ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコスロヴァキアの将星

f:id:urashima-e:20210318062728j:plain

 

  疫禍の春も3月にはいって早々、100万人あたりの死者数がベルギーを追い抜き、世界最悪の水準におどりでたのが、チェコ共和国である。ことしも15日には、第二共和政チェコスロヴァキアの占領が開始された日を記念する記事が出た。もっとも、82周年という半端な数字だから控え目ではあったが。「共和国占領」と公共放送の記事にはあるけれども、まだチェコスロヴァキアが存続しているつもりでいるものか。とまれ、1939年の3月16日には第三帝国ベーメンおよびメーレン保護領が成立したのだった。

 前年のミュンヒェン会談の際、いわゆる「1938年の一般動員」がおこなわれたが、ベネシュ大統領は、列強の合意の報せを受けたのちにも何もせず、動員を解いただけだった。──これがのちのち21世紀にいたっても、酒場で大衆になじられつづけることになる、臆病なインテリ大統領の決断であった。……とはいっても、あのとき武力に訴えたとして、ヒトラー国防軍を撃退する勝算は、どれほどあったのだろうか。

 ところで、これにつづいて勃発する世界大戦を追体験できるゲームに、〈Hearts of Iron IV〉がある。〈Hoi4〉の略称で検索してもおびただしい記事があるので、かなりの人気があるようだ。

 

〈Hoi4〉というゲーム

 ユーザーは、1936年の正月元日の時点における各国の政府を選択してプレイにのぞむ。それぞれ経済政策や徴兵法などをえらび、富国強兵をはかって、きたる世界戦争に備えることになる。戦がはじまるや、師団、軍、軍集団という規模で作戦を下達し、国運を賭してたたかうのだ。

 むろんゲームなりに単純化されてはいるものの、多くはしぜんにデフォルメされつつ作り込んである。たとえば、貯め込んだ「経験値」を消費すると自軍の師団編成が変更できるのであるが、初期の編成表をみると、イタリアの歩兵師団では、歩兵大隊を示すコマが縦2列にならんでいる一方、日本帝国の歩兵師団では縦4列になっている。これは、前者がエチオピアでの成功体験やムッソリーニの虚栄から、「師団」だというのにたった2個連隊で編成されていたことに対応しているし、後者では、世界の趨勢にあわせて、3個連隊編制に切り替えることを議論していた当時の4個「聯隊」編制の日本の歩兵師団を思わせる──おそろしいゲームだと思う。

 たほう、政治力ポイントを消費して政府に顧問を雇うと、そのぶん各種の数値にボーナスが加算される仕組みもあるのだが、そこで「南雲忠一」が航空戦の専門家として用意されているあたりは、おもわず「惜しい」と唸ったものだ。真珠湾ミッドウェイ海戦の司令官として知られるがゆえの設定であろうが、ほかならぬその門外漢ぶりが惨敗を招いたことまでは、ゲームのデザイナーは考慮しなかったものか。もちろんゲームであればこそ、許容される程度のことではある。

 話を本題にもどすと、このゲームでは、ベネシュ大統領のチェコスロヴァキアを選択してプレイすることが可能なのである。ミュンヒェン会議の決定をつっぱねて、ドイツ国防軍の侵攻を迎え撃つ。本土決戦だ。

 1936年というゲーム開始時点で、二十何個かの師団がプレイヤーの手中にある。平時にそんなにあったかなあとは思うけれど、ともかくこれを増強してゆかねばならない。史実における1938年秋時点のチェコスロヴァキア共和国軍の陣容は、クトナー・ホラに司令部をおく第一軍が11個師団と1個旅団、同じくオロモウツの第二軍の4個師団、クレムニツァの第三軍が7個師団、ブルノ・第四軍が9個師団、そして予備の9個師団で、合計40個師団と1個旅団──この程度までは、必要になるのだろう。

 しかし結論からいえば、それだけあっても、あの狂気じみた好戦的な軍事大国に勝てるわけがないのである。──勝てるわけがないのであるが、じつはDLCとよばれる追加のプログラムを別途、購入すると、一条の光明がみえてくる。〈Death or Dishonor〉という製品がそれである。これを適用すると「国境地帯にはりめぐらせた要塞が、もしドイツ軍にたいして効果を発揮したら……」という架空の想定などにもとづいて、ゲーム上の諸条件が調整され、あらたな展開が起こりうるようになる。マジノ線が役立たずだったことからしても、おおよそ空想にすぎないわけであるが、そこは浪漫である。あとは、お愉しみ。めいめいご照覧あれ、ということにしておこう。

 ところで、ちょっと書いておきたかったのは、チェコスロヴァキアでプレイするときに利用できる将軍のことである。開始の時点では、4人の将軍が選択肢として用意されている。どうしてこの4人なのか、この人選にしても、いまひとつわからないところもあるが、とまれ来歴をかいつまんでメモしておく。チェコスロヴァキアという呪われた国家の一面が、かいまみえてくる気もするからだ。


セルゲイ・ヴォイツェホフスキー(1883-1951)

 ヴィテプスク(現ベラルーシ・ヴィーツェプスク)にて、ポーランド貴族の血をひくロシア人家庭に生まれた。帝政ロシアの将校として、日露戦争にも参加した。のち、チェコスロヴァキア軍団に参加、チェコスロヴァキア人狙撃師団の参謀長を務めた。1921年に新生チェコスロヴァキアにわたり、同年5月1日、将官としてチェコスロヴァキア共和国軍入隊。 翌1922年1月20日帰化。1929年、元帥。

 ミュンヒェン危機の際には第1軍の指揮を執り、軍として政府の決定に反対すべきであると主張した。共和国解体後の1939年4月1日には退役するも、非合法組織「民族防衛隊」に参加し、抵抗活動に従事した。保護領時代をつうじて、ゲシュタポの監督下にはあったが、生き延びた。

 ところが戦争終結後まもなく、ソ連防諜機関に拘束され連れ去られた。シベリアの収容所で没した。


リハルト・テサジーク(1915-1967)

 このひとがもっともよくわからない人選。映画でもよく知られる、1944年のドゥクラ峠の戦いに戦車大隊長として参加している。つまり、将軍ではなかった。将官への昇進は戦後、1950年代であった。ゲームには「機甲士官」がどうしても必要だったのかもしれない。ドゥクラ峠での負傷がもとで片眼を失った。ヤン・ジシュカにしろ、ヤン・スィロヴィーにしろ、ボヘミアモラヴィアには隻眼の将が多いのか。黒い眼帯の姿は凄みがあって、画面に映える。

 戦後は、ソ連の戦車アカデミーなどに幾度か留学もし、1954年には師団長にもなった。けれども、共産党にとっては問題児だったらしく、不遇の晩年をおくり、51の若さで急死した。プラハ生まれ。


ヨゼフ・シュネイダーレク(1875-1945)

 モラヴィア出身。オーストリア=ハンガリー軍の士官を辞して、フランス外人部隊に参加。北アフリカで実戦経験を積んだ。第一次大戦では、西部戦線で参戦。少佐に昇進。

 1919年、フランス市民として新生チェコスロヴァキアに凱旋した。その直後、ポーランドとの七日間戦争でチェコスロヴァキア軍を率いた。のち、ハンガリーとの戦いにも師団長として参加。1920年将官。1930年、元帥。1935年、退役。

 共和国解体後の1939年には、ふたたび渡仏。フランス占領後はカサブランカへ逃れ、そこで没した。あっけない気もするが、享年70。

 みずから手記にて披露しているエピソードが面白い。13歳のとき「イスタンブールでパシャになる」といって家出するも、トリエステまで行ったところで資金が尽き、親族に連れ戻された。生来の無邪気な言動や猪突猛進ぶりがよくわかる、典型的な牡羊座うまれだったというところか。


ヴォイティェフ・ルジャ(1891-1944)

 モラヴィア出身。ブリュン(ブルノ)の工科にて電気工学を専攻したが、在学中に大戦が勃発した。総動員がかかる前日という8月3日、ピルゼンプルゼニュ)の第35歩兵連隊に志願入隊。ウィーン包囲でオスマン帝国と対峙するなど、オーストリア=ハンガリーでもとりわけ名高い連隊である。11月には少尉・小隊長としてロシア戦線に送られるも、翌年8月、ロシア軍の捕虜となった。翌1916年、チェコスロヴァキア軍団に参加。シベリアを転戦する。

 1920年5月、トリエステ経由で新生チェコスロヴァキアに帰還。ほどなく共和国軍少佐任官。1920年代後半には、参謀本部作戦部長。1935年、トレンチーンにて第5軍団長をしばらく務めたのち、1937年、オロモウツにて第4軍団長。のちベネシュ大統領よりじきじきの指名により、モラヴィア州総司令官。

 1938年9月23日動員の際は、モラヴィア北部国境の防衛を担う第2軍を指揮した。やはり戦わずして負けたことに納得がゆくわけもなかった。クー・デタ画策に与した嫌疑で軍を逐われることになる。とはいえ、闘争はつづけた。保護領時代にはやはり民族防衛隊に参加し、ゲシュタポとの死闘のなか、自決を強いられた。53歳であった。