ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

モラヴィアびと

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photo by Jindra Buzek

 日本人なのか、それともアメリカ人なのかなどと、人間はとかく他者にレッテルを貼りたがる──

 大坂なおみの手記を読んでふと思い出したのは、個人的なモラヴィアとの因縁である。具体的には、四半世紀も前に読んだ同様の主旨のフレーズであった。「はたして我われは、こうした人びとをいったい何者にしたいのであろうか」という問いかけである。

 それはナショナリズムに連関して英語で書かれた論文であり、モラヴィア出身の研究者の手になるもので、同様にモラヴィアに生まれた著名人たちを扱っていた。

 誰それというのは失念したが、たとえば──コメニウス、メンデル、ハンス・モーリシュ、フッサールゲーデルエルンスト・マッハ、ズィークムント・フロイトコルンゴルトヤナーチェク、ハース、アルフォンス・ムハ、ヤン・コティェラ、アードルフ・ロース、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト、フロマートカ、フラバル、クンデラ、ゴルトフラム……モラヴィア生まれといって思いつくだけでも、きりがない。

 ここに挙げた歴史上の偉人らも、たとえば「国籍」という点にかぎったところで、さまざまなレッテルを貼ることができる。オーストリア人、アメリカ人、フランス人、チェコスロヴァキア人……

 この分野の気鋭の近代史家が「国になりきれなかった国」とつとに喝破した、モラヴィアである。ここでは「レッテル」の金型を作成しそこねたわけだ。ただ、他人に貼るのか自分に貼るのかの差異はあれ、ナショナル・アイデンティティの漠たるものがそうしたレッテルの一種として確立されるメカニズムについては、すべてが解明されているとはむろん言いがたい。とはいっても、ある種の社会科学や人文科学、とりわけ政治学社会学歴史学にあっては避けては通れない領域でもある。生物学徒にとっての進化論にも似た「一丁目一番地」といえるのではないか。

 いまも現地ではモラヴァということばが残っているが、いつまであるのかは誰にもわからない。また市井で定義を訊ねても、来歴の俗説が聞かれるばあいもあるが、たいていのひとは絶句するのみである。

 巷間では、しばしば「チェコ共和国の東部」などと説明される。面積は日本の17分の1ほど、北関東の茨城・栃木・群馬に埼玉県を加えたくらいか。ドイツ語ではメーレン。ラテン語にてモラウィア。地理的な基盤といえば、歴史的なモラヴィア州の領域をまず指しているが、その前提を破壊するという往時のチェコスロヴァキア共産党の意図もおそらくあり、行政単位としての州は廃止され、現行の複数の県ざかいの線にしても、もとのボヘミアとの境界とは合致していない。

 おおざっぱに自然国境説のような見かたをすれば、語源でもあるモラヴァ川の流域として思い浮かべることができる。モラヴァ川は、ポーランド共和国との境にそびえる標高1424メートルのクラーリツキー・スニェジュニークに源を発する。川は北から南へとチェコ共和国を縦断し、オーストリア共和国へ至り、ホーエナウ付近でターヤー川と合し、最終的にはドーナウにそそぐ。したがって、モラヴィアとは「チェコ共和国のドーナウ水系の地域」とも定義できそうだ。

 中世のプシェミスル家以来、ボヘミア王国とは属人的につよく結ばれていたことも確かである。すなわち、ボヘミア王モラヴィア辺境伯を兼ねるか、王の兄弟や身内が治めることが多かった。ところが三十年戦争をさかいに、プラハよりもむしろウィーンとの結びつきを強めてゆくことになった。これはむろん、16世紀以降「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」と称するようになった国でのできごとである。ちなみに、さらに歴史をさかのぼって、この地域に9世紀から10世紀に存したモイミールの王朝は大モラヴィア国とも呼ばれ、とりわけ20世紀に考古学的調査が進展した。そのため、これをよりどころとした、中央への反発とも綯交ぜになったモラヴィア主義の盛り上がりにも一役買った。だが、そうした風潮もビロード革命後の一時期をピークに鳴りをひそめている。

 すでに触れた「モラヴィア──国になりきれなかった国」は出色の論考で、このあたりの事情が平易かつコンパクトに説明されている。

 19世紀前半の段階ではまだ、この地に住まうスラヴ系の人びとは、自らについて、モラヴィア語をはなすモラヴィア人であると考えていたものの、それは「モラヴィア民族」として制度化されることはなかった、と史家はまとめる。ウィーンとの関係も深いこの地で文化、政治、経済の面で優位を保ったのは、少数派でありながら公用語たるドイツ語をはなすドイツ系の住民で、知識人となると「圧倒的な優位を占めて」いた。さらに領邦愛国主義の傾向を有したモラヴィア貴族たちも、モラヴィア自治を擁護するいじょう、ボヘミアに敵対的でもあった。ところが、文化的なスラヴ的要素とゲルマン的要素とを、モラヴィア民族というようなネイションへ「止揚する試み」はほとんどなかった。その最大の原因として、ドイツ系の知識人がそもそも興味をもち得なかったいっぽう、スラヴ系の知識人が確固たる拠点を欠いたことによる、と結論されている。

 したがって、そのころはまだ民族的アイデンティティといっても、かなり相対的で曖昧なものであったものと思われる。ボヘミア文人カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーが、1848年にモラヴィアのブルノを旅した際の感想が面白いので引いておこう。

 まず、すこぶる驚いたのが、街頭ではひじょうによくボヘミア語(ないし、かの地で呼ばれるところのモラヴィア語)が話されていることと、就労者階層の人々はほとんどすべてスラヴ系であること、また、それなのに有力者層となると、家々の表札にあきらかにボヘミア=モラヴィア語の名前が記されていながらも、自らをドイツ人であると見做していることであった。


──Karel Havlíček Borovský, Duch národních novin, Havlíčkův Brod, 1948.

 ただ、これに先だつこと約10年、ヨゼフ・フメレンスキーというボヘミアのひとが、同郷人に書き送った書簡には、びみょうに異なった印象が描かれている。その間の社会的な変化が偲ばれる。

ブルノではほとんど誰でもボヘミア語とドイツ語ができるとはいえ、どこでもドイツ語のみが話され、目下この地では、ボヘミア語普及の準備ができているとはいえない。 […] 至るところドイツ語が話され、誰もがウィーンに憧憬を抱いている。ゆえに、どこへいってもドイツ語の雑誌ばかりである。 […]


──1837年6月18日付、ヨゼフ・クラソスラフ・フメレンスキーによるフランチシェク・ラヂスラフ・チェラコフスキーへの書簡 

 さて、「ネイション」とカタカナで綴るのを避けんとすれば、「民族」または「国民」と適宜、訳し分けるしかない。各地のスラヴ系の人びとはそれを「ナーロト」とか「ナロード」とか呼んだ。中部ヨーロッパにおいては、その存在を保証するものは、第一には、その集団に特有の言語にあると信じられていた。そしてそれを可視化する装置の代表格が、レッシングの嚆矢をふまえた「ナツィオナールテアーター」ないし「ナーロドニー・ヂヴァドロ」、すなわち国民劇場であった。

 ボヘミア民族を創り出す運動は「ナーロドニー・オブロゼニー」などと呼ばれ、プラハに拠点を擁した。ヨゼフ・ドブロフスキーは『ドイツ語=ボヘミア語辞典』をものし、フランチシェク・パラツキーは民族の歴史を詳説して両言語で刊行を果たした。さらに、ボヘミア語が近代語として相応しい語彙や品位を備えていることの傍証ともなるように、諸科学の論文や、韻文に散文、その他あらゆる外国文献の翻訳が試みられた。ターム、シェヂヴィー、クリツペラ、シュティェパーネクなど無数の劇作家もこの文脈のなかでボヘミア語による戯曲をものし、また、フランスやドイツの例に倣って、作品の道徳性や上品さをつうじて、劇場にやってくる無知な民衆の蒙を啓き、模範的なナーロト構成員を創り出さんとした。そうして遂には、1881年に竣工をみたプラハの国民劇場によって、ボヘミア人というナーロトの存在することが、おおよそ疑う余地のないような自明のことと知らしむことに成功した。こうした活動に従事した知識人らは、オブロゼネツ、ブヂテルなどと呼ばれている。

 いっぽうモラヴィアでは、同様の動きも皆無ではなかったにせよ、運動と呼べるようなものまでには昇華されなかった。

 モラヴィアでは、すでに1770年代には、ボヘミア文化を情宣する件のオブロゼネツらが活動していた。クラーツェル、オヘーラル、シェンベラ、カンペリークといった活動家らがよく知られているところであるが、時代が下って1830年代までには、州都ブルノが、その活動の中心地となっていた。プラハにおける運動の盛り上がりとは様相を異にしていたものの、帝都ウィーンに間近であるという地理的な条件下では、ボヘミアと比しても政治・経済的に優位にあると思われていたドイツ系住民との対抗のなかで、モラヴィアのスラヴ系住民らは、けっきょくはナーロトとして「ボヘミア人(Češi)」という自己規定を採用していった。

 結果、名だたる政治家らが、自らはモラヴィアという土地に生まれながらも、政治的な決断をもって、最終的にモラヴィア人というのを存在しないことにした。

 たとえば、前出のパラツキーは、モラヴィア領シレジアのホトスラヴィツェ出身だが、フランクフルト・アム・マインで開催された憲法制定ドイツ国民議会への書簡において、自身がスラヴ系の「ボヘミア人」であると言明した(»Ich bin ein Böhme slawischen Stammes.« )。議会への招待状を出した側は、パラツキーがドイツ語を読み書き話すゆえ、ドイツ人であるとレッテルを貼っていたわけだ。この書簡から2年後に生まれたトマーシュ・ガリグ・マサリクにいたっては、スロヴァキア語を母語とする父とドイツ語を母語とする母という家庭に育ったためでもあろう、モラヴィアはホドニーンの出でありながら「チェコスロヴァキア人」なる立場を採用した。第一次世界大戦中には、これを用いて連合諸国において工作を展開する。戦後、はたして成立を見たチェコスロヴァキア共和国において、初代大統領におさまった。このとき出来上がった国家、通称「第一共和国」においては、このチェコスロヴァキア人が唯一の公式ナーロトとされ、モラヴィア人どころか、ボヘミア人もいわば存在しないのが建前となった。いわゆるチェコスロヴァキア主義である。

 こうした経緯にも拘わらず、いまもモラヴィア人のアイデンティティを有する人びとは、国勢調査によればごく少数の申告ながら存在する。中央政府を含む他者が別のレッテルを自身に貼ることを課そうとも、その火は消えないものなのだろう。現状では蓋然性に乏しいとはいえ、バスクカタルーニャスコットランドに見られたように、何かの拍子にその種火が大きく燃え上がらないともかぎらない。すでにスロヴァキアでそれは起こった。──モラヴィア民族の自己規定や独自の自治などを標榜する政党も現存し、一時は国政にも進出したものの、現在では基礎自治体をのぞけば議席を獲得するには至っていない党勢である。これについては、またいずれ書くかもしれない。

 ひるがえって、わが日本国では、明治の世からつづく文化的な画一化がよっぽど成功したと思しい。なんとはなし、SNSにみられた大坂なおみに対する感情的な反応にも、さもあらんという感がわく。たとえば戦時中の「非国民」への社会的制裁から、昨今の「不謹慎厨」や「自粛警察」の跳梁にも相通ずるような、共同体を愛するがゆえの自身の「りっぱな道徳観」を誇示して悦に入りつつ、そうした個人的な価値観によって他人の言動を封殺することが正義であるかのようにふるまう人びとの姿は、ただただ気味がわるい。どこかのオブロゼネツなのかと。

 とはいえ他方で、たんなる示威運動が暴動となり、略奪やヴァンダリズムを伴なったり、はてはテロルと化したり、また政争や外国勢力に利用されたりすることもまた、由々しきことにはちがいない。すくなくとも政治となると、われらはすでに、連歌で思いを交わすがごとき単純で平安な世界には暮らしていない。それゆえ、某SNSのような141文字づつのやりとりでは、安直なレッテルを貼り合うだけの罵倒の応酬に堕しがちである。

 ──だからみんな、長文のブログでも書いて頭冷やしてよといつも思う。写経がわりの精神安定剤にもなるかもしれない。このブログもその程度のものであるから、悪しからず。

 

*参照:

www.esquire.com