ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

婆やにでも言ってろ──荒唐無稽のファシズム

photo by Николай Иванов

 ロシア軍によるウクライナへの侵攻開始からはや、三か月が経とうとしている。

 屋外ではすでに蒲公英が、さわやかな風に綿毛を飛ばしている。戦争が始まったときは、まだ雪すら舞っていたのに。現地の天候にしろ、戦況にしろ、はたまたロシア国内の情勢にしても、Twitterで知ることが多い。ロシアをめぐる各国の外交ニュースも……

バブーシュカファシズム

 ロシア連邦のラヴロフ外相がでたらめの言葉を並べるたび、思い出すフレーズがある。

 «расскажи это своей бабушке»

 ──「誰がそんなことを信じるものか,嘘をつけ」と、辞書には訳がある(『プログレッシブ_ロシア語辞典』)。

 しかしながら、直訳風にしたほうがニュアンスがよくつたわる。すなわち、

 ──「お前は自分ちのばあちゃんにでも言ってろ!

 もとより日本語には「荒唐無稽」という便利な四字熟語もあったはずだが。ともかくラヴロフに言ってやりたい。

……いや、実のところラヴロフは本当に「ばあさん」たちに向かってしゃべっているのだ。

 

 ヴラヂミール・プーチンの統治体制を指して「バブーシュカファシズム」だと喝破したのは、カミル・ガレエフだ。さいきんTwitterで注目を集めている研究者で、ウクライナ戦争勃発と相前後して、歴史社会学的な観点から興味深い仮説を多数、スレッドとして投稿している。

 バーブシュカ(英語ではアクセントの位置が変わるのか「バブーシュカ」)とは、「祖母」ないし「年配の女性」を意味する。要するに「お婆さん」だ。プーチンを熱烈に支持しつづけているのは、戦地に赴くこともなくソ連時代のノスタルジーに耽る、この層だというのだ。

 つまり、あのラヴロフのでたらめな声明の数かずも、ロシア国内政治にとっては重要なプロパガンダの一環であり、それによってプーチン政権は支えられているわけだ。

 

スキゾファシズム

 ところで、おなじ「ファシズム」でもプーチニズムとは「『スキゾファシズム』とでも呼ぶべき新種のファシズムである」と夙に診断していたのは、史家のティモシー・スナイダーだった。

 とくに、ユーラシア主義的イデオローグのアレクサンドル・ドゥーギンの言動をとりあげ、「実際のファシストが相手を『ファシスト』と呼び、ホロコーストユダヤ人のせいにし、第二次世界大戦をさらなる暴力の論拠とした」ことを指している。スキゾ(分裂病)的だというのである。

 2018年の『自由なき世界──フェイクデモクラシーと新たなファシズム』が問題の書で、不気味な「予言の書」だった。

 タイトルはハイエクの書『隷属への道』を暗示しているという指摘もあったが、エーリヒ・フロム『自由からの逃走』も思い出された。いずれにせよ、プーチンヒトラーの面影が重なるのだ。

 そのくらい暗澹たる世界観に覆われているのが、今のロシア社会であるようだ。この数十年は、闇夜への助走としての歴史だった。六つの章はそれぞれ、二者択一の文言をもつ──1. 個人主義全体主義か、2. 継承か破綻か、3. 統合か帝国か、4. 新しさか永遠か、5. 真実か嘘か、6. 平等か寡頭政治か。

 同時に、各章は、2011年から2016年までの政治史を、編年体によって叙述してもいる──

1. 全体主義思想の復活(2011年)
2. ロシアにおける民主政治の崩壊(2012年)
3. EUに対するロシアの攻撃(2013年)
4. ウクライナ革命とその後のロシアの侵攻(2014年)
5. ロシア・ヨーロッパ・アメリカにおける政治的フィクションの広がり(2015年)
6. ドナルド・トランプの当選(2016年)

 さらに、プーチニズムの国家イデオロギーについて、イヴァン・イリイン、レフ・グミリョフ、前出のアレクサンドル・ドゥーギンらをとりあげ、思想史的な概観を読者にあたえている。言い換えれば、現代ロシアの「ファシズム」を、因数分解のような手法で解説している。

 三者それぞれの思想は、教権ファシズム思想、神秘主義的ユーラシア主義、ポピュリスト的折衷主義(的ナンセンス)……と、表現しうる。そのうち、真面目に哲学的手続きの体裁をもっているようなのはイリインくらいのもので、ほかはロシアの土着の信仰を考慮しなければ、とても素面による議論とはうけとれない。

 そのイリイン(1883-1954)にしてからが、おそらくスイスでの孤独な亡命生活から遠隔地ナショナリズムをこじらせ、けっきょくは、暴力によってボルシェヴィキを打倒して「聖なるロシア」を復活させよ、という発想に至ったようにみえる。

 これが、プーチニズム・ロシアの国家イデオロギーの背骨を形成している。2014年初頭には、このイリインの著作が全公務員に配布されたというから、『毛語録』のようなものか。

 無垢なるロシアはあくまで無実なのであり、そのロシアに歯向かう者はすべて闇の存在、すなわちファシストだ──というのがロシア官憲の論理なのだった。

 このスナイダーによる警世の作も、刊行後しばらくは批判的な書評ばかりが目についた。ところが、2月24日のウクライナ侵攻開始後は、そうした評者の幾人もが沈黙している。

 無理もない。世界は変わってしまった。見直しを迫られているのは、なにも核抑止戦略だけではないのだった。多くの分野の専門家が、米ソ冷戦後の30年間の長期休暇が急に終了したのと同時に、わすれていた大量の宿題を見つけてしまったかのようだ。

 今かんがえると、リベラル寄りのメディアほど辛辣に批評していた記憶もあるが、ひょっとすると一部はプーチンのシンパによるポジション・トークだったのではと疑いたくもなる。それも、この書を一瞥すれば、あり得ないことでもないとわかってもらえる。なにしろ、英国の欧州連合離脱やドナルド・トランプ当選などなど、毎年の政治日程の要点とそれをつなぐ線は、プーチンの思惑に沿って描かれてきているように見える。西側の分断、弱体化を図った工作というわけだ。それも、今もって余波がおさまりきっていない。

 この4月3日のハンガリーの選挙では、オルバーン・ヴィクトル率いるフィデスがまたぞろ勝ってしまった。さっそくプーチン・ロシアの意向に沿うような姿勢が報じられている。だが、北大西洋条約機構NATO)加盟国である以上、これまで通りというわけにもゆくまいが。

 いっぽう同月24日に決選投票となった、フランス大統領選挙におけるマリーヌ・ル・ペンは、現職のエマニュエル・マクロンによって当選を阻まれた。びみょうに「極右色」を薄め、前回選挙より支持率を伸ばしたとはいえ、有権者の脳裡にプーチンの影がちらついたものか、決選投票で敗れた。

 また、やはり件の『自由なき世界』にもちらと名前が出てきた、チェコ共和国大統領のミロシュ・ゼマンは、とりわけ2013年の選挙でロシア企業から資金援助を得て以来、はっきりと親ロシア政策をとってきた。しかし、2月の侵攻以後は、ロシアを非難する側に転じた。なんといっても、同国でファシスト的極右ポピュリスト政党を率いるトミオ・オカムラですら、もはや方針転換を迫られたのだ。プーチンを称揚するようなコメントを発した候補予定者を、先日あわてて除名処分にしたほどだった。

 要するに、「欧州懐疑派」の政治家らはめいめい、国の世論にあわせて軌道修正を余儀なくされた。ぎゃくに言えば、スナイダーが指摘してきたような事柄が、これまでは一般の有権者には真剣に受けとられてこなかったということに、やはりなるのではないか。本格的戦争の勃発は、幸か不幸か、スナイダーの的確さを証明してしまった。

 

プーチニズム=ファシズム否定論

 たほう、プーチニズムを「ファシズム」と捉えるべきではないとする見解もまた、以前から存在する。そもそも史家らよりも、法則定立型の学問たる政治学や政治社会学といった分野に近くなればなるほど、こうした分類や定義や概念化に熱心になるのは自然であろう。

 さいきん出来して、そのタイミングもふくめて話題になっているのが、マルレーヌ・ラリュエル『ファシズムとロシア』だが、これは残念ながらまだ入手すらできていない。ただ、原題が_IS RUSSIA FASCIST?_だということもあって、主張は明白であるように思える。

 その点、マルセル・H・ファン・ヘルペンによる『プーチニズム』(_Putinism: The Slow Rise of a Radical Right Regime in Russia_, Basingstoke, 2013)では、プーチン体制をムッソリーニ政権・ヒトラー政権と具体的に比較していた。

 結果、きわめて類似性が高いものの、ファシズムにはあたらない……というふうな歯切れの悪い結論になっている。

 11の相違点として挙げらているのは、1. 指導者の輩出の仕方、2. 党の役割、3. 与党の「中道」的自己イメージ、4.ロシアの政党に私兵が存在しないこと、5. ロシアにおける公式な反ファシスト国家イデオロギーの不在、6. ロシアに国家による人種差別がないこと、7. ロシアには全体主義がない、8. ロシア国家と教会の共存関係、9. ロシアにおけるパワーエリートの性格、10. マフィアの役割、11. 多元的な民主主義的外観の維持。

 しかし、社会科学的な手法というのは、部分によってはいかにも形式的で表層的な分析に見えないこともない。すると、こうした議論はけっきょく、ファシズムの定義の仕方におおきく依存した結論になってしまうようにも思える。

 たとえば、8番目にある、クレムリンロシア正教会との関係は一種独特である、とするくだり。大統領と教会との「癒着」とも言うべき関係を念頭に置く一方、「ドイツの国民社会主義もイタリアのファシズムも、本質的には反宗教的、反教理主義的な体制であった。キリスト教を否定し、代わりに世俗的な疑似宗教を催した」と、ヘルペンはしている。1929年のローマ教皇庁とのラテラン協定にみられるような協力もありはしたが、基本的にファシスト体制とキリスト教会とのあいだには「明確な競争が存在」したというのである。

 だが一例として、戦間期のスロヴァキア国を教権ファシズム体制と捉えて、独伊政権とともに比較対象に含めたならどうなるか、と問いたい。カトリック政党たるフリンカ人民党とヨゼフ・ティソという聖職者みずからが、権威主義政権を掌握していたのだから、ヘルペンのいう聖俗間の「明確な競争」という点に疑問符がつく。カトリシズムとファシズムの混淆の記憶が、現在にいたっても隣のチェコ共和国の住民をして宗教への不信を抱かしめつづけているという論もあるほどだ。

 それどころか現在の視角からは、5番目の反ファシストイデオロギーの不在とか、6番目の国家による人種差別がないなどとはよく言えたものだ、というふうにプーチニズムは映りもする。

 ひょっとしたら、著者は例の「婆さんらにたいする荒唐無稽の言辞」を鵜呑みにしているのではあるまいか、とすら思えてくる。──しかし、10年近くまえの、つまりクリミア併合以前の研究であればこそ、むやみに責めるわけにもいかない気もするのだ。世界が変わってしまう前の所見にすぎぬのだから。

 

www.bbc.com

 

*追記(2022年5月19日)

スナイダー曰く「ロシアはファシストだ、と言うべき」「ファシズムに対する恐怖を、ヒトラーホロコーストのようなある種のイメージに限定してしまうのは誤りである」(『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿記事):

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