ハンガリー時代の1878年に成立しており、そこから分かれた共産党は、1921年の「チェコスロヴァキア共産党(KSČ)」結党から起算すればちょうど100年で、いずれも長い歴史を誇っている。ちなみに全体の投票率は、65.43 %であった。

 これは意外な結果だった。直前の週のある世論調査によると、支持率順にANO(26.6%)、SPOLU(21.6%)、海賊(19.8%)と並んでいたからだ。中道右派の追い上げが急激だったことがわかる。海賊・首長連合は、2021年第1週の同調査では26.5%で一番人気となっていたが、徐々に勢いが衰え、8月下旬にはANO党に追い抜かれていた。それでも直前の調査に比して、4ポイント以上も低い得票率となったのだから、こちらの衰退もまた急激だったわけだ。ただ、こうした調査をおこなう調査会社はいくつかあって、各社で数字にばらつきがあることもいうまでもない。


 結果、SPOLUと海賊・首長連合は連立政権の樹立へ向けての協議を約し、ことによるとANO党は下野を迫られそうな情勢となっている。SPOLUの代表者で、市民民主党ペトル・フィアラ党首は「まっとうな価値観の政治による勝利」を宣言し、海賊党のイヴァン・バルトシュ代表は「民主主義の成功」を言祝いだ。

 中道右派SPOLUと海賊・首長連合の協働には、成否に関心が湧く。投票まえから確認されていた海賊党との協力についてさえ、市民民主党・フィアラ党首を罵倒するツイートも見られていたものだ。つまり、支持層の保守派にとってみれば、左派の海賊党と手を組むというのは、ともすれば裏切り行為にもあたるわけだ。

 けだし、両者は政策にとどまらず、一般的な価値観においても「水と油」のごとしであろう。なるほど、チェコ海賊党の議員らは、かつてのドイツの海賊党のようにTシャツにパーカーで議場入りするわけでは必ずしもない。バルトシュ代表に典型だが、ちゃんと背広は着て協調性を醸すいっぽうで、髪型ではドレッドヘアを保ってデジタル・若者世代のための改革派であることをアピールしている。それでも、お堅い保守層やカトリック政党の面々からすれば、連中など海賊というより「宇宙人」に等しい、べつの世界の住人のように感ぜられるのではないか。

 いっぽうANOを率いたアンドレイ・バビシュ首相は、政権与党の座をとれなかったら政界を引退すると言っていた気もするが、そうだとしても発言は撤回したようだった。代わりに、ANO党は使い捨てにあらず、というようなコメントがあった。

 得票結果を地図上でみると、ANOが勝った地方は、ボヘミアドイツ国境沿いとモラヴィア北部の各地域であった。一部をのぞけば、失業率の高い地域をしめす色分け図と一致している。ポピュリスト政党の恩顧主義的な政策がどの層に受けているか、類推できる結果である。パンデミックによる世界的な左派優勢の風潮のなかでも海賊党らの得票が伸びなかったことに連関があるかもしれない。

 とまれ、わずかに及ばなかったとはいえ、多くの支持を得て堂々の第二党に踏みとどまった。単独の政党としては第一党ということにはなるから、全面的に負けたわけではないという見方も成り立つ。首相本人からすれば、引退する理由はなくなったのである。

 

 ところで、「意外な」ANOへの支持急落について、複数のメディアが「パンドラ文書」報道に帰している。

 「パンドラ文書」は、2.94テラバイトの機密情報を含む、1190万件以上の財務記録で構成されており、国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が調査している。ほとんどが1996年から2020年の間に作成された記録で、2万9千人以上のオフショア資産の所有者の情報がある。ざっと「パナマ文書」の2倍の数だという。これまで政治家300人以上を含む取引や資産が曝露されている。

 それがここにきて投票日も目前というとき、バビシュ首相が2009年に購入した邸第の件が報じられたのであった。物件は、南仏カンヌ近郊ムージャンの9.4ヘクタールの地所にたつ、シャトー・ビゴー。周辺にも不動産をつごう16件ほど保有していたというのだが、問題はその複雑な送金の経路で、さまざまな付随的な疑惑ももちあがっていた。同首相にあってこの手の疑惑は枚挙にいとまがなく、違法性はまったくないと記者のまえで開き直るのがつねである。しかし今回ばかりは、さすがにタイミングがわるかったようだ。


 オーストリアで最大の発行部数を誇る大衆紙『クローネ新聞(クローネン・ツァイトゥング)』電子版が記事の末尾でさらりと言及していることが、あんがい重要かもしれない。すなわち、オーストリアにおける在外チェコ人の投票結果である。

 在墺チェコ大使館によれば、海賊と首長連合が48.8%の得票を占めて、トップであったというのだ。進歩主義的な傾きがあらわれたともいえるが、なによりオーストリアに住むチェコ人にとっては、もはやヨーロッパそのものが祖国であり、親EU路線を明確にする同連合はもっとも理にかなう選択肢であったにちがいない。バビシュ首相とEU欧州連合)のあいだの「利益相反」決議をめぐる対立も「国辱」と映ったひとも多かったであろう。国外にあっては多かれ少なかれ、あたかもチェコの代表であるかのようにみなされて生活する以上、つよい風あたりを感じたはずだ。そのさい、チェコ国内のメディア環境では報じられないことも外では分析や議論に供されようし、さらに一般的にいっても、外国に暮らすことではじめて見えてくる祖国の姿というのもあるのだ。

 第二位はSPOLU(得票率37.2%)であったというから、上記の論を補強する。この政党連合もやはり西欧志向の保守政党と汎ヨーロッパ志向のキリスト教系政党で構成されるからだ。すなわち、市民民主党(ODS)、キリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)、TOP党(TOP_09)である。

 件の「パンドラ文書」の国際プロジェクトにしても、ひろく100を超える国や地域の報道機関が参加しているそうである。おおくリベラル系の大手新聞や通信社であったり、または一国の公共放送であったりする。日本からは朝日新聞共同通信が、オーストリアからは週刊誌のプロフィールと公共放送のORFが……といったぐあいである。ところがチェコ共和国からは、独立系の団体をのぞくと報道機関は一社も参加していないようなのだ。

 アンドレイ・バビシュ首相は「メディア王」でもある。通信社というニュースの川の上流をにぎることで、国内すべての報道機関に睨みをきかせてもいる。ČTやČRoといった公共放送をはじめ、既成メディアの各社とて「水」を止められてはかなわないから、大々的にバビシュ政権に敵対するような報道姿勢はとりようがない。そうなると、国内の報道を視聴・購読しているだけでは、自国のことをじゅうぶん知ることができない──これでは公衆による合理的な投票が担保されないわけで、理論上は健全な民主主義は成立しえない。国内メディアの影響下にない在外チェコ人が本国とは異なった傾向を示したのも、あるいは道理であった。

 自ら立ち上げた政党の名称にある「ANO」とは「我慢ならぬ市民の政治運動」くらいを意味する「Akce nespokojených občanů」の頭字語である──と読んだひとは、もしや感心することであろう。しかしながらバビシュ首相はもともと、ハンガリーポーランドにおけるポピュリズムの手法を模倣して同様の潮流を起こすことを企図したものの、けっきょく果たせなかったと言われている。つまり「運動」など存在しなかったのだ。「党」とせず「運動」と表記するのは内務省に登録された公称である手前やむを得ないが、メディアというものはそれだけで一種の幻想を創り出してしまう。

 チェコ共和国の政治状況は、その周辺国が呈する民主政の「バックスライディング(後退)」に該当すると、これまで政治学の研究者らにさんざいわれてきた。だが、今回の反バビシュ勢力の勝利が流れを変える好機であることは明らかだ。としても、アグロフェルト・コンツェルンや他の企業をつうじて国を支配するアンドレイ・バビシュを相手に、ほんとうの変革がおこせるのかどうか見ものであろう。

 

 こうなると、ミロシュ・ゼマン共和国大統領に注目があつまる。結果の如何によらず「盟友」たるバビシュを首相に就ける旨の方針は、これまでの選挙でも報じられてきた。規定の解釈によって、国家元首は選挙結果にとらわれず任意に首相を任命することが可能で、手続き上の期限も定められていないことから、大統領職の任期が終了するまでバビシュ首相を引き留めようとするのではないか──こう予想するのは、SPOLU連合の一角であるTOP党の名誉代表、シュヴァルツェンベルク侯である。むろん反発も大きなものになるだろう。「憲政の常道」という謂いはチェコ語にはないにせよ、それでも最大多数の民意を反映させることは、議会制民主主義における不文律にはかわりないからだ。大統領側は「単独での第一党はANO」という言辞を弄するのであろうが。

 だが、その矢先である。当のゼマン大統領が入院したというニュースがながれた。退院したばかりだと思っていたのであるが。糖尿を患っており、肝臓機能の障害も、という報道はあるにせよ、オフチャーチェク報道官からは容体にかかわる発表はいっさいない。これも毎度のことではある。変革の行方も、ますます見通せない情勢になっている。

 

*参考:

www.jiji.com

digital.asahi.com

nordot.app

www.jiji.com

orf.at

www.krone.at

www.bbc.com

 

アロイス・ラシーン(2)──暗殺者・ショウパルの謎

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 「FN・ベイビー・ブラウニング」というのは、.25ACP弾を使用する小型拳銃である。

 ブラウニングといっても、サライェヴォで帝位継承者フランツ・フェルディナントを屠って世界大戦への道をひらいた「M1910」でもなければ、諸国の軍隊で採用されるほど火力にすぐれた大型の「ハイ=パワー」でもない。ポケットにしのばせることができる点にのみ長所がある、非力な小口径の銃だった。だから、確実に人を殺めようとする者は、まず選ぶことはあるまい。

 にも拘わらず、ラシーンの背後から近づいた暗殺者は、懐中からこの拳銃をとりいだしだ。

 ところが、運命のいたずらか。初弾こそ空を切ったとはいえ、つづけて発射した2発目はラシーンの背骨、第11椎体に命中してしまった。脊椎を損傷したラシーンはすぐに四肢に不随を生じ、その場で転倒した。つづく6週間を病床で激痛と闘ったものの、感染症と敗血症を発症して、あえなく絶命する。1923年2月18日没。享年55であった。

 スヴォボダ監督の『滅亡した帝国』(2018年)は、この暗殺シーンからはじまる。現場となった、プラハ・ジトナー通り10番の建物には現在、ラシーンレリーフがあしらわれた銘板がとりつけてある。

ラシーンの悪名

 デフレーションといえば、日本衰退の元凶ともいわれ、アベノミクス以来むなしく「脱却」が叫ばれてきた。そうやって蛇蠍のごとく忌みきらわれているから、いまどき誉めそやされることはほとんど想像できない。しかしそれも、文脈しだいである。

 デフレ政策を採ったラシーンにかんして、現代の史家らは「肯定的に」歴史にのこる人物と評している。財政や金融の関係者にいたっては、ラシーンのことを悪くいう者はないようだ。

 とりわけ関係者らが鼻にかけているのは現行の自国通貨、チェコ・コルナらしい。すなわち、もとはラシーンが蔵相として興したチェコスロヴァキア・コルナであって、オーストリア=ハンガリーの通貨単位、クローネの名を受け継いでいる(どちらも「王冠」に由来。ウイルスのコロナも語源的には同じ)。これは継承国家のなかでは唯一無二なんです──と毛並みの良さを誇りにするのには、都合の良いときだけ旧宗主国をもちだしてくるようで辟易するが、ラシーンの判断もあって新通貨が信頼され、高く維持されたことで、のちに近隣諸国がおそわれたインフレを、ひとまずは回避できたことも確かだった。

 ところが、当時の評価はちがった。というのも通貨、緊縮、デフレにかかわるラシーンの政策は、国内産業、とりわけ輸出産業へ甚大な影響をあたえたためだ。新聞記事によると、1921年から1923年のあいだに、輸出は53%減少し、物価水準は43%さがった。失業者は7万2千人から20万7千人に増加した。国庫からの支出を抑えたことで、失業者があふれ、おおくの商店が倒産したのだ。ラシーンはむしろ、憎まれていた。

 ケインズなどは、はやくも1923年10月の時点で自著にとりあげている。通貨切り下げとデフレの両政策を対比する章である。そこで、ラシーンによる一期目の財相就任時の仕事こそ「あの時代にヨーロッパ全土で実施されたあらゆる金融手法の中で、唯一の劇的で勇敢で成功した手法」ともちあげる一方で、二期目のデフレ政策については、なんのためだったのか判らないと、けちょんけちょんに貶している。

チェコスロバキアはヨーロッパのどの国よりも、しっかりした固定通貨の基盤により経済生活を確立しやすい立場にあったのだ。財政は均衡し、借款も安定し、外国のリソースは適正であり、クローネが台無しになっていたのは自国のせいではなく、ハプスブルグ帝国の遺産でしかなかったのだから、それを切り下げてもだれも文句は言わなかっただろう。謹厳なる美徳の精神に基づくまちがった政策を追求したことで、チェコスロバキアは自国産業の停滞を選び、そして通貨はいまだに変動を続けている。


──ジョン・メイナード・ケインズ山形浩生訳『お金の改革論──A Tract on Monetary Reform』2020年、61頁。*オンラインで公開されている[PDF

暗殺者、ヨゼフ・ショウパル

 したがって、ヨゼフ・ショウパルがラシーンに手をかけたのは、貧しい民の代表として、やむにやまれぬ心情からだったのではないか──時代背景や状況証拠をみれば、そのように推論されるのは自然なことであった。

 1903年3月11日、ニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチュクーフ・ブロト)の労働者が住まうココジーン地区の家庭にうまれた。父は靴職人、母は裁縫で家計を支えた。ほか姉と弟がいた。それでも学校を卒えると、保険会社に勤め、安定して高給を得ていた。にも拘わらず、プロレタリアの環境に育ったためか、共産主義に共感していたのだという。

 それだけ共産党は身近な存在でもあったのだろう。1921年に成立したばかりのチェコスロヴァキア共産党は、地元ではそうとう支持されていたようだ。市内には地区の党指導部や事務局が設置されており、各種の行事や会合をつうじて、とりわけ学生を中心に支持を拡大していった。革命的な夢を語り合うだけの若者たちのなかで、ヨゼフ・ショウパルは、どす黒い計画を胸に秘めていたらしかった。

 ラシーンを撃ったショウパルは、現場から遠くへは逃げられそうにないと悟っていたようだ。抵抗せずに逮捕され、堂々たる態度で犯行をみとめた。自分はチェコスロヴァキア共産党をすでに辞め、目下どの政党にも所属しておらない、確信的なアナーキストであると称し、プロレタリアートのための行動だったと宣言した。犯行当時、19歳である。

 取り調べの一方で、当局はショウパルの自宅の捜索もおこなった。2日後の日曜日にはニェメツキー・ブロト市の共産主義者2名が逮捕され、翌月曜日には同5人が、木曜日にもひとり逮捕された。ショウパルにはけっきょく、18年の重禁錮の判決がくだった。ほかの逮捕者のうち4人には、6か月から8か月が言い渡された。

 いっぱんには自供のとおり、狂信的なアナーキストだといわれている。1923年7月5日付の『民族新聞(Národní listy)』の記事には、複数の証人の言が載っている。たとえば、プルゼニュの銀行員だというヴァーツラフ・スラーマなる証人は、10月に知りあい、雑談によりショウパルの為人を知り得たが、本人みずから「ボリシェヴィク」を称していたと証言している。その場では、ラシーンだけでなく、クラマーシュやベネシュの名も出てきたというから穏やかではない。

 そのいっぽう、ショウパルの言行はじつに謎めいている。一例として、監獄で医師の診察も受けた際、報告書を求められた件がある。このとき、1922年のマリアーンスケー・ラーズニェにおいて、セルブ・クロアート・スロヴェニア王国のアレクサンダル1世を暗殺する計画だった旨、記述したという。調査の結果、これは創作であるとほぼ結論されている。

 さらに再審が認められると、そこでショウパルは、殺すつもりはなかったと供述をひるがえした。冗談のつもりで、玩具で財相をおどろかす手筈だったが、知らない間に誰かがピストルをすり替えていたのだと主張した。むろん、認められるはずもなかった。こうした尽力は、裁判にはまったく影響を与えなかったようだ。のち保護領時代には釈放されたというのだが、1943年というから、ほとんど満期出所だった勘定になる。

 ショウパルは共産党に入党していたものの、暗殺事件をおこすまえに党を離れている。それが、戦争も終わってしばらくたったころ、共産党に戻ろうとしたが拒絶されたため、いったん社会民主党に入党した。のちには、共産党に移りおおせたのだという。そのころは「イリヤプラウダ」と、ロシア風の氏名に改名してもいた。

 1959年11月に死亡したときの56歳というのは、皮肉にもラシーンの没年齢にちかい。この晩年には、回想録の執筆をはじめていたらしい。評論家のミロスラフ・シシュカによると、そのなかで、共産主義者の犠牲者であると自らを称したとされる。仲間うちのくじ引きで実行犯にされたというのである。

アナーキストか、ソシオパスか

 こうしたエキセントリックな性行を聞かされると、アナルコ=サンディカリスムに共鳴した末の狂信者によるテロリズム事件などと説明されても、なにかしっくりこない。共産党を出たりはいったりしながら、アナーキストやボルシェヴィクを自称してみたり、またあるときはコミュニズムの犠牲者と主張したりしている。アナーキストにして詩人のスタニスラフ・コストカ・ノイマンの著作に影響を受けたというが、おそらく当時は大勢の学生が読んでいた。

 つまり、それらしい聞いたふうなことを述べたてるのだが、心底からそう思っているわけではない。こうした傾向をしめす人間はよく知っている。息をつくように嘘をつく、ある人物を思い出させたのだ……。

 近年になって、興味ぶかい説が出来した。研究者連の関心も引いたらしいが、なによりも「わが意を得たり」だった。

 史家のミラン・バイガルは、ショウパルはむしろ政治には無関心であったものと推測している。現代において研究のすすんできた、いわゆるソシオパスであった疑いがあるのではないかというのである。

 ソシオパス(sociopath) というのは、原田隆之によれば「社会を悩ます精神病質」を意味し、「現在はほぼサイコパスと同義で用いられている」という(『サイコパスの真実』筑摩書房、2018)。ほかに両者の差異として、ソシオパスでは後天的な要素が、サイコパスでは遺伝的な要素が大きいともされてきているようだ。いずれにしても、前の米大統領ドナルド・トランプが該当するのではいかという仮説は報道メディアも伝えていたほどで、今日ではよく知られた概念になっている。

 この性向を有する人は、要するに、特殊な一面に特化した見栄っ張りで、自分にいかに人望があるかを見せたがり、特別な人物であるとアピールすることにすべてを賭ける。周囲の気を引き、かまってもらうためになら、アナーキストとしてプレタリアートのために決起したのだと豪語することもあれば、脈絡なくアレクサンダル・ユーゴ王の名を口にすることもある。じっさい、捜査員らは裏付けをとるために、いちいち右往左往したことだろう。それを見て悦に入る、狂喜の表情をありありと想像できる。

 脳の異常によって、共感能力が欠如している反面、共感しているふりをするのもまた巧みであるとされる。談笑していても、よく観察すると目が笑っていない。もとより蛇の眼をしている。それでも、危機感を煽ったり、みずからを実際以上によく見せたり、あらゆる方法によって他人を操作する術に長け、けっきょく協力者を得て社会的に成功する。ドーパミンにかかわる報酬系に異常があり、社交することにおいて大きな愉悦に浸るから、手段の目的化というよりも、そもそも手段も目的もあまり大差がない。みずからが周囲の人気者だと感じているときがもっとも嬉しいのだ。

 また、病的に嫉妬ぶかい。良心の呵責なく、誹謗や讒言で他人を陥れたり、場合によっては生命を奪う。ショウパルは、ラシーンを暗殺するまでに、じつは二度ほど失敗している。その武勇伝を地元で仲間たちにしたりげに吹聴していたといわれる。同郷の共産党員・ステャストニーが、1919年にクラマーシュ暗殺に失敗したと聞いて、対抗心を燃やしたものであろうか。このときクラマーシュは、サスペンダーのバックルに弾丸が跳ね返って一命をとりとめたというから、西部劇なみのスペクタクルとしてショウパルの耳にはいったのかもしれない。悪名といえども名を轟かせていたラシーンは嫉妬の対象でもあり、かつまた、これを葬ることでひろく大衆の関心や感心を買うことができると踏んだのではないか。となると、当時の政治情勢を利用した日和見的な犯行で、決して狂信者のそれではない。

 興味ぶかいのは、監獄にいたときの目撃談として、ショウパルを「フェシャーク」と評した者があったことだ。「洒落者」というほどの意味の俗語であるが、当時の監獄にそんな囚人があるものだろうか。可能性として想像するに、ほかの受刑者や看守を操作して、うまくやっていたのであろう。

 確たる証拠はない。イデオロギーによる義憤とはされたが、あるいは精神病質によるものか。真相はわからない。いずれにせよ、19歳の蛮行によって、共和国はラシーンを失った。賛否の分かれる経済政策はともかく、その強烈なキャラクターはひろく惜しまれる。

 のち、1938年のミュンヒェン会談における合意をうけて、臆病なインテリだったベネシュ大統領が第三帝国の進駐を甘んじて受け容れたことは史実である。だが、もしそのとき、武闘派のラシーンがリーダーであったらば……と嘆く声もあるのだ。

*暗殺の現場(プラハ・ジトナー通り10番):

 

*参考:

havlickobrodsky.denik.cz