ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

カレル・クラマーシュ──ある親露派の末つ方

 この5月下旬で没後85周年をむかえたとのことで、チェコ語メディアがカレル・クラマーシュについてとりあげていた。

 クラマーシュについては、以前このブログでもアロイス・ラシーンの記事のなかで、すこし触れた。チェコスロヴァキア初代首相とはいえ、ちょっと「腫れ物」にさわるような雰囲気がないでもない、昨今である。

 1860年8月27日、オーストリア帝国は北ボヘミアの村、ヴィソケー・ナト・ユィゼロウの生まれ。煉瓦工場の坊々で、父ペトルと母マリイェにとっては、五人のうちでただ一人、学齢期まで生き残った子どもだった。ベルリン、プラハストラスブール、パリ、ウィーンの大学にて法律を学び、ロンドンにも滞在した。それだから、西欧の文化にかぶれていた一方で、スラヴの諸文化にも幼少から親しんでいたともいう。それはのちのち衆目に明かされることになった。

 徐々に政治の道にはいっていったのは、ヨゼフ・カイズルやトマーシュ・マサリクとの出会いからであった。はっきりとした転機は1890年で、国民民主党から帝国議会議員に選出され、ウィーン政界にデビューした。法律に通じ、弁舌も巧みだった。オーストリア政府を支持する見返りとして、文化、言語、経済の分野で、おおくの譲歩をひきだすことに成功していった。

 この頃は、フランチシェク・パラツキーの系譜につらなる「オーストロスラヴィズムス」を標榜しているように見えた。つまり「ゲルマン民族膨張主義に対する防波堤として、脅威を排除する強いオーストリア」を求めた。ハプスブルクの多民族帝国が、諸民族それぞれの生存と利益をまもるのだと。これもしかし、政府から有利な条件をひきだすための方便にすぎなかった可能性も否定しきれないが。

 というのも、第一次世界大戦が勃発するや一転、独自の「汎スラヴ帝国」の構想をぶちあげたのだ。ひそかにあたためていたものかとおもいきや、即興のおもいつきだったという説もある。それぞれの君主をいただく中小のスラヴの国々を、ロシア皇帝が統べるという、壮大なヴィジョンだった。ボヘミア王国の王は、ロシア皇帝が兼ねるとした。要するに、ハプスブルクに代わって、ロマノフに統治してもらう、というだけの話だった。

 だが、いっぱんにボヘミアで人のいう「汎スラヴ主義」とは、となりのポーランドの状況に矛盾が端的にあらわれていた。「ポーランド分割」で国を失ってきたポーランド人にとって、圧政の主ないし脅威の源とは、ほかならぬスラヴの盟主・ロシアだった。ぎゃくに、ハプスブルクはといえば救済にもなりうべき存在だった。

 クラマーシュは、件の「危険思想」をいだきつつ国内に残留し、反ハプスブルク闘争にて指導的な役割を担ってゆく。だが、官憲の目も節穴だったわけではない。けっきょく逮捕・投獄された。これは戦時中の国家反逆罪であるから、とうぜん極刑の判決が下った。

 このあたりは、以前紹介した映像作品『ラシーン(邦題:滅亡した帝国)』にも描かれていた。クラマーシュ役、ミロスラフ・ドヌチルの演技もみごとだった。

 ところで、クラマーシュの人物の好さというのは、一見すると不思議な現象として表面にあらわれる。反帝政の地下活動をしながらも、たほうでは皇帝フランツ・ヨーゼフを個人的に崇敬してもいた。ふるくはアメリカ独立革命の「反乱勢力」にも似たような傾向があったというから、人間とはそういうものなのかも知れない。とまれ、そのフランツ・ヨーゼフが崩御した。あとを襲ったのは、のちにヴァティカンによって福者に列せられるほどの人格者、カール帝であった。

 この慈悲ぶかい諸国民の父によって、叛逆者にして忠臣でもあったクラマーシュにも恩赦があたえられたのだ。減刑を経て釈放となった。だが、これは有権者には「裏切り」と映ったようだ。民族派の政治家にとっては深刻だ。監獄から娑婆に出たかとおもったら、そこは針の筵だった。

 それでも、やがてチェコスロヴァキアが成立すると、おもに戦前・戦中の功績から首相の座に就いた。……が、短命だった。

 パリの講和会議に出席して、国境確定の交渉に精を出していたが、育ちのよさが裏目に出て外交交渉には不向きだったといわれる。また、首相であるにも拘わらず、自国をながく留守にすることになり、国民の人気は大統領のトマーシュ・マサリクが独占する結果となった。

 しかし、政治家クラマーシュにとって致命的だったのは、ボルシェヴィキに支配されたロシアを救うとして、非現実的な軍事介入を主張しつづけたことだった。そのため、政治的に完全に孤立してしまった。

 理想主義者にして、飾り気がなく、政治家らしい駆け引きができなかったという評価がある。たぶん、あまりにも育ちがよかった。本人はとうぜんのように大統領の器を自認していたらしく、その品の良さやカリスマ性からいってふさわしくもあったが、叶わなかった。けっきょくは、パリの講和会議に外相として一緒にのぞんでいたエドヴァルト・ベネシュがマサリクの後釜におさまった。

 クラマーシュは1937年5月27日に没したが、ベネシュは大統領として葬儀に出席することなく、代理人に献花を託しただけだった。亀裂は決定的だったらしい。

 おおきな政治的な争点にもつながった、ロシアへの過度の傾倒には、個人的な理由がおそらく大きかった。

 政治家として歩み出した「転機」の1890年、訪れたモスクワで、将来の妻に出会っていた。そのときナディェジュダは、すでに四人の子持ちだった。

 昭和の昔ならいざ知らず、さいきんの日本であれば「不倫」「略奪愛」などと週刊誌に書かれてしまえば、ややもすると政治生命は危機に瀕する。当時のオーストリア政界も似たようなものだったらしく、ふたりはともにウィーン市内にいながら別々に暮らした。正式に結婚したのは、じつに10年後のことだった。

 ロシア人妻といっても、クラマーシュ以上に富裕なブルジョワジーのうまれであったから、ボリシェヴィキ政権とは敵対関係にあった。ロシアに残してきた子どもを呼び寄せる試みもすべて虚しく終わり、心理学でいうところの「補償」の側面もあったのか、亡命ロシア人の世話に奔走した。

 つまるところ、クラマーシュの強硬なロシア派兵の主張は、ナディェジュダからの懇願に由来した。政治的な情勢を度外視した、博愛主義者、愛妻家、家庭人としての訴えだった、という話である。

 富裕層の子女で高学歴にして、おっとりして駆け引きができず、たびたび宇宙人のごとき頓珍漢な発言でメディアをにぎわす首相経験者……といえば、近年の日本人には思い浮かぶ顔がある。しかし、そう比較してしまうのも紋切り型にすぎる気もするし、なによりクラマーシュに気の毒だ。

 たぶん、善いひとは政治家に向かない。──としておこうか。他人の意見を真摯にきくうちに、政策が現実と乖離し、無能扱いされるかもしれない。すると、ちやほやしていた取り巻きが、きゅうに手のひらを返してゆく。

 史家のミロスラヴァ・ヴァンドロフツォヴァーは、クラマーシュについて「無私無欲で、正直で、しばしばほとんど素朴な政治家であり、大きなカリスマ性を持ち、多くの党員から親愛の情をもって愛され、慕われた人物」と評し、「47年間も政治に携わりながら、見棄てられ、評価されず、誤解されたまま政治を去っていった」と同情している(Jana Čechurová, Dana Stehlíková, Miroslava Vandrovcová, _Karel a Naděžda Kramářovi doma_, Praha 2007)。

*参照:

www.blesk.cz