ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

プシェロフの虐殺

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 通話ソフトというのか、ウェブ会議アプリというのか、リモート勤務の普及にともなって、その手の仕組みを用いるひとは増えた。すっかり公演の減った演劇界でも、これを利用したプロダクションが生まれ、増えつづけている。動画として自宅から観覧できるゆえ、観る側も気楽ではあるが、それだけに演出にもさまざまな配慮が要りそうだ。映像ではあるものの、映画のような映像作品ともいえないから、どういう鑑賞がよいのか、考えてしまう。似たような映画もあったけれど、すくなくとも映画学的な構図論では語りきれないことは確かだろう。演劇学では、ラジオ・ドラマに固有の地位が与えられていたものだが、このあらたなフォーマット(オンライン動画劇?)も特別な理論の出来を待っているのかもしれない。

 そういう試みのひとつとして、チェコ共和国の公共放送がとりあげていたのが『目撃者』という国民劇場の演目で、この2月から劇場サイトをつうじてオンラインで公開されるそうである。演出は、ユィジー・ハヴェルカ。ありふれた題目から、おおよそ予測がつくように、証人が代わるがわる出てきて、ひとつの事件の別の側面をそれぞれ語りついでゆくらしい。映画であれば、黒澤明の『羅生門』に代表されるような、ある意味では古典的な形式といえるだろう。──しかし題材がまた、煽情的なのである。

 扱われるのは、1945年におこった「シュヴェーツケー・シャンツェにおける虐殺」、あるいはもっと簡単に「プシェロフの虐殺」と呼ばれる事件である。ヒトラーすでに亡き第三帝国が瓦解し、アルフレート・ヨードルが降伏文書に調印してから、ひと月あまりが過ぎていた。とはいえ混乱のつづく大陸のあちこちで、いまだに家路をいそぐ人びともあった頃である。

 6月18日、特別列車のふたつの便がプシェロフ駅に到着した。片方の列車には、もとの第一チェコスロヴァキア人軍団の兵士らが乗っており、プラハでの式典からの帰路であった。もう一方の旅客はスロヴァキアの村々の住民たちで、スロヴァキア語やハンガリー語を話す者のほか、20世紀初頭に「カルパティア・ドイツ人」と名づけられた、中世からドイツ語を話した家系の人びともいた。といっても証言によれば、家庭内でいずれの言語がはなされていたとしても、少なくないひとがトライリンガルであったと思われる。この民間人らは、1944年12月以降、なかば強制的にスロヴァキア東部からボヘミア北東部へ疎開させられていた。

 いっぽう兵士たちは、ブラチスラヴァ近郊ペトルジャルカの駐屯地へ戻る途上であったが、そのなかに、カロル・パズールという28歳の尉官があった。はじめ、独立スロヴァキア国にてフリンカの親衛隊に所属、のち機動師団に転じて参戦したものの、1943年に赤軍の捕虜となり、そこでファシズムから共産主義に「転向」して、チェコスロヴァキア人部隊に身を投じた。ベルリンが陥落して、5月下旬にチェコスロヴァキア人軍団は解散したが、国防情報局の将校として軍にとどまった。どうやら、家族のうちにSSに入隊した者や、ドイツ側の軍人と交際していた者があり、執拗に「汚名返上」の機会をもとめていたと推測されている。

 パズールとその副官であったベドジフ・スメタナは、予防的な尋問であるとの口実のもと、列車にいた件のスロヴァキアの住民をあつめた。そこで、おのおのがスロヴァキア人であることを証明する書類を携行していたにも拘わらず、第三帝国統治下における占領者への協力者であったと一方的に断じた。

 そうして、これを近郊の丘へ連行し、地元住民には墓穴を掘らせた。日付けが19日にかわるころ、部下たちによって処刑が開始され、朝の5時までつづいた。一説には合計して270人、内訳が男75、女120、子ども75人ともいわれるが、証言により数字は異なっている。生後半年ほどの乳児もふくまれていた──と、公共放送の記事にはある。

 パズールは軍法会議にかけられ、最終的に禁錮20年が言い渡された。ところが、ほどなく「2月事件」で共産党が天下をとると、1年ほど収監はされはしたが、けっきょく有耶無耶にされた。検察役としてパズールを追いつめた法務士官のほうが、政治裁判で裁かれる始末だった。

 事件は、長いあいだタブー視され、共産党体制下では口外が禁じられていたが、近年になって解明がすすんだ。とりわけ、史家のフランチシェク・ヒーブル氏が権威として知られ、その功績によりドイツ連邦共和国から功労勲章が授与されている。対して、スロヴァキア共和国にしろ、チェコ共和国にしろ、冷淡なものである。それというのは、おそらく直接の関係者への配慮にとどまらない。じつは戦後の「ドイツ人」の私的な処刑の噂は各地で聞かれるところで、なかにはグレーな事案も相当数あることだろう。それだから藪蛇を避け、だんまりを決め込み、あえて蒸し返すことをしないのも、学術行政的にはともかく、政治的には偉大な知恵とはいえそうだ。さいきんの社会の分断や極東の外交を眺めていると、つくづく思う。

 それでも2018年になると、シュヴェーツケー・シャンツェの現場には、高さ約4メートルの十字架が奉納され、まいとし追悼が行われるようになった。これをもって、一応の落着をみるかとおもいきや、ウェブ上ではこの話題に膨大なコメントが連なっていることがある。いわゆる炎上であるが、それを見るに、研究者の顕彰などあり得ないことを思い知るのである。そうした人びとも、それなりの信念があって書き込んでいるには違いない。というのも、実効性はともかくとして、チェコ共和国では2000年末の刑法改正により、ナツィあるいは共産主義者によるジェノサイドやそのほか人道に対する罪を公の場で否定した者には、6か月以上3年以下の禁錮刑が科されることになっているためである。いずれにせよ、いまだに関心を呼ぶテーマであることは確かなのだろう。

 チェコスロヴァキアの演劇史からみれば、こうしたモティーフは民主化以前には舞台に上げることができなかった、いわばやり残した宿題のようなものだ。演出のハヴェルカは四十そこそこの気鋭のひと。いわゆる傍観者効果など社会心理学の理論も援用して、事件の謎にもせまる意欲作であるらしい。窮状におかれた演劇界が、すこしでも公衆の興味をとりもどせれば良いのであるが。

 ちなみにプシェロフは、街なかをベチュヴァ川が流れるしずかな小都市である。民俗的にはハナー地方、行政的には現在オロモウツ県に属する。事件当時は2万人ほどであったと思われる人口も、1990年代に5万を超えたのち減少に転じ、現在は4万人あまり。

 また、シュヴェーツケー・シャンツェとは、カタカナにするとやや冗長に感ずる地名ではあるけれど、その意味するところは「スウェーデン人の丘」──モラヴィアの地名にスウェーデン人が出てきたら、おおかた三十年戦争で遠征してきた新教軍に由来するに決まっている。シャンツェとは、一般名詞としてはチャンス、すなわち好機の意味だが、地理的にはちょっとした山や高地を意味する。標高300メートル弱の丘とはいえ、北北西に数キロ先のプシェロフ市街も見わたせるから、軍事的には要衝であったことだろう。じっさい、レンナート・トルステンソンに率いられた1万名あまりが、付近に駐屯したらしい。それも17世紀のむかしである。

  

*上掲画像はWikimedia