ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

西ボヘミアの醜聞

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photo by Daniel Kirsch

 亡くなったマラドーナは、ピッチにあがるたびに十字を切っていたのが印象に残っている。乱暴な仮説だが、カトリック諸国のサッカーは、ドイツやイングランドとはやはり一味ちがうのかもしれない。おしなべて「母ちゃん」が強い国々で、それが聖母マリア信仰から来ていると措定するのは安直に過ぎるだろうか。おおかた母に褒められるためにボールを蹴りはじめ、長じてクラブにスカウトされるなどすれば、街路や村を出てスター選手への道がひらける。一種のラテンアメリカン・ドリームか。プロ選手になってからも、試合のたびにその母ちゃんを筆頭に一族郎党が応援しにやってきては、お祭り騒ぎをくりひろげる。

 旧共産圏には旧ユーゴスラヴィア諸国のような強国もあれど、無神論サッカーはまた筋が違う。いまは正教会サッカーといったほうがよい国もあるだろうか。ここでは、かつてのソ連の衛星国であった中東欧を指している。つまりは、冷戦が終わって、近隣にブンデスリーガセリエAプレミアリーグリーガ・エスパニョーラが降って湧いた国々だ。けっきょくは資金のあるクラブが国境を越えて優秀な選手をひっぱっていってしまうから、どうしてもスポンサーの細い国のリーグは不利である。くわえて、汚職もはびこる。袖の下など顕在化しなくとも、ほうぼうの酒場では目のさといファンが噂している──この試合もどうせスパルタが勝つんだろ、そういうことになってるんだ。どうしてだろうな、え? ほんとにつまんねえよな……。身銭を賭けていれば、なおさら鋭い視線を試合に向けることになるから、人びとを騙すのは至難である。

 さて、マラドーナからこういう自由連想に至ったのは、さいきんのボヘミア西部からの報道とも関係がある。

 先月なかば、チェコ共和国サッカー協会(FAČR)の副会長を筆頭に、審判員など総勢20人が逮捕されたという報道があった。プルゼニュ地区のサッカー協会において、大規模な審判員の買収があったとされ、また同副会長には協会の資金を横領した嫌疑もかけられている。折しも、欧州選手権の予選スケジュールが着々と進行するなかでのニュースであった。

 そのロマン・ベルブル副会長というのは、地元プルゼニュのひとで、元警察官。一時期は国家保安部(StB)の防諜部門にも在籍していたと報じられている。その後、サッカー協会の審判員に転じたことになる。欧州サッカーの審判にはどういうわけか警官や元警官が多いから、警察時代の職階がのちのちまで人間関係に影響を及ぼし、それが頭角を現すきっかけになったのではないかと推測する。けっきょく直近では、チェコ・サッカー界の「ゴッドファーザー」とも目されていた。

 試合の判定に不当に関与していた疑いについては、然もありなん。以前から囁かれてはいた。それがここにきて公共放送の取材からも、複数の関係者を巻き込んでのやらせ判定が具体的に明らかになっている。国外のオンライン・ブックメーカーやマフィアとの関係はまだ判然とはしないものの、何らかの関係があったことが推定されており、おぼろげながらサッカー界全体への影響力の行使の形が見えてきている。いまおもえば、数年前に事情通による内部告発のていで、協会の「マフィア的運営」が非難されたこともあったのだ。

 さらに横領の容疑が棟梁の逮捕後に出てきた。とはいえ、当局は過去2カ年にわたって個人資産を捜査していたというから、証拠がそうとう固まっているらしいことはわかる。タックス・ヘイヴンとして知られるセーシェル諸島に登記上所在する会社「ルガス・コーポレーション」をつうじて、事業ないし資産を管理していたという情報も報じられている。ひょっとすると、5年ほど前に話題になった「パナマ文書」に関連した筋のリークもあったのかもしれない。

 ああ、やっぱりな、チェコだし、サッカー協会だし、元警官だし──と断じてしまうのは気が早い。裁判官が有罪といっていない以上、推定無罪の原則に反する。にも拘わらず、なかんづくタブロイド紙などが不動産などの個人的な資産をリストアップして報じるなどしているわけであるが、これは私刑にちかい。

 しかしながら、ありふれた疑獄事件と異なるのは、市民にひろく被害意識が共有されている点であろう。といっても、賭け事をたしなむ層のみではあるが。昨2019年にチェコ共和国の国民がギャンブルに費やした額は3892億コルナにのぼり、そのうち「スポーツくじ」を含む「ロテリイェ」と呼ばれるカテゴリーでは約166億コルナ、日本円にしてざっと800億円ほどになるという。単純比較はできないとしても、日本のtotoやBIGといったスポーツくじに関して「令和元年度売上」が「約938億円」であったと発表されていることに鑑みれば、かなりの額ではないだろうか。この層が憤っていればこそ、報道の過熱は避けられない。いかさまではないかと、うすうす訝っていた競技に身銭をむしられ、そのうえ横領ときいては、腹の虫もおさまるまい。

 疫禍の現状にあって、世界では無観客による試合がおこなわれることが多い。忘れがちではあるがこれは、観客が主催者側を完全に信頼していることが前提にあり、その信頼のみに拠って成立している興行スタイルである。それだから仮に、選手や審判らをはじめ、放送にたずさわる関係者の全員が結託していたらば、どうなるのか。ヴィデオ判定(VAR)すら、おおよそデジタル技術によってどうとでも加工できる世である。極端な話をすれば、映像スペクタクルによって、大がかりな賭け銭の詐取も理論上は可能となろう。ちょうど、映画『スティング』で描かれたような犯行だが、遠隔でやるのだから容易いはずである。そうなったら最後、無神論サッカーの面目躍如だ。マラドーナが奉じた神はそもそも不在であり、くわえて現場に証人もいないときている。担がれたと勘づいた視聴者がいたとしても、ブーイングによる弾劾はこれまで同様、津々浦々のバーやお茶の間でむなしく響くのみである。

 ゴッドファーザー本人と逮捕された審判員らがじかに関与していたと疑われるのが2部や3部のリーグであることも、慰みにはなるまい。実際のところは、わかりゃしない。それだけに、ことはサッカー協会の信用問題に関わっている。むろん協会としては、これを背任として告発できないか検討中で、12月8日に開催される会合で決定される見込みと伝わっている。

 さて余談だが、そんな八百長にまみれたチェコ共和国のサッカーがひときわつまらなかった時代に、何度か観戦に行ったことがある。最初はよく覚えている。当時、留学で同国ブルノ市に滞在していた知己が誘ってくれたのだった。モラヴィア近代史の大家といえども、留学当初の言語の学習に明け暮れていた時期には、スポーツ観戦が無上の息抜きになりえたのではないか。ルールさえ知っていれば、言葉がいらないからだ。じっさい、よく応援に通っていたらしく、スタジアムにも慣れているふうであった。かといって、こちらには先入観があったので気が進まなかったが、けっきょくお供することにした。──結論からいえば、愉しかった。

 ブルノのクラブ・チームは当時、束の間のスポンサーだった建設会社の名を冠し「スタヴォ・アルティケル・ブルノ」と呼ばれていた。現在の「FCズブロヨフカ・ブルノ」である。閑散としたスタンドに、けっして多くはないが熱心なサポーターが前のほうで興奮した表情で声援を送っている。ピッチをみれば、経験豊富なカドレツや、若いパツァンダといった巧みな選手たちが、よく動いていた。

 ミロスラフ・カドレツというのはすでに選手としての峠は越えていたのかもしれないが、チェコスロヴァキア社会主義共和国時代からの代表選手で、1990年代にはブンデスリーガで幾度か優勝したカイザースラオテルンで活躍していた。ミラン・パツァンダのほうも卓越したフォーワードとして定評を得ており、のち件のスパルタに移籍して優勝も経験することになる。

 ボビ・ツェントルムというスタジアムも改修される前で、いまひとつぱっとしなかった。けれどもそれがまた、小学生の時分に「読売クラブ」の試合を観に行った、地方のグラウンドを髣髴とさせるような寂れ具合で、ぎゃくに好ましく思えた。やがて「読売ク」が「ヴェルディ川崎」になり、「東京ヴ」へと変遷していったように、Jリーグ発足から日本のサッカーが商業化に成功して爾後、環境が変化しつづけていったことを認識させられる。が、あの時はたんにノスタルジーに浸っただけだったのかもしれない。

 いずれせよ、決闘には証人の立ち会いが不可欠である。神がいても、いなくても。そして証人を務めることは、中継映像の画面を眺めることとは決定的に異なる。なにより愉しい。これを期に業界の膿も一掃され、ついでに感染症も撲滅され、できるだけ早くスタジアムに証人たる観衆が戻ることを願ってやまない。 

 

 

マラドーナ急逝

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photo by Jack Hunter

 『キャプテン翼』のノリにはちょっとついていけない、ひねくれた子どもだった。それでも、1986年のメキシコ大会におけるアルゼンチン対イングランドの一戦は、録画してくりかえし観たものだった。実況担当は、NHKの山本浩アナウンサー。いい声だった。練習で履くサッカー・シューズにしても、アシックスではなくプーマのをねだったのは、どうしてもマラドーナと同じでなくてはならなかったからだと思う。

 各地で追悼が行なわれたが、たまたま見たニュース番組の画面で紹介されたのは、欧州チャンピオンズ・リーグからのひとこまだった。試合開始直前のセンター・サークルの線上に並んで黙祷を捧げたのは、たとえばアトレティコ・デ・マドリとロコモチフ・マスクヴァの選手たちであった。夜のとばりのなか、無観客のスタジアムにマラドーナの遺影が映し出され、短い告別式を済ませたかのようであった。

 訃報に接し、さまざまな競技関係者がインタヴューに応えて、めいめいの秘話を開陳している。現役選手ばかりではなかった。リネカー、奥寺、木村和司、ラモス……なつかしい面々もインタヴューというかたちで、種々の媒体に登場した。

 なかんづくその世代と思しいユーザーのツイートを眺めると、はげしい信仰告白を聞いている心持ちになる。かといって、若いサッカーのファンもマイクを向けられれば、ひととおりの所感を述べられるくらい「レジェンド」については勉強している。神となって久しかった。

 3日間にわたって全国民が喪に服すと発表があったアルゼンチンにとっては、やはりあのイングランド戦がマラドーナを英雄たらしめたにちがいなかった。なにしろ、フォークランド紛争での敗北からまだ4年しか経っていなかったのだ。しかし、一国の英雄という枠をこえて、世界の神となったのはやはり、サッカーという競技の為せる業であろう。あの後、速くて巧みなドリブラーを止めるべく、ゾーン・ディフェンス等の戦術が発達したともいわれる。といっても「五人抜き」や「神の手」を成したからというだけで、マラドーナマラドーナになったわけではない。

 ディエゴ・マラドーナは、たんなる優秀なサッカー選手ではなかった。さまざまな言説でも観衆を魅了した──と書いたのは、『新ツューリヒ新聞』である。つづけて、マラドーナによるもっとも伝説的な金言として引用したのは、以下のものである。「ペナルティエリアまで来てシュートを打たないのは、妹とダンスするようなものだ」

 スイスで大会招致をめぐる汚職疑惑が噴出したとき、マラドーナから「ざまあみろだ」と言われたFIFAであるが、そのサイトまでもが、かつてはマラドーナの「箴言」に関する記事を載せていたくらいである。ほかにも世界中のメディアがそれぞれの言語で、似たような記事を配信している。為人を偲ばせるので、拙訳とは言い条あまりにもつたないが、いくつか引いてみよう。ただし、主にドイツ語メディアからの重訳。

「第一の夢はW杯に出ること。第二の夢はW杯で優勝すること」
──マラドーナによる最初のカメラのまえでの発言。当時12歳。

「まさに俺はカベシータ・ネグラ[アルゼンチンにおける下層労働者階級ないし貧民層の蔑称]さ。そしてそれを誇りにしている。自分の出自を否定したことはない」
──自身の出自についての古典的な発言。

「俺が恵まれているのは、神様の思し召しがあったればこそだ。神は俺が上手くプレイするようにお取り計らいになった。すでに生まれたときに能力をお授けになった。だからこそピッチにはいるたびに十字を切るんだ。そうしなけりゃ神を裏切ることになる。」
──信仰について。

「あのゴールについては永遠に悦びを感じるだろう。イングランドから手で獲得したゴールだ。あれに関してイングランドの選手には、衷心から千回だってお許しを乞うよ。でも何回でもやるだろうね」
──1986年W杯準々決勝における最初のゴール、いわゆる「神の手」について。 

「貧困はよくない。つらい。よく知っている。多くを望んだとしても、夢を見るほかない。世界にもっと正義があったらいいのにと思う。多くを持てる者がすこしだけ少なく、持たざる者がすこしだけ多く持てるように」
──貧困のうちに育ったことに関して。

「サッカー選手として、自分自身とファンをしあわせにしようとしてきた。サッカーは世界でもっともうつくしく健全な競技だ。たしかに俺は過ちも犯し、それを償いもした。しかしサッカーはそれによって毀損されはしないし、何ぴとも瀆すことはできないんだ……」

──2001年11月、自身の引退試合に際して、ファンへのメッセージ。 

「狂気というのは怖ろしいものだ。クリニックでは 『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンになったかのように感じた……。自分がロビンソン・クルーソーだと思い込んでいた男はいたが、俺がマラドーナであることは誰ひとり信じなかった」
──精神科医院について。

「ペレがベートーヴェンだとすれば、俺はサッカーにおけるロン・ウッドであり、キース・リチャーズであり、ボノである。というのも、俺はサッカーの情熱という側面を体現しているからだ」
──ペレと自身について。

「ペレなんか博物館に飾っておけ」
──代表監督への就任について、財政難だったからだろうと言われて。

  もうひとりの「神様」たるペレとのやりとりも、あちこちに記述がある。神どうしの対話にしては、人間くさい。複雑な感情は抱いていたにちがいないとはいえ、さほど深刻なものではなかったのではあるまいか。そう思わせる、コミカルな要素がある。最晩年には、よき友人に戻っていた。そのペレとて「私は偉大な友人を亡い、世界はレジェンドを亡った」「いつの日か、天のボールで一緒にプレイできることを願っている」とツイートしている。 

マラドーナ

マラドーナ

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*「五人抜き」や「神の手」などの動画:

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*参照:

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すみれの色とドーベルマン

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photo by Jordan Whitt

 またチェコ語の話になる。相手が誰であったのかもう忘れたが、紫色の(purpurová)服かなにかを褒めたら、「これは紫ではなくて菫色だ(fialová)」と怒られたことがある。そのときから漠然と、チェコ語の文化において紫色は否定的、菫色は肯定的な意味合いをもっているのだと勝手に思い込んでいた。

 異文化コミューニケイションというと、行動様式の差異に目がゆきがちである。しかし、たとえば色彩については、呼び名だけでなく、それぞれの概念も文化によって異なるから、意外にやっかいなものである。文化によって認識される色数が異なるという、虹に関する色彩心理についてはよく知られているところでもある。とくに片方に認識がない色について互いに議論が噛み合わないとしても、それは自然なことであろう。とはいえ、ことさら似通った色合いを峻別せねばならないのは、地域や言語間の文化の差というよりも、ジェンダー間の文化の差かもしれない。とくに服飾のばあいは。

 いっぱんに紫のほうが赤みがつよく、菫は青みがつよいといわれてはいる。あれこれ辞書をひっくり返してみれば、purpurový(紫色の)の語源は、ラテン語の染料の名purpuraで、名詞のpurpurはドイツ語のPurpurと同形の借用語。英語のpurpleなどと同様に、起源は古代ギリシアにさかのぼる。いっぽうfialový(菫色の)はすこし込み入っている。スミレの類をよぶ俗称たるfialaがもとではあるが、植物として厳密には指小形のfialkaが該当するらしい。おそらくドイツ語でも指小辞のついたVeilchenから来ている。これも英語のviolet同様に、ラテン語のviolaに由来する。

 どちらの色が上位概念であるかということも、文化によって異なってもいる。古来より、巻貝からとられる件の染料が高価であったがために、いずれも高貴な色とみなされた。ローマの皇帝が纏っていたののが紫色のトーガであり、いっぽうカトリックの司教や大司教が着用するのが菫色の法衣とされている。スペクトラムの説明は手に余るが、光学的には菫色のほうが基本とされる。それかあらぬかヨーロッパ諸語の文化ではけだし一般に、菫色のほうがおおきい概念で、紫色とは「菫色の一種」として扱われることになる。いっぽう日本では植物のムラサキの根が染料にされ、やはり高貴な色として扱われたところから、紫色のほうがおおきな概念とされる傾向が残っているのかもしれない。そういえば、先月はじめ訃報がつたわった筒美京平の楽曲に「セクシャルバイオレットNo.1」というのがあったけれど、つまりあれは菫色が一番ということだろうか。ならば二番は紫であるに違いないが、これは日本語の文化では例外的な序列といえよう。

 さて、くだらぬ話に逸れたが、あっと思ったのは、先ごろチェコ共和国政府が導入した「チェコ共和国防疫指標」とでも訳そうか「Protiepidemický systém ČR」、通称"PES"を見たときであった。これはありていにいえば、感染症流行の深刻度の度合いを段階分けした警戒情報の提供方式である。同国ではそれ以前の仕組みが不評で、新たに客観的で明瞭な枠組みの策定がまちのぞまれていた。新たな方式では、日ごとの感染者数など、じっさいの疫学的状況が同国立の健康情報・統計研究所での解析を経て、0から100までの数値化されたリスクたる「スコア」として開示され、5段階の水準に分類される。これは日本での同種の指標における「ステージ」に相当するのであろうが、それぞれの局面ごとに、行政府が対処するための規制や措置、たとえば再開が許可される業種や社会活動、参集が許される人数などが明確に規定されているのである。とはいえ、こうしたもの自体は今どきの世界ではめずらしくもないだろう。

 すこしくユニークな点といえば、保健省の特設ページには、ドーベルマンかなにかの犬の頭部がイラストで描かれており、その漫画的な表情から機嫌の良し悪しが示され、それに応じた注意を喚起しているところか。喰いしばった歯をみせて、唸り声をあげているかのように見える横顔のときは、最大限の警戒を要する状況であろうことは一目瞭然で、子どもにもわかり易い。"pes"というのはチェコ語でイヌを総称する語であって、これに由来していると想像がつく。

 そしてここで、色分けについて注意が向かったのである。5段階の分類のうち、5番目がもっとも深刻であるところは、たとえば日本の防災気象情報と同様である。もっとも低い段階1から、緑、黄、橙、赤、菫……と五色が割り振られているが、おや、と思ったのはそこであって、紫(purpurový)かと思いきや、菫(fialový)となっていた点である。この不吉な色として用いられたスミレをみて、長年の思い込みに気がついた次第であった。──ただ、紋章学の書籍を参照してみると、菫色の象意とするところに悔恨、後悔、懺悔というような語彙があり、後ろ向きでありながら、文脈によっては善行や美徳にもなりうるような両義的なニュアンスが感ぜられる。不確かさや、ひいては不安を連想させることに対応するのかも知れない。

 このPESなる仕組みは、せんじつ就任からひと月ほどで辞任してしまった、プリムラ前保健大臣の置き土産とも言われている。だいぶ時間をかけて練られたものらしい。土地の文化ではこういうときに一般的な菫色を用いるのが自然なのであろうが、警報の心理的インパクトを高めながらも、それでもなるべくウイルスにたいする際限のない不安を煽ることがないようにと、熟慮のすえ色が充てられたのではあるまいか。日本の気象庁の警報では、紫色の「警戒レベル4相当」のうえに、黒色が用いられた「警戒レベル5相当」というのがある。土砂崩れや内水氾濫であれば即死の犠牲も発生しうるから、そうした場合ならば黒という配色も妥当にも思えるが、今般の場合には相応しくない気がする。

 それにしても、ドーベルマンのイラストとは素朴ではあるけれど、なかなか気が利いているとは感じた。とりわけ犬好きの人びとである。緊急事態宣言に定められた時間を区切った夜間の外出禁止の規則でも、犬の散歩だけは例外扱いで認められていた。散歩というよりは、むろん排泄のつごうであろうが、犬自身としてはそこは区別して考えていまい。ひるがえって、あれだけ「ゆるキャラ」のすきな日本の行政が例えば「アマビエくん警戒レベル」みたいな尺度を制定しなかったことは、いっけん不思議なことにも思える。

 いずれにせよ、これをどう意識するか、あるいはしないかは、市井の人びと次第である。というのも、風邪とインフルエンザと肺炎との区別がつかぬわけでもあるまいが、学があっても、COVIDなどは迷信にすぎぬと嘯いている輩はよくいるのだ。それはそれで構わないけれど、医療現場へ協力する意思があるかないかの問題ともおそらく捉えていない。とりわけ自営業者には多そうだが、営業規制によって生存を脅かされている立場とすれば、それもわかる。このあたりの心理は、レオン・フェスティンガーの認知的不協和理論を思い浮かべれば説明できそうで、陰謀論にも流行る道理がある。とりわけこうした立場の市民に、種々の規制が妥当なものであることをできるだけ納得してもらおうというのが、明快な情報開示の仕組みを整えた目的のうちの主眼であろう。それに足るものかどうかはわからないが。

 昨週の末まで、保健省の当該ページでは、あのドーベルマンが唸り、共和国全土の地図が菫色にそまっていた。この「ステージ5」にあって、飲食店はカウンターや窓越しに品を手渡す形式のみ、公共の場でのアルコール飲料の消費は禁止され、21時以降の外出すら禁じられていた。いまは水準は赤色に下がり、緊張した犬の横顔も臨戦態勢からはやや後退した表情をみせる。人びとの生活においても、もっとも苛烈な規制は解かれる運びではあるにせよ、緊急事態宣言の効力は来月12日までに延長されている。灰色の冬である。

セクシャルバイオレット No.1

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  • 発売日: 2014/04/01
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ビロード革命の記念日

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photo by S. Hermann & F. Richter

今年の記念日

 チェコ語の11月、"listopad"とは「落葉月」である旨、まえに書いたが、現代では文脈によって「ビロード革命」を意味することがある。典型的には、"polistopadový"(ポスト11月の)という形容詞として「ビロード革命後の」社会なり政治なりに言及される文章で目にする。

 11月17日が記念日で、チェコ共和国では祝日であった。全国で催しがあったが、疫禍の年に例年どおりというわけにはいかず、どこも規模が縮小されていた。

 主たる舞台のひとつとなったプラハのナーロドニー・トゥシーダ(国民劇場のある目抜き通り)ではまいとし、全体主義の犠牲者へ献花や蝋燭による献灯など行われるのが慣いとなっている。そして今年も政治家はおのおの、カメラのまえで所感を述べた。たとえば、海賊党のイヴァン・バルトシュ代表などは、31年前にはじめられた西欧型民主政治へ向けての変革を成就させなければならないとコメントした、と伝わっている。誇張のない現状認識として、これが今年は優勝か。首相のアンドレイ・バビシュは、感染症対策にからめて、革命でかちとった自由の価値について触れた。展望は上々であるとしたが、政府のせいで不自由な生活を強いられていると感ずる市民の神経を逆撫でしない保証はない。

 いっぽう共和国大統領ミロシュ・ゼマンといえば、さいきん外観からして満身創痍のていで痛いたしいのだが、事前の発表どおり、献花には現れなかった。かわりにこの日、いつものように秘書官名義のTwitterアカウントにひとこと投稿させたようである。「全体主義共産主義にかぎられない。全体主義とはもっと一般的な概念である。そして全体主義はつねに検閲をともなうものだ」と、よりによってこの日に、またぞろ共産党を擁護していると非難されかねない言辞を弄していたのは、さすがである。つきぬけている。

 ちなみに現共和国における三人の歴代大統領のなかで、もっとも不人気らしいという調査結果も出来していたが、これはいわずもがなであろう。なんだかんだいっても、初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルがいちばんよかったというひとが多かったものとみえ、30年を超えた「ポスト11月」期の時間を経てなお、ビロード革命の栄光に彩られた記憶が人びとのなかで色褪せていない証左ではないかとも思われた。いや、むろん他二名が横柄な印象で嫌われすぎていることがおおきいのであろうが。

 

「マルタの祈り」

 1989年当時、日本では多くのひとが報道番組に首っぴきだった。その中継された映像の裏では、日本人ないし日系人らも徒党を組んでいた。そのうちのひとりなど現在では、おなじ土地の極右ポピュリスト政党を率いて、直接民主制の導入を主張しているわけであるが、個人的な一回の体験から民主政治のひとつの側面に過大な意味を見いだしてしまったものか。近年ではチェコ共和国でもハンガリーポーランドでと同様に、危機感をあおる政治手法が確立されてしまった。ドミノ倒しにも喩えられた東欧革命の経験を共有する国がおしなべて、こんにち政治情勢において一部に似かよった傾向を示しているのも興味ぶかい。

 革命の歌と目された大衆音楽があったことも、報道を通じて日本でも知られるようになった。NHKによって2000年に制作された『世紀を刻んだ歌、ヘイ・ジュード──革命のシンボルになった名曲──』という番組は、ご存知の向きも多いだろう。人気があるのか、その後もたびたび放送されているからだ。チェコスロヴァキアの国民的な歌手、マルタ・クビショヴァーを中心に構成された、回顧的なドキュメンタリーである。音楽活動を封じられた正常化時代の不遇から、ビロード革命さなかの群衆をまえにした絶唱による復活までを描いていた。初回の放映のときは当のチェコ共和国にいたのだが、そのころクビショヴァーはもう歌手としてよりも、各地の愛玩犬を紹介する番組の司会者として現地では親しまれている、と若い友人は語っていた。それも何度か観たけれど、犬の扱いはたしかに堂に入っていた。番組じたいはいまも存続しているものの、クビショヴァーが出演することはなくなった──と思うが、そこはちょっとわからない。

 その楽曲「マルタのための祈り」をことし、象徴的な時刻である17時11分に国民劇場のバルコニーで詠じたのは、アネタ・ランゲロヴァーであった。2004年のオーディション番組からデビューした歌手で、革命のときは3歳になったかならないかくらいだった。そういえば件のオーディション番組も、当時たまたまリアルタイムで観ていた。いまや中継映像をオンラインで視聴できるようになったのには隔世の感があるが、こんかい接続環境が不安定だったものか、歌も音声が途切れがちでなんだかよくわからなかった。ダイヤルアップ接続の時代を思い出させられた。

 ちょうど同じ頃、そこへはまた、政府の「ロックダウン」措置に抗議するデモ隊が向かっていたはずであった。革命の精神はいまも健在とみえる。いっしょに国歌を斉唱することを企図していたようであったけれど、それもどうなったのかは知る由もない。「政府はウイルスより無能だ」とか、「いも掘りじゃなくて、学校へ行かせろ」とか、「国はロックフェラー財団の計画を遂行中」とか、なかなかに面白いセンスのプラカートを掲げていたようだ。なにより平和的で、革命に発展する可能性は皆無と思われた。

 

そもそも──1939年と1989年

 さて改めて、そもそも11月17日、すなわちチェコ共和国における「自由と民主政をもとめる闘争の日」とは、端的には1989年のビロード革命を記念する日である。この日はもともと第三帝国の蛮行を糾弾する目的で「国際学生の日」とされており、このための集会がのちに革命と呼ばれる事件に発展した。それだから、こんにち祝日の名称としては、当該の学生の日も併記されている。すべての因縁をひっくるめて、全体主義の犠牲者を悼む日とされている。

 さきごろ、チェコスロヴァキア国家の成立した記念日たる10月28日に、あるひとがSNSでアンケートをしていた。問いは「10月28日と11月17日のうち、あなたにとって重要なのはどちらですか」というようなものであったが、8割がたが後者、すなわち11月の共産体制からの解放の日を選択していたように思う。むろん、1918年の建国を記念する日と、1989年の革命を記念する日では、とうぜん後者のほうが身近ではあろう。自身で行動したというひとも母集団のなかに多かったはずなのだから。とまれ、両の日付けは、分かちがたくむすびついている。

 時はチェコスロヴァキア建国21周年をむかえた、1939年10月28日のことであった。ドイツ第三帝国保護領であったボヘミアプラハでデモが起こり、官憲の鎮圧によって重傷を負った医学生が、およそ2週間にわたる治療もむなしく、落命した。オロモウツ近郊の出身、ヤン・オプレタルといって、24歳の若さであった。モラヴィアへと送られる柩をみおくる参列者から、占領者にたいする抗議デモが発生し、やがて数千人の参加者と官憲がふたたび衝突した。これを受けて、アードルフ・ヒトラーは3年間の大学閉鎖と9名の学生組織の代表者の処刑を決定し、同時に多数の学生を逮捕して収容所に送った。11月16日から17日にかけてのことである。

 英国に在ったチェコスロヴァキア人部隊のなかで、ナツィの残虐行為を記念するというアイディアが生じたのは翌年のことであった。1941年には在ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府の後援のもと、あらたな学生組織を創建してしまう。そこで、占領に抗議の声をあげた学生らを記念した宣言文を起草し、最終的に14か国の代表から署名を得たという。──こうして、もともと反ナツィのプロパガンダとして生まれた「学生の日」が、半世紀後には反共の日になるのだから、皮肉なものである。

Songy A Balady

Songy A Balady

  • 発売日: 2018/05/29
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*参照:

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マサリク・サーキットの危機?

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photo by Jiří Rotrekl

 エリシュカ・ユンコヴァー(1900-1994)といえば、初期モータースポーツにおいて名を残した、チェコスロヴァキアの女性ドライヴァーであった。2020年11月16日にGoogleの記念のロゴ“Doodle”に採用されたらしく、生誕120周年を迎えたことは、それではじめて知った。

 1900年の同日、オーストリア=ハンガリー帝国の領邦モラヴィアオロモウツに生まれた。学校で簿記やドイツ語を学んだことで、齢16から銀行づとめをはじめ、そこでのちの夫に出逢ったのがレースとの邂逅でもあったらしい。1928年7月15日、夫のチェニェク・ユネクとともに出場したドイツ大会、ニュルブルクリンク・サーキットで事故に遭う。助手席に乗っていたエリシュカは軽傷で済んだが、夫は頭部に重傷を負い、死去した。このあたりは、こんにち「Wikiなんとか」にも書いてある。

 思い出したのは、おなじモラヴィアでもブルノ市郊外に在る「マサリク・サーキット」であり、それにまつわる昨今の報道である。

 というのも、エリシュカは夫を亡くすと、レースのほうは引退してしまったが、くだんのマサリク・サーキットの開設に力をつくしたのだった。因縁のニュルブルクリンクを参考に、チェコスロヴァキア初の本格的サーキットの建設を主導したのである。1929年に、大統領マサリクは自らの名を冠することを承諾し、建設費の600万チェコスロヴァキア・コルナは、けっきょく大統領府が後援することになった。現在でも、主に二輪車の競技に使用されており、とりわけロードレース世界選手権("MotoGP"と全クラスを俗に総称)のチェコGPの会場となっている。1990年代以降は、毎年のように日本人選手も出場し、いくども優勝の栄誉に輝いている。

 2000年前後のことになるが、「ブルノ」の名を聞いたのは、テューリンゲンの大学町の医師からであった。周囲に訊けば、共産圏では珍しかった本格的なサーキットを擁し、そのため旧東ドイツではよく知られた町なのだ、と。それだから、ブルノの側でも一定以上の世代になると、サーキットを町の誇りとしているひともある。

 ところが先日、来年度の世界選手権のスケジュールに記載できない状態がつづいると、報道があったのだ。路面の状態がわるく、安全を保証できないためだ、とはプロモーターの言である。老朽化のためであろう、補修は喫緊の課題であった。つきつめると、ひとえに予算の問題である。路面の事情が改善をみれば、8月上旬開催の枠でまだ登録申請できると、大会主催者側は述べていたのだが。

 そのころ、南モラヴィア県のボフミル・シメク知事は10月の選挙結果を受けて、間もなくの退任が決まっていた。そのため、ブルノ市長のマルケータ・ヴァニュコヴァーに対応を委ねた。ところが、同市長と先週あらたに就任したヤン・グロリフ知事は、別の問題に直面したようである。すなわち、補修の費用を拠出するかしないかという問題とともに、サーキットを会場登録するための費用の問題が横たわっていた。開催が危ぶまれる所以である。

 折しも当年は5年契約の更新が予定され、登録料というのか、1億2000万コルナの費用が見込まれていた。とはいっても、ご案内のとおり、世界中が催し物をとりやめたり、縮小せざるを得ない疫禍の年である。そこで主催団体の代表者は納める額について、今年度のみ無観客で開催して100万ユーロ(約2700万コルナ)とし、来年度は観客をいれて600万ユーロ(約1億6200万コルナ)とすることで、ロードレース世界選手権の諸権利を管理するドルナ・スポーツ社と合意していた。これに、市と県は一致して6000万コルナの拠出を承認しており、国からもそれぞれの開催に8500万コルナの補助が期待されてはいた。だが、ここでレース開催の断念を行政が決断すれば、補修の費用として見込まれるという数億コルナとともに、応分の財政の節減ができる。感染防止やそれに附随する不況への対策費の足しにするのであろう。そこで目下、政治と関係者とのあいだで綱引きがつづいている模様である。

 ことし9月下旬には悪疫による死者の累計が、人口規模で同等のスウェーデンと比して大幅にすくないと胸を張ったチェコ共和国首相アンドレイ・バビシュであったが、秋以降の感染拡大の結果、11月半ば現在でのそれは6200人を超え、かの国を追い越してしまった。世界に目を転じても、ワクチンを開発中の独ビオンテックの共同創業者、ウール・シャーヒン教授は、ふつうの生活がもどるのは来年の冬である、とBBCに語っている。となると、来年8月の観客を動員しての開催というのも、ありえないことになる。いっぽうIOCのバッハ会長などは、来夏に延期された東京五輪の予定どおりの開催に自信を見せたと伝えられてもいる。いずれにせよ、情勢は、予算以上にまだまだ不透明である。

 費用そのものの問題はどうしようもない。それでも、世界選手権へ参加する第一の政治的な意義が国威発揚であることをおもえば、こんな感染症騒動さえなければ、自治体も国も費用の負担にやぶさかではないはずであると思われていた。しかし、マサリクを称えたヴァーツラフ・ハヴェルもいまは亡く、それだけマサリクの威光も求心力を失っているということもあるのかもしれなかった。一般企業への命名権売却という方策は、やはり国民の威信にかけても避けたいところなのか、それとも思いついていないだけなのか。もっとも、この時局では成功する保証もない。ひょっとすると、仮に「毛沢東サーキット」と改名しうるとしたらば、パンダをこよなく愛するゼマン大統領が悠々と北京からの援助をひきだしおおせたのではあるまいか。あり得ない想定は措くとしても、命名とはかくも大事なものである。

 けれども、そもそも今のご時世、そろそろ化石燃料の乗り物の競技にはスポンサーが付きにくくなってきても致し方ないとも思われる。政府の補助がしづらくなるのも、あるいは時間の問題であろう。直近では、英国が2030年以降のガソリン車の販売を禁ずるという報道があった。ホンダのF1撤退の報も、この観点からの経営判断だとすれば、おおいに理解できる。エリシュカ・ユンコヴァーがブガッティを駆って活躍した時代は、もはや遠くなったのだ。

 

*参照:

www.bbc.com

www.auto.cz

www.stuttgarter-nachrichten.de

 

*今年8月の開催時の様子:

www.youtube.com

 

終わりの始まりの日

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photo by Jaime Serrano

 最悪の事態はまぬかれた。11月10日の午前1時を期して、ナゴルノ・カラバフをめぐる紛争で、アゼルバイジャンアルメニアとのあいだで停戦が成立した。すでに停戦監視のロシア軍部隊がすみやかに展開しおおせたらしいことから、4度目となる今回ばかりは合意が確実に履行されるものと思われる。

 おそらくアルメニア占領地域の譲渡が行われるとみられ、事実上のアゼルバイジャン側の勝利と報道されている。アゼルバイジャン軍は、無人機の大量投入による電撃戦により、所期の目的を達したということであろう。お祭り騒ぎのアゼルバイジャンの首都・バクーの様子も動画に見られた一方、アルメニアでは議会が紛糾し、首相官邸にいたっては略奪に遭ったとも伝えられている。さしづめ、アルメニアのいちばん長い日だ。

 「集団安全保障条約」にもとづき、アルメニアとの同盟関係にあるロシアは、山岳の稜線に部隊を配置するなどして牽制し、アゼルバイジャン軍の攻撃がアルメニア本国におよばぬように努めていた。ロシア軍のヘリを誤って撃墜までしたアゼルバイジャン軍は、首都ステパナケルトを目前にするも、もはやつっぱねることも難しくなったものか、けっきょく停戦に応じた。

 アルメニアによる占領地の譲渡は必至とみられるものの、ステパナケルトと回廊地帯のみは、アルツァフ共和国ないし親アルメニア側に残されるのではないかという観測もある。ひとたび次に衝突があれば、確実な破局をもたらす──という盤面にしておくことで、紛争の抑止を図るのであるとすれば、かなり練られたシナリオに思える。おそらくロシアとトルコとの手打ちは、早い段階で済んでいたのではあるまいか。

 折しも明くる11月11日は、1918年に第1次世界大戦の休戦協定が締結された記念日であった。11月第二日曜日はリメンブランス・サンデイとも呼ばれ、英国や西欧の各国では戦没者の追悼をおこなう慣いになっている。ポピーの花が、弔意のシンボルである。アメリカでも11日は「退役軍人の日」だった。

 話は前後する。前々日にあたる11月9日は、ドイツ人にとっての「運命の日」(シックザールスターク)であると、ドイツ連邦共和国の公共放送、ZDFがつたえた。といっても、呼称は今年に始まったことではないが。

 さかのぼると1848年11月9日には、ウィーンの革命にあってローベルト・ブルムが銃殺刑に処された日で、これが三月革命の終わりの始まりであったとみるならば、すべからく重要視すべき日となっている。のち1918年の同日には革命が起き、ヴィルヘルム2世がオランダにのがれ、退位した。1923年の同日には、ヒトラーが前日から起こしたミュンヒェン一揆が、ほぼ鎮圧された。1938年の同日、水晶の夜と呼ばれることになる反ユダヤ暴動が発生したが、過去を根にもったヒトラーらによる官製暴動であったとも言われる。その50年後の同日には、ベルリーンの壁が崩壊した。これもまた、終わりの始まりであった。

 師走ほどには年の終末を意識させないが、キリスト教ではクリスマスからが新年であることを思えば、11月とはじつは終焉の月でもある。少なくとも、歳の終わりの始まりの月である。そこには前述のとおり、歴史上のさまざまな転機がおとずれてもいる。それらがいまだに顧みられているのは、ちょうど冬の訪れを感ずる農閑期にはいった時分で、かといってまだ年末行事に追われることもない、宙ぶらりんの時節柄ならでは、といったところであろうか。そして、カフカスの国ぐににとっての運命の日が、ここに加わることになったようだ。憎しみの終わりへの一歩となればよいのだが……。

 

*参照:

www.bbc.com

www3.nhk.or.jp

www.jiji.com

www.zdf.de

米大統領選挙と風前の共和国

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photo by Quino Al

 アメリカ合衆国大統領選挙は、ジョー・バイデン候補の勝利がほぼ確実となった。あの国らしく、選挙の仕組みがフットボールのルール並みに複雑であることに加え、なにより主役を張るのはあのドナルド・トランプである。意外な接戦になったことで、世界中が夢中になって行方を見守った。たとえば無神論大国のチェコ共和国では、地元の選挙よりも大きな関心を集めたようで、賭け銭が3億コルナを超えたと報じられた。直近の自国の大統領選挙の際のそれは、2億8500万コルナであったという。

 いうまでもなく西側の国々は多かれ少なかれ、安全保障を米国に依存しつつ、経済的にはおおくを中国に負っている。トランプ陣営が選挙を、「米国対中国」の構図としてアピールしていたのも、国外の観察者からみれば、あながち誇張ばかりとも思えなかった。

 米国は「世界の警察」を辞めるのだと宣言して久しく、トランプ政権も各地からの撤兵を進めたとはいえ、それなりに影響力が行使されてきた。しかし、バイデン候補が副大統領として参画していたオバーマ政権下で起きたことをおもえば、次期政権には不安が大きい。とりわけシリアやクリミア半島の件であったが、日本にとっては中国の南シナ海侵出を手をこまねいて見ていたことが決定的であった。埋め立て工事が完了せずに、人民解放軍の人員が配置される前の段階であったならば、巡航ミサイルなり何なりで中共に釘を刺すことも可能であったのではあるまいかという、詮なき怨恨を抱かざるを得ない。

 この選挙戦の期間にあって、アメリカはそれどころでなかろうと、足元を見る国や組織もすくなくなかったようでもあった。なんといってもナゴルノ・カラバフ紛争が注目されるところである。

 三たびの停戦合意もむなしく、戦闘はとどまるところを知らなかった。もとより、獲物を目のまえにしたアゼルバイジャンには、戦を停める動機がなかった。然り而して、そろそろ悲惨な観測もあらわれてきた。すなわち、民族浄化のごとき虐殺の発生も懸念されるほどの情勢に至っている。というのも、戦況はアゼルバイジャンが圧倒的に優勢であるからで、この週末に大統領みずから、補給線上の要衝たるシュシャ(シュシ)の町を奪取したと表明した。ナゴルノ・カラバフの事実上の首都であるステパナケルトの陥落も、いまや時間の問題と思われる。

 そもそもソ連邦の枠組みのなかでナショナリズムを発達させたアゼルバイジャンの民衆が、アイデンティティのよりどころとしたのが、古代カフカスアルバニア王国であり、サーサーン朝であり、またセルジューク朝であった。言語的にはトルコにちかしく、宗教的には十二イマーム派のイランと揆を一にする。いっぽうのアルメニア人は、紀元前の大アルメニア王国に想いを馳せつつ、キリスト教信仰に支柱をもとめ、アイデンティティとした。ナゴルノ・カラバフにはがんらい、双方のアイデンティティをもった人びとが混在して暮らしていた。さらに周辺にはクルド人など、ほかのアイデンティティをもった人びともいた。なかんづく経済的な格差が拡大する過程でナショナリズムが強化され、対立が深まっていった──という説にかんしては、他所とあまりおおきく変わらない印象である反面、仔細は群を抜いて複雑に思えるのである。

 ひろく欧州にも、その凶暴さで知られるアルメニア人である。世界にひろがるディアスポラの同胞から物的な支援もある。軍事的に精強であった。ソ連崩壊前後の混乱から紛争が勃発したが、係争地を制したのは人口的に劣勢のアルメニア側であった。1991年、この地は「アルツァフ共和国」を称し、独立を宣するも、国際的な承認は得られなかった。

 それから四半世紀が経った。どうやら、このパンデミック騒ぎもあって、アゼルバイジャンのアリエフ政権が国民の支持をおおきく損なう現状は、トルコのエルドアン政権とも事情が一致したようだ。7月にナゴルノ・カラバフで衝突が起こったのち、トルコ軍とアゼルバイジャン軍が合同演習を行う模様を、トルコのメディアが誇らしげに報じていた。

 それだけアゼルバイジャン側は周到に準備していた。2020年9月27日、またぞろ戦端が開かれた。とりわけトルコ製の無人攻撃機とおぼしきドローンが目立った。具体的にはバイラクタル_TB2なる機種がもっとも名を売ったが、これとはべつに、旧ソ連の旧式の輸送機を改造した無人機も確認されている。これまでも米軍などは高価なドローンを用いてきたとはいえ、安価なドローンが大量に投入された今般のカフカスの戦場は、SNSに情報が出まわったことで、陸戦のあらたな様相を世界の利用者に呈した。

 そう。連日、戦場からの情報はつたえられるが、マスメディアよりもソーシャル・メディアのほうが詳しいようであるのが、現代ならではである。とりわけTwitterYouTube上で、アゼルバイジャン側のドローンが殺戮をくりかえす動画をよく見た。人造の鳥が上空から地上の虫けらを殺すかのように淡々としている。時代は無人攻撃機の天下という感がまさにある。一説によると、これによってアルメニア側の戦車・装甲車100輛以上、火砲や対空システムなど200門・基以上、それに無数の兵員……がこの週末までに無力化されたという。

 といっても、シリアの困窮者を傭兵として戦地におくりこむような、手段を選ばない国の為政者にとっては、人間も機械も大差はないのかもしれない。トルコだけではなく、アメリカ、ロシア、イラン、イスラエル……と大国や周辺諸国の思惑もメディアではいろいろとささやかれている。開戦から10月下旬までに、明らかになっているだけでも犠牲者は1千人を超えた──という報道があったものの、直後にプーチン露大統領が、じつは5千人近いと述べたことで物議を醸した。

 そのロシアが決定的に影響力をもつ地域ではあるにせよ、決定的な役割を演じることはできていない。たがいに生かさず殺さずの紛争がつづいたほうが、双方に武器を売るロシアにとっては好都合なのだ──と書き散らすのは、やはりトルコ政府の息のかかったメディアである。それが日本語で読めるというところに、情報化時代のプロパガンダ合戦をことさら身近に感ずる。隣接したイランとて、人口のじつに4分の1がアゼリ人といわれるが、そうかといって宿敵トルコの子飼いであるアゼルバイジャン側に立つことは、これまではなかった。それにもかかわらず今回ばかりは中立を保つことなく、アゼルバイジャンの支持にまわったのは、多民族国家ゆえの国内事情を勘案するに、けっきょく調停する余裕がなかったのだ、という主旨の分析もある。他国と同様に、それだけ疫禍に疲弊しているということではないか。

 いずれにせよ、トルコが台風の目であることはまちがいない。シリアをめぐって、対クルド人戦略を軸に複雑な外交を展開したことも記憶にあたらしい同国である。すこし気を許すと、NATO加盟国でありながら、唐突にロシア製の新鋭対空システムを導入し、西側の機密を脅かす。イスラームの振興を謳ったかとおもえば、シーア派のイランだけでなく、周辺のスンニ派の諸国とも対立する。エジプトにも影響力を伸ばそうと画策し、リビアではUAEと代理戦争の真っ最中であるという。状況に応じて合従連衡をくりかえすエルドアン政権の挙動は奇怪であるにせよ、かの国の益を考えると筋がとおり、推理が成り立つような按配である。

 反故にされた三度目の停戦協定はアメリカの仲介によるものだったとはいえ、紛争をとおして大国としての存在感は稀薄であった。大局的にみれば、「大トルコ」の東方への勢力拡大は、対ロシア、対中国の地政学的観点から、米国の国益にも合致しているようにも思える。国際的に未承認のうちに二十余年だけ存在した「アルツァフ共和国」は、いずれにしても風前の灯とうつるのである。

 バイデン候補が選ばれたことは米国市民にとってはよかったのかもしれないが、とりわけ中国にたいする外交・安全保障という面では、種々の報道からも色眼鏡で眺めざるを得ない。それでも今後は各地の国際紛争をめぐって米国の態度が透けてくれば、台湾や尖閣・沖縄の命運もひょっとすると、おぼろげに見えてくるのではないか。

 

*参照:

www.nhk.or.jp

www.jiji.com

www.ide.go.jp

wedge.ismedia.jp

www.afpbb.com

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