ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

鷲は舞い降りた──ハイドリヒ、チャーチル、プーチン……?

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ハイドリヒ

 この週末のはじめ、5月27日は、アントロポイド作戦の決行から80周年という節目だった。

 第三帝国保護領時代のプラハにおいて、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ(1904-1942)の暗殺が敢行されたのだった。

 ハイドリヒは前年、保護領の副総督に就任。住民に融和的であった総督コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵に代わって、実質的にボヘミアモラヴィアを統治した。

 ハイドリヒといえば、「ユダヤ問題の最終解決」が決定された「ヴァンゼー会議」が映像化、放映されて話題になった。とおい日のことのようにも感ずるが、つい1月のことだ。こちらもドイツの公共放送ZDFによる80周年記念企画だった。

 とまれ、その残忍さから「野獣」とか「処刑人」とかの異名で恐れられていたナツィスの高官も、病床で一週間ほど苦悶したのち、絶命した。

 ウィンストン・チャーチルと在ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府による作戦にあって、大役を遂行することになったのは、スロヴァキアとモラヴィア出身のふたりだった。ヨゼフ・ガプチークとヤン・クビシュによる空路潜入、潜伏、襲撃、逃走……は、多くの伝記文学を生み、ドキュメンタリーや映画・映像作品もたびたび出来していることは周知のとおり。

 プラハでは、まいとし記念日に、そのときの様子が実演により再現される。暗殺現場となったホレショヴィツェ地区の、ゼンクロヴァ通りからフ・ホレショヴィチュカーフ通りへ至るゆるやかな坂道は車両通行止めとなり、舗道に見物客が詰めかける。念を入れたもので、じっさいに決行された10時35分に合わせて行われる。

 

プーチン

 「プーチンを政権から引きずりおろせ」という意味にも受け取られかねない失言から、3月半ば、批判を浴びたのは、ポーランド訪問後のバイデン米大統領であった。本音が漏れたのだろう。

 とはいえ、ウクライナにおける悲劇に幕をおろす条件として、素朴に同じような期待をいだいていた空想的な人間は、世にごまんといたはずだ。プーチン政権の終焉なくして、早期の戦争終結はないのではないか、と輿論は悲観している。

 それが、暗殺という手段を採らなければならないわけでは必ずしもないだろうが、ウクライナ各地の惨状を鑑みるに、ハイドリヒへの憎しみとプーチンへの怨みとは相通ずるものがあるにちがいない。ただ、KGB出の元FSB長官を排除するとなると、大掛かりな警護を嫌ったハイドリヒとは事情が異なってくる。また、成否にかかわらず、事後につづくであろう報復を想像するに、軽々に実行できるものでもない。

 報復措置の想定は、アントロポイド作戦実施への反対意見の根拠として、すでに80年前の議論のうちにもでてきていたようだ。じっさいのところ、懸念は的中した。ボヘミアおよびモラヴィアで数千人が処刑されたと目されるが、なかでも、プラハ近郊リヂツェ村が、住人約500名全員の射殺と収容所送致とによって、跡形もなく地上から「抹消」されたことはよく知られている。けっきょく、ハイドリヒの殺害はそれ自体は達成されたものの、代償も大きかったのだ。

 それでも敢えていえば、潜水艦発射型弾道弾(SLBM)と核弾頭が存在しなかった時代であればこそ、こうした賭けに打って出る余地もあった。

 いつぞや公開された映像には、プーチン大統領につきしたがう士官が、ロシア版「核のフットボール」と思しきアタッシェ・ケースを携行する姿がみられた。「プーチン暗殺作戦」の企図を牽制するため、とも囁かれていた。世界を人質に取って、威嚇しているわけだ。

 「じつは癌のため余命三年か」という報道もあった、プーチン大統領ではある。制裁を科されたロシアの継戦能力のほうがそこまでもつのかわからないとはいえ、もし何らかの形で紛争がつづくのであれば、いずれにせよ長すぎる時間だ。

 

チャーチル

 ところで、2年前にパンデミックが始まって間もない頃、真っ先に読んだのはほかでもない。ことし4月に訃報が伝わった、ジャック・ヒギンズによる『鷲は舞い降りた』だった。

 カミュの『ペスト』よりも読むのが先になったのは偶然で、1990年代に増刷されたハヤカワ文庫版がたまたま出てきたからだった。久しぶりに「紙の本」で冒険小説を読んだのではなかったか。

 第二次世界大戦下の1943年、総統ヒトラー直々の「密命」によって「特殊作戦」が発動された。英チャーチル首相を誘拐するか、やむを得ない場合は暗殺せよ──。

 オール=スター・キャストの映画版の印象が鮮烈すぎて、原作のほうの記憶がなかった。けれども、映画では省略されていたくだりが、むしろ圧巻だった。そういえば、映画ものちに、完全版だか、ディレクターズ・カット版だかが発表されていたような気もするが、そのあたりも補完されているのだろうか。

 とりわけ、群像劇の読みどころとして、登場人物のひととなりが秀逸だった。架空戦記のようなジャンルでは、人物については通り一遍のステレオタイプ的な説明で済まされることも多々あるが、ヒギンズの人物造形は根本的に異なっている。

 空軍所属の落下傘部隊をひきいたクルト・シュタイナ中佐は、生き残った部下とともに、東部戦線から列車で移動中、ユダヤ人を乗せた貨車とでくわす。そこで、逃走する女をひとり助けてしまった。劇的なシーンではあった。それがために、懲罰的な配属を受けることになる。

 ところが、脇役らの人物描写が、じつはもっとも味わい深い。

 なかんづくナツィス・ドイツ側に加担し、率先して工作にかかわる協力者たちだ。大英帝国の植民地政策に翻弄された過去を背負っている。単純なナショナリズム観とは一線を画すごとき説明で、動因として説得力がある。

 たとえば、リーアム・デヴリンは、アイルランド共和軍IRA)の兵士たるアイルランド人。また、ハーヴィ・プレストンは、捕虜からSS義勇部隊・イギリス自由軍に転じた元英軍士官……といったぐあい。

「どうも奇妙だな。ミスタ・デヴリン、あなたは明らかにわれわれを憎悪しておられるが、わたしは、あなたの憎悪の対象はイギリス人だと思っていた」
「イギリス人?」デヴリンが笑った。「そう、イギリス人は好きではないが、彼らは継母みたいなものなのだ。少々のことは目をつぶらなければならない相手だ。ちがう、わたしはイギリス人を憎悪していない──わたしが憎んでいるのは大英帝国なのだ」
「だから、あなたはアイルランドの自由独立をもとめている」
「そのとおり」デヴリンが勝手にロシア煙草を一本とった。
「それでは、その目的を達成するのにもっとも望ましいことは、ドイツが今度の戦争に勝つことだ、という考え方に同意しますか?」
「そのうちに、豚が空を飛ぶ時代がくるかもしれないが、わたしはドイツが勝つとは思わない」
「それなら、なぜベルリンにとどまっているのですか?」
「選択の余地があるとは、知らなかったな」
「しかし、あるのだ、ミスタ・デヴリン」ラードルが穏やかな口調でいった。「わたしの依頼をうけて、イギリスへ行くことができる」
デヴリンが驚愕して、皿のような目でラードルを見つめていた。珍しく、思うように言葉が出なかった。「おお神様、この男は狂人だ」

  ──ジャック・ヒギンズ、菊池光訳『鷲は舞い降りた』124f.

 ある人物における憎しみの対象とは、他人が臆見で推しはかれるほど単純なものではないことが暗示されている。

 とはいえ、さらに誰よりも好例となるのは、ジョウアナ・グレイかもしれない。チャーチル襲撃の地と計画されたイングランドの架空の村、スタドリ・コンスタブルに暮らし、潜入してきた工作員に便宜を図るミステリアスな年配女性だった。

 これが、旧い映画版では説明が省略されていたもので、ともすると、都合のよい場所に都合のよい人材がいるもんだな、との感を観客に抱かせてしまう。ところが、じつはこの女性は南ア・オレンジ自由国に生まれたオランダ系移民二世であって、英国に散々な目に遭わされてきた。このような半生があらかじめ詳しく明かされていればこそ、読者には納得のゆく物語たりうる。

 ひるがえって、今般のプーチンの侵攻によって、ウクライナナショナリズムは完成を見たというふうにもいわれる。ソ連崩壊後もロシアとの隔たりをとりたてて感じることなく、これまでアイデンティティの確定をやや保留ぎみにしていた人びとも、母語のいかんにかかわらず、ウクライナへの帰属意識をつよく確信するにいたった、という説明である。

 真の国民国家とは、漠然とした敵のイメージよりも、試練と怨嗟とによって決定的に生じるといえる。戦争とは、その最たる舞台でもある。そしてこれがまた、ジャック・ヒギンズの慧眼と凄みを思い出させる。だが、「世界大戦」の実体験のあるあの世代にとって、そんなことは自明の理だったに違いない。

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