ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコ共和国の「無神論」

photo by Darya Tryfanava

 折に触れ、宗教やカルト信仰といった話題がもりあがる。目下の議論のきっかけとなったのは、安倍氏暗殺の被疑者の生い立ちが注目をあつめたためであることは言うまでもない。

 ところで、チェコ共和国という国にながく居ると、近年になって、教会を訪れるひとが増えているように感ずる。パンデミック下の孤独に苛まれた生活体験も拍車をかけたものかもしれないが、それ以前から気になっていた。

 散歩やジョギングのとちゅうで教会のちかくをとおると、日曜日のミサに多くのひとが押しかけているのを見かけたりする。クリスマス・イヴに、家族と教会へいくという知り合いもいる。信者なのかと問うと、必ずしも全員がそういうわけでもないらしいが。

 最近の英語圏やドイツ語圏でのように、教会スキャンダルが轟々と報道されることがあまりないのは、そもそも信者が少数派であるために、チェコ語媒体ではニュース価値が低いということに尽きるのだろう。要は、読者や視聴者の関心が薄いことの裏返しだ。逆説的だが、急激なイメージダウン、権威失墜とも無縁なのだともおもえる。

 つまるところ、失墜するほどの権威がもとから無かった、という揶揄も成り立つ。なんといっても、世界有数の「無神論」の国として夙に知られているくらいだ。

1)統計上の現状

 同国の統計局のサイトには、2021年の国勢調査の結果が簡単にまとめられている(Náboženská víra)。

宗教については、18.7%の人が教会や宗教団体に所属していると回答している。無信仰 [bez náboženské víry] という回答は3分の2以上(68.3%)を占めた。宗教上の信条に関する質問への記入は任意となっており、30.1%が空欄のままであった(2011年の国勢調査では44.7%)。

Náboženská víra | Sčítání 2021

 では、「増えているよう」と前述した主観は、妥当なのかどうか。

 同じページに、直近の4回の変化が簡単なグラフになっている。むろん、10年ごとの国勢調査にもとづいている(1991年、2001年、2011年、2021年)。

 なんらかの「信者」と回答したのは、人口100万人ごとの人数として──4.52人(1991)、3.29人(2001)、2.17人(2011)、2.33人(2021)──となっている。要するに、減少傾向の大勢のなかで、この10年にかぎっては「微増」がみとめられる。

 なお「無信仰」では──4.11人、6.04人、3.60人、5.03人──で、「無回答」が──1.67人、0.90人、4.66人、3.16人──であった。

 とはいえ、これだけではなんともいえない。おなじページにある同時期の宗派別の数字を見ると、すべての宗旨の教会で信者の数は減少しつづけている。

 もっとも、国政調査の質問のたて方というのはふるくから悩ましい問題ではある。戦間期の民族問題を調べる際にも、国勢調査の記録には言語ごとの設問・数字しかない……というのが典型だ。ここでも結果として現状の把握を阻んでいる、ということはないのだろうか。

 特定の教派に属さないし、神を信じもしないが、神秘的な事柄には関心があり、教会を訪問することはよくある──こうした「現代的な」ペルソナを想定すると、カルトの潜在的な市場の大きさ、すなわち危険の大きさが想像できはしまいか。


2)「無神論」の現在

 いずれにせよ、国際的に比較してみれば、とりわけ周辺国との対比による調査をすると「無神論」(アテイズムス)の割り合いがきょくたんに高く見えるのが、このチェコ共和国だ。

 共産党が「人民の阿片」たる宗教を弾圧したためではないか、という連想にも一分の理がある。けれども、おなじ旧共産圏で比較しても同共和国の数字は突出している。とくに隣接するポーランドやスロヴァキアにいたっては「カトリック国」の印象すらつよく、ことさら差異が際立つ。

 たとえば、ある調査会社による2017年の記事がわかりやすい(Unlike their Central and Eastern European neighbors, most Czechs don’t believe in God)。
図をみると一目瞭然で、"Belief in God"の数字がチェコ共和国では、29というスコアになっている。もとの共産圏・旧東側の国ぐにに限っても、40%を割っているのは同共和国のみである。

 この調査では、同国の10人に7人(72%)が宗教団体に所属しておらず、そのうち46%は自分の宗教を「特になし」とし、さらに25%は自分の宗教的アイデンティティを「無神論者」と回答している。とりわけ宗教的なアイデンティティと関わりなく、66%のチェコ人が「神を信じない」と答えており、「信じる」というひとが29%であったのだとしている。

 では、どうしてこうなったのか。


3)ナショナリズム

 いっぱんに史学徒が「世俗化」といったばあいには、社会が脱宗教化してゆくことを指し、典型的にはナショナリズムの普及がそれにかわってゆくことが想定されてきた。けれども、土地によってその現れ方はさまざまである。

 たとえば、以前ふれたドストエフスキー論を思い出す。世俗化のロシア的なゆき方として「大地主義」が重要な役割を演じており、それは現代のプーチニズムにも受け継がれているというものだった。あまつさえ、レーニン廟を例にとって、共産党による統治にもロシア正教の文化が援用されていた事実を思えば、無神論の普及を弾圧という手法のみに帰することは、疑わしく思えてもくる。

 ここで思想史的な流れについて詳述するのは手に余る。ただ、フォイエルバッハからマルクスへいたる共産主義における無神論とともに、いまひとつ無神論の源流としてよく挙げられるのが世界的なフリー・シンカーの思想運動で、20世紀初頭にはプラハにも拠点が開設された。ここでの代表的な人物のひとり、テオドル・バルトシェクは共産主義者であったが、ヨゼフ・スヴァトプルク・マハルなど、マサリクのリアリスト党に共鳴したのち、けっきょくは民族主義に落ち着いた。団体としては1950年代に共産党によって解体されたが、いずれにせよ共産主義とともに、ナショナリズムの流れを指摘しないわけにいかない。

 信仰とナショナリズムの結びつきは、宗教社会学の領域で研究されてきた。が、チェコ共和国ほど、特異なケースはないのではないか。説明が容易ではない反面、好例ともいえそうだ。ただ、さいきんの史学では、ナショナリズムが宗教に替わったという単純すぎる見方には人気がないことも、言い添えておかねばなるまい(以下、おもに拠ったのは、Paul Froese, "Secular Czechs and Devout Slovaks: Explaining Religious Differences", _Review of Religious Research_, 46 (3), 2005, 269-283)。


4)ハプスブルクからチェコスロヴァキアまで

 神聖ローマ帝国に君臨したハプスブルク家はながらく、あたかも世襲の権利であるかのように皇帝を輩出してきた。そのさい帝冠をローマ教皇に加冠されることによって、現在のドイツやイタリアにあたる領土の統治を正当化するのが慣らいであったから、しぜんハプスブルクとは、ローマ・カトリシズムの守護者と同義となった。

 ボヘミア民族主義(チェスキー・ナツィオナリズムス)が、反ハプスブルク運動と結びついていたことは至当であり、しぜんそれは反カトリシズムの立場をとった。そのさい、ロマン主義的なプロパガンダ手法として中世のフス派に言及されることになり、のちにはチェコスロヴァキアの国民統合のモデルとも目された。いきおい、反カトリシズムの傾向はつよまる。

 だから、ボヘミアナショナリストにとって、カトリック教会に帰依することは「不道徳」につうじた。フランチシェク・パラツキーにしてからが、おおよそにおいて民族の歴史をカトリシズムとフス派信仰の衝突であると妄想していた。ところがフス派信仰は民族のシンボルとして祭り上げられたものの、すでにボヘミア王国領内ではほぼ完全に根絶されてしまっていた。

 1848年の革命では、とくにプラハの六月暴動がヴィンディシュ=グレーツ将軍に鎮圧されたことで、いっそう反ハプスブルク熱が昂じた。そもそも、この革命は貧しき者たちすべての叛逆であったはずが、同地においてはそれが民族主義者にハイジャックされてしまった──というのが、マルクスエンゲルスの見解で、自らの新聞においても「スラヴの豚ども」という表現で憤りをあらわにしている。百年もあとになると、スラヴの多くの民族国家がマルクス主義を奉じるようになるのだから皮肉なものである。

 プラハにおける民族主義はおおいに盛り上がり、その文脈で汎スラヴ会議が催された。だが、ここにおいてはじめて、汎スラヴ主義なるもの自体が絵空事にすぎぬことに主催者らは気づかされた。端的に、会議にやってきたポーランド人らにとっては、同じスラヴのロシア人こそが抑圧者であり、ハプスブルクはむしろ慈愛に満ちた存在なのであった。

 このため、ロシア正教への敵愾もあり、ポーランドではナショナリズムローマ・カトリック信仰とむすびついて展開してゆく。のち百年以上も地図上に存在しなかったポーランド人国家が成立したとき、アイデンティティの拠り所としてカトリック信仰が採用された所以でもあった。この国のナショナリストらには、新国家とは決して新たなものではなく「復活」であるという建前が、聖書的なアレゴリーとしていっそう強調されえた。こうして、共産化が成る以前に「神を信じますか」にたいする両国民の対照性はすでに決していた。

 ボヘミア民族主義はのち、モラヴィアやスロヴァキアを巻き込んで、人造的多民族国家チェコスロヴァキアの成立を見た。それはパリの講和会議における国境確定の折衝における、クラマーシュやベネシュらによる尽力の帰結でもあった。ズデーテンやシレジアの一部は言うに及ばず、現在のウクライナの一部地域までも領有した。結果として、新生チェコスロヴァキアの領域は最大限みとめられた反面、ドイツ人以外にも、マジャル人やルテニア人といった多様な要素を、国内に抱え込むこととなった。

 これには西欧諸国の思惑もはたらいた。とくにフランスなどは、ボリシェヴィズムに対する防波堤を必要とした一方、そのための「緩衝国家」自体が安定した強大な勢力になることも望ましくなかった。チェコスロヴァキアには、紛糾と混乱にみちた脆弱な国家のままでいつづけてもらわねばならなかったのだ。

 こうしたなか、国民統合の企図からボヘミア同胞団教会も設立されはしたし、大統領みずからが率先して改宗までした。しかしながら、分断された国のあらゆる層から充分に信徒を集めるまでには至らなかったと結果的には見える。けっきょく、滅びたフス派へのロマン主義的な憧憬を超えることができなかったのかもしれない。


5)モラヴィア

 ひと昔まえ、ポストコロニアリズムが流行した時代には、上のようなチェコスロヴァキアの捉え方はたぶんに凡庸で、それだから「スロヴァキアは二重・三重の支配をうけてきた」などという論もよく見られた。この見方からすると「チェコスロヴァキア人」という民族の創出は、「国内植民地」の忿懣の感をいだかせぬための方策で、やはりトマーシュ・マサリクら指導層の苦肉の策にみえる。ちなみに初代チェコスロヴァキア大統領、マサリクはモラヴィアに生まれ、母語はドイツ語、「父語」はスロヴァキア語であった。

 モラヴィアの州都ブルノに「チェコスロヴァキア共和国最高裁判所」が設置されたのも、同様の意図による懐柔策の一環にちがいなかった。そもそもモラヴィアは、1848年革命においてもボヘミアに無条件に同調することはなかった。すなわち民衆に本格的に暴動が波及することもなく、指導層も独自の路線をとった。帝国政府に却下されたために施行こそされなかったが、領邦議会では独自の「モラヴィア憲法」も可決されていたほどであった。つまりモラヴィアにとっての「革命」とは、議場で平和裡にすすめられたものだった。帝都ウィーンに暴力の嵐が吹き荒れたさいに、宮廷や政府、議会がモラヴィアに避難したのもそのためである。

 ところが、大戦末期の君主政崩壊にさいしてドイツ系住民が分裂したこともあって、モラヴィアは否応無くチェコスロヴァキアに吸収されることになった。

 便宜上わかりやすく極端な仮定を挙げれば、「セルボ=クロワート=スロヴィーニア王国」の例のごとく、本来的には「チェコ=モレイヴォ=スロヴァキア共和国」とでもされようところが、モラヴィアは、その政治・経済・文化において指導的な役割を担っていた層が離脱した結果、影響力を喪失したわけだ。なるほど「民族自決」という幻影が跋扈する時代に、独自の言語を確立できていなかったことは不利に違いなかった。が、理論上はスイスのような多様な成員による国もあり得たと、いまだに論じる識者もあるのだ。

 あるモラヴィア史家がうまいことを書いている。「チェコスロヴァキアの国歌には二番まで歌詞があった。その一番と二番のあいだの二秒か三秒かの静寂こそが、モラヴィアの国歌だったのだ」と。

 ともかく、名も残らぬ「無条件吸収」とは容赦ない弾圧であったし、20世紀末にいたって行政区分として設置された県(kraj)の境界線にしろ、歴史的モラヴィア州(země)が原型をとどめぬように、歴史とは関係のない線が引かれた。

 さて。

 こうした事情の痕跡が、現代において宗教にかかわる調査結果にも顕れている。地域別の調査となると、モラヴィアのスロヴァキアにちかい地域が、チェコ共和国でもっとも「信仰者」の割り合いが高くなっている。

教会や宗教団体に所属している信仰者の割合は、ズリーン県が38.6%と最も高く、他のモラヴィアの諸県やヴィソチナ県では平均を上回っている。どの地域でも、教会や宗教団体に所属していると回答した信者は、ローマ・カトリック教会に所属していると応えた者が最も多かった。「信仰なし」を選択した者が最も多かったのは、ウースチー・ナト・ラベム県(84.2%)とリベレツ県(80.6%)である。

Náboženská víra | Sčítání 2021

 モラヴィアでは、無条件にボヘミア民族主義を受け容れたわけでなかったと類推できる。上では端折ったが、チェコスロヴァキアのその後の歴史がそれを補足してくれる。単純化・図式化すれば「ボヘミア民族主義 vs. モラヴィア・カトリシズム」といったところか。

 現在の世俗の政党政治に目を転ずれば、反共キリスト教勢力の支持率が高いのも、モラヴィアの地域である。すなわち、キリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)や、そこから分離したTOP_09党がこれにあたる。いまも政党名に「チェコスロヴァキア」が生きているのも、アイロニーとしては風情がある。


6)オロモウツというパラドクス

 ただし例外として、モラヴィアでも広義の旧ズデーテン地域では、ANO党をふくむ左派の支持率が高い。

 すなわち、第二次大戦後のドイツ系住民が追放されたあと、あらたに入植がすすんだ地域であるが、それは同時に、カトリック信仰がほかの文化もろとも、いったん殲滅されてしまったことを暗示している。上記の引用中にもあるとおり、ボヘミア側のズデーテンにあたるウースチー県やリベレツ県で「信仰なし」がもっとも大きな数字を示していることからも窺えよう。

 こうした土地では、チェコすなわちボヘミア民族主義がつよいものと想定され、入植後も種々の便宜をはかった共産党の政策、あるいはそれににちかいANO党の政策が支持を得ているとすれば、首肯けるのである。ついでにチェスキー・ファシスト的、すなわち反ドイツ的・排外的言動が正当化されうる土壌すらおそらく根づよく残っている。

 象徴的な町が、オロモウツである。

 モラヴィアの歴史をながめると、行政上の都はブルノであった時代がながい。ところが、11世紀に司教座がおかれて以降、モラヴィアにおけるカトリック信仰の中心を担ったのは、オロモウツであった。モラヴィアの「霊性の首都」と呼べるのは、少なくとも歴史的には同市しかない。

 かつての町の住民には、カトリック系のドイツ語話者が多くを占めていたが、これが第二次大戦後に「追放」され、また前後して、周辺のスラヴ系の自治体が合併されたことで、人口構成が一変した。

 同市を訪れる観光客にとって、なんといってもバロック建築の街並みが見どころではあるが、これも独特のシンボル性を有している。ボヘミア民族派が、バロック期を「テムノ(暗黒)」と呼んだのは、ビーラー・ホラの敗北後、カトリック化が進行した時代であるという歴史観に由来している。するとオロモウツは、もっともドイツ的な景観を有する町のひとつともいえるが、ドイツ語話者追放ののちもこうした建築群が破壊されずに残ったのは不幸中の幸いであった。そこには、市街地の「歴史地区」や、モニュメンタルな《マリア柱》、ユネスコ世界遺産として名高い《三位一体柱》も含まれている。

 おおくの文化財が残されたことは、肯定的に評価される一方で、あらたな産業の開発が進まなかった帰結であるという否定的な解釈もある。これをすべて、共産党の無策に帰するのは安直であろう。さいきんは、ほかのハプスブルクの古都と比較して町の再開発が遅れた要因を、オロモウツが要塞や駐屯地を擁した「軍事都市」であった点にもとめる美術史家もあった。

 いずれにせよ、経済的な立ち遅れが、恩顧主義的ばらまき政策の支持だけでなく、偏狭な民族主義や排外主義の昂まりにもつながるのは、理論上の必然にもおもえる。それを裏づけるように、中道右派が勝利をおさめた昨年の選挙でも、同地区ではあいかわらずANO党が大きな支持を得たものだった。

 これを要するに、モラヴィアの精神的な首都でありながら、キリスト教民主主義政党の支持が伸びず、むしろ元StBの「オリガルヒ」に率いられた左派ポピュリストによる町になっている状況は、瀆神とまでは言わぬまでも、歴史にかんするパラドクスであると観念せざるを得ない。


7)スロヴァキア

 では、共産党体制が崩壊した民主化後のチェコスロヴァキア、なかんづくチェコ共和国に、大規模なキリスト教信仰の復興がみられなかったのはなぜか。この問いにたいしては、宗教社会学者がもちだすスロヴァキア独立国の例にヒントがある。

 ヒトラー第三帝国ボヘミアモラヴィア保護領化した時分、スロヴァキアはアンドレイ・フリンカ師に率いられたスロヴァキア人民党のもとで、おなじヒトラーの傀儡国家として独立を果たした(フリンカ本人は直前に死亡したが)。

 「師」というように、フリンカは教皇庁書記長まで上りつめたカトリックの聖職者でもあった。要するに、隣接するスロヴァキアにおいて教権的ファシズム、すなわちカトリシズムとファシズムが結びついた政治体制が確立し、それがナツィズムの支配に協力するかたちをとったことで、ボヘミアモラヴィアにおいて、ローマ・カトリシズムに代表されるキリスト教信仰全般への不信が頂点に達していた。つまるところ、宗教への不信は、そもそも共産党の体制とは関係がなかった、という説明である。

 ちなみに、スロヴァキアでカトリック信仰が普及した背景は、ちょうどボヘミアの事情を鏡にうつしたような図式で解説される。すなわち、現在スロヴァキアとなっている土地の住民にとって直接の抑圧者はハンガリー人であり、そのさい理由はわからないが、一部の領域で奉じられていたプロテスタント信仰がハンガリーを象徴するものと理解された。そのために、カトリシズムがハンガリー人支配への抵抗と結びついた、というのである。ロシア(正教)に対抗する精神的な拠りどころをカトリシズムが担った、ポーランドと同様の構図であった。


8)調査ごとの限界

 もともと「再現性の危機」問題にもからんで、社会心理の解釈は一筋縄ではゆかない。信仰という微妙な内心の問題を、デジタル的な選択肢に振り分けて集計せねばならぬ調査など、なおさら胡乱なところがある。

 それというのも、じつは件のスロヴァキアやポーランドといった「カトリック国」でも、本気で神を信じているかと問われれば、「はい」と応える者はそう大きな割り合いでもないらしい。

 つまり、おおかたは教会組織に属するという意味で「ええ、信徒ですよ」と回答しているにすぎないというのだ。すると、こうした聞き取り調査の結果は、あるコミューニティに所属する身であるという、アイデンティティの拠り所としての信仰告白という性格がつよくなってしまう。それだからこそ、前出の調査にもあてはまるとおり、「神を信じますか」という設問が「信仰者ですか」とは別個に用意されるわけだ。

 ということは「無神論」といっても、積極的に神を否定する無神論とは性質を異にしている場合が多分に想像される。それでも「精神性の欠如」を埋めるのは「大地信仰」のような民間信仰ではなく、チェコ共和国では多く「占星術」とか「おまもり」のようなものが信じられているにすぎないと言われる。しかも調査によっては、その割り合いが「無神論」の数字を上回っている。

 このような「帰属なき信仰」や「平行信仰」(占星術、まじない、テレパシーなど)の普及と呼ばれる現象じたいは全欧的な傾向でもあるらしい。結果、やや「迷信ぶかい」ところがある人でも、デジタル的に「信仰なし」と回答することになる。

 だがこれは、見方によっては、われら日本人の自称「無宗教」に似ているのではないか。なにかというと神社仏閣に参拝し、護符や達磨に願をかけ、お祓いや地鎮祭に大枚をはたきながら、「無宗教」だと強弁する……。そんな日本に、ヨーロッパがちかづいているというところか。

 ただ、国際的に比較すると、チェコ共和国は異なった印象になりそうだ。

 ここで興味深いのは、前出の2017年の調査である。「魂の存在」「運命」「奇蹟」「天国」「地獄」といった、こまごまとした宗教的ないし霊性的な信条については、チェコ共和国のばあい周辺諸国よりも低い数字にとどまっているという結果が示されている。これのみをもって「一切のものを信じない人びと」などと断ずるわけにもいくまいとはいえ、人口に膾炙した「国民性」のステレオタイプとは合致している。

 この結果を採るなら、現代チェコ共和国の「無神論」は、旧東ドイツ地域の性向にちかい可能性は想定されるものの、「一国」のものとしてヨーロッパにおいて異様の傾向ということになる。

 前提として、かのロナルド・イングルハートらによる「世界価値観調査」などでは、「宗教は重要でない」という傾向を示している点で、チェコ共和国と日本の人びとは、かなりちかい価値観を有していることになっている。「宗教は重要」とした回答が多い国から並べると、両者は七十数か国のなかでも最下位にちかい(ちなみに最下位は中国。但、2000年)。

 ところが、各種の「平行信仰」ないし「迷信ぶかさ」といった諸々のことまでも考慮に入れると、ヨーロッパ各国のなかでは日本からもっとも遠い宗教観の人びと、ということになりそうだ。

 とはいえ、最近の調査で「神を信じるか」について、チェコ共和国よりもドイツやフランスのほうが低い数字のものも見た。やはり、この種の調査の「再現性」を疑いたくもなる。あるいは、実際のところ、ひとの信仰心とは存外に移ろいやすいものなのかもしれない。また、チェコ共和国国勢調査のばあいは、被験者がどれだけ真面目に回答しているのかという信頼性の根幹にかかわる問題をかかえてもいる(参:「私の宗教はジェダイ」と1万5000人が回答、チェコ国勢調査)。

 いっぽう日本での調査では、以前にも書いたが、被験者が「宗教」という概念を一種独特の様式で解釈して回答していることが、根本の問題として存在しているとみる。が、それもふくめて文化なのだといわれたら、仕方がない。それだから「宗教を騙るカルト」を取り締まるのには大いに賛成したいものの、床屋談義にも似たSNS上の議論にも、これまた一種独特の危うさを感じざるを得ないのだった。

 

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