ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

トマーシュ・ガリグ・マサリク

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 2月23日は天皇誕生日であった。代替わりによって12月から祝日が移動し、令和のあたらしい歳時記が始まったことになるが、かつて昭和年間には4月であった。さかのぼれば文明開化の世に、さらなる国民の統合に資すべしなどという思いつきからはじまったものであろう、あらためて臣民一丸となって奉祝することが太政官布告によって定められた。このときの天長節が11月3日で、のち明治節、さらに文化の日と名を変えた。今では津々浦々の学校で文化祭が催されたりもするし、そういえば航空自衛隊入間基地の航空祭の開催もこの日で、まいとしブルーインパルス各機が秋の空にスモークの花を描く。

 さて、おなじ発想でゆくとチェコ共和国スロヴァキア共和国では、3月7日を「TGM節」すなわち「トマーシュ・ガリグ・マサリク節」とせねばなるまいが、そういった祝祭日はない。……またチェコスロヴァキアの記事になってしまうが。

 2020年2月、翌月のマサリク生誕170周年を祝う催しをつとに予告したのは、南ボヘミアにある人口100人強という小規模な自治体・ウゼニツェである。来歴はわからないが、1938年以来の御影石によるマサリクの碑があり、つつましいものであったことも幸いしてか、保護領の時代にも共産党の時代にも撤去されず今に伝わるという。なるほどプラハ城の正面をはじめ、現在チェコの各地に見られる大柄なマサリク像の類は、ほとんどビロード革命後に建ったものであるから「どうぞ大切になすってください」とは言いたくなる。だが、ほかの地域にマサリクに関連した企画展の報道は散見されるものの、超党派で記念日の創設を検討、などという気配はない。チェコスロヴァキアはすでに滅びたのだから。

 マサリクは第一次世界大戦が起こると、娘オルガの療養という名目で官憲の手を逃れ、国家反逆罪に問われながらも世界を行脚した。ハプスブルク君主政を廃して独立した共和制国家を築くことの有用性と必要性を、列強に説いて回ったのだった。1918年4月には下関から東京にはいったが、大日本帝国のおもてなしは素気無く、病気の外務大臣に代わって次官代理が面会した。林忠行によれば、「マサリック博士」とは「チェッヒ民族の統一」を企てるも果たせず漂浪する「プラーグ大学教授」である──という紹介から始まる記事によって『東京朝日新聞』も報じている。前年にはロンドンで日本の外交官とも接触したようだが、日本の外務省は呑気であった。「チェッコ人て一体何だい? 『プロフェサー』はボヘミヤ人だって君は紹介したじゃないか」と本多が聞き返すと、スティードは「ボヘミヤが即ちチェッコなんだ。君はチェッコの独立運動を知らないのかい。外交官なのに案外時世にうといね」(林忠行:1993)。といっても、ひとり日本のみならず、当時の世界でこの事案を知るものは少なかった。それだから、知名度を上げるための行脚が必要だった。

 ここで早くも、「ボヘミヤ」なのか「チェッコ」なのかという問いが生じている。とまれ「ボヘミア人」というときでも、マサリクにとってそれはスロヴァキアをも包摂した「チェコスロヴァキア人」を意味していたことが、のちの歴史を通じて明らかになってゆく。生まれも育ちもコスモポリタンの環境にあったから、高度に政治的な選択とはいえ「チェコスロヴァキア主義」とはマサリクにとってごく自然な発想であったにちがいない。

 トマーシュ・マサリクは1850年モラヴィアのホドニーンに生まれた。このスロヴァーツコという地方は「モラヴィア・スロヴァキア」と訳されてしまうと誤解を招く表現ともなるが、マサリクに関しては、この名称がなにかその出自をよく表しているようにも思える。マサリクは、スロヴァキア人とドイツ化したモラヴィア人のあいだに生まれたからだ。つまり、父はスロヴァキア語を、母はドイツ語を話した。このあたりは、カレル・チャペクの聞き取りに応えるかたちで本人が語っている。のち、ドイツ語話者が人口の2/3を占めていたというブルノ市内のドイツ系古典学校に進学し、ウィーン大学で主要な教育を受け、けっきょくプラハの大学に職を得ることになった。

 マサリクは、ときに偏執的ともみえる偏狭なボヘミア人のナショナリズム運動を嫌っていた。このいわゆる「チェク・ナショナリズム」は、素朴な愛郷主義とは異なり、すべてのドイツ人への盲目的な憎悪にもとづいて成立していた一方、返す刀でユダヤにたいする嫌悪をも膨らませていた。中世のむかしから伝わるとされ、そのじつ偽造された手稿が「発見」された際や、あるいはユダヤヒルスネルに迷信じみた儀式殺人の嫌疑がかけられた際に、マサリクの張った論陣はよく知られている。社会科学の人らしく、公明正大かつ現実的なアプローチを愛した。1900年にマサリクが設立した政党が「リアリスト党」の異名をとったのも象徴的である。行き掛かり上「チェコスロヴァキア主義」に辿り着きはしたが、マサリクが目指していたのはそもそも、オーストリア=ハンガリーの枠組みを残したうえでの小民族の連合体であって、世界行脚の最中に成った1918年の自著にもそう書かれている。しかし、この「指し値注文」にも拘わらず「成り行き」で売買を約定させてしまったのが、リアリスト・マサリクの面目躍如といったところだろう。けっきょく「チェコスロヴァキア民族」による共和国が成立し初代大統領におさまると、実質的には多民族国家であったチェコスロヴァキアを、持ち前のバランス感覚で治めてゆく。

 マサリクが、共産体制下にて腫れ物に触るようにタブー視されたのも無理はなく、ようやく復権するのはビロード革命の後。憲章77のハヴェル大統領が評価していたこととも無関係ではない。しかし、マサリクの理念がひとつの源流となった欧州統合の奔流が、スロヴァキア独立の背中を押したのも、自然かつ皮肉なことではあった。チェコスロヴァキア主義者の影響力もそこまでで、後継のクラウス大統領はどうやら、マサリクとその欧州統合の着想をEUともども十把一絡げに嫌っていたようだった。のちゼマン大統領もバビシュ首相も反移民・難民の立場で、メディアではたびたびEUにたいする懐疑的な態度も報じられている。たぶんマサリクが毛嫌いするタイプだ。あらたな帝国主義の時代に、ショーヴィニスムとポピュリズムだけが世界の政治のなかで存在感を増している。

マサリクとの対話―哲人大統領の生涯と思想

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