ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

モラヴィアびと

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photo by Jindra Buzek

 日本人なのか、それともアメリカ人なのかなどと、人間はとかく他者にレッテルを貼りたがる──

 大坂なおみの手記を読んでふと思い出したのは、個人的なモラヴィアとの因縁である。具体的には、四半世紀も前に読んだ同様の主旨のフレーズであった。「はたして我われは、こうした人びとをいったい何者にしたいのであろうか」という問いかけである。それはナショナリズムに連関して英語で書かれた論文であり、モラヴィア出身の研究者の手になるもので、同様にモラヴィアに生まれた著名人たちを扱っていた。具体的に誰それというのは失念したが──コメニウス、メンデル、ハンス・モーリシュ、フッサールゲーデルエルンスト・マッハ、ズィークムント・フロイトコルンゴルトヤナーチェク、ハース、アルフォンス・ムハ、ヤン・コティェラ、アードルフ・ロース、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト、フロマートカ、フラバル、クンデラ、ゴルトフラム……モラヴィア生まれといって思いつくだけでも、きりがない。ここに挙げた歴史上の偉人らも、たとえば「国籍」という点にかぎったところで、さまざまなレッテルを貼ることができる。オーストリア人、アメリカ人、フランス人、チェコスロヴァキア人……

 この分野の気鋭の近代史家が「国になりきれなかった国」とつとに喝破した、モラヴィアである。ここでは「レッテル」の金型を作成しそこねたわけだ。ただ、他人に貼るのか自分に貼るのかの差異はあれ、ナショナル・アイデンティティの漠たるものがそうしたレッテルの一種として確立されるメカニズムについては、すべてが解明されているとはむろん言いがたい。とはいっても、ある種の社会科学や人文科学、とりわけ政治学歴史学にあっては避けては通れない領域でもある。生物学徒にとっての進化論にも似た「一丁目一番地」といえるのではないか。

 いまも現地ではモラヴァということばが残っているが、いつまであるのかは誰にもわからない。また市井で定義を訊ねても、来歴の俗説が聞かれるばあいもあるが、たいていのひとは絶句するのみである。巷間では、しばしば「チェコ共和国の東部」などと説明される。面積は日本の17分の1ほど、北関東の茨城・栃木・群馬に埼玉県を加えたくらいか。ドイツ語ではメーレン。地理的な基盤といえば、歴史的なモラヴィア州の領域をまず指しているが、その前提を破壊するという往時のチェコスロヴァキア共産党の意図もおそらくあり、行政単位としての州は廃止され、現行の複数の県ざかいの線にしても、もとのボヘミアとの境界とは合致していない。おおざっぱに自然国境説のような見かたをすれば、語源でもあるモラヴァ川の流域として思い浮かべることができる。モラヴァ川は、ポーランド共和国との境にそびえる標高1424メートルのクラーリツキー・スニェジュニークに源を発する。川は北から南へとチェコ共和国を縦断し、オーストリア共和国へ至り、ホーエナウ付近でターヤー川と合し、最終的にはドーナウにそそぐ。チェコ共和国のドーナウ水系の地域、とも定義できそうだ。

 中世のプシェミスル家以来、ボヘミア王国とは属人的につよく結ばれていたことも確かである。すなわち、ボヘミア王モラヴィア辺境伯を兼ねるか、王の兄弟や身内が治めることが多かった。ところが30年戦争をさかいに、プラハよりもむしろウィーンとの結びつきを強めてゆくことになった。これはむろん、16世紀以降「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」を公称とするようになった国でのできごとである。ちなみに、さらに歴史をさかのぼって、この地域に9世紀から10世紀に存したモイミールの王朝は大モラヴィア王国とも呼ばれ、とりわけ20世紀に考古学的調査が進展した。そのため、これをよりどころとした、中央への反発とも綯交ぜになったモラヴィア主義の盛り上がりにも一役買った。だが、そうした風潮もビロード革命後の一時期をピークに鳴りをひそめている。

 すでに触れた「モラヴィア──国になりきれなかった国」は出色の論考で、このあたりの事情が平易かつコンパクトに説明されている。19世紀前半の段階ではまだ、この地に住まうスラヴ系の人びとは、自らについて、モラヴィア語をはなすモラヴィア人であると考えていたものの、それは「モラヴィア民族」として制度化されることはなかった、と史家はまとめる。ウィーンとの関係も深いこの地で文化、政治、経済の面で優位を保ったのは、少数派でありながら公用語たるドイツ語をはなすドイツ系の住民で、知識人となると「圧倒的な優位を占めて」いた。さらに領邦愛国主義の傾向を有したモラヴィア貴族たちも、モラヴィア自治を擁護するいじょう、ボヘミアに敵対的でもあった。ところが、文化的なスラヴ的要素とゲルマン的要素とを、モラヴィア民族というようなネイションへ「止揚する試み」はほとんどなかった。その最大の原因として、ドイツ系の知識人がそもそも興味をもち得なかったいっぽう、スラヴ系の知識人が確固たる拠点を欠いたことによる、と結論されている。

 したがって、そのころはまだ民族的アイデンティティといっても、かなり相対的で曖昧なものであったものと思われる。ボヘミア文人カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーが、1848年にモラヴィアのブルノを旅した際の感想が面白いので引いておこう。

 まず、すこぶる驚いたのが、街頭ではひじょうによくボヘミア語(ないし、かの地で呼ばれるところのモラヴィア語)が話されていることと、就労者階層の人々はほとんどすべてスラヴ系であること、また、それなのに有力者層となると、家々の表札にあきらかにボヘミア=モラヴィア語の名前が記されていながらも、自らをドイツ人であると見做していることであった。


──Karel Havlíček Borovský, Duch národních novin, Havlíčkův Brod, 1948.

 ただ、これに先だつこと約10年、ヨゼフ・フメレンスキーというボヘミアのひとが、同郷人に書き送った書簡には、びみょうに異なった印象が描かれている。その間の社会的な変化が偲ばれる。

ブルノではほとんど誰でもボヘミア語とドイツ語ができるとはいえ、どこでもドイツ語のみが話され、目下この地では、ボヘミア語普及の準備ができているとはいえない。 […] 至るところドイツ語が話され、誰もがウィーンに憧憬を抱いている。ゆえに、どこへいってもドイツ語の雑誌ばかりである。 […]


──1837年6月18日付、ヨゼフ・クラソスラフ・フメレンスキーによるフランチシェク・ラヂスラフ・チェラコフスキーへの書簡 

 さて、「ネイション」とカタカナで綴るのを避けんとすれば、「民族」または「国民」と適宜、訳し分けるしかない。各地のスラヴ系の人びとはそれを「ナーロト」とか「ナロード」とか呼んだ。中部ヨーロッパにおいては、その存在を保証するものは、第一には、その集団に特有の言語にあると信じられていた。そしてそれを可視化する装置の代表格が、レッシングの嚆矢をふまえた「ナツィオナールテアーター」ないし「ナーロドニー・ヂヴァドロ」、すなわち国民劇場であった。

 ボヘミア民族を創り出す運動は「ナーロドニー・オブロゼニー」などと呼ばれ、プラハに拠点を擁した。ヨゼフ・ドブロフスキーは『ドイツ語=ボヘミア語辞典』をものし、フランチシェク・パラツキーは民族の歴史を詳説して両言語で刊行を果たした。さらに、ボヘミア語が近代語として相応しい語彙や品位を備えていることの傍証ともなるように、諸科学の論文や、韻文に散文、その他あらゆる外国文献の翻訳が試みられた。ターム、シェヂヴィー、クリツペラ、シュティェパーネクなど無数の劇作家もこの文脈のなかでボヘミア語による戯曲をものし、また、フランスやドイツの例に倣って、作品の道徳性や上品さをつうじて、劇場にやってくる無知な民衆の蒙を啓き、模範的なナーロト構成員を創り出さんとした。そうして遂には、1881年に竣工をみたプラハの国民劇場によって、ボヘミア人というナーロトの存在することが、おおよそ疑う余地のないような自明のことと知らしむことに成功した。こうした活動に従事した知識人らは、オブロゼネツ、ブヂテルなどと呼ばれている。

 いっぽうモラヴィアでは、同様の動きも皆無ではなかったにせよ、運動と呼べるようなものまでには昇華されなかった。

 モラヴィアでは、すでに1770年代には、ボヘミア文化を情宣する件のオブロゼネツらが活動していた。クラーツェル、オヘーラル、シェンベラ、カンペリークといった活動家らがよく知られているところであるが、時代が下って1830年代までには、州都ブルノが、その活動の中心地となっていた。プラハにおける運動の盛り上がりとは様相を異にしていたものの、帝都ウィーンに間近であるという地理的な条件下では、ボヘミアと比しても政治・経済的に優位にあると思われていたドイツ系住民との対抗のなかで、モラヴィアのスラヴ系住民らは、けっきょくはナーロトとして「ボヘミア人(Češi)」という自己規定を採用していった。

 結果、名だたる政治家らが、自らはモラヴィアという土地に生まれながらも、政治的な決断をもって、最終的にモラヴィア人というのを存在しないことにした。

 たとえば、前出のパラツキーは、モラヴィア領シレジアのホトスラヴィツェ出身だが、フランクフルト・アム・マインで開催された憲法制定ドイツ国民議会への書簡において、自身がスラヴ系の「ボヘミア人」であるとドイツ語で言明した(»Ich bin ein Böhme slawischen Stammes.« )。議会への招待状を出した側は、パラツキーがドイツ語を読み書き話すゆえ、ドイツ人であるとレッテルを貼っていたわけだ。この書簡から2年後に生まれたトマーシュ・ガリグ・マサリクにいたっては、スロヴァキア語を母語とする父とドイツ語を母語とする母という家庭に育ったためでもあろう、モラヴィアはホドニーンの出でありながら「チェコスロヴァキア人」なる立場を採用した。第一次世界大戦中には、これを用いて連合諸国において工作を展開する。戦後、はたして成立を見たチェコスロヴァキア共和国において、初代大統領におさまった。このとき出来上がった国家、通称「第一共和国」においては、このチェコスロヴァキア人が唯一の公式ナーロトとされ、モラヴィア人どころか、ボヘミア人もいわば存在しないのが建前となった。いわゆるチェコスロヴァキア主義である。

 こうした経緯にも拘わらず、いまもモラヴィア人のアイデンティティを有する人びとは、国勢調査によればごく少数の申告ながら存在する。中央政府を含む他者が別のレッテルを自身に貼ることを課そうとも、その火は消えないものなのだろう。現状では蓋然性に乏しいとはいえ、バスクカタルーニャスコットランドに見られたように、何かの拍子にその種火が大きく燃え上がらないともかぎらない。すでにスロヴァキアでそれは起こった。──モラヴィア民族の自己規定や独自の自治などを標榜する政党も現存し、一時は国政にも進出したものの、現在では基礎自治体をのぞけば議席を獲得するには至っていない党勢である。これについては、またいずれ書くかもしれない。

 ひるがえって、わが日本国では、明治の世からつづく文化的な画一化がよっぽど成功したと思しい。なんとはなし、SNSにみられた大坂なおみに対する感情的な反応にも、さもありなんという感がわく。たとえば戦時中の「非国民」への社会的制裁から、昨今の「不謹慎厨」や「自粛警察」の跳梁にも相通ずるような、共同体を愛するがゆえの自身の「りっぱな道徳観」を誇示して悦に入りつつ、そうした個人的な価値観によって他人の言動を封殺することが正義であるかのようにふるまう人びとの姿は、ただただ気味がわるい。どこのオブロゼネツなのかと。

 とはいえ他方で、たんなる示威運動が暴動となり、略奪やヴァンダリズムを伴なったり、はてはテロルと化したり、また政争や外国勢力に利用されたりすることもまた、由々しきことにはちがいない。すくなくとも政治となると、われらはすでに、連歌で思いを交わすがごとき単純で平安な世界には暮らしていない。それゆえ、某SNSのような141文字づつのやりとりでは、安直なレッテルを貼り合うだけの罵倒の応酬に堕しがちである。──だからみんな、長文のブログでも書いて頭冷やしてよといつも思う。写経がわりの精神安定剤にもなるかもしれない。このブログもその程度のものであるから、悪しからず。

 

*参照:

www.esquire.com

 

2001年の長月

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photo by Steve Harvey

 ニューヨーク同時多発テロ事件から19年が経った。来年は20周年。911とか、セプテンバー・イレヴンとも呼ばれたものだ。リメンバー・パールハーバーのノリでもあったのであろう。さいきんターリバーンとの和平が成立し、米軍はようやくアフガニスタンから撤収しつつある。エネルギー革命の成果もあって、米国の世界戦略が変わったことが偲ばれる。

 個人的には移動の途中だった。スイスのツューリヒからプラハ=ルズィニェ空港に到着したのが、ちょうどその2001年9月11日のことであった。しばらくぶりにチェコ共和国に戻ってきたところだ。

 空港からの乗り合いバスにはむやみに空席が目立ったが、さりとて独り占めの貸し切り状態というのでもむろんなかった。

 しばらく走行すると、乗客のひとりが運転手に話しかけた。──ラジオをつけてくれ。テロが起きた。ニューヨークはパニックになっている。

 バスのなかはどよめいた。──どうしたんだ。高層ビルに飛行機が突っ込んだ。だれがやったんだ。過激派か。たぶんそうだ。

 目的地のターミナルに着くと、何も考えず、向かいにあるホテルにはいった。以前にも利用したことがあったのかもしれない。とにかく疲れていた。テロルの噂話はもう忘れていた。

 予約などしていなかった。だから価格を告げられたとき、おもわず「高い」とチェコ語で感想をもらした。するとレセプションの男は、こちらが苦情を言ったと受け取ったらしい。それで「じつはきょう特別な宿泊プランがあったんです。へっへっへ……」というような不可解なことを述べて、およそ半額の価格を提示しなおした。片言でもチェコ語ができなかったならば、倍額を請求されていたところだった。

 まけてくれた、嬉しいな、という場面ではあるいっぽう、いわば「外国人価格」というのも想起された。さすがにいまでは撲滅されたとは思いたいが。貧しい国なんだから、外人からぼったくってやれ、当然の権利だ、というような、逞しい商魂の発露といおうか。マニラあたりのタクシーの運ちゃんと同じ発想だ。ただ、その適用範囲に関しては現場の判断にまかされているようだった。そこは大した格式があるわけでもなかったが、創業したのはオーストリア=ハンガリー時代で、このときはまたオーストリア資本の傘下になっていたから、一応は由緒あるホテルと言ってもよかろう。それでもこうした商慣行がまかり通っていたものか。さだかではないが。

 後進国ではよく聞かれる話だ。公明正大とはいえないものの、違法というわけでもない。革命後、市場経済というものに積極的に適応した結果だとおもう。しかし情報化がすすんで普段の価格や同業他社との比較がここまで容易になってしまえば、やりにくい流儀ではあろう。いまなら「オンライン価格」とか「インターネット予約限定宿泊プラン」などで、お得なオファーが見つかることもある、便利な時世になっている。だが、当時は比較サイトなどもなく、ウェブページでの予約すら普及していなかった。あるときなど「ネットで予約したのですが」とプラハのホテルで言ったら、「ああ、ホームページ見てないや。電話で予約してくれなきゃ」とレセプションで言い返されたこともあった。隔世の感がある。

 さて、ようやく部屋にやってきて荷物を下ろすと、ベッドの端に座ってブラウン管に向き合った。そこでは、ボーイングの中型機がワールド・トレイド・センターの双塔に突っ込む映像が、くりかえしくりかえしくりかえしくりかえしくりかえし……放映されていた。

 眺めている自分自身の姿も含めて、現代美術の作品のようにも思えたものだ。そういえば、ウィーンのレオポルト美術館が開館したのもこの年だった。つづいて航空不況、観光不振が起こったのは、昨今の状況とも相通ずるところがある。その後「テロとの戦い」の名の下に、さまざまな面で世は変わっていった。

 このごろの報道を眺めていると「インド太平洋」なる概念もからんで、どうやら世界のおもむく方向がふたたびかわってきているような気配もある。それは、またぞろ何かが勃発しそうな気配でもある。今年はそれどころじゃない、という向きも多いだろうが……。

 ところで「ミセス・ワタナベ」にモデルがいたことを、このニューヨーク同時多発テロ事件に絡んだ相場の記事ではじめて知った。ミスター・スミスのようなよくある名前をとってつけた、まったく架空の人物だと思っていた。蛇足。

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www.youtube.com

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.businessinsider.jp

www.bbc.com

イジー・メンツルによる架空の村

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Ji%C5%99%C3%AD_Menzel_in_Wiesbaden.jpg/1280px-Ji%C5%99%C3%AD_Menzel_in_Wiesbaden.jpg

  アカデミー賞監督、イジー・メンツルが亡くなった。享年82。数年前に、髄膜炎の手術がかなり大がかりだったと伝えられていたから、その後の容態が案じられてはいた。

 1938年プラハ生まれ。1962年にアカデミーの映画学部"FAMU"を卒えると、やがてチェコスロヴァキアヌーヴェル・ヴァーグの一角として、ミロシュ・フォルマンやヴィェラ・ヒチロヴァーらと並称されるようになった。1970年代の一時期にはヤーラ・ツィムルマン劇団に参加するなど、舞台演出も手掛け、また俳優としても活躍した。

 映画監督としての代表作とされるものには、たいていボフミル・フラバルの原作があった。あるいはヴァンチュラのか。フラバルの文芸作品群に心酔して、その文章を映像表現に翻訳しつづけた職人という印象がつよい。それだから原作ゆずりの時代や体制に翻弄される不条理や、さまざまな種類の人間にたいするやさしげなまなざしが通底する。外国語映画部門でオスカー像を獲得した『厳重に監視された列車』(1966)にしろ、共産党に20年以上ものあいだ公開が禁じられた『つながれたヒバリ』(1969)にしろ、そうみえる。考えてみると個人的には最後に劇場で観たメンツル監督作品であった『英国王給仕人に乾杯!』(2006)も、フラバルの映像化だった。

 そういう意味では、最初に観た作品は例外で、原案・脚本ともズデニェク・スヴィェラークであった。その頃はまだ足を踏み入れたことすらない風土に、おおいに興をおぼえた。1985年公開の作品は、原題を_Vesničko má středisková_といい、英題が_My Sweet Little Village_で、ついでに独題は_Heimat, süße Heimat_、そして邦題は『スイート・スイート・ビレッジ』であった。どれも絶妙な訳だけれど、「středisková」という行政にもちなんだ語をすっとばしたことで、過剰にスウィートである感をいだかせる。ラベルの雰囲気から、ビタリング用のホップを欠く甘ったるい製品と思わせておいて、飲んでみてはじめて意外なほろ苦さに気づく麦酒のごとし。しかも見てのとおり、甘みが明記され強調されているのは輸出向けのラベルだけである。それでも「美し国」というときの「うまし」が「甘し」とも綴られることを思えば、なるほどと思うところもある。どうやら故郷とは甘いものらしい。

 個性ゆたかな村の住人たちが描かれるが、トラック運転手のカレル・パーヴェクと知的発達にやや障害のある助手、オチークの日常を軸に話は展開する。ふたりの葛藤と成長といったところか。撮影が行われたのは、まだ雪の舞う4月から、炎天もまばゆい8月にかけてであったそうだが、ちょうどオチークら若い登場人物たちの人生の春から夏を描いている、ともいえそうだ。演じたのはマリアーン・ラブダとバーン・ヤーノシュで、それぞれスロヴァキアとハンガリーのひとであった。バーンの呑気はなんともいえない味があったいっぽう、ラブダの醸す人のよい親分肌も印象的だった。ラブダは残念ながら数年前なくなっており、葬儀に参列したバーンの姿も報じられていた。じつのところ、若者役をのぞくと演者の多くが、すでに鬼籍の人なのである。

 ほかに、脚本のスヴィェラークも風来の画家の役で出てくるし、ルドルフ・フルシーンスキーは父も子も孫も同姓同名の名優だが、ここでは三世代が共演している。──いつもお馴染みのキャストといったら、そのとおりだ。チェコの映画なんか観るもんか、という現地のひとからよく聞かれる批判が「どの作品も同じ風景に同じ話で、まいかい同じ役者ばっかり」というもので、これはあながち外れていない。15年ほどまえ、チェコスロヴァキアの映画を中心にブログを書いていたころは劇場に通いもしたが、様式美に飽きがきたものか、気がついたらあまり観なくなってしまっていた。メンツルの作品に関しては「代わり映えしない、いつものメンツル映画」というニュアンスをしばしば含む「メンツロフカ」という言い草も聞かれたくらいだ。

 とはいえ、この1985年の農村劇にも姿があったヤン・ハルトルとリブシェ・シャフラーンコヴァーとが、2013年公開のメンツルのオペレッタ劇に主たる役で起用されていたのは、やはり好ましく思えた。相応にお歳を重ねていらしたが、懐かしい顔に出逢えるのもまた、代わり映えしない故郷のよさというわけだ。そういえば、メンツルの夫人はまだ40代で、故人より40歳も若い。とすると、公開時はまだ小学生だったということになる。いずれにせよ、さまざまな世代のひとにとって失われた風景が、良いところも悪いところも実相も虚像も、映画のうちに切りとられて残っている。「新しき波」のマニエリスムもいまや、さまざまな世代に郷愁をさそう三丁目の夕日となっている。

 この共産体制下の牧歌的な劇映画は、プラハから50キロほど南にあるクシェチョヴィツェが舞台で、かの地で撮影された。人口は現在でも800人ほどらしい。ビロード革命の記憶も薄れつつある近年になってみれば、「同じ」と思われていた田舎の風景すら、すっかりこぎれいになってしまっている。首を手折って鳩を締め、兎の皮を剥ぎ、自宅の階段の7段目に置いてほどよく冷やした麦酒の栓を抜く──映画に活写された素朴な情景もむろん、いつまでもあるわけではなかろう。じっさい、民主化後に田舎の生活は変わってしまったようだ。たとえば、映画が撮影された時分とは異なり、住民のほとんどは近郊ベネショフやプラハに通勤するようになっているという。

 いっぽうで変わっていない構造もある。文化や生活様式が「首都プラハとそれ以外の地域」で二分されているがごとき国の状況は今でも、すくなくとも人びとの頭のなかではたいした変化は生じていないと思われる。オチークが遠出して、賑わうヴァーツラフ広場に到着したとたん、挿入歌"Praha už volá"が高らかに聞こえてきた場面をよく覚えている。これが言ってみれば、プラハこそ真のチェコスロヴァキアであるかのような暗示でもあり、ひるがえって忘れ去られたかのような地方のうらぶれかたが偲ばれる、じつに効果的な演出なのだった。事情は「東京と地方」の二元論にも似ているから、おおかたの日本人がみても身につまされるのではないか。

 かといって、それだけでは単なる「町の鼠と田舎の鼠」のイソップ童話に終わってしまう。前出のヤン・ハルトル演ずるヴァシェク・カシュパルは、どうやらプラハから来た畜産関係の技術者か何かだったが、頭の弱いオチークを言葉巧みに外出させ、空いたオチークの居室をシャフラーンコヴァー扮するひと妻との逢い引きに利用していた。この件について、ここには都会とはちがうモラルがあるんだ、というふうに抽象的にたしなめられる場面があった。メンツル自身、またスヴィェラークもやはりプラハの出であるが、都会の子だったからこそ、農村の生活を美しく誇張することもできたし、またぎゃくに彼我の差をも批判的な眼で観察することもできたのだろう。

 とはいえ、それが文化批評としても有効なものであるかどうかは、別の問題である。たとえば先にも触れたけれども、階段の7段目に置くと麦酒がほどよく冷える、というのが劇中パーヴェクによって語られる。作品に言及されるさい、巷間でも人気のあるエピソードである。だがはたして、撮影につかわれた家屋の住人によると、そういう事実はないそうだ。階段に瓶を置いたところで、中身はぬるいままだと。けっきょくすべては虚構であるのだが、嘘だろうと観じつつも、しかしことによっては……というぎりぎりの線にあたっているようにも思える。つまり、ありふれた僻村をかけがえのない郷里たらしめんがために、こういう有りそうで無さげな種類のファンタジーを弄するのが上手かったのがスヴィェラークであり、メンツルだったのだとも思う。

 ちなみにメンツルというドイツ姓は首都プラハをのぞけば、チェコ共和国北辺のプロイセンに近かった地方にいまだに多く分布しているようだ。もとよりドイツ語であるからメンツルと読むが、メンズルと発音するのは若いひとに多いように思う。また、文法上の問題もよく知られている。たとえば、2格でMenzlaの形をとるかMenzelaをとるか、あるいは5格でMenzleになるかMenzeleになるかは、外国人である場合をのぞき、当該の家族がおのおの決めることになっているそうだ。したがって、本人か家族に問い合わせないかぎり、記者などは文法のうえで正確な記事は書けない仕組みになっていることになる。そこまでは誰もやらないだろうが。ほか、ハヴェル(Havel)などの苗字にも、この規則は適用される。

 

*参照:

jp.reuters.com

www.bbc.com

 

*上掲画像はWikimedia

 

ベルリーナー

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photo by Leon Ephraïm

 かねてからの告知どおり、チェコ共和国のミロシュ・ヴィストルチル上院議長台北を訪問した。日本語メディアでもさかんに報じられている。国内でもゼマン大統領は反対、バビシュ首相は沈黙──と決して一枚岩ではない小国にも拘わらず、中国外交筋はこれを看過することなく、恫喝のごとき言辞をまじえて厳しく非難した。

 同議長がかの地で行なった演説がまた奮っている。ジョン・F・ケネディの顰みに倣いましたとばかり、「私もまた台湾市民である」とやったのだ。民主主義のなんたるかを説き、共産中国の脅威に抗して自由を守らんとする独立台湾に連帯の情を示した。自国の民主政治とて混乱と混沌から抜け出したことなどないが、反共政党所属の議長がそれを棚に上げることはこのさい問題ない。大統領には言わせておけばよいし、首相は黙らせておけばよい。連中はパンダ派(panda huggers)である。

 奇遇にも、王毅外相はベルリーンにいた。「越えてはならない一線を越えた。中国はみずからの主権と領土の統一を守りぬかねばならない」と凄んだ。同席したのは、数年前の来日に際し「マースでございマース」という駄洒落も生んだドイツ連邦共和国のハイコ・マース外相で、しれっとチェコ側を支持して中国外交の鼻を明かした。

 じつにそのベルリーンで1963年の6月、ケネディは件の名演説をぶった。ローマ市民であることが誇りであった古代を想起せしめつつ、東西イデオロギー対立の最前線で四囲を壁に塞がれていった西ベルリーンにあって市民に連帯を示した。「イヒ・ビン・アイン・ベァリーナー」である。

 むかしからよく不定冠詞「ein」が話題になっていたけれど、Wikipediaにもリンクが挙がっていた記事がこの点に関して簡潔でわかりやすい。記事中のアナトール・ステファノヴィチ教授によれば、ベルリーン市民という集団は定義され周知されているものであるから、「Ich bin...」の構文でつかわれた場合、菓子の「ベルリーナー」を指すものではないのは自明である。そのうえで、厳密には当該集団に属しているわけではない話者が、共有する部分が自身のうちにもあることを表現せんとするばあいには、不定冠詞「ein」がとくに用いられる、という主旨である。つまるところ「Ich bin Berliner」であれば「私はベルリーン出身です(あるいは在住です)」という単なる自己紹介になる。いっぽうここで「Ich bin ein Berliner」とやれば「私もまた、ひとりのベルリーン市民なのです」というような意味合いがでてくる。この記事が書かれた背景もまた明白である。ドイツ語を解さぬジョン・ケネディがほんらい無用の不定冠詞を用いたことで「私はジャム・ドーナツです」と発言したとされ、何十年にもわたって揶揄されてきたものだった。

 この笑い話を知ったのは、20年以上もまえのバーデン=ヴュルテンベルク州の町であった。そこでは、たしかに「ベルリーナー」と呼称されていた。……紹介が遅れた。ベルリーナー、あるいはベルリーナー・プファンクーヘンとは、ラードなどの油脂で揚げたドーナツのような菓子で、球体をやや平たくつぶしたような形状を有し、典型的には粉砂糖がまぶしてある。フィリングとしては桜桃のジャムがはいっていることが多かったが、苺類のこともあった。いずれにしても、ベルリーンに住んでいるひとはこれをベルリーナーとはあまり呼ばないから、ケネディの言について現地で誤解や哄笑が生じたとも想像しにくい。

 食物の名前にもいわば「外名」があるのだ。たとえば、広島のひとがご当地風のお好み焼きについて「広島焼き」という名称を用いないことは、よく知られている。また、日本農林規格にいう「ウィンナーソーセージ」の起源は「ヴィーナー・ヴュルストヒェン」で「ウィーン流のソーセジ」を意味するが、ウィーンのひとは同じ品を「フランクフルター」と呼ぶ。フランクフルトに住まう人びとはしかし「ヴィーナー」と呼ぶのである。ついでにピルスナーウルクヴェル(プルゼニュスキー・プラズドロイ)という銘柄の麦酒は、チェコ語で注文するときに「プルゼニュくれ」と、生産地の地名を換喩として用いるひとが多い。だが、当のプルゼニュ市内の酒場でそう呼ぶひとは皆無だった。

 ベルリーナーについては、意外に保守的な文化の一部でもある。それこそウィーンほか南のカトリック圏では、おなじ菓子がクラプフェンと呼ばれ、大晦日や謝肉祭、復活祭といった折々にたべる習慣が各地に残っている。フィリングは杏子のジャムが多い気がしたけれど、これをさしてウィーン流と分類するひともある。

 チェコ語ではコブリハと呼ばれる。そういえば、とあるブルノ市民の友人が、市内中心部のコブリハ通りに住んでいたことがあった。中世に専門の菓子職人が集住していた地区であったことから、古語でグラプフェンガッツと呼ばれ、時代がくだってクラプフェンガッセとなり、やがてチェコ語に訳されたという。1960年代にはソ連におもねってガガーリン通りと改称されたが、ビロード革命後に元に戻されたのは幸いだった。いずれにせよ、そのくらい歴史と日常にも溶け込んだ身近な菓子である。かつて「ウィーンの町はずれ」と呼ばれた都市だけに、ここでもフィリングはやはりウィーン流で、杏子のジャムが定番だった。──餡パンでもそうであるが、たべたときにこのジャムの部分が偏っていたり、極端に少なかったりするとがっかりするものだ。たっぷり充填されている不文律などないのだが、見えぬ中身に期待したあげく、結果として失望してしまうのは人生の暗喩に思えなくもない。

 ちなみにヴィストルチル議長の演説は、通訳を前提にチェコ語でおこなわれた。肝心の一文だけは「我是台灣人」とみずからパラフレーズしてみせたが、もとの文言は「Jsem Tchajwanec」であった。ただ、タイワネツという菓子の存在は寡聞にして知らない。月餅あたりをそう名付けたら、飛ぶように売れたりはしないだろうか。それとも中国大使館から営業妨害を受けるだけだろうか。

 

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*参照:

jp.reuters.com

www3.nhk.or.jp

www.afpbb.com

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

 

*追記:

 日本語にない冠詞にはいつも注意をひかれる。英語の報道をながめると、媒体によって「I am a Taiwanese」と「I am Taiwaneese」の両方がみられ、興味ぶかい。

nationalpost.com

www.reuters.com

 

葉月つごもり

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L'Apparition

 8月も終わりで、気がつけばもう9月なのである。当たり前だが。早い。

 8月29日は「洗礼者ヨハネの殉教日」であった。事件じたいは「刎首」とも呼ばれるが、正教では「斬首祭」という謂いをするらしい。要は首を刎ねられたのであるが、それを祭ったあげく、直截すぎる名称にしてしまうところになんともいえない趣きがある。

 いつのことだったか。「あしたはヨハネの刑死の日だ」と口を滑らせた記憶があるから、8月28日の出来事だったのはまちがいない。晩夏の週末、公園の敷地内にある店はにぎやかだった。半袖のシャツでは肌寒くなりかけていたが、モラヴィアの田舎とて、星空もさわやかなテラスのテーブルだった。そして、だいぶ酔いもまわっていた。

 なにを言っているんだこの日本人は、という雰囲気になった。それでも委細構わずつづけたらば、ひとりがスマートフォンWikiなんとかでも見たのだろう、ああ、わかった、たしかにそうだな、と言ってくれた。8月29日、聖ヨハネの……

 ヘロデ王の妃ヘロディアは、亡夫の兄弟に嫁いだものであったが、そのことを戒律に反すると咎められたがために、ヨハネに殺意を抱いていた。あるとき、ヘロデ王の生誕祭の饗宴があり、ヘロディアの娘・サロメが踊りを披露し、列座の客をもてなした。王は、褒美を取らせるから、なんなりと申してみよと宣う。少女は母堂にお伺いをたてる。すると、当のヘロディアヨハネの首を所望した──

 どうしてこの話になったのか、思い出せない。おそらくまた「ハラキリ」を揶揄する発言がその場でとびだしたのだろう。馬鹿のひとつ覚えというやつで、言うに事欠いてハラキリハラキリと囃すから、こちらもいいかげんうんざりして口から出まかせで抗弁したまでだ。酔っぱらい特有の自由連想法によって、この話題が口腔からでてきた。思考は口のなかでつくられる。

 とはいえ不勉強な不肖の身であるからして、この手の話となると大昔の学校の授業の記憶に俟つしかない。──デューラーティツィアーノ、クラナーハ、カラヴァッジョ、レンブラント等々、とくにルネサンス期から好んで絵画に描かれた。近代ではギュスターヴ・モローがとりわけご執心で、百も二百も似通った絵を遺している。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』は、リヒャルト・シュトラウスのオペラとしてもよく知られているが、独自の趣向をくわえたケン・ラッセルの映画『サロメ』は比較的あたらしい。それらをひっくるめて、たぶん比較文学の文脈で鑑賞したのだ。そのときの比較の対象が、三島由紀夫の映画『憂国』であった。

 だが、聴いている側にしたら意味不明だったことだろう。どうしてハラキリの話からクビキリの話になるのよ。お侍さんが腹を召すにしても、けっきょく介錯人が首を落とすことになるのだから、切腹とは首刎ねに通ずるのだ。面倒だからそういうことにしておいた。いちばん喰いついてきたのは、その場にいた顔なじみのユダヤ系の男で、新約とはいえ聖書の話で日本人に一本とられるのが厭だったのかもしれない。stít(首を刎ねる)という動詞がどうしても出てこず、先方はそのたびに訂正してくる。こっちも酔っているから、言い直しさせられても口が覚えていなくて、つぎにはまたuřezat(斬る)とか、popravit(処刑する)とか、別の動詞で代用してしまう。なかば意固地になって。いずれにせよ、日常生活を営むうえでは、まず要らない語彙ではある。

 夕闇から虫の声がひびき、涼しい風が吹いてくる。ゆくりなく酔狂の脳裡に浮かんだのは、別の土地の別の王族であった。しかしサロメとは似ても似つかぬが。

 この時節、ウェールズ公妃ダイアナの命日が巡ってきては多少の記事が出来する。わすれもしない。あのとし博物館で研修を受けていた。昼下がり、ほかの実習生ふたりといっしょに待機していたら、指導役の学芸員の先生が部屋にはいってくるなり「おい、ダイアナさんが亡くなったぞ」と仰ったのだった。事故死のニュースによほど衝撃を受けたのだろう。ダイアナ妃本人はともかく、そのことばが記憶に残っている。そして8月末になると思い出したりする。きっと頭の発酵樽のなかで「おい、夏が終わったぞ」と転換されつつあるのだろう。──もっとも、さいきんは次男坊の嫁しか話題にのぼらない気もする。が、そのハリー王子とウィリアム王子とによって母妃の像が建立されるという昨日の報道は、ちょっとした例外ではあった。除幕を来夏にひかえるという。

サロメ (光文社古典新訳文庫)

サロメ (光文社古典新訳文庫)

*参照:

madamefigaro.jp

 

*上掲画像はWikimedia

大衆の反逆

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photo by Anne Nygård

 安倍晋三内閣総理大臣が辞任の意向を表明した。このタイミングでの続投断念は、当人がいちばん無念であったろう。ストレスが大敵の難病が持病とあっては、時間の問題であったのかもしれないが。報道によると、感染症対策が世論の評価を得られず苦悩していたという。「現金給付は効果がなかったかと……」という副総理兼財相の言に典型的に窺われたが、政治エリート一門出身の政権には庶民の心理が読み切れていなかったうらみはある。取り沙汰される「ポスト安倍」の候補のなかで、とりわけ菅義偉官房長官にひそかに期待する所以である。

 さて『文藝春秋』誌には佐藤優の連載があって、2020年8月発売の9月号ではオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』が取り上げられていた。文系の人だったら学校で読まされたかもしれない、あれだ。ことし4月には岩波文庫の新版が出来していた。件の記事は、大衆社会では専門家でもない者が見解の表明をもとめられる件を挙げ、国の感染症対策に苦言を呈する趣旨だった。

 『大衆の反逆』初版が刊行された1929年には普通選挙が普及してきていて、すでに前年に英国では男女平等の選挙も実現していた。民があまねく選挙権を獲得したということは、大衆とて正確な情報にもとづいて理性的な決定を下す必要が生じたわけであって、大衆にも知的活動が求められつつあった時代になってくる。理論上は、大衆が新聞メディアをつうじて公衆として組織されることが民主主義の大前提ではあるものの、現状をみてもじっさいにそれが機能しているのかどうか。オルテガの書はいまだに活かされていないということになるのだろう。

 当世、マスメディアの権威が減衰しているようにみえるのは、情報化の進行と無関係ではあるまい。NHKをぶっこわすことを公約にした政党も、スマートフォンやITの普及を背景に挙げていた。インターネットこそが「コンヴィヴィアリティのための道具」だと謳われた時分から明白のことではあるにせよ、いまやメディアだけでなく、教育の権威もふるわない。SNSを眺めていると、高等教育など受けずとも地頭のよい才気煥発の徒がいて、毎日の的確な発信が支持を博していることもよくある。エマニュエル・トッドなどはこの「学歴と知性の乖離」という現象を、2018年以来のジレ・ジョーヌ暴動の遠因として挙げている。フランスではとりわけ、教育水準というものが所得の格差を正当化する論拠にされてさえいると捉え、階級闘争の再来であると説く。

 日本では国立大学の独立行政法人化が決まった当初、反発もあった。よく出ていたある学会でも、そういう議論がさかんであった。思い返してみれば、そこに誘ってくれた某氏なども反対運動には熱心なひとりであったが、いまや私立大学の教授におさまっているのだから、すこし皮肉な気もする。とまれ、すでに当時から受験予備校の定める偏差値は生徒の家庭の年収に比例する関係にあるとはいわれていた。高等教育が、開かれた学業の機会というよりも、不平等な階級の再生産のプロセスの一部にすぎぬことは、トッドの言に俟つまでもなく日本人には自明であった。あの頃すでに少子化・人口減少によって「大学全入時代」が来るとの予測があったにも拘わらず、のちの小泉劇場政権が新自由主義的な政策を推し進め、格差化・貧困化の火に油を注いだ。これは一定の階級を除いては、所帯をもつことへの自粛要請にひとしかった。結果、ひと学年あたりの人口では、団塊ジュニア世代の200万人以上から減少しつづけ、ついに半減した。直近で2019年の新生児の数は80万人台だった。

 トッドは日本で民衆の暴動が起きない理由を解説してはいるが、たとえば反グローバリズム暴動など、トヨタのお膝元で起きようはずもないとは思った。ところが近年の反グローバリズムの流れは、悪疫対策から各国が国境を実質的に封鎖したことで加速されているようにもみえる。これが予断できたはずもなく、グローバル化時代の政治家には勝手がわからないにちがいない。連関して安倍総理にとっては、外交センスをアピールする機会がこのところ閉ざされていたのも不運だった。東アジア情勢が急激に変容しつつあるなかで外交政策こそ評価されるいっぽう、とりわけ拉致問題や北海道経済にかかわる残された諸案件については惜しまれる向きも多いはずだ。ただ、なかんづく鳴り物入りではじまった経済政策の成果はといえば、マクロ指標的な数字を除けば、株価以外にめぼしい点もなく、日本の大衆は相対的に貧しくなりつづけている。トリクルダウンが現代の神話にすぎぬと暴かれたことが、せめてもの収穫であった。企業や財政はやっともちなおしたとも言われるが、大衆にとっては「失われた30年」が放置されたまま、時代は外部環境ごと急速に変わりつつある。

 緊急事態がおこってのち、このところ政権の支持率は低迷していた。しかし疫禍のなかで世界的な「大衆の反逆」がはじまったのだとすればなおさら、つぎはエリートにはない発想がすこしは必要になるのではないか。──ともかく、ここはやはりスガさんしかいない、とおもう次第なのだ。 

大衆の反逆 (岩波文庫)

大衆の反逆 (岩波文庫)

 

 *参照:

www.dailyshincho.jp

www3.nhk.or.jp

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終わらざる晩夏

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photo by Mitchell Bowser

 雨安居、うあんご──とは辞書によれば、僧が寺に籠もっておこなう雨季の修行で、夏安居、夏行、夏籠り、夏断とも呼ぶ。陰暦4月16日から90日間ともいう。感染防止の自粛要請とは関係もなく、そもそもこの時節は雨天がつづいたり、はたまた暑さから逃れるごとく籠りがちの生活になってしまうことも多い時期ではないか。そういう意味ではウアンゴとかゲアンゴなどという語彙も、怠惰をとりつくろうために坊主が案出した、檀家にたいする後づけの言い訳では……などと穿ってしまっても無理はなかろう。日本ではさすがに8月ともなれば梅雨は明けるが、インドでは9月ごろまで、地域によっては10月ごろまで長雨はつづくらしいから、修行もかなり捗りそうだ。

 ところで原風景と言ったらいささか大袈裟だが、子どもの頃の夏の風景として思い出すのは、蝉が鳴くなか家族で帰省したときのことである。祖父がブラウン管越しにのべつ眺める甲子園のマウンドには土ぼこりが舞い、ときおり金属バットの打撃音がひびきわたる。そして「終戦の日」を特集した番組なり記事がやたら目についたものであった。ことし「甲子園」は中止されてしまったし、さいきんは「終戦の日」の話題も減ってきているような気がする。その代わりに増えたと感ずるのが、大雨や水害のニュースである。武漢重慶といえば、ひと昔前は日中戦争がらみの地名であったが、ことしはもっぱら疫病や洪水にかかわっている。それでなおさら、炎夏と雨安居は表裏一体であるの感をつよくする。

 1944年3月にはじまって7月に終結をみたインパール作戦は、まさに本場の雨安居の時節にあたっていた。行軍する熱帯雨林をおそった濁流のごとく、戦況も泥沼と化した。牟田口廉也というと往時の日本陸軍を代表する無能の敗将であるという評が、いまや定着しているようだ。秀才ぞろいの陸大出の昭和陸軍史のなかでは目立つことはないにせよ、受験エリートであったことも間違いないのだが。16万の犠牲を出したという自滅的な作戦を強引に推進した背景を読むにつけ、暗澹たる気分になったものだ。

 そのたった5年前の夏には大陸ハルハ河畔でも、学識ある能無しにしておそらくサイコパスでもあった別の好戦的な将校が、みずから立案および指導した無謀な作戦によって、多くの将兵を死に追いやった。のち太平洋でも無鉄砲だった御仁による、言わずと知れたノモンハン事件である。こちらは乾いた大陸にあって、水の補給さえもじゅうぶん考慮されていなかった。外蒙古満洲国の国境紛争にすぎなかったが、それぞれの後見たるソ連と日本帝国の戦略や思惑が錯綜し、本格的な戦闘に至った。日本側では、陸軍中央の不拡大方針にも拘わらず、その指導力不足から関東軍をとめることあたわず、一説には1万7千とも言われる死傷者および行方不明者をだした。東京では、現代の国家安全保障会議にも相当しそうな「五相会議」が断続的に開催されており、日独伊三国軍事同盟の締結交渉をめぐって陸軍大臣とそれ以外の四大臣との対立がつづいていた。モンゴルの荒野に注意を向けている余裕など、政府のだれにもなかったのだろうか。

 外蒙古の戦さ場では、8月も下旬になると虫の声がきこえていたそうだ。死体が散乱した平野のうえを、秋の風が吹きぬける時期になっていた。そして、月末にソ連外相モロトフと駐ソ大使の東郷茂徳のあいだで停戦が成ると、見計ったかのように、ドイツが9月1日を期してポーランド侵攻を開始した。のちに第二次世界大戦と呼ばれる戦いがはじまったのだった。けっきょくスターリンヒトラーの意図が読めていなかった日本の外交であった。これを受けて「欧州情勢は複雑怪奇なり」と首班が愚痴にもひとしい声明をのこして、内閣が総辞職してしまったくらいであった。

 先日、英国で75年目の「VJ Day」が祝われた旨のBBCの記事にも接した。対日戦勝記念日。日本の「終戦の日」にあたる、8月15日である。英米将兵は昭和帝がラジオ放送で自国民に停戦を呼びかけたとき、歓喜にたえなかったにちがいない。たほう、あの年のこの時点ではまだ戦闘を続行していた勢力もあって、玉音放送の以後に侵攻を開始した戦線もあった。そうした国々では日本への勝利が祝われるのは調印の日付たる9月2日となっている。端的にはソ連邦──ロシアである。

 千島列島の北端、占守島の戦いなどは、じつに8月も18日になってから戦端が開かれた。濃霧をおしてソ連軍が海岸に接近しあるのを認めたのは、米軍の上陸を想定していた8千余の守備隊である。札幌の方面軍司令部からは停戦の命令もとどいていたが、島には日魯の缶詰工場に勤めた民間人がまだ残留していた。とりわけ戦車第十一聯隊はながらく大陸に温存されていたため、装備も練度も秀でた精鋭部隊であった。600の犠牲を出しながら、ソ連側には3千の出血を強いた、という推計もあるという。なお、浅田次郎『終わらざる夏』は、この戦いに取材した大衆小説で、出色の物語である。

 かつて日ソの国境は樺太の北緯50度線にあったが、占守島の緯度もほぼ同じである。大陸欧州では、プラハフランクフルト・アム・マインがおおよそ50度の線に位置している。「バルジの戦い」で名高いアルデンヌや、さかんに輸出されている麦酒で知られるシメイもまた、そのくらいの緯度にかかっている。アルプス以北のヨーロッパでは、さすがに8月にはいると晩夏の風情がただよってくる。それに比べると北緯43度の浦塩(ウラジオ)などは、極東ロシアといえどもあきらかに南にある。札幌と同程度といわれればうなずけるが、地中海の同緯度にはコルシカ島があるというのは意外な気もする。けれども時代をさらに遡った1918年の8月はじめには、その浦塩でさえもすでに秋がはじまっていたのだという。小倉の第十二師団の一部が、チェコスロヴァキア軍団の救出を大義名分に派遣され、上陸を果たしたのがその時分であった。シベリア出兵の幕開けであったが、兵員は武者震いというより、九州との寒暖の差に身ぶるいしたのではないか。

 とくに関東甲信越などでは熱中症への注意も喚起されるさなか、強烈な炎天に青息吐息で、秋など想像すらできぬという向きもあるかもしれない。とはいっても、夏至よりこっち北半球の各地で日はだんだん短くなってきているはずではある。そういえば夕暮れに舞う蝙蝠にしても、シルエットにみる体長が初夏のころに比べおおきくなっている。けだるい暑気にぼんやりしながら涼んでいると、夕闇に聞こえてくる虫の声が百年前からひびいてくるような錯覚にとらわれてもおかしくはない。 ──そんなときは水分と睡眠をよくとるべし。まだしばしのあいだ修行はつづく。

*参照: 

news.yahoo.co.jp

www.bbc.com

www.nikkei.com

www.afpbb.com