ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェコ共和国と比例代表選挙

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 イタリアではひとあし早く「スーパーマリオ」政権が成立したけれど、今年はおおくの国が選挙を控えており、いっせいに国政の顔ぶれが様変わりすることもありうる。

 ひと月ほどまえ、チェコ共和国憲法裁判所が、平等な投票権と立候補の機会に反するとして、選挙法の一部を無効とした。これが今年の選挙にもおおきく影響する可能性がある。地域による「一票の格差」を是正する措置は日本でもよくあるが、注目されているのは阻止条項をめぐる細則の廃止である。

 同共和国の下院にあたる代議院の選挙では比例代表制が採用されており、小党の乱立をふせぐ阻止条項が設けられている。つまり各党とも議席を得るために、全国得票率で5%以上の票が必要となっている。ところが、選挙に際してふたつの党が政党連合を組むばあい、これが10%以上となり、3党ならば15%、それ以上は20%という「割り増し」の足切りラインが適用される追加条項が、2000年から発効していた。さまざまな会派に属する元老院議員21人から提出された申し立てを受け、2017年の末からこうした不平等の問題が討議されてきた。たとえば海賊党の主張によると、この年の選挙で5%以上の票をかろうじて獲得した政党・STAN運動は、ひとつの議席を得るのに、政権政党となったANO党のじつに2倍の票を要したとされる。

 とうぜん、ANO党を率いるバビシュ首相はじめ、政権与党は裁判所の決定に反発した。いっぽう歓迎のツイートなどしたのは、ヴィストルチル元老院議長ら、市民民主党(ODS)やTOP_09党、キリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)の面々であった。3党はすでに、来たる選挙における協力を約しているのである。この中道右派連合の形成に尽力してきたTOP党のカロウセク元代表は、正月に政界を引退してしまったが、そのときすでにあたらしい政局がはじまっていたのかもしれない。今後は代議院選挙には立候補しないとはいえ、状況しだいで大統領選へ出馬することには含みをのこしている。

 ところで、デュヴェルジェの定式を引くまでもなく、比例代表制による選挙では多党制の政治になることが宿命づけられている。古典的なジョセフ・ロスチャイルドの概説によれば、1918年の新生チェコスロヴァキア多民族国家であったことにくわえて、他のハプスブルク継承国家に比して多様な産業を擁していたため、はたして政党が林立した状態となった。こうなると政権の安定が危ぶまれるが、リアリストのマサリク大統領のもとで「ヴェルカー・ピェトカ」あるいは単に「ピェトカ」と呼ばれる、非公式の会議が催されることが、やがて慣例となった。「五大政党代表者協議会」と意訳するとわかりやすい。これは憲法にも規定がなく、ややもすれば議会制民主主義を形骸化させかねない諸刃の剣ではあった。それでも、この時期には内閣不信任決議が通るようなことはなかったのだから、所期の目的は達せられた。

 そこまでしても、建国このかた、おおよそ公正な選挙というものは比例代表制と決まっていた。というのも、かつてのオーストリア君主政における多数代表制では、民族的多様性を議会に十全に反映することができず、また、いわゆるゲリマンダー、つまり我が田へ水を引くような区割りにも不公平感が昂じていたためでもあった。それだから戦間期の「第一共和国」をつうじて、代議院(下院)だけでなく元老院(上院)も、そして地方議会選挙にいたるまで、徹底して比例代表制が採られた。特徴としては、厳格な拘束名簿がもちいられたことで、今日の研究者のなかには「もっとも比例代表的な」システムであったと評価する者もある。だが、たとえば1920年の選挙では、マジャル人=ドイツ人社会民主党が1.8%の得票で4議席を得る一方、悪名高い「拘束名簿制に抗する同盟」にいたっては、じつに0.9%で3議席を得たのだという。阻止条項について考えさせられる話である。

 戦後は、チェコスロヴァキア共産党比例代表選挙を奪い去った。共産党のやる選挙とは人民民主主義出来レースで、比例代表の代わりに1950年代に導入されたのが、小選挙区制であった。……あれだ。極東のどこかの国で二大政党制をめざして導入されたものの、散々な目にあったやつ。候補者と選挙区の有権者のあいだの意思疎通が緊密になる点が、とくに重要であるらしかった。

 それだから、ビロード革命を経て比例代表制が復活したのは、しごく当然のことと思われた。上述のような歴史的な経緯もあるが、じっさい多数代表制のもとで、共産党や人民戦線の「顔なじみ」に票があつまったのでは、社会主義時代と変わらないことになってしまう。あるいは、当時のハヴェル人気からすると、市民フォーラムの独り勝ちになる可能性もあったものか。こうなると、せっかくの民主主義の芽が育つことなく消滅してしまいかねない。ひとつの政党しかまともな選択肢がないという極東の不幸な島国をみれば、これは避けるべきとわかるだろう。投票ができても選択はできないというのでは、もはや民主主義ではない。

 すぐのち成立したチェコ共和国では、憲法に「比例代表の原則」に沿う選挙がおこなわれることが明記されている。文面にsystémという語こそもちいられていないが、事実上、比例代表選挙が国是となったのである。こうして、同国の代議院で比例代表制が採用されて、現在に至っている。

 むろん、比例代表制にも批判がないわけではない。典型的には、近年ドイツ連邦共和国に起こっている懐疑論である。ドイツの場合はヴァイマル期に完全な比例代表制が採られた結果、ナツィの擡頭を招いた。それだけに件の阻止条項がもうけられ、多数代表制で補完する仕組みを採っている。小選挙区比例代表併用制と呼ばれる。ところが、それにも拘わらずAfDの躍進をゆるすことになってしまった。周知のように、これは極右政党であるが、実質はネオナツィではないかという疑義の声が絶えない。ついでに、共産党は戦後西ドイツで早々に非合法化されたが、こんにち気がつけば左翼党が現れてもいる。同党は、スターリン主義を標榜する派閥すら内包し、公安当局の監視下にあるという。

 チェコ共和国では、ドイツほどの深刻な事態にはなっていないようにみえる。しかしながら、あるODS系のシンクタンクは、共和国は少数与党による不安定な政治に悩まされてきたなどとして、多数代表制が理想の制度である旨、主張している。改憲派ということか。もっともODSの本音としては、社会民主党(ČSSD)とともにスペクトルの左右に君臨した、黄金期をとりもどしたいにちがいない。たしかに当時は、左端にはボヘミアモラヴィア共産党(KSČM)がおり、中ほどにKDU-ČSLも鎮座して、有権者にはわかりやすい形で選択肢が並んでいた時代であったとはいえる。だがそれも、比例代表選挙のもとで成立したものであった。

 この二大政党的な政党システムもけっきょくは、足のひっぱり合いによって当の左右の政権が交代したのち、最終的に消滅したようにみえた。その後の中道連立政権も、チェコ版スンシルゲートのごとき疑獄がもちあがって瓦解した。つづく欧州ポピュリスト政党ブームのなか、得体の知れないマーケティング政党が政権を握っている現状である。比例性の不平等という憲法違反の帰結だといわれればそうかもしれないが、このあたり、選挙法がすこし改定されたところで、政治文化までもが大幅に変わるとも思えない。どうだろうか。

 ひるがえって日本である。筋論でいえば、ほんらい日本の衆議院小選挙区比例代表並立制など廃して、全面的な比例代表制を採用すべきなのだ。よく日本の選挙には「地盤・看板・鞄が必要」などといわれるが、今日それらをもつ者は「貴族」と呼んでもよかろう。そして貴族には、貴族院の後身である参議院(上院)に行ってもらわないといけない。衆議院(下院)の議員には、国民各層がおのおのに比例してそれぞれの代表を選べてこそ、平民の民主主義が成立し得る。経団連も、日本医師会も、東北新社も、それぞれロビイスト翼賛政党や省庁に送り込んで、密室で政策が決まってしまってのち、議場ではポンコツ野党がくだらない質問をして、政府閣僚は官僚の書いた紙を読むだけの答弁に終始する──こんなのはまともな民主主義とはいわない。感染症と闘う医師たちとはなんの関係もない医師会なる団体が、病床を増やす努力もせずに、直に政権中枢に働きかけ、ひたすら下々に外出自粛や休業を強いるとき、飲食店や中小企業の利益を代表するための政党は皆無なのである。──例えばの話だが。

 また、多数代表制のもとでは、政党助成金など選挙区にばらまくのがもっとも効率がいい使い道……ということになってしまっていても不思議はない。昨年からさかんに報じられていた広島における公職選挙法違反疑惑の公判をみていれば、明らかである。そもそも政党交付金というのは、比例代表制とセットで運用されるはずの制度だ。なおかつ、それぞれの政党が一定の割り合いで「ブレーン」に支出することを義務づける必要がある。すなわちシンクタンクのことであるが、これ抜きには、ポンコツ野党はいつまでもポンコツのまま、要領を得ない質問と週刊誌ネタの追求しかできない。与党だって、自前のブレーンをもたぬ政治家はまともに反証できず、官僚の言いなりになっている。

  

*上掲画像はWikimedia

 

ロウシュキとレスピラートリ

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photo by Wilfried Pohnke

 ヨーロッパ各国の感染症対策を主導するのは医師やウイルス学の権威であるから、どうしても規制は厳しめになる傾きがあるようだ。そもそも日本とは犠牲者の数字が桁ちがいというのが、やはり大きいには違いないけれど。

 1月下旬、ドイツやオーストリアにおいて、公共交通機関や商店などでの、FFP2規格のマスクの装用が義務化された。FFP2はご案内のとおり欧州の規格で、エアロゾルを94%遮断するというから、おおむね米国のN95や中国のKN95に相当する。

 いつもなにかにつけて旧宗主国の動きを窺っているチェコ共和国政府も、いずれ追随するであろうとは思っていた。はたして2月25日を期して、つまりひと月おくれで同様の策が施行されることになった。アレナ・シレロヴァー財務相が大手スーパーを視察してまわる動画が、月初めにSNSで公開されていたのも、いま考えれば布石のようなものであった。そのとき話題になったのは、黒革のライダースを身につけて颯爽と公用車から降りる大臣の「勇姿」などなど、枝葉末節のみであったが。

 昨春のパンデミック騒ぎの発生以来、ヨーロッパにも急速に普及したマスクである。これを指すドイツ語で、おそらくもっとも仰々しい語がMund-Nasen-Schutzで、直訳すると「口鼻防護具」のような意味となる。即物的な物言いがドイツ語っぽさを感じさせるものの、まいにち口にされる言葉になるにおよんで、Maskeという単純な言い方がふつうになった。

 たほう、チェコ語ではいまだに、rouškaとrespirátorという2語をつかいわける。それぞれ複数形で「ロウシュキ」「レスピラートリ」と言われることがおおい。たとえば上掲の画像にある2種類のマスクが、ちょうど両者に対応している。

 前者、rouškaを定番の文語辞典(SSČ)で引いてみると「頭部を覆うヴェール」という定義が最初にあり、2番目の語義として、いわゆる「マスク」の意味があがっている。製品として、布状の様態を有していないといけないとわかる。じっさい布や不織布でできた一般的なマスクを指して使われる語である。

 後者、借用語のrespirátorは、端的に「マスク」とは書かれていないけれども、吸気を濾す装置である旨の記述になっている。そこでドイツ語はどうなのかと、ある独和辞典でRespiratorの項をみれば「呼吸マスク」という、説明になっているかどうかもあやしい一語で説明が済まされていた。しかし、さすがにオンライン版_Duden_の定義は、手術などのあとで使用される人工呼吸器、となっている。

 日本語で「レスピレーター」といえば、まず「人工呼吸器」のことである。つまり_Duden_にひとしい。すくなくとも医療や介護の現場ではその意味でつかわれているし、たとえば『大辞泉』にもそう書いてある。防塵用のマスクをそう呼ぶこともあるにせよ、たいていはフィルターが交換できるようになっていたりする、あるいは「耳目口鼻防護具」みたいな、いずれにせよ大仰な仕掛けの製品が多い。

 では、英語のrespiratorはどうか。ためしにオンラインで_Cambridge Dictionary_をあたると、ひとつ目の定義が日本語と共通の医療機器を指している。そして、ふたつ目の定義が「有害物質の吸入を防ぐために口と鼻を覆って装用される装置」と、マスクかその延長といった意味内容になっている。こうしてみるとやはり、このなかでは英語がいちばん大雑把である、という印象にもなりそうだが、そのぶん辞書は明解に作られている。

 辞書の定義はともかく、日常会話のチェコ語では、ふたつの語がいずれもマスクを意味してはいる。ただ、「布」であるロウシュキにたいして、レスピラートリは「装置」であるから、それなりに厳つい外観をしている、はずである。FFP2というと、ごわごわの厚手の生地をもちいた立体的な造形で、それなりの密着感もあり、ちょっとした装置にみえなくもない。

 今回のチェコ共和国における措置は、実質上「レスピラートリ装用義務化」といえる。同国の公共放送によると、推奨されるのは、FFP2、KN95以上の製品のみで、これらはふつうレスピラートリと呼ばれているためである。ほかにナノファイバーとよばれる生地が使用された「ナノロウシュキ」も許容され得、不織布のいわゆるサージカル・マスクでも、2枚重ねれば可とされる。公共交通機関、商店、病院など、ひとが集まる場所が対象となっている。ただし、子どもは免除。25日木曜日の午前0時から発効。前述の大臣のパーフォーマンスの例からも類推されるように、入念な準備があったとみえ、全国の薬局やネット通販サイト等での在庫も潤沢と伝わる。

 ところで、たまたま目についたのはYouTubeの動画である。1月のオーストリアにて、マスクの使用を拒否したものか、年配の女性が警官に拘束される様子が投稿されていた。同国は昨年、いちはやくスーパーの入り口でマスクが配布されるようになった国であった。あれからもうすぐ1年になろうというのに、マスクをめぐってはまだまだ葛藤があるようだ。FFP2やN95のマスクを長時間していると、スチームバスのなかで呼吸するような息苦しさにもなってくるから、気持ちはわかるけれども。──2021年早春、中欧のマスク事情からの一席であった。 

 

 

*参照:

www.youtube.com

www.afpbb.com

 

孔子学院とインド=太平洋のドイツ艦

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photo by heinzbltes

 トランプ政権に中国共産党の「スパイ機関」と指弾された孔子学院について、昨今ではウェブ上に、いろいろの「検証」記事が上がっている。しかしながら、スパイ機関が「スパイしています」などと口を割るわけがない以上、その真相が明らかになることはなかろう。また、バイデン政権の下では、この件がどのような扱いになるのかも不明である。

 そもそも、バイデン政権の対中政策がまだよく見えない。ウェブ上の報道には「対中強行路線」などという見出しがおどるいっぽう、「尖閣が占領されたとしても動かない」などと、真逆ともとれる観測も散見される。真っ向から対立する見解が、「新冷戦」における両陣営の角逐を浮き彫りにしているかのようである。

 1月下旬の報道も象徴的であった。ホワイトハウスの記者会見において、中国にたいする方針が俎上にあがり、サキ報道官が「戦略的忍耐」の言辞で応えたのである。ある放送局がこれを好意的にとらえていたようであったのは、市場への影響を考慮した結果であったと思われる。けれども、NHKなどは反対のニュアンスで伝えた。インタヴューに応じた佐々江賢一郎元駐米大使は、その「戦略的忍耐」という態度によって、けっきょく「北朝鮮の核開発を阻止できな」かったことを指摘し、「いまこの言葉を対中国の文脈で使う意味がよくわからない」と批判した。いずれにせよ、米国が「様子見」の態度であるかぎり、心もとないことはたしかである。

 昨年には香港が「陥落」し、いよいよ台湾有事の予感もささやかれるなか、ウイグル人にたいする弾圧が明るみにも出た。欧州勢もいよいよ傍観していられなくなってきたのであろう。EU脱退が決まるや「脱欧入亜」的な動きをみせる英国はもちろんであろう。が、フランスも昨今、攻撃型原潜を南シナ海に派遣し、それを高らかに発表してみせた。潜水艦のセールスの都合という指摘もあるにはあるが、近年、住民投票で独立が否決されたニュー・カレドニアなど、太平洋の領土や権益を守る態度を示す必要があったことが大きかったにちがいない。ところが、南洋の権益を百年も昔に失っているドイツですら、フリゲートハンブルク」を派遣して、英仏との合同訓練に供すると表明したのだ。

 歴史的には幾度もベルリンを蹂躙されているドイツが、とりわけロシア人を警戒するのは道理である。それを牽制するために中国との友誼をむすびたがるのもまた、地政学的には自然なことに思える。そのドイツでさえ、昨年9月に「インド=太平洋政策ガイドライン」を策定し、潜在的な火薬庫と化しつつある東の果てに関与する姿勢を示しているのは、いかなる底意によるものか。日本にとって、プロイセン憲法のむかしから、参照に値する種々の法令や政策を有してきたとはいえ、地政学上なかなか油断ならぬ国である。破局を招いたかつての軍事同盟も、国内外の特殊な事情が重なってはじめて成立した例外的な事象であった。そのことは、せんじつ亡くなった半藤一利の著作のなかでも、よく描写されていたものである。

 とまれ、軍事を背景にした外交における緊張が昂まりつつあるなか、ソフト・パワーだけが用いられぬ理由もない。孔子学院が世界各地に浸透したのは、共産中国の経済的な擡頭と揆を一にしていた。

 中東欧における米中外交筋の綱引きは、なかんづく昨年に、最初の世界的なロックダウンが一巡した初夏の侯、熾烈をきわめた。チェコスロヴァキアをはじめ、この地域の国々とは、第一次大戦後にフランスなど西欧の都合で、ボルシェヴィズムに対する防波堤として設置された「緩衝国家」群であった。その意味では、東西の綱引きの対象になることは宿命づけられている。

 ハンガリーポーランドでは近年、反リベラル・ポピュリストによる政権が成立し、EUと対立することが多くなった。チェコ共和国では、親中・親露の方針を隠そうともしないゼマン大統領と実業界出身のアンドレイ・バビシュ首相によって、目先の実利を指向する対中関係がつづいている。

 そのチェコ共和国で、大学運営に関する法律が改正されたのは1998年のことであったから、ちょうど日本の国立大学が独立行政法人化されたのと同じ時代のことであった。しばらくのち現地で耳にしたのは、隣国ドイツの政党による「綱引き」である。ある大学で、ひとつの学部の図書館がキリスト教民主同盟(CDU)系の財団の補助を受けて改築されたといえば、対するドイツ社会民主党SPD)は向かいにある学部の図書館の整備を助成する、といった具合である。要するに、それが大国としての中国の興隆とともに、財布の主が交代したという話である。

 孔子学院は、中国が既存の大学に設置してくれるというのだから、大学や行政にとってはいわば渡りに船であって、それを断るというのは理屈が通らない。それだからこそ、プラハのカレル大学の学長が、同学院設置のオファーをつっぱねた際には大きな話題になったものだ。ゼマン大統領肝煎りの事業をあえて拒絶したのである。けっきょく学院は2019年、同市内にある私立の財務経営大学に置かれることになったが、この大学では以前、カレル・ハヴリーチェク副首相兼産業貿易大臣が学部長を務めていたこともあり、さまざまな憶測をよんだ。なお同国の孔子学院は、すでに2007年9月、オロモウツのパラツキー大学に開設されており、またオストラヴァの鉱業工科大学にも設置されているとも聞く(2018年3月)。首都プラハはともかく、地方の都市では拒絶するのはむずかしかったことであろう。なにしろ、地元の文教関係者らにとっては利権である。中国様様だ。

 たとえば先般のミャンマーにおけるクーデタにしても、地理的に「援習ルート」にあたっていると説明されれば、仔細は不明ながらも腑に落ちる。同様に、政権内や議会で、感染症対策が訳のわからない理由で紛糾する場合にも「ははあ、このひと中共毒饅頭くったのかな」などと想像すると、なんとなく筋が通ったりする。なんといっても、首相みずからが資本を握るなどしているチェコ国内の大手メディアでは、満足に報じられもしないテーマのひとつである。なにが起きているのか、じつのところ知る由もない。

 すくなくともドイツにしてみれば、徐々に構築しつつあった紐帯が、あるときを境に急激に中国の影響下に組み込まれていった末の現状を、これ以上みすみす指をくわえて眺めているのも癪であろう。ちょうど1年前、プラハにおけるチェコ元老院議長の急死に中共の関与が噂されるに及んで、よもや次はベルリンか、と態度を豹変させたようにも見えた。それでも、政権内にいぜん温度差はあるようにはみえるが。少なくとも、太平洋におけるコミットメントについては歓迎されこそすれ、クワッド陣営としては、それこそ断る理由もないのではないか。 

Hobbyboss 1:72 - Germany Navy(bundesmarine) Westland Lynx M

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  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

*参照:

business.nikkei.com

vpoint.jp

bunshun.jp

 

チェスカー・ズブロヨフカによるコルト買収

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photo by Mike Gunner

 チェコ共和国の銃器メーカーである、チェスカー・ズブロヨフカ・グループ・SE(CZG)が、同業の老舗、米・コルト社(コルト・ホールディング・カンパニー・LLC)とそのカナダの子会社の全株式を取得すると報じられた。2億2000万ドル(およそ47億コルナ、約230億円)の現金と100万株以上の新規発行の株式を充てる。目下のところ規制当局の承認待ちとされるが、手続きは2021年第2四半期中には完了する見込み。両者はそれぞれの国において、軍への代表的なサプライヤーとして認知されてもいる。売上高はあわせて、110億コルナ(約540億円)ちかくになるという。

 「全世界の軍や法執行機関、民間市場における象徴的なブランドであり指標であるコルト社の買収は、銃器業界のリーダーに、そして軍事組織の主要なパートナーになるという弊社の戦略に、ぴったり合致します」と、同グループの会長兼最高経営責任者であるルボミール・コヴァジーク氏の言がプレスリリースにある。「175年以上にわたって米軍とともに歩んできたコルトを、ポートフォリオに加えることができるのを誇りに思います」とつづく。コルトは米軍だけでなく、子会社をつうじて、カナダ軍にも独占的に火器を納入しているとつたわる。

 コルト社の経営といえば、2013年に陸軍への「M4A1カービン」納入の契約を失って以降、近年はあまり芳しい評を聞いた記憶がなかった。けれども、現在の同社のCEOは「過去5年間で、経営成績と財務成績は歴史的な好転を遂げた」と、2015年の破産保護申請から再建が順調であることを強調している。

 さかのぼれば、サミュエル・コルトが回転式拳銃の特許を取得したのは、じつに1830年代のことだった。1836年に会社を興したものの、しばらく経営は安定しなかったようだ。それでも、やがて米墨戦争などもあり、政府からの大口注文が舞い込むようになる。南北戦争のさなか、47の若さで病没するが、会社はまさにそのとき莫大な利益を上げていた。同年のリンカーン奴隷解放宣言を知ることはなかったが、世間をして「神は人間を創造し、コルトは人間を平等にした」と言わしめた。のちのサーヴィス・ピストル「M1911」は二度にわたる世界大戦を経て、同社の名声を世界規模で不動のものとした。

 いっぽうCZG社も、軍や法執行機関はもとより、狩猟用や競技用といった民間用途向けの銃器を手がけており、チェコ、米国、ドイツ連邦共和国に約1650人の従業員を擁する、と前述のリリースにある。

 がんらい「チェスカー・ズブロヨフカ」といえば、すくなくとも最近までは南モラヴィアのウヘルスキー・ブロトに置かれた、ČZUB社を指した。ながい歴史があるとはいえ、1997年に米国へ本格的に進出してのちの飛躍は、まったく別の企業になってしまった印象すらある。その年、米国法人であるCZ-USAが設立されたのだが、その後の成功は、自動拳銃「CZ_75」シリーズのかねてよりの人気によって、すでに約束されていた。2005年には早くも、「M1911」クローンも製造するダン・ウェッソン・ファイアーアームズを買収しおおせたほどである。そもそも、今回の主役であるCZGじたい、2018年にCZ-USAから生じた持ち株会社であった。つい昨年6月にプラハ証券取引所に上場し、買収の資金を調達したとされている。

 「CZ_75」の開発は、ボヘミア中部出身の技師、フランチシェク・コウツキーによって1960年代の末に始まっていたという。それにしては人間工学的なデザインとダブルスタックによる大容量の弾倉をもち、ダブルアクション仕様のトリガー機構には独特のものがあったというから、往時の共産圏にあって、よっぽど例外的な製品だったにちがいない。例外といえば端的に9mmルガー弾というのがワルシャワ陣営の規格になく、お膝もとチェコスロヴァキア軍にすら採用されなかった。とまれ、民主化を経て、後身のチェコ共和国NATO入りした今となっては、とうぜん軍や警察でも使用されており、俗にツェーゼーチュカなどと愛称で呼ばれるほど、親しまれている。

 じっさい撃ったことがある。そのときはパスポートなどの身分証明書を射撃場にもってゆけば、だれでも実射できた。残念ながら性能について公平に批評するほどの知見はないが、いずれにせよ世界に誉れたかい優秀なピストルとして、同国ではひそかな誇りになっている。それだから、このところのロックダウンで人びとが逼塞するなか、各媒体がつたえる著名な米社買収のニュースは、寒空の下わずかに熱を帯びているようにも感じた。

 

*参照:

www.czg.cz

www.lidovky.cz

www.euro.cz

economictimes.indiatimes.com

www.arkansasonline.com

www.military.com

www.guns.com

 

プシェロフの虐殺

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 通話ソフトというのか、ウェブ会議アプリというのか、リモート勤務の普及にともなって、その手の仕組みを用いるひとは増えた。すっかり公演の減った演劇界でも、これを利用したプロダクションが生まれ、増えつづけている。動画として自宅から観覧できるゆえ、観る側も気楽ではあるが、それだけに演出にもさまざまな配慮が要りそうだ。映像ではあるものの、映画のような映像作品ともいえないから、どういう鑑賞がよいのか、考えてしまう。似たような映画もあったけれど、すくなくとも映画学的な構図論では語りきれないことは確かだろう。演劇学では、ラジオ・ドラマに固有の地位が与えられていたものだが、このあらたなフォーマット(オンライン動画劇?)も特別な理論の出来を待っているのかもしれない。

 そういう試みのひとつとして、チェコ共和国の公共放送がとりあげていたのが『目撃者』という国民劇場の演目で、この2月から劇場サイトをつうじてオンラインで公開されるそうである。演出は、ユィジー・ハヴェルカ。ありふれた題目から、おおよそ予測がつくように、証人が代わるがわる出てきて、ひとつの事件の別の側面をそれぞれ語りついでゆくらしい。映画であれば、黒澤明の『羅生門』に代表されるような、ある意味では古典的な形式といえるだろう。──しかし題材がまた、煽情的なのである。

 扱われるのは、1945年におこった「シュヴェーツケー・シャンツェにおける虐殺」、あるいはもっと簡単に「プシェロフの虐殺」と呼ばれる事件である。ヒトラーすでに亡き第三帝国が瓦解し、アルフレート・ヨードルが降伏文書に調印してから、ひと月あまりが過ぎていた。とはいえ混乱のつづく大陸のあちこちで、いまだに家路をいそぐ人びともあった頃である。

 6月18日、特別列車のふたつの便がプシェロフ駅に到着した。片方の列車には、もとの第一チェコスロヴァキア人軍団の兵士らが乗っており、プラハでの式典からの帰路であった。もう一方の旅客はスロヴァキアの村々の住民たちで、スロヴァキア語やハンガリー語を話す者のほか、20世紀初頭に「カルパティア・ドイツ人」と名づけられた、中世からドイツ語を話した家系の人びともいた。といっても証言によれば、家庭内でいずれの言語がはなされていたとしても、少なくないひとがトライリンガルであったと思われる。この民間人らは、1944年12月以降、なかば強制的にスロヴァキア東部からボヘミア北東部へ疎開させられていた。

 いっぽう兵士たちは、ブラチスラヴァ近郊ペトルジャルカの駐屯地へ戻る途上であったが、そのなかに、カロル・パズールという28歳の尉官があった。はじめ、独立スロヴァキア国にてフリンカの親衛隊に所属、のち機動師団に転じて参戦したものの、1943年に赤軍の捕虜となり、そこでファシズムから共産主義に「転向」して、チェコスロヴァキア人部隊に身を投じた。ベルリンが陥落して、5月下旬にチェコスロヴァキア人軍団は解散したが、国防情報局の将校として軍にとどまった。どうやら、家族のうちにSSに入隊した者や、ドイツ側の軍人と交際していた者があり、執拗に「汚名返上」の機会をもとめていたと推測されている。

 パズールとその副官であったベドジフ・スメタナは、予防的な尋問であるとの口実のもと、列車にいた件のスロヴァキアの住民をあつめた。そこで、おのおのがスロヴァキア人であることを証明する書類を携行していたにも拘わらず、第三帝国統治下における占領者への協力者であったと断じた。

 そうして、これを近郊の丘へ連行し、地元住民には墓穴を掘らせた。日付けが19日にかわるころ、部下たちによって処刑が開始され、朝の5時までつづいた。一説には合計して270人、内訳が男75、女120、子ども75人ともいわれるが、証言により数字は異なっている。生後半年ほどの乳児もふくまれていた──と、公共放送の記事にはある。

 パズールは軍法会議にかけられ、最終的に禁錮20年が言い渡された。ところが、ほどなく「2月事件」で共産党が天下をとると、1年ほど収監はされはしたが、けっきょく有耶無耶にされた。検察役としてパズールを追いつめた法務士官のほうが、政治裁判で裁かれる始末だった。

 事件は、長いあいだタブー視され、共産党体制下では口外が禁じられていたが、近年になって解明がすすんだ。とりわけ、史家のフランチシェク・ヒーブル氏が権威として知られ、その功績によりドイツ連邦共和国から功労勲章が授与されている。対して、スロヴァキア共和国にしろ、チェコ共和国にしろ、冷淡なものである。それというのは、おそらく直接の関係者への配慮にとどまらない。じつは戦後の「ドイツ人」の処刑の噂は各地で聞かれるところで、なかにはグレーな事案も相当数あることだろう。それだから藪蛇を避け、だんまりを決め込み、あえて蒸し返すことをしないのも、学術行政的にはともかく、政治的には偉大な知恵とはいえそうだ。さいきんの社会の分断や極東の外交を眺めていると、つくづく思う。

 それでも2018年になると、シュヴェーツケー・シャンツェの現場には、高さ約4メートルの十字架が奉納され、まいとし追悼が行われるようになった。これをもって、一応の落着をみるかとおもいきや、ウェブ上ではこの話題に膨大なコメントが連なっていることがある。いわゆる炎上であるが、それを見るに、研究者の顕彰などあり得ないことを思い知るのである。そうした人びとも、それなりの信念があって書き込んでいるには違いない。というのも、実効性はともかくとして、チェコ共和国では2000年末の刑法改正により、ナツィあるいは共産主義者によるジェノサイドやそのほか人道に対する罪を公の場で否定した者には、6か月以上3年以下の禁錮刑が科されることになっているためである。いずれにせよ、いまだに関心を呼ぶテーマであることは確かなのだろう。

 チェコスロヴァキアの演劇史からみれば、こうしたモティーフは民主化以前には舞台に上げることができなかった、いわばやり残した宿題のようなものだ。演出のハヴェルカは四十そこそこの気鋭のひと。いわゆる傍観者効果など社会心理学の理論も援用して、事件の謎にもせまる意欲作であるらしい。窮状におかれた演劇界が、すこしでも公衆の興味をとりもどせれば良いのであるが。

 ちなみにプシェロフは、街なかをベチュヴァ川が流れるしずかな小都市である。民俗的にはハナー地方、行政的には現在オロモウツ県に属する。事件当時は2万人ほどであったと思われる人口も、1990年代に5万を超えたのち減少に転じ、現在は4万人あまり。

 また、シュヴェーツケー・シャンツェとは、カタカナにするとやや冗長に感ずる地名ではあるけれど、その意味するところは「スウェーデン人の丘」──モラヴィアの地名にスウェーデン人が出てきたら、おおかた三十年戦争で遠征してきた新教軍に由来するに決まっている。シャンツェとは、一般名詞としてはチャンス、すなわち好機の意味だが、地理的にはちょっとした山や高地を意味する。標高300メートル弱の丘とはいえ、北北西に数キロ先のプシェロフ市街も見わたせるから、軍事的には要衝であったことだろう。じっさい、レンナート・トルステンソンに率いられた1万名あまりが、付近に駐屯したらしい。それも17世紀のむかしである。

  

*上掲画像はWikimedia

 

 

 

 

鶏卵と動物の福祉

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photo by Emiel Maters

 鳥インフルエンザが猛威をふるっている。日本各地で感染が報告され、すみやかに殺処分の措置がとられている由である。

 人間に感染する型もあるにせよ、そもそも鳥類のインフルエンザが変異してヒトに感染するインフルエンザが発生したとも考えられているという。かつて「スペイン風邪」と名づけられた感染症も、起源には諸説あっていまだに決め手を欠くものの、鳥類が関わっていたという説も複数ある。むろんこれは医学的にインフルエンザが風邪と区別がつけられるようになる以前の命名であって、正体はインフルエンザのウイルスであったことはいうまでもなかろう。

 やっかいであることは間違いないが、さいきんでは、発見されると即時「殺処分」するという対応に疑問の声も聞かれるようになった。動物の権利や福祉との兼ね合いも想像されたところだ。

 折しも、年末から年初にかけて、元農相の衆院議員にたいする鶏卵生産業者・アキタフーズ社からの現金提供疑惑が話題になっていた。いわゆる「アニマル・ウェルフェア」への国際的な意識のたかまりのなかで、養鶏業における国際基準採用を阻止してもらいたがったゆえの陳情であった、という推測が報じられている。

 たしかに日本の卵は割安の感があるが、「物価の優等生」の政治的なからくりを見た思いがした。また価格だけではなく、よその国では加熱せずにたべる習慣がないゆえに、日本の鶏卵は鮮度でも見映えでも抜きん出ているようにみえる。たとえば英国の当局は近年、生食も可能である旨の発表をしているが、それでも日本の外では、生でたべる気にはならないひとも多いことだろう。それも、賄賂ぬきには維持できぬものであったということなのか。

 個人的には、こういう煩わしげな領域にできるだけ首を突っ込みたくはないものではあるが、それが特定の種類の文化の差異に関係するばあいには、興味を引かれてしまうことはある。それに、人類がどこへ向かっているのかということには多少の好奇心もわく。動物の福祉。

 この文脈でなかんづく印象ぶかかったのは、年末の『シュピーゲル』誌によるルクセンブルクからの報道である。欧州司法裁判所(ECJ)の判決により、EU諸国では動物の屠殺のさい、麻酔の使用が義務づけられるかもしれない、という趣旨であった。

 ハラールについては、日本でもインバウンド対策をきっかけにひろく知られるようになった。いっぱんにイスラームの作法に則って処理された食材を念頭に、その認証をさして用いられる語である。典型的には、屠殺するさいに決められた手つづきを遵守して捌かれた精肉であるかどうかが焦点となる。ユダヤにも似たような概念があり、カシュルートとか、コーシャーとか呼ばれている。

 これを規制したとしても、宗教的自由という権利を侵害することにはならないというのが、裁判官の「発見」であったらしい。動物の福祉を促進するというのはEUが定めた目標であって、それだから加盟各国は、動物の福祉と信教の自由とのあいだで「適切なバランス」をとる権利と義務がある、ということのようだ。

 もとはベルギーから求められた案件だった。2017年にフランデレン地域において、動物福祉の観点から、麻酔なしの屠殺が禁止されたことが端緒であったという。これにユダヤイスラームの団体から反対意見があがった。どちらの宗教にも、コーシャーまたはハラールにするために麻酔なしで屠殺する規則がある。そこで、信者らが宗教的自由が脅かされていると感じたようだ。

 ベルギーの憲法裁判所は紛争をECJに付託した。判決によると、EU法は例外的な場合や宗教的自由の観点から、麻酔を用いない儀式的な屠殺じたいは許可されてはいるものの、EUの各国政府は、麻酔使用を義務づけることもまたできるという。

 今回のフランデレン地域の場合、儀式的な屠殺じたいが禁じられているわけではないので、信教の自由はじゅうぶん尊重されていることになり、またコーシャーやハラール認証をうけた食肉を他所から搬入することも禁じられていない。そのため、このような判決になったとされている。

 一神教の神様がかかわってくるとなかなかに大変そうだ……というのは偏見だろう。統計上は無神論の国であるチェコ共和国でも昨秋、残虐行為からの動物の保護に関する法律が成立したという報道があった。それはまさに、日本でもいちやく議題になった「ケージ」を用いた養鶏を禁じるものであったが、むしろ同法で注目されたのは、野生動物の調教までも禁じていた点である。

 ここでは信教の自由ではなくて、職業選択の自由生存権との兼ね合いが問題になってくるのであろうが、そのあたりがどう手当てされているのかはしらない。サーカスの興行主や鸚鵡のブリーダーなどが懸念を表明しているようで、はては馬術競技などにも影響がおよぶらしい。

 調教という概念の定義がどうもよくわからない。大雑把すぎる立法は、ぎゃくに細かすぎる運用を生じることもありそうだ。同国には、薬物関係にしろ、交通法規にしろ、曖昧でよくわからない規則が多い印象がかねてよりあった。けっきょくは現場の官吏や警官の裁量によって、恣意的に運用されてしまうのであろう。

 たとえば、ひとくちに調教といっても、犬に「おすわり」や「お手」や「おかわり」を仕込むのは合法なのかどうか、まず気になる。仮に適用されたとして、「おすわり」まではよいが「お手」は禁止──などと一挙手一投足まで口を出されてはたまらない。昨今では、スーパーの同一の売り場内において食品以外の商品の販売を禁ずるという、緊急事態宣言下での無茶な営業規制に典型的にみられたが、こうなると極端である。……さすがに「お手」禁止まではありえないだろうが、事細かなスーパーの販売規制の例にかんがみるに、やりかねない国なのではと思えてくる。

 要するに、議論が煮詰まってなさげなのである。汎ヨーロッパ的な「長いもの」に巻かれただけにもみえる立法だった。だが意外にも「反ヨーロッパ」的なゼマン大統領が、四の五のいうことなく署名したらしい。政党が林立する共和国にあって、かつての環境主義的な法案にちかい位置づけの政治イシューになっているのかもしれない。いずれにせよ、進歩派の意見が通りやすくなってきているように思えるのは、あながち気のせいでもあるまい。

 むろん単純な話ではない。問題はそうとう多岐にわたり、さらに多面的である。ペットの殺処分問題ひとつ取り上げても、単に「ゼロ」を目指しただけでは、飼育環境の悪化をまねくなど、別の問題につながりかねない。1990年代には「鯨はたべてよいか」という問題がずいぶん盛り上がりをみせて、応用倫理学の書物などがよく読まれていたものだった。けれども最近はまた、あの頃とも様相が変わった。めいめい利害を主張するのはよいけれど、感染症対策と同様に「正論」を言い合うだけで済む話でもなくなってきている。このことは日本の産業界のえらい人も、政治家に工作を依頼するくらいには認識しているのだろう。しかし、海の向こうの異文化だといって、いつまで受け容れずにいられることやら。グローバル化は退潮ぎみとはいえ、気がかりではある。

 

*参照:

www.nippon.com

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

keimei.ne.jp

 

冬のオロモウツと「民族の館」

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 モラヴィア辺境伯の記事を書いていて、オロモウツのことをおもいだした。はじめて訪れたのはもう、20年ほどまえの話である。つもった雪をみると、思い浮かぶ光景も多々あれども、どうしてゆくことになったことになったのかは、さだかではない。

 当時オランダに留学していた友人と、メールかなにかでやりとりしていたのだ。共通の恩師というのか、教会史にも通じた先生からの書簡にこの町の名前がでてきて、そのことを伝えたら、友人が行きたいといいだしたのではなかったか。ひょっとすると現地での生活や、経済史の研究に行き詰まりを感じていたのかもしれない。そうでなくとも、クリスマスの休暇の時期には、人びとが家族のもとへ帰って街の商店も閉まり、単身者は孤独や寂寥の念をふかめるのが常である。むろん、ロックダウンなどない年でもそうなのだ。

 しかし大陸ヨーロッパを見わたせば、ほかに愉しそうな観光地はいくらでもある。チェコ共和国にかぎっても、プラハを筆頭に観光客に人気のあるスポットは枚挙に遑がない。

 オロモウツは、共和国内で6番目にあたる10万という人口規模の小都市で、ふるくは交通の要衝であったものの、国境からも隔たったモラヴィアの内陸に位置する。いまでこそユネスコ世界遺産やその他の文化財の豊富さで知られるが、ビジネスや留学をのぞけば、とりたてて目的地とするよりも、近くまで来たら立ち寄るというほどの旅程のひとが多いのではないだろうか。

 はたして訪れてみると、道ゆくひとも稀にはあったが、雪ぶかい市街地は不思議なしじまに満ちていた。いまかんがえると、友人もあまり騒ぐ気分にもなれなかったろうし、この隠れ家のごとき宗教都市というのは絶妙な選択であったのかもしれない。

 中心部の街並みは、とりわけバロック色が濃い。その通りをつい何年かまえに訪れたというヨハネ・パウロ2世の大きな写真が、礼拝堂の入り口など、そこかしこに掲げられていた。統計上は世界有数の無神論国家ではあるけれど、ローマ教皇の降臨となると、なかんづく大司教座を擁することを誇る町にとって、このうえない栄光の一頁となったのであろう。

 じっさいのところ宗教改革の端緒とは、豪奢な聖職者の暮らしを知った庶民の憤懣に関係しているにちがいない。格差や分断といえば、現代人にもわかりやすい。だからといって蓄財の成果というわけでは必ずしもないのだろうけれど、オロモウツ郷土史博物館や美術博物館の常設展ではやはり、キリスト教美術関連が充実していた印象をうけた。とはいえ、これはとくに教会のお膝元にはかぎられない。日本でも地方の博物館というとほとんどは、仏教美術が館蔵品の中心を占めるから、なんとはなし親近感がわくことはたしかである。

 さて、夜のとばりが下りるとまもなく、あまり酒につよくない友人は酩酊して眠ってしまった。わたくしはといえば、どうも飲み足りず、ひとりホテル内のバーに赴いたのだった。

 暗がりのなかで麦酒の杯を受け取ると、とたんに騒々しい音楽がはじまって、やや弱いスポットライトが灯り、思ったより広いフロアに大勢の地元の若者らが集っていたことに気づいた。ネオルネサンス様式の上っ張りだけが取り柄の見すぼらしい安宿にしては、意外にも立派な空間である。とまれ、これは面倒なところに来てしまった。一杯やったらすぐに退散しようと思った。

 その矢さき、酔っぱらったひとりに捕捉された。音響が凄まじく、しかたなしに大声をだしてはいるが、友好的な口ぶりではあった。

 ──景気はどうだ。うれてるのか。
 ──まあ、ぼちぼち……いや、なんだって? 
 ──天幕だして、もの売っているんだろう? 靴か。古着か。クンパオか。

 どうやら、ヴィエトナム系の商店主だと思われたようだった。オロモウツにも多いのだと察した。ただ、アジア人というだけで眉を顰める者もおおい国で、意表な棘のなさであった気もしたが、このていどの会話とて、差別だと感じるひとにとっては差別なのだろう。微妙なところだ。

 ところが、このとき泊まった建物が、19世紀から20世紀はじめにかけて、同市の民族運動の最前線ともいうべき施設であったことは、のちに知ったのである。──いやいや。正直なところ、うすうすわかっていた。ネット予約など普及していない時代に、どうやって手配したのか記憶にないとはいえ、その時点で「民族会館」というような名称に気づかぬものではない。

 カトリシズムのつよさからも連想してしまうように、モラヴィアオーストリア帝冠領であった時代、オロモウツもまた、歴史家がいうところの「ドイツ人の町」のひとつであった。少数派であったスラヴ系の住民は文化的な環境を改善すべく、1888年「ナーロドニー・ドゥーム」すなわち「民族会館」ないし「国民の家」を開設した。そのころ民族意識のたかまりのなかで、文化的な行事をつうじて人びとの自覚をうながし、懇親をふかめようという趣旨で、この手の施設が各地でたてられるようになっていた。それでプラハをはじめ、ほかの町々で志を同じくする団体や個人からも、支援の手が差し伸べられたのである。

 いっぽうドイツ語をはなす人びとは、都市部などかぎられた地区をのぞけば、ボヘミアモラヴィアをはじめ帝国のおおくの土地で、じつは数的に劣勢であった。唯一の公用語をはなすという優位性も、いわゆるターフェの言語令や、のちバデーニの言語令によって失われていったようにおもわれた。それでも窮地に立つと燃えあがるのがナショナリズムというもので、ドイツ語話者は結束をつよめ、ほうぼうに「ドイツ人会館」が建設されてゆく。町によって両者の建設に前後はあろうが、民族ごとに組織された団体によって津々浦々に同種の文化施設が建てられていったのはたしかである。そして対立が昂じるなか、そのシンボル的な重要性もたかまっていった。ただ、オロモウツのドイツ人らが1870年代から計画をすすめていた施設は、戦火やインフレによって実現が難渋したらしく、1930年代になってようやく落成をみている。この建築物も市内に現存し、いまでは「スラヴ人会館」と名づけられているが、こういうのは修正主義とは呼ばれないらしい。

 オロモウツの経緯は例外に属するかもしれない。だが、第一次大戦を経て、帝国崩壊のどさくさのうちにチェコスロヴァキア共和国が成立してしまうと、こんどはぎゃくに諸民族の融和と国民の統合が喫緊の課題となって急浮上する。なにやらトランプ政権のあとを継いだ、ジョー・バイデンのスピーチに通ずるものがある。それだから相対的な重要性の低下は否めなかった反面、たいていの町々の「民族の家」じたいは壮麗な外観にとどまらず、コンサートや舞踏に好適なホールをそなえていたことから、その後もさまざまな催しにひろく利用されていった。オロモウツの「館」も社会主義体制の時代になってなお、わりと親しまれていたようだ。しかしそれも、ビロード革命によって、いちじるしい価値観の変化がおこるまでの話であったのだろう。

 21世紀はじめの時点で、われわれが投宿したオロモウツの「館」は、朽損はげしく、あわれに廃壊の惨状を呈していた。強制収容所だといわれても信じてしまったであろう拵えの客室で、廃墟に漆喰が塗りたくられていたようなものであったが、それも破格の宿泊料から推して知るべきであった。しかしそのころはむしろ、好奇心のほうがまさっていた。立地のよさも手伝って、しばらくのち二度、三度と滞在することになったのである。その間、なんらかの尽力があったことは明白で、客室は徐々にホテルらしくなっていったのだ。

 それでもほどなくして、ホテルとしての「館」は廃止されてしまった。直近の報道によると、現在ではかろうじて地上1階だけは銀行の支店や世界的なカフェのチェーン店がテナントとしてはいり、有効に活用されてはいるものの、内部の荒廃は相変わらずのようだ。所有権者らに歴史的な価値は理解されていても、先だつものがないという事情らしい。部分的な営業だけでは、やはり維持や修復に不安があるということか。数年前には、2021年を期してホテル業も再開される見通しとも報じられたが、さてどうなるだろう。観光客が絶え、飲食や宿泊の業界にきびしい情勢がつづくなかで、文化財保全にも暗雲がただよっている。

 

 *アクセス:

 

*参照:

olomouc.rozhlas.cz

 

*上掲画像はWikimediaより。