ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

死者の日と晩秋の祝日

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photo by Adam Nieścioruk

 早いもので霜月、11月である。ローマ起源のNovemberは、かつての暦で「九番目の月」を意味するが、チェコ語ポーランド語のlistopadとは、形態素をもとに訳せば「落葉月」とでもなろうか。月がかわったとたん、紅葉した木々の葉がきゅうに街路に落ちはじめる。

 11月1日は万聖節で、すべての聖人をことほぐカトリック教会の祝日であった。翌2日が万霊節、あるいは「死者の日」である。今度はすべての俗人のための日というわけである。ダンテの『神曲』のとおり、カトリシズムの教えでは煉獄という場があり、ひとが死ぬとここで霊魂の浄化を受けることになっている。やがては天国にいたるが、しばしそこに滞留する者のために祈りを捧げる慣いであった。現在では宗派にかかわりなく、各地で墓参の日となっている。

 周知のように「諸聖人の日の前夜」が訛ってハロウィーンになったというけれども、いつの頃からか渋谷に仮装したひとが集まる日として知られてもいる。そもそもドルイド教の暦で大晦日にあたる祝祭の篝火が焚かれたのがこの10月31日といわれ、がんらいが異教の祭りであった。──そういえば先日、ジェイムズ・フレイザーの名著が電子版でバーゲンになっていた気がしたのだけれど、たぶんセール期間はとうに終わってしまっている……。それでもこういう話が好きな向きには、ぜひ読んでいただきたい。土着の祝祭を、キリスト教が悉皆とり込んでいったのである。

 1日はさらに自衛隊記念日でもあって、2020年には警察予備隊の創隊から起算して70周年となったのを記念した動画が公開された。こうして旧軍との断絶を強調しつづけるのが組織の宿命である。つぎの祭りは3日、もとの明治節で、のち文化の日であり、例年は入間航空祭の日でもあるが、ことしは感染拡大防止のためとて中止となった。そして、4年にいちどのアメリカ合衆国大統領選挙をむかえる。

 さかのぼって10月28日は、チェコ共和国では「独立チェコスロヴァキア国家成立の日」の祝日であった。片割れのスロヴァキア共和国では、お休みをともなった国の祝日ではないところからして、チェコスロヴァキアという歴史的国家にたいする両国民の評価の差がみてとれる。だが、スロヴァキアにも国民の休日とすべしという論があり、ズザナ・チャプトヴァー大統領も賛意を表明している。将来的には変わるかもしれない。なにしろ「離婚」後も、種々の恩恵を享受している。

 チェコスロヴァキアを懐かしむ声は、とくにチェコ側の巷間にあふれる。だがスロヴァキアをさして「兄弟国」だという者の言には、注意を要するかもしれない。対等な弟分という意味でも、国家や国民を兄弟に喩えるのがすでに不快であるし、なにか特定団体の「舎弟」にちかいニュアンスなら、さらにがらが悪い。搾取の対象としての「兄弟国」呼ばわりであるという感覚に無自覚なのであるとすれば、スロヴァキアのナショナリストにとってはありがた迷惑ということになる。それこそがスロヴァキアの市民をして分離独立に向かわしめた遠因でもあったのであろう。

 しかし多民族が共存する国家の理想像として回顧する論客ならば、まだ話はわかる。今年の記事のなかでも、ヤン・ウルバンのものが出色であった。憲章77や市民フォーラムで名のある歴史家である。チェコスロヴァキア潜在的な可能性を粉砕した政治家の野心や失策、またショーヴィニスムの風潮などを批判している。とくにベネシュの政治については、全体主義と断じ、共産期への非民主的な前奏曲である由、けちょんけちょんに扱き下ろしている。ズデーテンでも反ヒトラーの立場をとるドイツ人と手を握ることを拒絶したいっぽう、ロンドンの亡命政府としてモスクワの息のかかった共産主義者と協調することで、戦後の共産化を準備したという評価である。おもしろかった段落を引いてみよう。

 チェコスロヴァキアの成立後、マサリクとベネシュは国内において、神聖不可侵ともいえるほど神格化された。大多数のひとが「世界はふたりに聞き従う」ものと確信していた。両者とも己の信ずる皮肉めいた言辞をしばしば引用し、「政治においては自らの目的を達するに悪魔とも結託しうるが、悪魔に騙されるのではなしに、悪魔を出し抜くことを確実なものとすべきである」と曰った。かつての英国首相クレメント・アトリーは、ベネシュにたいしてはつねに距離を置いていたが、のちにベネシュについて簡にして要を得た文を遺した。すなわち「悪魔と会して羹を食するに、どれだけ柄の長いスプーンが要るものか、どうやら認識していなかったようだ」と。しこうして、すでにパリ講和会議の時分にも、英首相ロイド・ジョージがベネシュを描写しているのである。「……衝動的にして、賢明ではあるが、いっぽう理知的というにはほどとおく、多くを求めればもとめるほど、得るものがすくなくなるということを予見できぬくらいに、そうとう近視眼的な政治家」
──Československo a krize české identity

 ユダヤの寓話に喩えられている箇所があるけれども、地獄での会食というのがあるらしく、どういうわけか肘が曲がらないために、自分の口もとにスプーンをもってゆくことができない。それゆえ向かいに坐した悪魔とたがいにスープないしシチューをたべさせ合うのだが、このとき長いスプーンを用いるというのである。そうなるとベネシュというよりも、チェンバレンの宥和政策を戯画化しているようにも思える。なにしろ、大戦の劈頭、ナルヴィクの軍事作戦をめぐって議会でやり合った間柄でもあった。

 1918年の共和国成立ののちには案の定、全土にお祭り騒ぎが捲き起こったが、そのせいでスペイン風邪の感染が増大した──という公共放送によるレポートもことしは出来した。じつに時宜を得ている。ちなみに、2日前にあたる10月26日は、オーストリア共和国の「国民の日」で、1955年の連合軍の撤退が実質的な独立記念日として祝われている。軍を中心に式典がおこなわれたのは、ウィーンの王宮前のヘルデンプラッツであって、すなわち露天の空間であった。無観客かつ露天の式典は、いろいろと示唆的である。

 というのも、チェコ共和国にて恒例の式典については、パンデミックの年にあって、開催の是非をめぐり長々と議論がつづいていた。ゼマン大統領は例年どおりの挙行に拘泥していたものの、たほう保健省以下の行政府の側は、感染者の再度の増大をうけ、とりやめるのが至当であるという総意にみえた。

 けっきょく、ヴィートコフの丘にある無名戦士の廟において、大統領や政府閣僚らが献花を実施する形におちついた。こちらでも、密閉された会場にひとが集まるのを避け、慰霊施設の屋外空間のみで済ませたわけである。頑迷固陋の大統領も納得した面持ちであったことから、ウィーンでの式典における各自マスクを装用した儀仗隊の様子などを、あるいは参照したのかもしれない、と想像した。

 同国で秋の祝日といえば、さらに11月17日が控えている。これはまた改めて書くとしよう。