ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

婆やにでも言ってろ──荒唐無稽のファシズム

photo by Николай Иванов

 ロシア軍によるウクライナへの侵攻開始からはや、三か月が経とうとしている。

 屋外ではすでに蒲公英が、さわやかな風に綿毛を飛ばしている。戦争が始まったときは、まだ雪すら舞っていたのに。現地の天候にしろ、戦況にしろ、はたまたロシア国内の情勢にしても、Twitterで知ることが多い。ロシアをめぐる各国の外交ニュースも……

 

 ロシア連邦のラヴロフ外相がでたらめの言葉を並べるたび、思い出すフレーズがある。

 «расскажи это своей бабушке»

 ──「誰がそんなことを信じるものか,嘘をつけ」と、辞書には訳がある(『プログレッシブ_ロシア語辞典』)。

 しかしながら、直訳風にしたほうがニュアンスがよくつたわる。すなわち、

 ──「お前は自分ちのばあちゃんにでも言ってろ!

 もとより日本語には「荒唐無稽」という便利な四字熟語もあったはずだが。ともかくラヴロフに言ってやりたい。

……いや、実のところラヴロフは本当に「ばあさん」たちに向かってしゃべっているのだ。

 

 ヴラヂミール・プーチンの統治体制を指して「バブーシュカファシズム」だと喝破したのは、カミル・ガレエフだ。さいきんTwitterで注目を集めている研究者で、ウクライナ戦争勃発と相前後して、歴史社会学的な観点から興味深い仮説を多数、スレッドとして投稿している。

 バーブシュカ(英語ではアクセントの位置が変わるのか「バブーシュカ」)とは、「祖母」ないし「年配の女性」を意味する。要するに「お婆さん」だ。プーチンを熱烈に支持しつづけているのは、戦地に赴くこともなくソ連時代のノスタルジーに耽る、この層だというのだ。

 つまり、あのラヴロフのでたらめな声明の数かずも、国内政治にとっては重要なプロパガンダの一環であり、それによってプーチン政権は支えられているわけだ。

 

 ところで、おなじ「ファシズム」でもプーチニズムとは「『スキゾファシズム』とでも呼ぶべき新種のファシズムである」と夙に診断していたのは、史家のティモシー・スナイダーだった。

 とくに、ユーラシア主義的イデオローグのアレクサンドル・ドゥーギンの言動をとりあげ、「実際のファシストが相手を『ファシスト』と呼び、ホロコーストユダヤ人のせいにし、第二次世界大戦をさらなる暴力の論拠とした」ことを指している。スキゾ(分裂病)的だというのである。

 2018年の『自由なき世界──フェイクデモクラシーと新たなファシズム』が問題の書で、不気味な「予言の書」だった。

 タイトルはハイエクの書『隷属への道』を暗示しているという指摘もあったが、エーリヒ・フロム『自由からの逃走』も思い出された。いずれにせよ、プーチンヒトラーの面影が重なるのだ。

 そのくらい暗澹たる世界観に覆われているのが、今のロシア社会であるようだ。この数十年は、闇夜への助走としての歴史だった。六つの章はそれぞれ、二者択一の文言をもつ──1. 個人主義全体主義か、2. 継承か破綻か、3. 統合か帝国か、4. 新しさか永遠か、5. 真実か嘘か、6. 平等か寡頭政治か。

 同時に、各章は、2011年から2016年までの政治史を、編年体によって叙述してもいる──

1. 全体主義思想の復活(2011年)
2. ロシアにおける民主政治の崩壊(2012年)
3. EUに対するロシアの攻撃(2013年)
4. ウクライナ革命とその後のロシアの侵攻(2014年)
5. ロシア・ヨーロッパ・アメリカにおける政治的フィクションの広がり(2015年)
6. ドナルド・トランプの当選(2016年)

 さらに、プーチニズムの国家イデオロギーについて、イヴァン・イリイン、レフ・グミリョフ、前出のアレクサンドル・ドゥーギンらをとりあげ、思想史的な概観を読者にあたえている。言い換えれば、現代ロシアの「ファシズム」を、因数分解のような手法で解説している。

 三者それぞれの思想は、教権ファシズム思想、神秘主義的ユーラシア主義、ポピュリスト的折衷主義(的ナンセンス)……と、表現しうる。そのうち、真面目に哲学的手続きの体裁をもっているようなのはイリインくらいのもので、ほかはロシアの土着の信仰を考慮しなければ、とても素面による議論とはうけとれない。

 そのイリイン(1883-1954)にしてからが、おそらくスイスでの孤独な亡命生活から遠隔地ナショナリズムをこじらせ、けっきょくは、暴力によってボルシェヴィキを打倒して「聖なるロシア」を復活させよ、という発想に至ったようにみえる。

 これが、プーチニズム・ロシアの国家イデオロギーの背骨を形成している。2014年初頭には、イリインの著作が全公務員に配布されたという。

 無垢なるロシアはあくまで無実なのであり、そのロシアに歯向かう者はすべて闇の存在、すなわちファシストだ──というのがロシア官憲の論理なのだった。

 同書の刊行後しばらくは、批判的な書評ばかりが目についた。ところが、2月24日のウクライナ侵攻開始後は、そうした評者の幾人もが沈黙している。

 無理もない。世界は変わってしまった。見直しを迫られているのは、なにも核抑止戦略だけではないのだった。多くの分野の専門家が、米ソ冷戦後の30年間の長期休暇が急に終了したのと同時に、わすれていた大量の宿題を見つけてしまったかのようだ。

 今かんがえると、リベラル寄りのメディアほど辛辣に批評していた記憶もあるが、ひょっとすると一部はプーチンのシンパによるポジション・トークだったのではと疑いたくもなる。それも、この書を一瞥すれば、あり得ないことでもないとわかってもらえる。なにしろ、英国の欧州連合離脱やドナルド・トランプ当選などなど、毎年の政治日程の要点とそれをつなぐ線は、プーチンの思惑に沿って描かれてきているように見える。西側の分断、弱体化を図った工作というわけだ。それも、今もって余波がおさまりきっていない。

 この4月3日のハンガリーの選挙では、オルバーン・ヴィクトル率いるフィデスがまたぞろ勝ってしまった。さっそくプーチン・ロシアの意向に沿うような姿勢が報じられている。だが、北大西洋条約機構NATO)加盟国である以上、これまで通りというわけにもゆくまいが。

 いっぽう同月24日に決選投票となった、フランス大統領選挙におけるマリーヌ・ル・ペンは、現職のエマニュエル・マクロンによって当選を阻まれた。びみょうに「極右色」を薄め、前回選挙より支持率を伸ばしたとはいえ、有権者の脳裡にプーチンの影がちらついたものか、決選投票で敗れた。

 また、やはり件の『自由なき世界』にもちらと名前が出てきた、チェコ共和国大統領のミロシュ・ゼマンは、とりわけ2013年の選挙でロシア企業から資金援助を得て以来、はっきりと親ロシア政策をとってきた。しかし、2月の侵攻以後は、ロシアを非難する側に転じた。なんといっても、同国でファシスト的極右政党を率いるトミオ・オカムラですら、もはや方針転換を迫られたのだ。プーチンを称揚するようなコメントを発した候補予定者を、先日あわてて除名処分にしたほどだった。

 要するに、「欧州懐疑派」の政治家らはめいめい、国の世論にあわせて軌道修正を余儀なくされた。ぎゃくに言えば、スナイダーが指摘してきたような事柄が、これまでは一般の有権者には真剣に受けとられてこなかったということになるのではないか。戦争の勃発は、幸か不幸か、スナイダーの的確さを証明してしまった。

 

 たほう、プーチニズムを「ファシズム」と捉えるべきではないとする見解もまた、以前から存在する。そもそも史家らよりも、法則定立型の学問たる政治学や政治社会学といった分野のほうが、こうした分類や定義や概念化には熱心ではある。

 さいきん出来して、そのタイミングもふくめて話題になっているのが、マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』だが、これはまだ入手すらできていない。とはいえ、原題が_IS RUSSIA FASCIST?_だということもあって、主張は明白であるように思える。

 その点、マルセル・H・ファン・ヘルペンによる『プーチニズム』(_Putinism: The Slow Rise of a Radical Right Regime in Russia_, Basingstoke, 2013)では、プーチン体制をムッソリーニ政権・ヒトラー政権と具体的に比較している。

 結果、きわめて類似性が高いものの、ファシズムにはあたらない……というふうな歯切れの悪い結論になっている。

 11の相違点として挙げらているのは、1. 指導者の輩出の仕方、2. 党の役割、3. 与党の「中道」的自己イメージ、4.ロシアの政党に私兵が存在しないこと、5. ロシアにおける公式な反ファシスト国家イデオロギーの不在、6. ロシアに国家による人種差別がないこと、7. ロシアには全体主義がない、8. ロシア国家と教会の共存関係、9. ロシアにおけるパワーエリートの性格、10. マフィアの役割、11. 多元的な民主主義的外観の維持。

 しかし、いくつかの部分では、いかにも表層的な分析に見えないこともない。すると、こうした議論はけっきょく、ファシズムの定義の仕方におおきく依存した結論になってしまうようにも思える。

 たとえば、8番目にある、クレムリンロシア正教会との関係は一種独特である、とするくだり。ヘルペンは「ドイツの国民社会主義もイタリアのファシズムも、本質的には反宗教的、反教理主義的な体制であった。キリスト教を否定し、代わりに世俗的な疑似宗教を催した」としている。1929年のローマ教皇庁とのラテラン協定にみられるような協力もありはしたが、基本的にファシスト体制とキリスト教会とのあいだには「明確な競争が存在」したというのである。

 だが一例として、戦間期のスロヴァキア国を教権ファシズム体制と捉えて、独伊政権とともに比較対象に含めたならどうなるか。カトリック政党たるフリンカ人民党とヨゼフ・ティソという聖職者みずからが、権威主義政権を掌握していたのだから、ヘルペンのいう聖俗間の「明確な競争」という点に疑問符がつく。カトリシズムとファシズムの混淆の記憶が、現在にいたっても隣のチェコ共和国の住民をして宗教への不信を抱かしめつづけているという論もあるほどだ。

 それどころか現在の視角からは、5番目の反ファシストイデオロギーの不在とか、6番目の国家による人種差別がないなどとはよく言えたものだ、というふうにプーチニズムは映りもする。

 ひょっとしたら、著者は例の「婆さんらにたいする荒唐無稽の言辞」を鵜呑みにしているのではあるまいか、とすら思える。──しかし、クリミア併合以前の10年近くまえの研究であればこそ、むやみに責めるわけにもいくまい。世界が変わってしまう前の所見にすぎないのだ。

 

www.bbc.com

 

*追記(2022年5月19日)

スナイダー曰く「ロシアはファシストだ、と言うべき」「ファシズムに対する恐怖を、ヒトラーホロコーストのようなある種のイメージに限定してしまうのは誤りである」

www.nytimes.com

 

史劇におけるヨーゼフ2世

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 プーチンの為人が、急に注目されるようになった。それについての記事も急激にふえたが、読んでいるうちに「デプリヴァント」の概念を思い起こさせた。

 それは最近、ヨーゼフ2世の人物像を造形するうえで、脚本家のミルカ・ズラトニーコヴァーが採用したものだった。

1)大河ドラマ『マリア・テレーズィア』の最終話

 『マリア・テレーズィア』について、チェコ共和国の公共放送局(ČT)に送り出され、オーストリアの公共放送(ORF)に脚本を持ち込んだら、先方に気に入られて企画がすすんだ……というサクセス・ストーリーは、脚本家本人がインタヴューで語っていたものだ。そこにスロヴァキア、ハンガリーが加わっての合作で、それぞれの言語に吹き替えられ、2018年から各国で放映されている(IMDb)。

 この2022年の正月には、最終話となる第5話が放送された(但し、このパートの制作国にかんして、ČTのサイトでは"Rakousko, Česko, Německo"となっており、いっぽうORFでは"Österreich, Tschechien, Slowakei"となっている)。

 マリア・テレーズィアを「わが国を治めた最後の女性統治者」と、脚本のミルカ・ズラトニーコヴァーは評している。女性大統領はおろか、女性首相もまだ出ていない祖国・チェコ共和国の政治を、周辺各国と比較して憂いているわけだ。

 問題意識としてジェンダー論から出発しているところが、やはり今風のインテリ的だ。つまり、旧弊な「民族の物語」ではなく「女性の物語」を構想した。国境に幾万もの敵が迫るなか、少女はひとりの女性として生き、やがて帝国を背負う……。

 そこに、各話で異なった敵役による「男の物語」が交差する。

 今回は最終話というくらいで、女帝の晩年が扱われた。息子であり、共同統治を布くことになる皇帝、ヨーゼフ2世との葛藤がひとつの軸になったことは言うまでもない。というより、女帝の最大の関心事であるヨーゼフが主人公に見えなくもなかった。

 そのヨーゼフの内心の葛藤というのは、背景として反りが合わない母后とのやりとりに重きがおかれはするが、それのみならず、御曹司のフラストレーションが宮廷生活の全般と数奇な運命に由来するように描かれていた。

 ただし、ひとつの史劇ではあるものの、本質はホームドラマである。──キャリアウーマンが国政という場で男社会に立ち向かうコンセプトで、最終話には息子という「敵」が出てくる。戦場は宮廷である。ところが、宮廷と国家が十全に分離していない時代だ。家庭のなかに政治が土足であがってくる。しかも、当時の政治、とりわけ帝国にとっての外交とは即ち婚姻政策のことであって、男だけの社会というわけでもない。……NHK大河ドラマになじんだ日本人には、あらためて説明することでもないかもしれない。

 それだから、映像としては如何せん、政略結婚と子づくり関係の挿話が多くなる。やはり王侯貴族ともなると、お世継ぎ問題がのべつ脳中を占めているらしく、この手の宮廷物のお定まりではある。

 「全欧の姑」というキャッチ・コピーも、脚本家に言わせれば「自身は恋愛結婚したくせに、子どもたちには無慈悲にも政略結婚を強いた」女君主の帰結である。最終話も冒頭から、ヨーロッパの地図をまえにしたマリア・テレーズィアが、婚姻計画をめぐって持論を展開する。子どもたちを性質や能力で格付けし、外交政策上の駒のごとくあつかう物言いに、最愛の夫であり皇帝でもあるフランツ1世がたしなめる──われらが子どもたちを愛していないのか。女帝の応答は、おおよそこうである──もちろん子どもは可愛いが、国家経営こそ第一なのだ。


2)待望の息子・ヨーゼフ

 長男のヨーゼフとて例にもれない。流行りの啓蒙主義にうつつをぬかす、この跡取り息子にたいし、女帝はとりわけ厳しく接した。国のためである。だが同時に、ヨーゼフは家にとって待ち望まれた寵児でもあった。男児に恵まれなかったカール6世が生前、女子に家督をゆずる際の艱難辛苦をおもえば、その崩御の翌年にうまれたヨーゼフに特別な期待がかけられたのも、無理はなかった。けだし、ヨーゼフに発達心理上のダブルバインドが生じうる状況はあった。

 さらに、往時の医療水準も正直にえがかれる。幼児死亡率が高い。せっかく子が産まれてもすぐに亡くなってしまう。その点では、まだ中世からさして変わっていなかった。くわえて天然痘の凶暴さも、コロナを踏まえると時宜を得た背景描写となった。やんごとなき人びとにも容赦なく死が襲いかかる。

 ヨーゼフと最初の妃・パルマ公女イサベラとの第一子は、8歳で亡くなっている。第二女の生命はさらに儚く、生後すぐに亡くなった。そのうえ、まもなくイサベラ自身も伝染病に斃れるのである。ヨーゼフはそのとき22歳。ローマ=ドイツ王、そして皇帝に即位する前史である。

 こうした境遇のすべてが、潔癖な性格を形成し、のちの急進的な諸改革の断行に結実する……と、そういう脚本家の解釈だったと、こちらは受けとったわけだ。


3)「デプリヴァント」

 しかしながら、ほんらいの作家の意図は微妙に異なっていたようだ。メディアのインタヴューやSNSによれば、ズラトニーコヴァーはもっと極端な解釈で描いたようなことを言っている。ヨーゼフを「諸国民の父」としてではなく、「デプリヴァント」として描かざるを得なかったと告白しているのだ。

 「デプリヴァント」というのは、神経病理学者のフランチシェク・コウコリークによる用語である。1990年代の著作で提出された。遺伝的な前提もあるにせよ、高い知性と教養とをもった人物が環境の犠牲になった末に発症するもので、感情が正常に機能しなくなるか、もしくは失ってしまうという。観察者の目には、その振る舞いはあたかも「モンスター」であるかのような非情なものに映る。著者は、育児放棄に遭った子どもなどが典型で、SS長官のハインリヒ・ヒムラーソ連のラヴレンチイ・パーヴロヴィチ・ベリヤを具体例として挙げている。要は、ソシオパスやサイコパスといった反社会的パーソナリティ障害を、地域の実情をふまえて包括的に捉えた概念であった(František Koukolík, Jana Drtilová, _Vzpoura deprivantů: nestvůry, nástroje, obrana_, Praha, 2011)。

 にも拘わらず、その脚本家の意図とは裏腹に、画面のヨーゼフは、ソシオパスにもサイコパスにも見えなかった。

 俳優アーロン・フリースの繊細で神経質そうな演技は、精神的な病質というよりも、傷ついた小鳥のような存在としてヨーゼフを表現していたようにみえた。感情を失うどころか、むしろ激情でもって神や運命に牙を剝くような、線は細いながらも復讐の鬼だ。それでも、亡父の遺志を知ったのちは、それを継ぐべく、とりわけ熱心に政治に取り組んだ。つまり、すぐれた才覚によって悠々と他人を魅了したり、操作して陥れるという、サイコパスの典型のような描き方ではなかった。

 要因にかんしては、妃の喪失によって人格が変わってしまった──という描写にみえた。つまり、イサベラの死を受け容れることができずにいる苦悩を、脚本は重く評価していたようだ。しかも、それも一時的なもので、国政に力を入れる時期になると、すっかり穏やかな顔になっている。仕事に向かうまえの早朝に、肺を患った最晩年の母后を見舞うなど、サイコパスらしからぬ思いやりまで見せた。思いやる振り、だったのかもしれないが。

 ある伝記の記述は、妃の死で性格が変わってしまったというより、むしろ「三つ子の魂百まで」を強調するふうである。「ヨーゼフは幼少期からすでに、その特権的地位にかかわる性質、つまり過剰な自信と仲間にたいする感受性の欠如を、死ぬまで捨て去ることができなかった」とある。きょうだいのうちでも、将来の帝位継承者として特別な存在であり、母親らの教育にもまた特別なものがあった。あるプロイセン使節が見たところでは「高慢で屈託がなく、怠惰な性格」と伝えられている(Humbert Fink, _Joseph II. Kaiser, König und Reformer_, Düsseldorf-Wien-New York 1990)。いずれにせよ、どちらか一方だけの説明では説得力に欠けそうだ。

 ところで、銀幕のヨーゼフ帝といえば、ミロシュ・フォルマン監督の映画『アマデウス』が思い浮かぶ。そしてサイコパスといえば、この「アマデウス版のヨーゼフ」のほうがむしろ該当しそうに思える。演じ手のジェフリー・ジョウンズの飄々とした演技によって、陽気な変わり者というふうに見えたが、サイコパスは周囲の目に魅力的な人物に映る、というのが精神医学のつたえるところだ。

 すくなくとも、フォルマンの解釈によれば、繊細な神経症者というよりは、エキセントリックな性質に重きがおかれたことになる。穏当すぎる見方かもしれないが、それはそれで、同時代の常識にとらわれなかった諸改革とも整合性があるように感じるわけだ。

 つい、現代史よりもやや過度に、政策に人物像が反映されているように見てしまいがちになる。けれど、往時の後進的な国情をふまえれば、正常な情勢判断に基づいたものであったと史家には評価される。母子の諸改革が不可欠かつ合理的なものだったことは間違いないようだ。マリア・テレーズィアとヨーゼフ2世の政策の背景や意図、社会的なインパクトについては、たとえば、山之内克子『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社、2003)や、同『ハプスブルクの文化革命』(講談社、2005)がわかりやすく、かつ面白い。


4)史劇を脚色する匙

 ところで、歴史の本を読んでいると眠くなる、と言ったひとがあった。そういうものかもしれない。問題意識をもって読むひとだけが、眠らずに読み通す。そうでなければ、かつて学校で古文の授業がそうだったように、古いだけで脈絡のない文章の抜粋を無理やり読まされるのとおなじことだ。

 だから脚本家は、史実を編集ないし改変したり、誇張したりして、文字どおり歴史を劇的にする。それによって、無味乾燥のテクストに娯楽としての特性をあたえる。客を眠らせないように。

 その歴史のアレンジ具合を、観客や視聴者は味わう。そもそもがバロック的な趣味なのだ。そのさい、制作側が適切な匙加減でもって調理してくれないと、いただけない料理になってしまう。

 では、映像作品としての『マリア・テレーズィア』は、全体的にどのくらいの匙の加減であったのか。といっても、なかなか例を抽出するのもむずかしいが……。

 最終話であれば、おそらく最大の脚色は、パルマ公女イサベラをめぐる秘密にちがいない。けれども、推理もので殺人犯を明かすような最大のネタバレになりそうなので、止しておく。が、すくなくとも、まったく根拠がないこととも言えない性質のものだった。つまり妥当な脚色だった。

 かわりに、フランツ1世の崩御の場面などはどうであろう。女帝の夫にしてヨーゼフの父である。

 ──皇帝一家は、ティロールの都インスブルックに到着したところであった。日差しまばゆい夏の日、ヨーゼフの弟にあたるレーオポルトの結婚式のためである。そこで白昼、歓迎のために集まった衆人みまもるなか、様子のおかしいフランツ1世は馬車から降りてすぐ、転倒するのである。そして、息子ヨーゼフの腕のなかで息をひきとる──劇的なシーンだ。

 ところが、伝記によれば、フランツ帝はこの日の晩、喜劇の上演を堪能して自室にひきあげる途中、廊下で倒れたことになっている。ヨーゼフも駆け寄ったが、すぐに部屋に搬送されて、医師や司祭の施療をうけるも、その甲斐なく絶命したというのである。

 しかし、どちらが優れた画になるかといえば、おそらくは前者における「白昼の死」であろう。演劇学の理論では、木下順二が「劇的状況」と訳したところのものであるが、チェコ語では「ドラマティツカー・スィトゥアツェ」という。この連なりによってのみ劇作品は成立させることができる。むろん、映像としては「いい画」が必要となることは言うまでもない。

 したがって、この程度の脚色は赦してもらえなければどうしようもないし、またそれは今作では成功しているように見えた。反面「デプリヴァント」については、プーチンくらいの役者でもないかぎり不自然になるかもしれぬ、大きすぎる「匙」であった。が、前述したように、さいわい画面には反映されなかったようにみえた。

 そもそも、監督のローベルト・ドルンハイムも「真偽よりも芸術的表現を優先した」と言っている。それを「史実と異なっている」「司馬シカンだ」などと野次るのは勝手であるが。この手のコメントが、Amazonのレヴュー欄によくみられるのも確かだ。もちろん、いろいろな背景や意図があるのだろう。某国のプロパガンダだなどと言い掛かりをつけるのは典型だ。ただ、政治的に問題もない脚色をむやみに指弾するするのは、野暮なだけだ。

 要するに、虚構の世界ではあるにせよ、じゅうぶんあり得るヨーゼフ像が提示された作品だった。それだから、母后の亡きあともヨーゼフ帝の行く末を追って眺めていたかったが、終幕となってしまった。マリア・テレーズィアが主役の物語なのだから、それは当然だった。

 

アマデウス(字幕版)

アマデウス(字幕版)

  • F・マーリー・エイブラハム
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イラーセク史観?

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 ことしの3月13日は、ヨーゼフ2世の生誕281周年にあたっており、前日の3月12日は、アロイス・イラーセクが没してから92周年ということになっていた。それぞれ、皇帝と劇作家というふたりであったが……

1)脚本家の罵倒

 ミルカ・ズラトニーコヴァーが脚本を担当した『マリア・テレーズィア』は、出色の映像作品だった。2018年から5年にわたって、まいとし1話づつ公開されてきたものであったから、しょうじき過去の放送回についてはよく覚えていない。──そのうち、Amazonプライムでも観られるようになるだろうか。

 このズラトニーコヴァーというのが、ある新聞記事のなかで「イラーセクは政治を芸術に優越させ、民族をヒューマニズムの上においた民族主義者で、歴史歪曲の巨匠だ」と批難していたのが、いまだに思い出される。

 発言の大意には同意するが──しかし、そう言われると「そこまでおっしゃる以上は、さぞ上手に歴史をお描きになるはず」と、むしろズラトニーコヴァーの作品のほうを注視したくなる。

 とはいえ、イラーセクをめぐる状況については、補足が必要かもしれないと思ったので、先に書くことにした。膨大な作品にくらべると邦訳されたのはわずかで、つまり紹介がすすんでおらず、とくに負の側面はあまりしられていないと思われる。

 アロイス・イラーセク(1851-1930)は、中世のフス派に感情移入した、ボヘミアにおける民族派の作家であった。その作品群は、いわゆる「民族復興」運動の文学と歴史小説の集大成と目される。文学事典の項目を、ビロード革命の前と後に刊行されたものをくらべてみると面白いが、いずれにせよ、文学史的には歴史リアリズム小説を確立した書き手と評価されている。

 現時点ではチェコ共和国でも、中等教育での義務的な課題図書ではなくなり、選択肢のひとつとなっているそうだ。たまたま手もとにある読本では、長大な虚構の年代記をくりひろげることを好んだため、今日では時間的に難がある、などと率直に紹介されている(Jaroslav Pech, _Čítanka pro střední školy_, Praha, 1997)。

 つづいて同書では、未完の長編『フス派の王』がとりあげられる。信仰を守るためにローマ教皇に抗するフス派の王・ポディェブラディのイジーの物語である。そこで引用されているのは、ボヘミア王国最初期の医師で、中世大学の教授でもあり、なにより熱心なカトリック信徒であったジデクが、「黒蟇亭」のビアホールで激昂して学生たちと口論に至った場面だ。どうしてこのシーンが抜粋されているのか。おそらく、作品のもつ臨場感を生徒に伝える意図からではないか。

 同時代の辛口の文学史家すら、イラーセクの筆致については称賛せざるをえなかった。「この作家が、自身の登場人物たちや光景や情景を、もともとは図書館の埃のなか、博物館の日蔭のうちで脳裡に描き出したことを、それに反宗教改革の思潮の極致をゆっくりとした分析の過程で導き出したことを、われわれは残念ながら忘れてしまう──」それくらい、まるで見てきたかのように、歴史のひと齣を活写するのだった。


2)シバシカン?

 そうした作風から、連想する作家がある。司馬遼太郎だ。そこで、適当かどうかわからないが、比喩をもちいることにした。創作と歴史との関連で思いあたったのが、いわゆる「司馬史観」である。

 長篇『坂の上の雲』は、とりわけ「史観」を体現しているといわれる。十年以上が経過したとはいえ、NHKの映像化作品がまだ記憶にあたらしい。阿部寛本木雅弘が演じた秋山兄弟が見もので、鬼気迫る正岡子規役は香川照之だった。海戦シーンのCGだけは、ちょっとプレステみたいだったけれど。のちの昭和の敗戦を念頭に、明治の日本で発奮する偉人たちのロマンを娯しみとすることに、なんら問題はないはずだ。

 問題があるとすればむしろ、フィクションと歴史とを混同させる批評家らのほうではないか。「史観」といったって、相手は小説家だ。フィッシャー論争なんかとはちがう。

 とはいえ、司馬も学界に意見するようになったあたりから、反撃されてもしかたがない情勢になったようだ。しかも、大仰に「史観」呼ばわりされるほど、司馬の筆は冴えていた。また『坂の上の雲』は、単行本の売上部数が2千万部をこえたというから、なおさらだった。たぶん、当時の社会的な人気が、もはや政治的にも無視できず、産経出身の作家が書いた新聞小説に批評家連もだまっていられなかった──そうだとすると、「史観」というレッテルじたいが、洗練された左右の論客が活躍していた時代の徒花だった。現代ならきっと「司馬はネトウヨ」くらいが関の山かもしれない。

 ともかく、えてして大衆の空想する「歴史」とポピュリスト政治家(プーチン含む)が放言する「歴史」はほぼ同じものであろうが、史家のそれとは異なっている。内心の自由とはいえ、それが虚構の世界であることもまた覚えておいたほうがいい。


3)フィクションの政治利用

 娯楽作品をつうじて大衆に「史観」を植えつけたのがわるいというのであれば、かつてのオーストリア帝国の作家、件のイラーセクをめぐっては、さらにたちの悪い状況がある。

 すぐれた物語作家であったにはちがいないとしても、自身も政治運動に加わっていた。チェコスロヴァキア成立後には、議員にもなった。つまり、作品内容以外についても後世の評価を受けることは免れない。

 しかも、橋梁や道路や公共施設の名が冠されなどして「神格化」され、個人崇拝の対象となっていった。死の翌日には、軍に作家の氏名をおびた部隊までできた──第三十歩兵アロイス・イラーセク連隊。デレク・セイヤーによる文化史でもページが割かれていたが、チェコスロヴァキア第一共和政は、学校教育にも「市民教科」が採り入れられるなどして「歴史の民族化」が急速にすすんだ時期ではあった。

 ここまではしかし、降ってわいた独立の熱狂と、急ごしらえの国家で国民統合の緊要にせまられた成り行きとも解される。

 ところが戦後、チェコスロヴァキアが共産化されてのちには、作品が国民教化の具に利用された。クレメント・ゴットヴァルト大統領らによって、イラーセク作品の普及が国家事業として推進されたのだ。

 同政権で、労働・社会啓蒙大臣などを歴任したイデオローグに、ズデニェク・ネイェドリーがいる。イラーセクの作品についても「改稿」と理論的な再解釈を担当した。ブルジョワ出版社による「改竄」を修正し、古典をふたたび人民の手に取り戻す、というのだった。そこでは、イラーセクの文学が「文芸的フィクションではなく、歴史的現実」とされた。

 物理的には、〈民族への伝言〉と銘打たれた叢書という体裁で、イラーセクの代表作『ボヘミアのふるい説話Staré pověsti české(邦訳既刊:『チェコの伝説と歴史』)』が、安価で大量に供給された。学校では講読が義務づけられ、図書館や書店や家庭にあふれるに及んで、共産党にとってイデオロギー的に好ましくない作品を書棚から駆逐することにも成功したといわれる。

 共産党政権がみずからの正統性を印象づけるための「経典」のごときものであった。チェコスロヴァキア共産党は、イラーセクの描くフス派につらなる正統かつ正当な統治者であり、ゴットヴァルトはイラーセクの遺産をいわば「正史」として国民にとりもどした英雄、というわけである。そもそも、共産党が奉じる単純な進歩史観とも相性がよかった。

 15世紀のフス派から延々と民族運動がつづいてきた──という妄想は、象徴的には「イラーセク史観」と呼んでもいいかもしれないが、フランチシェク・パラツキーらの歴史にもとづき、それを独自に発展させたものとされる。さらに、民族派の好んだカヴァー・ストーリーはつづく──17世紀、白山の戦いに敗れたチェスキー民族は、のち何百年にもわたってドイツ人の圧迫を耐え忍び、ついに独立を果たす……。

 19世紀後半の民族主義の傾向にかんして、また別の社会学者の言を借りれば「事実を単純化し、ネイションなどという近代的な概念を、歴史的にとおく隔たった時代に投影することがかなりあった」(Zdeněk L. Suda)。とはいえ、当時のロマン主義者は、どこでも似たようなものだった。民族が時代をこえて実在することを前提とし、あたかもひとりの人物として擬人化したような「神話」のあらすじである。

 日本語の旅行ガイドブックでは、たいていこの手の「神話」が、あたかも自明の真理のように書いてある。極限まで単純化され、歴史というよりも『ゴジラ対メスゴリラ』といった風情である。

 こうした「擬人化民族譚」を読み込んできた向きがプラハなどへ旅に出て、ストーリーに合致した説明を現地の史跡で受ける。それはそれで楽しいことだ。観光旅行としては満点だ。何百年も生きる怪獣たちの活躍にぞんぶん喝采をおくればよい。だが、はるばる日本からもっていった空想的な誤解を補強するだけの旅におわる。

 今日のチェコ共和国でも、アカデミックな業界や知識人をのぞけば、おおくの一般大衆が素朴に「神話」を信じていてもおかしくはない。津田左右吉より前の古事記日本書紀などを思い浮かべればわかりやすい。今では、神武天皇が実在したと信じている者はほとんどないが。けっきょくはヒトラーいうところの「アーリア人」も、この手の架空の存在だった。プーチンが説く「ロシア人」も、ロシア帝国主義の遺風に連なる「神話」ということになる。

 つまるところ、近代国民国家には「神話」が必要なのだというなら、そうなのだろう。あるいは、プラグマティストのマサリクにしても、そういう真意だったのかもしれない。実証史学の立場からヨゼフ・ペカシュらはそれとは妥協できず、論争を巻き起こした。現実政治と机上の学問がぶつかったのだとしたら、結果は平行線に決まっている。さしづめ「怪獣レアルポリティーク対ピュア・サイエンス」だ。


4)歴史と虚構と政治

 そこで「明るい明治」を「暗い昭和」に対置したと責められた司馬になぞらえれば、やはり象徴的に「イラーセク史観」と呼びたくなるのである。ちょうど、イラーセクら民族派バロック期を「テムノ(暗黒時代)」と呼んだものだった。

 また自らを好んで「小さな民族」と称したことも、『坂の上の雲』の濫觴にある「まことに小さな国」と相似形を成している。──というのも、両者は歴史叙述というよりも、物語を盛り上げるためのレトリックであるから、似ていても不思議はないのだ。小さなダビデが大きなゴリアテを倒して以来、好まれてきた物語の雛形であろう。

 いずれにせよ、われら情報化時代の現生人類は、創作と歴史とを区別できるし、それらの政治的な利用についても鼻が効くようになっている……と信じたい。が、そう簡単でもない。今回のプーチン牽強付会にたいしても、いくつもの歴史研究者の団体が声明を出して「歴史」の濫用を批難している。

 他方では、フィクションを書いたり読んだりする愉しみも保障されてしかるべきだ。それは国家によって「必読」とされる性質のものではあり得ない。共産チェコスロヴァキアのような社会が「明るい」と思うひとがあるだろうか。

 むろんイラーセク本人への批判の声もある。それも「民族運動に民話を利用した」くらいなら、まだ手ぬるいほうだ。冒頭のミルカ・ズラトニーコヴァーの謂いは、批判というより罵倒にもちかい。実作家としての心情から出たものであろうが、すくなくとも批評家や研究者の視角をももっている書き手とはいえそうだ。

──つづく。

 

 

プーチニズムとチェコ共和国

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photo by Nati Melnychuk

 現代ロシアの統治体制を指して、プーチニズムなる術語も出来して久しい。定義によっては、スターリニズムとの類比もあるのかもしれないが、このところのプーチン大統領といえば、スターリンよりも、むしろヒトラーと対比されるのがもっぱら、という印象がある。

 今般のウクライナへの侵攻も、8年前のクリミア併合と同様に、1930年代のアンシュルス(独墺合邦)とか、ズデーテンとか、ミュンヒェン会談とかの比喩を通して語られたものだった。つまり──

 いっぽ間違えば、わが国もウクライナのように……

 ──と、一様に肝を冷やしたのは、チェコ共和国の住民たちであった。

 

1)ペトル・フィアラ政権

 ロシア軍が侵攻を開始した24日、チェコ共和国の公共放送(ČRo)が公表した世論調査によると、同国では87%の住民が、この戦争をロシアによる「不当な侵略行為」であると見ている。

 すでに侵攻前の19日、同国のペトル・フィアラ首相は、「戦争が解決策にならぬのは周知の通りですが、浅はかな譲歩もまた然り」と述べて毅然たる態度を示しつつ、欧州の政治や安全保障におけるロシアの工作に注意をうながして、「ロシアがいかようにも影響を及ぼしうるように、わが国を分断し、ふたたび弱体化させる試みを看過するわけにはいきません」と、団結を訴えていた。

 そのさい引き合いにしたのはやはり、チェコスロヴァキアの歴史的経験で、具体的には1938年のミュンヒェン協定、1945年のヤルタ会談、1968年8月のワルシャワ条約機構軍による占領が挙げられた。

 1938年と1968年の事件は、ロシアのウクライナへの侵攻が開始された前後にひろくSNSで見られた比喩だった。が、1945年の事例だけはわかりにくいかもしれない。端的には、ヤルタに会した大国同士の手打ちによって、チェコスロヴァキアポーランドといった国ぐにがソヴィエト連邦に「売られた」と、一般には解されており、それを指している。

 いずれの事件を見ても、既視感をおぼえることだろう。だが、大きな差異として忘れてはならぬのは、われわれが核時代を生きているということである。相互確証破壊の理論は制度化されており、北大西洋条約機構NATO)という形で集団的に保障される体制が、米ソ冷戦集結後も存続してきた。

 それだからフィアラ首相は、NATO加盟国であるため安全が保障されていると、自国民の不安を宥めることも忘れなかった。──じつは本日、1999年3月12日にチェコ共和国NATOに加盟してから、ちょうど13周年を迎えた。

 中道右派のフィアラ政権は、昨2021年秋の選挙結果をうけて、つい年末に成立したばかり。親欧州連合EU)・親NATOを標榜している。

 ことし元日、首相による演説が公共放送(ČT)で放映されたが、首相の背後にはチェコ共和国旗を包み込むように、欧州旗とNATO旗が立てられていた。

 いぜんコロナ対策のロックダウンか何かのとき、前のアンドレイ・バビシュ首相が演説した際には、国旗とEU旗は、画面の端と端に離れて設置されていたものだから、対照的におもえた。──「政治の図像学」というのは、あんがい宛てになる。

 また、他日には注意を喚起してもいた。「ソ連がどこまで達したか、何をもってロシアが自らの勢力圏と見做しているか……旧い地図を見れば、どれほど根本的に我われに関わっているのか、誰もが理解することでありましょう」。国民の歴史的トラウマに訴えかけたのだ。

 

2)ゼマン=バビシュ体制と東西のあいだ

 さて、ロシアのウクライナ侵攻開始後。

 親露路線を堅持してきたミロシュ・ゼマン大統領とて、さすがにこの狼藉では庇いきれぬと観念したものか、これまた中継された国民への演説のなかで、侵略を非難する仕儀となった。ただ、その際にも開口一番、「ロシアにはナツィスから解放してもらった恩義があるとはいえ……」というような言辞から始めたのは、支持層への配慮でもあったのだろう。

 たほう、前首相のアンドレイ・バビシュは、チェコスロヴァキア共産党の特権的な人脈によって財を成した、いわば「オリガルヒ」である。この表現が国内メディアであまり使われないのは、当人のメディアへの影響力のつよさを表している。政策や経歴からも、ロシアとの関係の近さも窺われるものの、さいきんでは「対露・対中政策はゼマン大統領案件で、自分は首相としては対EUを担当していた」ということを言って、視聴者を煙に巻いたものである。

 このバビシュ前首相は、フィアラ現首相が危急の時局に団結を呼びかけたにも拘わらず、党派的な政権批判をつよめている。事態は話し合いによってのみ解決を目指すべきで、対露制裁は効き目がないからやめるべき──などと主張している始末である。このタイミングでは、プーチン・ロシアを擁護していると受け止められても仕方がない。

 共産党の体制から脱したビロード革命以降、かつてのヴァーツラフ・ハヴェル大統領が掲げた国是は「ヨーロッパへの回帰」であった。すなわち、具体的な政策としては、NATOへの加盟と、EUへの加盟であり、最終的に「NATOおよびEUと結合したチェコ共和国としてのチェク・アイデンティティー」は成就した(文化史家デレク・セイヤーの表現)。

 ところが、昨年末までのアンドレイ・バビシュ政権は、同時期のハンガリーポーランドの「欧州懐疑派」政権と同様に、難民受け入れ拒否を掲げるなど、欧州の基本的な価値観に楯突き、のちには、とりわけ利益相反の嫌疑をめぐってEUと激しく対立した。

 対するフィアラ現首相を筆頭とした中道右派連合は、かつてのハヴェルの理想を想起させる選挙戦を展開した。NATOEUの一員としての、復活したナショナル・アイデンティティーを有権者に思い起こさせ、けっきょく昨秋の戦いを制した。

 とはいえ、これは、チェコスロヴァキアという文脈でみれば、まったく新しいアイデンティティーというわけでもない。また、この東西間での葛藤が、政治シーンに投影されるのも初めてのことでは決してない。

 たまたま、フィクションながら象徴的なせりふを見つけた。チェコスロヴァキア共産化をめぐる殺人事件をあつかった大衆小説である。エドヴァルト・ベネシュ大統領が、ヤン・マサリク外相に語りかける場面だ。

ベネシュ大統領の顔に、苦渋に満ちた表情が浮かんだ。「わたしは、つね日ごろ主張してきた。われわれチェコスロバキア人は、文化的には西ヨーロッパ人だ。この地位は、変えることはできない。なぜかというと、文化的発展というものは、そのときどきの政治形態に合わせて、上衣かなにかのように、昨日と今日は別のものといった具合に着替えることのできないものだからだ。チェコスロバキアが東ヨーロッパへつくか、西ヨーロッパへつくかという問いに対しては、答えは、ただ一つだ。チェコスロバキアは、東と西へ向く」
  ──高柳芳夫『モスクワから来たスパイ』講談社、1987年

 見方によっては、ヤルタ秘密協定によって、すでに帰趨は決していた。この1948年2月、共産党は権力を掌握する。そして、マサリク外相は変死体で発見されたのだった。

 いずれにせよ、チェコスロヴァキアおよび後継のチェコ共和国有権者は、「保守か、革新か」以上に、「西か、東か」を、毎度まいどの選挙で絶え間なく選択してきた。もちろん、社会主義時代を除いて。

 

3)プーチニズムの歴史的文脈

 こうした国において、プーチニズムというのは、きのうきょう、とつぜん湧いてきた話ではない。

 明快に解説していたのが、プラハの史家、ペトル・フラヴァーチェクだった。すなわち、プーチン大統領は「偉大なロシア」を夢想してはいるが、その侵略戦争ロシア帝国主義に由来するものである、と喝破した。

 15世紀に「タタールの軛」を脱したモスクワは、それと前後して滅したビザンツの「第二のローマ」ことコンスタンティノープルを継いで、「第三のローマ」を自認するようになる。この挿話は近代以降のロシア人をして、ある種の撰民思想を抱かしめ、西方の悪しきキリスト教徒や東洋のムスリムを征服する「運命」を正当化する意識の根拠となった。

 ロシア帝国主義の手法のひとつに、周辺部の「ロシア人の土地を収拾」するというものがあった。1721年、ピョートル大帝が国名をロシア帝国と号するや、拡大、併合、占領をつうじて勢力をひろげ、シベリアやカフカスの人びとを隷属させていった。さらに、ポーランド=リトアニアオスマンからも領土を奪い、イェカチェリーナ2世の代には、黒海沿岸にノヴォロシアを建設し、トルコを降してクリミアを併合。さらにポーランド分割に参画して、ユーラシアの植民地帝国を完成させた。

 ロシアは未開のアジアにたいする文明化の使命を果たす一方、頽廃したヨーロッパを救う、ないし吸収する、という植民地主義帝国主義の考え方は、19世紀から20世紀にかけて展開されたものであった。汎スラヴ主義とは、偽装されたロシア帝国主義にすぎない。のちのソ連すら、マルクス主義の毛皮を被った旧来の帝国にすぎなかった。これらの遺風がプーチン主義のうちに融合された結果を、ロシアのウクライナ戦争というかたちのなかに見ることができるのである──と、このようにフラヴァーチェクはまとめている。

 しかし、ソ連が崩壊してすでに30年が経過してなお、そうした考えが残っているのはなぜか──とインタヴューアーは畳み掛けた。

 ──ソ連は、形式上は共産主義と国際主義を信奉していたが、やがて仮面をかぶったロシア帝国に変貌した。つまり、1941年にスターリンヒトラーの同盟が決裂して独ソ戦が始まると、大ロシア的なショーヴィニスムがレトリックにもちだされ、ベラルーシウクライナを含む、ソ連領内のすべての民族はある程度までロシア化の対象とされた。のち1989年になって、衛星国とよばれた植民地が失われたことは、帝国主義的ロシアを志向するプーチンにとっては大いなる屈辱であった。バルト諸国やポーランドチェコスロヴァキアハンガリーなどは、帝国主義者にとってグベールニヤ、すなわちロシア国内の行政区にも等しかったのだから。

 けれども、ソ連崩壊後しばらくは国力が衰微しており、国の建て直しに専念するしかなかった。徐々に失地回復に着手しはじめたが、とりわけプーチンの政治家としての特質は、このパンデミックのあいだに研ぎ澄まされた。「孤独な暴君」となったプーチンにたいして、衷心から諫める者はクレムリンにはいなくなった──

 さらにフラヴァーチェクは、その仔細を明かす──連絡をとり合っているロシアの史家アンドレイ・ズボフによれば、孤立したプーチンは、コロナウイルスへの恐れに苦しみながらも、19世紀から20世紀にかけてのロシアの政治思想家のうち、もっとも陰鬱な論纂を耽読しすぎてしまった。

 安全保障アナリストらは、プーチンの大時代的な修辞を、陳腐な決まり文句のように捉えているかもしれないが、じつはそうではない。政治家としてのプーチンは、ソ連からだけではなく、おそらくロシアの帝国主義思想の伝統のすべてを一身に備えた人物と解されるべきである。プーチンとは、大政治家でもなければ、天才軍事戦略家でもなく、折衷主義的イデオローグなのである──と、フラヴァーチェクはいう。

 この文脈でいえば、開戦当初からあった「プーチンは正気を失ったのか」という議論にも、参考となる視角が出来している。

 はやい段階では、言動から推測されるプーチンの精神状態について、「狂気」か「狂気を装っている」かのいずれかと言われてきた。世界のさまざまな識者が種々の媒体で述べていることは、ご案内のとおり。

 ただ、プラハの安全保障政策の専門家、ヤン・ルドヴィークが侵攻直後に解説したところによれば、戦略研究の理論において「狂気は、発狂した振りをするだけであっても、有利」に働くとされている。かつて、ヴィエトナム介入に際してソ連の妨害を排すべく、米大統領リチャード・ニクソンが用いたのだという。

 くわえて、数日前からTwitter上で徐々に明らかにされてきた、連邦保安庁FSB)職員の手になるという真贋不明の手紙は、さらなる示唆を与えている。要は、内部告発状であるが、FSBの耳触りのよい報告書にもとづいて、侵攻が決定された旨の内情などが明かされている。

 誤った情報から次のようなシナリオが導き出された。すなわち、現ウクライナ政権の斬首作戦が電撃的に完了するか、もしくはウクライナ軍の組織的な抵抗が起こらず、それどころか侵攻したロシア軍が地元住民から熱狂的な歓迎を受けて、いずれにしても、すみやかに作戦が終了する──。

 だが結果は、毎日の報道のとおりの惨状である。つまり、おもわぬウクライナ側の徹底抗戦に遭い、激戦を予期していなかった軍の統制も崩壊し、甚大な損害がでている……。

 それかあらぬか、昨日から今朝がたにかけて伝えられたところでは、プーチン大統領FSB高官の粛清に乗り出した由である。

 つまるところ、プーチンは、誤った情報にもとづいて「合理的な」判断を下したということなのかもしれない。たとい発狂しているとしても。


4)ロシア=ウクライナ戦争とチェコ共和国

 では、そんなロシア帝国ウクライナ侵略戦争において、チェコ共和国の住民が見落としていることはないのだろうか、またこの戦争は我らにとってどのような意味があるのか──という気の利いた質問は、インタヴューの最後のほうに飛び出した。以下、フラヴァーチェクの回答を掻い摘んでみよう。

 ──残念ながら、見落とされていることは、ある。多くのチェコ人が、いまだにすべてのスラヴ民族の特別な親和性という妄想のうちに暮らしているが、これこそは危険な汎スラヴ的な戯言である。ウクライナ人が我われに近しいのは、スラヴ語を話すからではなく、ヨーロッパの物語と共通する部分を多く有し、ヨーロッパ人に、それも「西」のヨーロッパ人になりたがっているからなのだ。

 同じスラヴ語を話すからと言って、ロシア人は我われに近いという考え方はもうやめにしよう。立脚する物語が異なっている。我われは西、連中は東だ。ヤーン・コラール流のスラヴ世界の統一、その前に「全欧州」が、いつか跪くという発想は、怪物的ですらある。

 願わくば、このロシア帝国主義の残忍さの表れが、恥ずべき共産主義時代へのノスタルジーや無批判的な汎スラヴ的親露主義を本邦から消滅させることにも貢献してほしいものである。また、チェコスロヴァキアにおける共産主義全体主義の時代に関する歴史研究の根本的な文脈づけに最終的に寄与することを期待している。共産主義政権の近代化・解放とやらの現象をいくら執拗に掘り起こしても、わが国がソヴィエト=ロシア帝国の属州でもあったこと、しかも1968年から1991年までは占領されていたという事実を無視するわけにはいかないのだ──

 フラヴァーチェクは史家としては、いわゆる近代論の立場をとっている。というのも、民族については、つぎのように述べているからだ──「結局のところ、民族とは、地質学的な褶曲や神の何らかの行為によって生まれたものではなく、すべての民族は人工的なものであり、その創造はプロセスであり、ある共同体が民族であると決定することなのである」

 それなのに、同じインタヴューのなかで「我われはウクライナ人と同じ文明に何千年も属してきた」などと口を滑らしている。だが、これすら厳密に矛盾しているとは必ずしも断言できぬところに、この領域の難しさがある。

 

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ウクライナ侵略

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photo by Austrian National Library

 24日の朝、ブースター接種を受けてから丸一日以上すぎたというのに、倦怠感がつづいていた。

 すでにロシア軍はウクライナへの侵攻を開始していた。

 おおかたの政治学者たちの予測は外れた。

 アメリカ合衆国政府の情報筋が再三にわたり、侵攻があると予告していたにも拘わらず、それじたい牽制球だと解されていたらしかった。それも、ロシアのヴラヂミール・プーチン大統領国益に鑑み、理性的な判断をするという前提に拠ったためだ。

 しかし、ロシア軍がウクライナで子どもを殺している様子を、SNSの動画などをつうじて世界が目撃するうち、訓示を垂れるプーチンの平静さを欠いた様子にも注目があつまり、はては精神疾患説までが噴出してきたのだった。

1)緒戦

 東部地域への進撃と同時に、斬首作戦を企図した首都キエフ(キイウ)への侵攻がはじまった。報道によると、民間軍事会社の要員によって編成された大統領を殺害するための任務部隊が送り込まれている。とりわけ「ワグネル」社が、これまでもロシア軍の別働隊として使われてきたことは、たとえば小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房、2021)などで指摘されている。

 BBCウクライナ危機の6つの理由のうちのひとつに数えた、バイデン米政権のアフガニスタンでの失策は、やはり重大であったと思われた。

 ガニ政権下の政府軍らは、ターリバーンにたいして歯向かうことなく、地方政府からカーブルの中央政府まで一気に崩壊した。アフガニスタンの歴史がどうあれ、たかだか20年の体制だったのだ。

 歴史を紐解けば、かつてのチェコスロヴァキアも建国後20年でヒトラーの進駐を受けいれたとき、組織的抵抗をしなかった。徹底抗戦を主張した士官は解任され、のちに個々でパルチザン活動に身を投じるしかなかった。1968年のワルシャワ条約機構軍の侵攻のときもそうだった。共産化してから20年だった。チェコスロヴァキア軍は動かなかった。このやる気のなさに抗議して焼身自殺を図ったのが、ヤン・パラフ青年だった。

 ウクライナは違った。10年の差がおおきかったものか。ソ連崩壊から約30年が経っている。若い市民のおおくが物心ついたときには、すでに独立した国家が在った。それが無くなることは想像できないにちがいない。結果、ウクライナ軍は踏みとどまって、必死の抵抗をみせている。──この敢闘も、おおかたの識者が誤算したところらしかった。

 ウクライナ側の健闘のいっぽう、ロシア軍の士気が低いことも指摘されている。侵攻前の演習のさなかから厭戦ムードが漂っており、ウォトカを飲み明かすのは伝統芸だとしても、燃料を横流しするケースまであったという報道である。演習場から駆り出され、到着した先はウクライナ戦線であった。

 史家のジョン・ダワーは、太平洋戦争の背景にあった日本人への差別意識を暴いたが、今回のロシア兵が撃つべき相手は、人種どころか、同じ言語ないし、ほぼ同じ言語をしゃべるウクライナの人間だった。士気など上がるわけがない。2008年のグルジア侵攻のときとは違う。

 ただ、戦争そのものの行方は、そもそも戦力差もおおきく、予断が許されぬ状況ではある。あの太平洋の日本軍も、大戦劈頭だけは快進撃をみせていた。「エスカレーション抑止」のためと、核兵器とて投入しかねないロシア軍のことでもある。

 

2)ゼレンスキー大統領

 象徴的存在は、ゼレンスキー大統領だ。

 ブラジルのボウソナーロ大統領も「コメディアンに国運を委ねた」と、まるでウクライナの民の自業自得だというようなニュアンスのことを語ったと報じられている。たしかに、開戦前にはそうしたムードもひろがっていた。

 知識人層ほど、所詮はポピュリスト政治家だと莫迦にしていた。2019年の大統領当選時に70%以上あったという支持率が低下するにつれて、ロシアを挑発するような言動をつよめていった。開戦直前には、じつに19%まで下落していたという。とくに停戦協定「ミンスク合意」を蔑ろにしたことで、ロシア側につけこまれる余地をひろげた。その反面、大規模侵攻直前まで動員令をかけていなかった。ちぐはぐだった。

 だから、すぐに遁走すると思われていた。ちょうど、歴史上のガニ大統領やベネシュ大統領のように。

 ところが「弾薬が要るんだ、逃亡手段じゃなく(I need ammunition, not a ride.)」と、亡命を促した米国政府筋に言い返したと報じられている。

 直前の2月19日には、ミュンヒェン安全保障会議において堂々たる演説をぶって、株を上げた。元俳優の面目躍如だった。前職が何であれ、誰でも民意によって指導者になれるのが民主主義ではある。こうした風潮が自国に波及するのを恐れているのが、他ならぬプーチンのロシアだ。

 スタッフに放送や番組制作会社の人脈が多かったのが幸いしたものか、はたまた英米の軍事顧問団の入れ知恵のお陰か。ゼレンスキーは、戦争に突入してからも、SNSなども駆使しつつ情報発信をつづけ、ネット空間の「ナラティヴ」を支配した。つまり、プロパガンダの巧みさでプーチン政権を圧倒した。

 こうしてアピールされた徹底抗戦の姿勢は、大統領への国民の支持率を押し上げたようだ。真偽はわからないが、率にして90%以上に跳ね上がったと言われている。これが全軍の士気にも影響しないとは考えにくかった。

 ドイツをはじめ、EUの消極的な態度をも一変させた。ショルツ宰相に面と向かって「欧州の理想のために死ぬ」と迫ったのが決定的だったとも伝わる。各国が物資面での援助をはじめた。

 さらに外人義勇兵の募集がはじまると、フランスはウクライナ出身の自軍兵士に装備をもったままの帰郷を許可し、デンマークなどは自国民にも義勇兵としての応募を容認した。ネットを通じた募金だけでなく、謎の集団「アノニマス」がサイバー戦の領域で参戦するなど、おもわぬ援軍もウクライナは獲得した。試してみたが、クレムリンの公式サイトはアクセスできない状態になっていた。ついでに、イーロン・マスクTwitter上での副首相の求めに応じて、ウクライナ領域における衛星通信システムStarlinkの運用を開始した。

 くわえて、週末には世界各地の都市で反戦・抗議デモが巻き起こった。これを冷笑的に捉えた大阪の元政治家の見解が物議を醸していたが、そういう向きは、米軍がヴィエトナムから撤退する羽目になったきっかけについて思い出してみるとよいだろう。

 そんな外交上の「ソフトパワー」の側面も発揮したゼレンスキーであるが、代表作とされるTVシリーズ『国民の下僕』は、YouTubeでも視聴できる。タイトルが暗示する「国家第一の僕」で知られるプロイセンの君主だけではなく、歴史上の統治者たちの含蓄ある金言が詰まっている。ゼレンスキー演じた主人公の教師が、ひょんなことから大統領になるというコメディだった。そこでリハーサル済みの職務を、いま果たしているかのようだ。

 もともとロシア語話者というだけでなく、あるいは名から連想されるように、ルーツとしてはホロコーストを生き延びたユダヤの家系でもあるという。18世紀まで遡ると、そもそもヨーゼフ2世が寛容令を発布したのは、わけてもガリツィアに多く在住したユダヤ教徒を、経済活動に参加させるだけでなく、役人に登用するためであったといわれる。いずれにしても、今日の情勢など、さすがのヨーゼフ帝とて知る由もなかった。

 ところで、プーチンがもとめる「非軍事化・中立化」というのは、結果的にローズヴェルト=トルーマンが日本帝国にたいして行ったことを思わせる。米ソ冷戦や朝鮮動乱の勃発で、路線はやや変更されたとはいえ。つまるところ、無条件降伏を求めていることになる。ロシアの脅威にならない国という意味では、ふつう「フィンランド化」と呼ばれているが、「日本化」といっても当たらずと雖も遠からず。この意味では、両者の差異としての日米安保条約の存在の重さは計り知れない。そのフィンランドすら、北大西洋条約機構NATO)加盟を検討し始めた。

 何よりも、GHQをつうじて憲法を改変、産業や経済の構造を変えられるも、日本という国は残った。世界がリアルタイムでウクライナの生存闘争を目撃している以上、さしあたりウクライナという国がなくなることはないだろう。欧州連合EU)も、例外的な手続きで早急にウクライナを加盟させる案が検討されているようだ。

 

3)プーチン大統領

 前掲の『現代ロシアの軍事戦略』は、控え目にいっても現代人必読の書であるが、著者の小泉悠は、プーチン大統領は「頭の中が100年単位で古い」と喝破している。

 そのプーチン大統領の「頭の中」については、昨夏に発表された、当人の手になる論文が注目されていた。ロシア人はひとつの民族であって、ウクライナ人など存在しないという主旨だった。個人的には、「民族」こそ存在しない、空疎な概念にすぎぬ、といってやりたかったが。これは、2月22日にケニヤの国連大使が「危険なノスタルジア」と呼んだところのイレデンティズムであった。

 100年前といえば、たまたま好例となる書物が手許にある。トマーシュ・マサリクが第一次大戦のさなか、「チェコスロヴァキア人」の存在をアピールしようと構想した『あらたな欧州』の復刻版である(Tomáš G. Masaryk, _Nová Evropa_, Brno 1994)。

 その巻末に、「ヨーロッパの民族学的地図」と題された地図が付いている。そこに書かれたRUSOVÉ(ロシア人)を仔細に見ると、VELKORUSOVÉ(大ロシア人)のほか、BĚLORUSOVÉ(白ロシア人)とMALORUSOVÉ(小ロシア人)に大別されている。

 

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Tomáš G. Masaryk, _Nová Evropa_より。フランス語版と英語版は1918年、チェコ語版は1920年にそれぞれ刊行された。

 まさに、プーチン論文の民族観が可視化されたのごとくである。ただし、そのころ独立国家が一時的に成立したこともあり、著者マサリクの場合、本文中では小ロシア人を括弧つきでウクライナ人としている。

 マサリクが、のちのチェコスロヴァキアに含まれることになるドイツ人やハンガリー人マイノリティを、地図上で省略しているように、プーチンもまたウクライナのマイノリティを勘定にいれていないようだ。ルーマニアハンガリータタールは言うに及ばず、ふるくは15世紀に滅したトレビゾンド帝国から逃れてきたという、ギリシア系のマイノリティも9万人以上が暮らしている。少数派を数え上げればきりがなくなるが、ウクライナ通の友人によると、経済的な結びつきのつよさを反映してか、近年は中国人やインド人の姿も目立つようになっていたという。

 ほかにも、プーチンをめぐっては、イヴァン・イリインのファシズム思想の影響も指摘されている。また「ハイブリッドな戦争」の諸相は、ウェブ上にもいろいろの記事や論文が出来しており、東部地域の傀儡「汪兆銘政権」確立のからくりまでも、そうとう解明されているようだ。

 とはいえ、プーチン大統領当人の心の闇については謎がのこる。すくなくとも、時代遅れの「民族自決」思想が背景にあることも間違いないが、それが単に政策を正当化する宣伝にとどまるものだったのかどうか。こうした思想を強調すると、同胞を殺していることになるが、矛盾は感じないものらしい。あるいはそこに、ヒトラーの「世界観戦争」との差異がある。

 邦人保護を目的としたウクライナの「非ナツィ化」という表向きの戦争目的からすると、プーチンが、ウクライナ型の民主主義の波及を恐れていることはまちがいない。マイダン革命のような「西側」による工作を招きかねないと。「過去の密約に違反したNATOの東方拡大が、ロシアの安全保障を脅かしている」というのも、侵攻の論理的理由とされているものの、二次的なものであろう。いずれにしても、追い詰められたプーチンの慄きが、亡霊のごとく漂うロマン主義的な種々の妄執とともに、パンドラの匣を開けてしまったように見えるのである。

 イアン・ブレマーなどは早々に、冷戦の再来を予言している。また、全面核戦争へエスカレートする可能性を思えば大したことではないのかもしれないが、エネルギー問題やインフレの懸念もおおきくなっている。やっとパンデミック生活が終わりそうだと胸を撫で下ろしていた人類だが、前途にはさらなる暗雲がひかえている。

 

  *参考文献ほか:

 

 

 

bunshun.jp

www.cnn.co.jp

www.cambridge.org

www.rferl.org

www.cnn.co.jp

mainichi.jp

www.cnn.co.jp

 

バンデーラ賊がやってくる

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 近年のウクライナの政権は、ステパーン・バンデーラら民族主義者の名誉回復や顕彰を推進してきた。それでウクライナナショナリズムといえば、まずバンデーラ賊を連想してしまう。そして、それについて報告したミハル・マレシュの短い記事を思い出す。

1)バンデーラ派

 そもそも独立したウクライナ国家が成立したのは、第一世界大戦末期の一時期だった。ロシア、オーストリア=ハンガリー、ドイツという三帝国のはざまに咲いた、はかない徒花であった。ロシアは、ソヴィエト連邦という皇帝なき帝国に脱皮しつつあり、後二者にも帝政崩壊の刻が近づいていた。

 1920年、パリで条約が結すると、ウクライナ領土は分割され、国家消滅が決定的になった。ここにおよんで、元軍人ヨウヘン・コノヴァレツは、プラハにて武装闘争のためウクライナ軍事組織(UVO)を立ち上げた。いったんは、ポーランド当局によって解体されたものの、1929年にウィーンでふたたび設立した。こんどはウクライナ民族主義者組織(OUN)といった(以下、Stanislav A. Auský, _Dobrovolníci a druhá světová válka_, Praha 2007などによる)。

 創設者・コノヴァレツがソ連によって暗殺されると、OUNはアンドレイ・メルニクに引き継がれた。当初の主敵はポーランド政府であったが、ミュンヒェン合意後には、チェコスロヴァキアのポトカルパツカー・ルス地域へ活動拠点を移した。それでもドイツおよびハンガリーが進駐してくると、ガリツィアへ、はたまたルーマニアへとほうぼうへ逃れていった。

 このメルニク派(OUN-M)から袂を分つことになったのが、急進的なステパーン・バンデーラの一派であった(OUN-B)。

 1939年末には、現在のウクライナ西部地域でソ連を相手に武装闘争を開始した。このころすでに、ドイツ国防軍情報部と接触をもっていたが、のち同軍のもとにローランとナイチンゲールなる二個の大隊として編成し直され、対ソ戦に投入された。この時期、メルニクもバンデーラもドイツ当局に拘束され、連合軍に解放されるまで監禁されつづけた。

 ところがスターリングラードの敗北で、ドイツの前途に翳りを見た元のバンデーラ派の構成員たちは、1942年10月、ウクライナ蜂起軍(UPA)として再結集をはかった。タラス・チュプリンカ、本名ロマン・シュへーヴィチのもと、ドイツ、ソ連ポーランドの正規軍および、一時は元のOUN-Mをも敵にまわすこととなった。

 アウスキーの前掲書によると、ウクライナ人兵士は最大で25万人いたと見積もられている。うち残党は、大戦終結後も戦闘を継続し、赤軍ポーランド軍チェコスロヴァキア軍の合同による掃討作戦が、1950年代までつづいた。

 バンデーラは名目上の指導者でありつづけたものの、解放後も逃亡生活を強いられ、1959年にはついにソ連によって爆殺された。したがって、武装集団の先頭に立っていたわけではない。にも拘わらず、人びとはこの集団を「バンデーラ賊」と呼んだのだった。どのような思いで、そう呼んだのだろうか。


2)バンデーラ賊

 ジャーナリストのミハル・マレシュによる、バンデーラ賊についての記事が、情報が錯綜した当時の様子を伝えてくれる。

 ここでの「バンデーラ賊」とは、チェコ語の「バンデロフツィ」の訳であるが、マレシュは「ベンデロフツィ」という、別のヴァリアントを用いている。

 当該記事の初出は1947年で、週刊誌『今日日』とある。トマーシュ・マサリクの創刊した『現在』の流れを汲み、短命のチェコスロヴァキア第三共和国で、おなじく短期間のみ発行された雑誌であった。以下、抄訳。

   バンデーラ賊が迫りつつあり……

 現在、北部および東部スロヴァキア全域で、厳しい非常事態が布かれている。住民は夕刻8時から朝の6時まで、特別な許可を得た場合をのぞいて、外出を禁じられている。バンデーラ賊が所在しているためである。また現状として、この徘徊せる男たちについての過大に幻想的で、誇張されたうえに曖昧で、恐怖をかきたてるような報せが、共和国じゅうで流布している。殺人、流血、強盗、その他の犯罪、はたまたアメリカ・ドルほかの貴重な貨幣が、このならず者たちの手に渡っている、等々。実態にかんして公式な発表でもあれば、確実に解明に資するところであろう。

 バンデーラ賊の一団は、みずからの生命以外に失うものがなにもなく、あるいは西方のどこかに逃げ込むことにわずかな希望をみいだしてはいるが、それも東に行けばゆくほど確実に破滅への道で、ときに絞首台へとつづいているからだ。軍事的、政治的、刑事的に罪を着せられた者たちの集団なのである。つまりは様々な軍隊やギャングからの脱走者たちで、軍事的・戦争的な生き方から簡単に脱け出せなくなってしまった者たち。これまで戦争の後にはかならず生じてきたし、これからも生じつづけることであろう。盗賊的な騎士といえば、似たようなことをスロヴァキアの民衆たちは語り継いできたものだ。どこまでが狼藉で、どこまでが騎士道なのか、それが明らかになるのは時間の問題であろう。しかし、大衆はヤーノシークの冒険譚を好むものだ。つまり、各国軍からの脱柵者らといっても、ポーランド人、ウクライナ人、ルーマニア人、フリンカ親衛隊員、ドイツ人、クロアチア人、そしてフランス人の集団までもが含まれているともいわれているのである。これは、現地で仕入れた情報を、ここに提供しているだけのことである。混じりっ気なしの葡萄酒の出どころは公的な機関であることは保証しておく。

 バンデーラ賊は、いってみれば、あまり目立たないような静かでこまごまとした戦争を遂行しながら、連中にとって破滅を意味する東を脱し、西をめざしているということは明白である。すでに数名がモラヴィアに姿を現しているが、連中の渇望するところでは、ボヘミアを通過してオーストリアバイエルンへいたるはずで、その先を察するに、たとえば外人部隊にはいるなどして、そこで何でも容れられる氏名をおびて一生涯みずからの軍事的スキルを活用し、手柄をたてて新しい市民権を得ることなのかもしれない。連中のうちの多くが、本物の反動勢力の助けに望みを託しているのも確かである。しかし、おおかたのバンデーラ賊は、あらゆる除け者らと同様、どこかで平和のうちに、まともな仕事によって人生を満たせるなら、満足するにちがいない。 ところが、戦争が残したおおくのものには、どういうわけか小銃、手榴弾短機関銃を擱くことができなくなった、こうした武器に育てられた赤児のような人間もいる(武器を持っていれば、わずかに安心して眠ることが約束される)。

 この雑多で確実に危険な集団を、あらゆる犯罪をおこしかねない若者衆のように語る者もあれば、軍規をもってよく組織されており、一般市民にはおおむね友好的で、紳士的にふるまう個人の集まりだという者すらある。この結果が、不安という面のいっぽうで、すでにふれたヤーノシーク譚の一面というわけだ。多くのバンデーラ賊の要素の寄せ集めは、その両方を放っている。まったく別のごろつきによる勝手な行為が、バンデーラ賊のせいにされていることも確実にあるだろう。スロヴァキアでは、子どもがインディアンごっこではなく、バンデーラ賊ごっこに興じるほど、バンデーラ賊がすでに騒がれる存在になっている。おとなたちの妄想が、情報の砂漠地帯に置き去りにされるいっぽう、子どもの空想はさかんにひろがっている。私がモラヴィアからスロヴァキアに行ったとき列車内で会話した、五十がらみの公安[SNB]の上級曹長ということにしておくが、そのひとはスロヴァキアではすでに5千の犠牲者がでていると確信していた。すると、ふつうの民間人が噂することは、おのずと想像がつく。公式には、モラヴィアで4人組のバンデーラ賊徒が警察組織に捕捉され、うち1名が射殺され、1名が確保され、2名が逃亡しおおせたという報告しかない。ポーランド軍との小競り合いや戦いの中で、毎日のように新たな集団が侵入してきている。バンデーラ賊のうち排除できるのは、逃走するなどして西方に逃れた者と、戦闘のなかで始末された者だけだ。

   [中略]

 実情として、A村に突如、40から100人のバンデーラ賊の集団が出現する。生存に必要なものをすべて徴発し、あるときは金子を支払い、あるときは支払わず、翌日にはたとえば100キロ離れたB村にすでに姿を現す。誰も予期だにしない場所である。このように、ひじょうに機動的ですぐれた諜報部のごとき戦術といえる。バンデーラ賊のうちのかなりの部分が住民の人心を掌握しようとし、ときには成功していることはほぼ間違いないだろう。とりわけ、物品徴発の支払いが良貨であった場合である。米ドルを夢に見ない者はないのではないか。

   [後略]

-- Michal Mareš, "Benderovci se blíží...", _Přicházím z periferie republiky_, Praha 2009, 432ff.

 

 とくに1946年頃までは勢いがあり、一定地域を確保していたというUPAであったが、1950年に首魁のシュへーヴィチが殺害されてのち、急速におとろえたといわれる。

 だが、上のマレシュの記述をすなおに受けとれば、1947年当時の「バンデーラ賊」というのは、さまざまな勢力からの敗残兵や落伍者、その他大勢を吸収して、すでに流離びとの群れに堕していたようにもみえる。すくなくとも構成する人員からすると、純粋にウクライナナショナリストによる戦闘集団という面影も薄くなっている。マレシュはそう捉えている。どの言語を話そうが、ウクライナの独立のために戦うという集団もあり得なくはないとはいえ。「米ドル」の出どころを憶想するに、大国の思惑に翻弄される宿命にもおもいあたる。

 あるいは、文中でも示唆されているが、UPAとは関係のない集団でも、すこしでも胡乱な輩とみるや「バンデーラ賊」だと噂したのが、一般大衆だったのかもしれない。そうして臆測が飛び交うなか、マレシュは、自己申告してもいるように、確認された情報を有体に伝えようとしていたようだ。また、賊にたいしても戦争の結果だとして同情的なところが窺え、推測を交えながらも公明正大に論じようとしているふうではある。

 昨今のウクライナ情勢の記事でも「足で書く」記者には頭が下がるが、マレシュにも、まさにそんな印象をいだく。現在も、各種のメディアをつうじて、米露いずれかに都合のよい相矛盾する情報が、それぞれさかんに報じられている。ましてや、SNSなどない往時の混乱は推して知るべしだ。

 ミハル・マレシュ(1893-1971)はもともと、チェコスロヴァキア共産党系のチェコ語およびドイツ語の媒体で健筆をふるっていた。ところが、戦後、ドイツ語話者追放後の国境地帯における略奪や権力濫用、また非人道的な事例などを曝露したがために、1948年に共産党を除名されたうえ投獄されたといわれる。記事を読むと人柄がしのばれ、共産党に恐れられた所以にも思い至る。

 たほう、先日、ウクライナ情勢にかんして不適切な発言をした咎で、ドイツの提督が司令官職を更迭された由の報道があった。これについては、また話が別で、政治家や官僚・軍人は、状況によっては「本音」や「正論」を口にしてはならぬときがある。職務上、政府の「大義名分」ないし「建前」を支持せねばならない立場だ。

 日本政府や国会にしても、「力による現状変更は断じて容認できない」(衆議院決議)というお題目は妥当なものであろう。西側の一員として、ロシアに対して毅然たる対応をすべき、ということになる。外国から尖閣・沖縄を脅かされている国としては、それ以外の発信はありえない。

 いずれにしても改めて見ると、ほかにもいろいろ示唆的な文章であった。報道によれば、米国は再三再四、ロシアに経済制裁の警告をあたえている。バイデン大統領の頭の中では、いまだに米ドルは諸国民にとっての「夢」なのかもしれない。

 

*参照:

www.bbc.com

www.bbc.com

www.bbc.com

*追記:

www.bbc.com

www.bloomberg.co.jp

gendai.ismedia.jp

チェコスロヴァキアの「北方領土」と境界のアイデンティティ

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Cieszyn ... photo by Aisuma K

 国境の町は、大陸欧州に数知れない。訪れてみると興味ぶかい体験がある。

 チェスキー・ティェシーンČeský Těšínは、そのひとつ。片割れの名は、チェシンCieszyn。かつてテシェン公国Herzogtum Teschenの都だった。

ティェシーン、あるいはチェシン

 チェスキー・ティェシーンの鉄道駅から北へ歩くと、目のまえを横切るように川が流れている。オルザ(オルシェ)川だ。橋を渡ると、欧州連合EU)の青地に星の標識が立っており、国境であることがわかる。そこから北は、ポーランド領「チェシン」である。

 住民は程度の差こそあれ、ほぼ例外なくバイリンガルで、物心ついたときからポーランド語もチェコ語も解する。どちらの放送メディアも視聴すれば、活字媒体も購読する。それぞれの領域をまいにち往き来しながら生活をおくっている。

 ソ連の衛星国のよしみなのかと思いきや、むしろ東西冷戦時代には越境を伴う移動は制限されていたそうだ。いまのライフスタイルは、東欧革命による民主化がもたらした自由だ。といっても、その後しばらく、まだEUシェンゲン協定も無縁だった頃は、税関を通る人びとで長蛇の列ができていた。煙草や酒など、安いほうで仕入れた品を高いほうで売る転売稼業に多くのひとが精を出したらしい。物を動かすことで豊かになるのはよいことではあったが、いまとなっては、どちらの側でも好きな店へ行けばよい。

 動かせないものもある。中世のロトゥンダをはじめ、ピアスト王朝の居城の名残りである宮殿や、主だった広場をふくむ歴史地区は、ポーランド領に属している。瀟洒な街並みも小洒落た商店もみな、ポーランド側にある。歩いてみると、川を挟んで南部から西部にひろがる「チェスキー」側は全体的に灰色で、朽ちた集合住宅がうらぶれた風情を醸していた。

 南側の人びとが「町のいいところはポーランドが全部もってっちゃった」と嘆くのも無理はない。

 チェコスロヴァキアポーランドのあいだには、かつて「北方領土問題」が存在していた。両者は、戦後の混乱も醒めやらぬ1919年、このオルザ地域(トランス=オルザ、ザオルジェ、ザーオルジー)をめぐって武力衝突まで起こした。ちょうど今ごろの時期、1月下旬だった。七日間戦争とも呼ばれる。

 直接の争点は、交通の結節点という地勢と鉄道インフラの帰属だったとされるが、当時にしても地元の住民にとってはどうでもよかったに違いない。結果的には、翌年のパリにおける協定で、チェコスロヴァキアは念願どおり、スロヴァキア方面への連絡手段たる鉄道と炭鉱を手に入れた。それにも拘わらず、現代の一般市民の視点からみれば「いいところ」はポーランドにもっていかれたと感じるようだ。国益のための戦略資源も、日々の暮らしの役に立たねば、庶民にとって意味はない。

 しかし、国境が実質的に消滅した今日では、平素から「いいとこ取り」が可能だ。たとえば子どもたちが教育を受ける場合も、希望する専攻課程によって、川の「こっち側」か「あっち側」かと、大学や各種学校をえらぶことができる。お得な感じがする。同じクラスの友人どうしであっても卒業後は、こっちの言語か、あっちの言語で教育を受けることになったりする。

「チェシン人」

 あるとき、たまたま仕事で知り合った女性ふたりも、ちょうどそんなふうであった。「あんた、どっちだったっけ。あっちの学校いったんだっけ」「あんたは、こっちの大学だったんだっけ」などと言い合っていた。若い時分の数年間のことで、ふだんは気にしたこともないのだろう。

 そこで、もっとも興味のあることについて訊いてみた。行き過ぎた質問なのかもしれないと思ったが、訊かずにいられなかった。

 ──自己認識における帰属意識、自己規定というようなものか。つまり、両方の国にまたがって暮らし、両方の言語をしぜんに使い分けながら、自分がチェコ人であると思っているのか、はたまたポーランド人であると感じているのか……

 すると、ふたりは文字通り、顔を見合わせた。どうやら、当事者らにとっては当たり前すぎて、どう応答すべきか苦慮する問いだったようだ。

 ──そういうのは無いのよ。
 ──しいて言えば「チェシン人」かな。

 素朴な思い込みに気づかされ、またそれが崩壊した瞬間だったのかもしれない。

 ナショナル・アイデンティティというのは誰しもがもれなく有しているものだと、我ながら薄ぼんやり考えていたようだ。たしかに、不勉強ではあった。とりわけポーランド側のオルザ地域における脱国家志向についてすらも、このときは知らなかった。ベスキーデンラントやティロールなど個別の事例にかんしてわかったつもりになっていた反面、トランスナショナルアイデンティティ問題について全般的に無理解であった。

 それも致し方なかった。じつは、すぐのちに出来した史学の研究書にヒントがあった。19世紀から20世紀のはじめにかけて、ボヘミアとドイツの国境地帯における農家や労働者階級の家庭では、子女を「もう一方の」言語を話す家族のもとで生活させて、バイリンガルに育てることが一般的であった。それが、民族主義の風潮が昂ずる折り、脅かされるようになったのだという。

 政治史の、あるいは社会史であっても、従来の主だった研究は極端な事例の叙述に偏りがちであったものか、その時代をナショナリズム一色の社会だったかのように、読者に錯覚させてきたようだ。一般の庶民は、ことさら民族性というものをつよく意識して暮らしてたわけでもなかったらしい。すくなくとも、史家ターラ・ザーラの件の研究によって、その可能性が示された。

 なかんづくチェシンは、言語的にさらに多様であった。チェコ語ポーランド語のほか、帝国末期にはドイツ語話者の人口がもっとも大きく、時期によってはハンガリー語のコミューニティーもあった。もとよりドイツ系シレジアといえば、別の文脈の分離主義があった。くわえて文化的には、ユダヤ教徒も重要なファクターだった。

 トランスナショナルなコミューニティーでは、多文化の共存を際立った個性と感じないことは確かだろう。中央ヨーロッパナショナリズムとは、しばしば類型として「エスニック・ナショナリズム」とされ、言語につよく規定されることが前提となっている。だが、そんな図式的な理解は、個人の水準ではかならずしも自明のものではないのだと思い知った。

内心の選択肢

 むろん、チェシン住民のすべてが一様にこのような考えであるわけではないだろう。ふたりにしても「しいて言えば」の話であって、また住民は必ずしも「テシェン公国」として独立したがっているわけでもない。その必要は感じないはずだ。複合アイデンティティの一ではあるのだろうが、見方によっては「境界アイデンティティ」といったほうがよさげだ。もしくは国の帰属にかんしては「ヌル・アイデンティティ」か。

 しかし、他人の内心の問題はけっきょくわからない。たとい実験心理学の数値を見たところで、究極的には想像するしかない。個人的な感覚からの類推である。

 そこで、たとえば「遠隔地ナショナリズム」を想定すれば、外国で日本人であることにしがみつきたくなる気持ちもわからないではない。けれども経験的にいえば、日本から遠く離れ、ながらく日本語も口にしない日々をおくっていると、ことさら自分が日本人であるとは念頭に浮かばなってもくるものだ。おまえは中国人か、日本人だったらもっと目が細いはずだ、ヴィエトナムだろう──などと言われて暮らしているうちに、人種は意識せざるを得ないとしても、帰属などという厄介なものは逆に疎ましくなり、少なくとも、どうでもよくなってくる。心持ちのことであるから景気循環のような波はあるにせよ、もっと多くの言語において能力が高ければ、つまるところポリグロットの人びとにいたっては、なおさら無頓着になるものではないか。

 イメージにちかいのは、たとえばヨーゼフ・ロートの小説に出てくるような、前近代的な貴族だ。外交や社交ではフランス語、庶民との会話は現地の諸々の土語と、幾つもの言語をあやつり、欧州各地に点在する領地を飛び回って暮らす。皇帝の臣民だとは断言できるとしても、どの民族に属するかなどという問い掛けは、やはり愚問だったろう。陳腐で大雑把な表現だが、コスモポリタンというほかない。「ミスター汎ヨーロッパ」のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーも、あるいはそうだったのかもしれない。

 ところで、外交の現場にいた佐藤優の著作を読むなどするかぎり、日本の北方領土問題・交渉もかつては、このいわば「境界アイデンティティ」の創出を解決の一方途としてきたと捉えることができる。日本人とかロシア人とかいう区分ではなく、「南クリル=千島・北方領土民」のようなアイデンティティをもった人びとが互いに双方を往来するうちに、「領土の主権」という視角は徐々に後景に退いてゆく……はずだった。政権が移りかわるなか、外交政策も変転し、いまでは解決の可能性が遠のいた観は否めないが、かろうじて二国間の懸案としてぶら下がっているようにも見える。「日ソ共同宣言」の有効性を首脳どうしで確認した「シンガポール宣言」という、首の皮一枚で。

 とまれ、ウクライナ情勢に世界の目がそそがれるなか、思い出さずにはいられない体験だった。ウクライナ人という自己規定を強要された、ロシア系住民の憤懣が想起されたからだ。法律上はともかく、心理的には、あのチェシンのふたりみたいな「どちらの民族でもない」という選択肢もあり得たはずなのだが。──もちろん、これはプーチン露大統領の国家観や西側諸国の思惑とは何の関係もない話だ。けれども、ウクライナ政府の民族や言語をめぐる時代錯誤の幻想が、隣国に付け入る余地を与えることになったとはいえまいか。

ラデツキー行進曲

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去年、チェコ共和国の銀行で

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photo by Hello I'm Nik
銀行ATMのトラブル

 ある夕刻、ATMで4000コルナ(KčもしくはCZK)を入金しようとしていた。物理的には、2000コルナ紙幣を2枚だ。

 ところが、紙幣をいれて扉が閉まったあと、画面に現れたのは「2000Kč紙幣が1枚でよろしいか」という意味合いのメッセージであった。

 おかしいな……そう思って、キャンセルのボタンを押したつもりが「この段階でのキャンセルは不可能」と表示されたまま、機械は停止してしまった。それでも、なんどかボタンを押下していると、扉が開き、紙幣がもどってきた。ただし1枚のみだ。レシート状の控えにも「2000KC」と印字されているように見えた。

 ──やられた。スキャンのミスなのか、ほかの機械的な故障なのか。わからないが、いくども利用してきて、はじめての事態だった。

 ATMの筐体は、目抜き通りに面した支店の前に設置されていた。煌々と照るあかりに反して、営業時間はすぎているらしく、背後にひかえる店舗の自動ドアは反応しなかった。

これまでの銀行体験から

 ところで、このライファイゼンバンク(Raiffeisenbank)という銀行に口座を開設したのも、かなり前のことだ。往時、まわりにいた経営者や自営業の人間に意見をもとめると、ライファイゼンがいい、と一様に口を揃えたものだ。わが国で最初に、個人向けのオンライン・バンキングを始めた老舗だから、というのだった。厳密には、前身のひとつ、エーバンカ(eBanka)が始めたのだと思ったが、買収されて吸収されたのだから結局は同じことだった。

 その時点でも、同国の銀行にはよい思い出などなかった。

 ドイツに送金する必要があって銀行をさがしていたとき、さいしょにコメルチュニー・バンカ(Komerční banka)を訪ねたものだった。だが、ここは最悪だった。こちらが顔を見せるなり、挨拶も終わらぬうちに「あんた、ヴィエトナム人でしょ、何もできないよ」と言われた。憤慨して、二度と行くまいと決めた。しかし、いま思えば、おそらく銀行側も出稼ぎ移民にえらい目に遭わされていたのだろう。

 この通称「コメルチュカ」は「国でいちばんの民営銀行」と言われていたが、それでもこのざまだった。

 つぎに、オーストリア資本の銀行を頼ることにした。それがフォルクスバンク(Volksbank)だった。ドイツでも見慣れたロゴには親近感もあったし、契約書の原本はドイツ語だ。かの地との取り引きなど日常茶飯のはずだ。ここの行員は感じがわるくもあったが、予感どおり、無難に送金処理をしてくれた。その後もお世話にはなった。

 オーストリアの経済史を端から読んでいくと「クレディート・アンシュタルト破綻」という事件にぶつかるはずだ。このフォルクス銀行は破綻こそしなかったものの、何年かのち、選りにもよってロシアのズベルバンク(Sberbank)に買収された。契約書はロシア語とチェコ語になった。ウクライナ情勢の展開しだいでは、バイデン大統領が制裁に踏み切らないともかぎらない。「米ドルの取り引きから締め出す」と決定されたら、この銀行はどうなるのだろう。

 さて、その後、経済誌のライターをしていた友人が勧めてきたのが、新興のエムバンク(mBank)だった。鳴り物入りで市場に参入してきたポーランド資本で、今でいうネットバンクにも似た業態が売りだった。実店舗は最低限の機能だけ有して、基本的にすべてのサーヴィスがオンラインで提供される。しかも、ほとんどの手続きは手数料が無料で済む。その当時は最先端のスタイルだともてはやされた。

 しかし、小国の宿命で、後発の企業はどの業界でも人材の確保に苦労する。それで、行員がシステムに習熟していない。それは仕方がない。だが、トラブル解決の方途が行内でも共有されていなかったのが致命的だった。

 個人口座を開設したまではよかったが、業務用の口座が必要になった際、口座の開設が一向にできなかった。同僚に尋きにいっては、繰り返される「エラー」表示に、「できない」と言ったきり、行員は作業を放棄してしまった。

 そこで、件のライファイゼン銀行の出番となった。

 違いはすぐに明らかになる。接客がまず洗練されていた。行員は愛想がよく、こちらが外人と見るや、英語で対応してくれようとする。それから、あら、チェコ語がおできになるのね、すてきね、と褒めることも忘れない。こちらは高額預金者でないどころか、すぐに各種料金の振り込みくらいにしか使わなくなってしまった口座なのに、些細なことでも相談すれば、なにかと問題解決にあたってくれた。とちゅうで作業を投げ出す行員など皆無だった。──日本ではわりと普通だが。

 その信頼も厚い「ライフカ」(銀行の通称)にして、あの夕方、ATMの不可解な挙動に見舞われた。折しも、みずほ銀行のシステムがたびたび故障を起こすという、日本からのニュースにも触れるようになって久しかった。──たぶん、よくあることなのだ。とはいえ、証明する手立てがない。約1万円相当、2000コルナの損害は痛いけれど、諦めるしかない、と考えた。経験上、この国では門前払いの案件だ。

クレームのゆくえ

 それが、翌日になると、我ながら気まぐれな挙に出た。アポ無しで、あの支店に立ち寄ってみたのだった。

 入り口から“Information“の札のところまで進むと、若いスロヴァキア人の行員がやって来て、店の奥の席をすすめ、用件をきいてくれた。

 控えに印字された「お取引できません」の文面からすると、機械が贋造紙幣を認識して、処理を中断した可能性がある──という話だった。よくみると控えには、連絡するようにと番号の記載があった。

 ついては、記載された番号でATM担当の部署に自前の電話で通話して、じかに掛け合ってくれ、ということになった。そのiPhoneには当行のアプリがインストールされとるはずでしょ、そんで認証ばすっと、向こうであんたの本人確認ができるずら──スロヴァキア語というのは、チェコ語に慣れた耳には、わけのわからない方言にきこえることがある。

 けっきょく、兎にも角にも話はつき、5営業日以内にメールで回答がくる、と告げられて幕となった。前述したように、銀行ではさんざんな目に遭ってきただけに、あまりのスムーズさに眩暈がするほどだった。ほかの銀行じゃこうはいかないよ、と礼を言って出てきた。

 すると、さっそく明くる日にメールが来た。あっさりしたもので、クレームが認められ、口座に2000コルナが入金された由であった。あの日の終わりに機械を締めるとき、紙幣を数えたら1枚多かった……そんなところだろう。偽札なんかであるわけがないのだから。

 その回答メールの発信元は、「返金スペシャリスト」とかいう面白い肩書きの人物だった。スペシャリストというくらいだから、本社のプラハ勤務なのかと思ったら、意外にもオロモウツの支店にいるらしかった。

 じつは買収された前身の銀行のさらに前身が、オロモウツ農業銀行だったというから、あながち窓際というわけでもないのかもしれない。やはりそこはチェコ(=ボヘミア)ではなく、腐れ縁のモラヴィアにある町であって、自分とは相性がよいのだろうと納得しておいた。

 ──というわけで、チェコ共和国で銀行口座が必要になった折りは、ライファイゼンバンクを検討されてみては、と思う次第。ご参考までに。

去年マリエンバートで(字幕版)

去年マリエンバートで(字幕版)

  • デルフィーヌ・セイリグ
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ラム酒でつくる〈グロク〉と〈ヤーガーテー〉

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photo by Maximalfocus

 ラム酒が、大陸ヨーロッパの内陸部で何世紀も愛飲されている──というと、奇妙に聞こえるかもしれない。

 ラムは廃糖蜜から作られ、その原料となるサトウキビは暖かい地方でのみ栽培が可能なのだから。日本では沖縄地方が産地として知られている。

 ところが、「合成ラム」というものが存在するのだ。

⭐︎ おらが国の合成ラム

 もとは、馬鈴薯などに由来する食用アルコールにカラメル等で着色をほどこし、香料でそれらしい香りに調整された代物だった。かつてオーストリア・ドイツ語では「インレンダールム」と呼ばれ、チェコ語では「トゥゼムスキー・ルム」と銘打って売り場に並んでいた。記憶はさだかではないが、後者では「チェスキー・ルム」と称した製品もあったようだ。

 いずれも輸入された本物のラムと区別するための呼称で「ドメスティックなラム酒」すなわち「国産ラム」ないし「ご当地ラム」くらいの字義ではあった。けれども高価な酒に縁がない大衆酒場でラムといえば、これしかなかったりしたものだ。

 いぜんは漠然と、ナポレオン戦争の時代に発明されたものだろうと思っていた。大陸封鎖令と自由拿捕令によって仏英はたがいに兵糧攻めを企図したが、そうなるとカリブ海からラムを輸入するのは至難となるはずだ、と勝手に想像していたのだ。

 どうやら違った。たとえば『オーストリア外食・ホテル産業新聞』(2014年11月7日付)の記事にある。それよりはるかに遡った時代に、たんに安あがりに製造・売買・消費できる商品として開発されたものだったというのだ。サトウキビが必要なラムは、アルプス以北の寒冷地では戦争など関係なく、もとより高価な舶来品だった。

 ドーナウ河畔のクレムスは、風光明媚なヴァッハウ渓谷の観光がてら訪れるのがよい。オーストリア・ワインの産地として名高いが、行ってみたら存外にしずかな町であった。

 ここで17世紀に薬剤師が考案したのが、くだんの合成ラム酒であったといわれる。やがて、同様の品を製造販売する業者は、ボヘミアハンガリーなど帝国各地にひろがっていった。日本酒にも「合成清酒」というのがあるし、みりん(味醂)にすら「みりん風調味料」というのがある日本であるから、このへんの感覚はよくわかる。

 しかしながら、欧州連合EU)の食品や種々の製造物にたいする姿勢はきびしいもので、あらたに加盟した旧帝国の継承諸国にもガイドラインが適用された。──"RUM"の字句を表示することはまかりならない、となった。そもそも「ラムもどき」なのだから、当たり前の話だ。他所のふつうの国でこれをラムだと強弁することには無理がある。それで消費者保護の見地からは客観的で公正にみえるも、メイカーは戸惑ったことであろう。地元では何百年ものあいだ「ラム」扱いだったのだから。

 結果、オーストリアでは「インレンダー・スピリトゥオーセ」、チェコ共和国では「トゥゼマーク」、ハンガリーでは「ハヨーシュ」などと、いずれも「ラム(ルム)」という語や形態素を含まない、つまり誤解を生じさせない表示に改められた。たほうで、原産地呼称の規定も適用され、それぞれの国で製造されたものだけが許される品名となっているそうである。

 ただ、さいきんでは原料にサトウキビを用いているものもあって、こうなるもはや本来のラムと区別する意義がわからなくなってくる……。

 

⭐︎ レシピ──ラム酒であたたかい飲み物を

 ところで、ラムという酒には先入観をもっていた。むかし飲んだのが、あまりうまくなかったのだ。だからこそ、ロン・サカパの23年物をはじめて口にしたときには、あまりの美味におどろいた。それでラムの市場があんがい大きいことにも納得できるようになった。どうやら近年は拡大しているらしいのであるが、それも不思議とは思われない。

 こういう経緯から、ラムが苦手だという声があっても理解はできる。が、そんな向きにもおすすめなのが、ラムでつくる温かい飲み物だ。「グロク」や「ヤーガーテー(イェーガーテー)」である。寒い季節にはぴったりだ。

 原則的には「ご当地ラム」でつくるものとされる。上掲記事には、試飲会の様子も描写されていて、S・シュピッツ社の「ご当地もの」をつかった一杯が、地元のひとに「これだ。まさに子どもの頃の味だ!」などと称賛されているくだりなどは、いかにも業界紙という風情なのだった。

 じっさいには、上等なラムをつかっても差はない。捨てるわけでなし、気に入った銘柄がいちばんだ。──そういえば、例のウイルスが世界を席巻しはじめたころ、蒸留酒が家庭内の消毒液がわりにつかわれ、SNS上の写真では惜しげもなく高級な品が用いられていることが多々あった。なぜ飲まないのかと憤慨した飲み助は、わたくしだけではあるまい。つまり、良い酒は無駄にしてはならぬという、変な倫理観には共感するところではある。

 さて、先日も触れた、レティゴヴァー女史の『家庭の料理書』(初版は1826年刊)から「グロク」のレシピを拝借してみる。19世紀ボヘミア流。といっても、かなり簡単だ。

 グロク
 この飲料は、ラム酒と砂糖と沸かした水だけでつくられる。グラスに砕いた砂糖を入れ、ラム酒を好みの量そそぎ、熱湯を加えよ。

 これだけだ。

 「砕いた砂糖」とある。19世紀における砂糖は、砲弾にも似た円錐状のシュガーローフの形態で流通していたから、家庭で砕く必要があったわけで、上白糖やグラニュー糖をもちいる現代人には要らない工程だ。なお、コーヒー用のブラウン・シュガーも好適だと思うが、氷砂糖をゆっくり溶かしながら飲むのも一興かもしれない。

 「ヤーガーテー」のほうも、いろいろのレシピが知られている。ざっと見わたすところ「グロク」との違いは、「テー」という手前、熱湯の代わりに「紅茶」を用いるくらいにすぎない。シナモンやクローヴをくわえるレシピがおおいが、お好み次第だろう。ちなみに、ボトル入りの既製品もあって、こちらも原産地呼称制度で保護されている。

 

シンデレラたちと成長の神話

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photo by Alain Audet

 2019年末に目を瞑って、ふたたび目を開けたら、2022年元旦だった──というインターネット・ミームがある。まさにそれ。ここ2年間の記憶が、なんだか曖昧な感じだ。

 それだから、おおくのひとが節目を実感できる行事や娯楽を欲したのではと想像する。ちょうど、クリスマス・年末から正月にかけては、そういう時節ではある。

 とはいっても、大晦日に放映されているNHKの「紅白歌合戦」は視聴率が低下しているらしい。反面、年末年始の「シリーズ全話一挙放送」のような再放送の企画は地上波でも増えてきた。

 ヨーロッパでは、たいてい国ごとにクリスマス期におなじみの番組というのがある。各局の予算規模の差異を捨象して、どちらが頻繁に過去の番組を再放送しているかと比較するのも公平ではないかもしれないが、印象としては、なべて欧州では以前からの傾向ではあった。わけてもこの時期は殆どの職員が休暇をとる関係から、なおさら都合よいにちがいない。たとえば、英国で『モンティ・パイソン』のスケッチが世代を超えて知られているのは、こうした再放送のためらしい。

国民的シンデレラの死

 東ドイツチェコスロヴァキア合作によるシンデレラ絵巻も、この例に属する。1973年制作の『灰かぶり姫とみっつの榛の実』である。

 いまでもチェコ共和国では12月24日の夜8時台に放送されるのが慣行で、ディナーのさいちゅうでも音声だけ聴いているという家庭もあるのだという。制作国だけでなく、ノルウェイなどでも人気があるらしく、リメイクの計画も報じられていたほどだったけれど、続報は記憶にない。その後どうなったのだろう。

 今期、つまり2021年のクリスマス・イヴは、とくに感慨ぶかく観入った家族もおおかったかもしれない。主演のリブシェ・シャフラーンコヴァーが、半年ほどまえに亡くなったばかりだからである。68歳というと、さいきんでは早すぎる印象があるも、肺癌の困難な手術を受けていたとも伝わっている。告別の行事がプラハや、生まれ故郷のブルノ近郊シュラパニツェで行われたものだった。

 シュラパニツェは、たまたま日本人の知人が住んでいたことがあって知っているが、なにもないような知られざる鄙だ。そこから全国区で「リブシュカ」と愛称で呼ばれるまでに伸し上がったことになる。そして、共産期・正常化時代のスターでありながら、民主化後も「シンデレラ」でありつづけた。つもる雪のなか白馬を駆る少女の姿で、今後も人びとに記憶されてゆくのだろう。

 継母らに虐げられる末の娘であるシンデレラは、魔法のヘイゼルナッツに願をかけ、変身をくりかえす。映像としては、歌舞伎でいう「早替わり」にも通じるが、いずれもきらびやかな衣裳である。そして、舞踏会で王子さまに見初められ……と、あらすじにはニェムツォヴァーとグリム兄弟が下敷きにある。

 おおくの日本人の念頭にあるのは、ひょっとするとかぼちゃの馬車がでてくるディズニー版のストーリーかもしれない。それでも、シャルル・ペロオを澁澤龍彦の訳で読んだという読書人もすくなくないはずだ。また『落窪物語』はどうなんだという文学に通じた向きもあるだろう。いずれの版にせよ、素朴な変身願望や救済願望をみたしてくれる、神話的かつ牧歌的ないいつたえである。


西側のシンデレラ

 いっぽう、オーストリアにもTV映画版のシンデレラがあった。クリスマスの定番ではないけれど、ことしは元日に公共放送・ORFで放映されていたようだ。

 『ターフェルシュピッツ』(1992)といった。タイトルは含蓄があるとはいえ、食肉の部位であり、同国がほこる名物料理の名にもなっていることは周知のとおり。それもそのはず、老舗レストランの娘によるビルドゥングスロマーンである。つまり「成長」の物語だ。そのじつ、かなり俗っぽいドタバタ劇でもある。

 主人公・リリーは、若くして調理の才覚にめぐまれている。店を切り盛りする実母から本格的に家業を継ぐまえに、オ・ペアの仕事に応募し、ひとりベルリンに出立する。要は、住み込みのベイビーシッターだ。そこへアメリカ人の投資銀行家が訪ねてくることになったが、でたらめな料理しかできないホスト家庭の主婦にかわって、リリーが調理を引き受ける。すると、その味がいたく気に入った銀行家、トマス・ジェファソン6世とかいうのが、リリーとは面識もないまま、料理人をニューヨークに招聘したいと後日、秘書をつうじて打診してくる。リリーは、ベルリンからニューヨークへ飛ぶ……。その後は、トマス・ジェファソンとのロマンティック・コメディとなる。その秘書なる男にしろ、生き別れたリリーの実父であることが判明するというご都合主義っぷりで、ますます安っぽい展開となってゆく。それでも、物語の本質は「シンデレラ」そのものだった。

 衣裳の「早替わり」の趣向もやはりあった。さいきんよく見かけるオーヴァーサイズぎみのコートなども作中に描かれていたが、そういえば1980年代から90年代にかけてのファッションだった。1992年といえば、直前にソ連が崩壊している。冷戦が終わって、新たな時代がはじまっていた。当時のグローバル化や、つづいてやってくる新自由主義や情報化の波を時代背景としてかんがえると、その浮ついたノリにもなんとなく得心がゆく。

 こうして、制作時代もことなる東西の「シンデレラ」をくらべてみれば、皮肉にも社会主義体制下のほうが純粋に夢を見られたのかもしれないと気づく。

 むろん、ドイツ社会主義統一党チェコスロヴァキア共産党がこのシーズンに美少女によるシンデレラ譚を放映させた所以を斟酌すれば、こうした感想こそ連中の思う壺で、このあたりの心理にオスタルギーの誘惑やポピュリズムの罠も潜んでいるのであろうが。


もうひとりのシンデレラの死

 ボヘミアモラヴィアでは、大戦が終結するや各地の住民がドイツ語話者を町から追放した。戦前、国内人口の約3割を占めていたといわれる。なかんづくズデーテンとよばれた地域には、そのために空っぽになった集落も多くあった。その空いた住宅を中央政府に斡旋されたのは、あらたに植民してきた人びとだった。──あるとき、訛りが一切なく人工的にうつくしくチェコ語をはなすひとがいて、尋ねると、こうした呪われた故郷の歴史をおしえてくれた。町全体が、土着の文化から切り離された移住者の末裔なのだと。

 こうした地域では一般に、共産党社会主義的な政策は支持されることはあっても、厭われることはないと想定されうる。直近の選挙報道をながめても、かつてのズデーテンにあたる諸地域やオロモウツ県などで、共産党やANO党など左派の支持が高かった。また、失業率がたかい地域もほとんど一致している。辺境の土地でひとを追放するというのは、なけなしの属人的な地場産業を破壊する行為でもあったことだろう。単純化してひとつの線で歴史を語るのも胡乱なこととはいえ、物語の文脈としては考慮されうべき点である。

 しかし、くりかえされたロックダウンや行動制限、営業規制のさなか、とくに疲弊した地域を思えば、ばらまき的な政策の是非をことさら問うのもナンセンスであったことだろう。統計上は、コロナ騒ぎによってむしろ儲けた人間や企業のほうが多いらしいとはいっても。いずれにせよ、ビロード革命から30年も経つと、社会には厳然たる格差がうまれている。公的支援にすがるひとがあったいっぽう、なにも困らなかった富裕層もとうぜんいる。

 リブシェ・シャフラーンコヴァーの訃報から遡ること数か月、チェコ共和国ではもうひとりの「シンデレラ」の死も報じられていた。同国でいちばんの富豪と謳われた、ペトル・ケルネル氏である。登記上オランダに本部を置く投資会社・PPFグループの創業者でありオーナーであったが、2021年3月末、スキーをたのしんでいたアラスカで、ヘリコプター事故のため死亡したと伝わった。物語論には「英雄の非業の死」はつきものだが、スキーはともかく、アラスカにヘリコプターと聞けば、庶民には「かぼちゃの馬車」にもひとしい。輪をかけてお伽噺のようにも響く。

 とはいえ、英雄死すとも、資本主義は死なず。報道によれば、同氏の死後もグループはM&Aを続行し成長をつづけている。


セドラーチェク

 昨今「新しい資本主義」という、なぞのような概念がひとり歩きしている。社会主義のようなものではないか、とも揶揄されている。岸田総理についての記事をよむと、そうとうやさしいひとのようで、やはり他人のいうことを「聞く力」に長けているようだ。だからこそ「分配と成長」だか「成長と分配」だかにしても、いずこへ向かうのかさっぱりわからないという先行きの不透明感におおわれている。株価のほうも、新年正月4日の大発会こそ御祝儀相場となったが、その後は上値が重いようにもみえる。

 近年、経済学の潮流を紹介するNHKの番組でとりあげられた理論家に、トマーシュ・セドラーチェクがいる。ヒントになるかもしれない。

 チェコスロヴァキア民主化後まもない時期に、23とか24とか、はたちそこそこという若さで、ときのヴァーツラフ・ハヴェル大統領に経済担当顧問として仕えた。「大抜擢」という意味では、このひとも「シンデレラ」と呼んでもよいのではないか。代表作『善と悪の経済学』は、チェコ語ではすでに第3版が刊行されており、日本語をふくめ世界で21の言語に翻訳されたのだという触れ込みである。

 基本的な主張は、件の番組制作班による『欲望の資本主義──ルールが変わる時』(東洋経済新報社刊、2017)にて、インタヴュー形式で簡潔に述べられている。

 同書は、不平等の拡大・拡散に警鐘を鳴らすジョウゼフ・スティグリッツに取材した章から始まる。この碩学はといえば、これまでのような資源を喰い尽くすがごとき成長はもはや不可能だが、別の形の成長は可能だし、貧困層を救うためにも必要だと言っている。かたやセドラーチェクは、こうした「成長は善きこと」で「経済は成長しつづけねばならん」という思い込みこそ根拠がなく、問題であると喝破する。

 セドラーチェクは、2020年のロックダウンの季節にあって、チェコ語のメディアにも登壇していた。その際には、ばらまき的な政策にも慎重な姿勢を示していたのをおぼえている。つまり、非常事態のさなかにあっても、財政にかんしては相変らず保守的だった。ということは、成長にも分配にも否定的ということになるのだろうが……。

 上掲書では日本とチェコ共和国の対比も多く、また全般的にセドラーチェクが論じるいわば「人文経済学」は比喩が分かりやすいので面白い。が、個人的にはいささか「空想的資本主義」の感もいだかざるを得なかった。所詮は一知半解による憶断かもしれないが、総理にしても「流行ってるみたいだから言ってみた」くらいの小噺であったら助かる。

 さて、新年こそ世界中すべてのひとに、成長と分配のご加護がありますように。シンデレラ・ストーリーとはいかぬまでも……。