ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

アロイス・ラシーン(2)──暗殺者・ショウパルの謎

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 「FN・ベイビー・ブラウニング」というのは、.25ACP弾を使用する小型拳銃である。

 ブラウニングといっても、サライェヴォで帝位継承者フランツ・フェルディナントを屠って世界大戦への道をひらいた「M1910」でもなければ、諸国の軍隊で採用されるほど火力にすぐれた大型の「ハイ=パワー」でもない。ポケットにしのばせることができる点にのみ長所がある、非力な小口径の銃だった。だから、確実に人を殺めようとする者は、まず選ぶことはあるまい。

 にも拘わらず、ラシーンの背後から近づいた暗殺者は、懐中からこの拳銃をとりいだしだ。

 ところが、運命のいたずらか。初弾こそ空を切ったとはいえ、つづけて発射した2発目はラシーンの背骨、第11椎体に命中してしまった。脊椎を損傷したラシーンはすぐに四肢に不随を生じ、その場で転倒した。つづく6週間を病床で激痛と闘ったものの、感染症と敗血症を発症して、あえなく絶命する。1923年2月18日没。享年55であった。

 スヴォボダ監督の『滅亡した帝国』(2018年)は、この暗殺シーンからはじまる。現場となった、プラハ・ジトナー通り10番の建物には現在、ラシーンレリーフがあしらわれた銘板がとりつけてある。

ラシーンの悪名

 デフレーションといえば、日本衰退の元凶ともいわれ、アベノミクス以来むなしく「脱却」が叫ばれてきた。そうやって蛇蠍のごとく忌みきらわれているから、いまどき誉めそやされることはほとんど想像できない。しかしそれも、文脈しだいである。

 デフレ政策を採ったラシーンにかんして、現代の史家らは「肯定的に」歴史にのこる人物と評している。財政や金融の関係者にいたっては、ラシーンのことを悪くいう者はないようだ。

 とりわけ関係者らが鼻にかけているのは現行の自国通貨、チェコ・コルナらしい。すなわち、もとはラシーンが蔵相として興したチェコスロヴァキア・コルナであって、オーストリア=ハンガリーの通貨単位、クローネの名を受け継いでいる(どちらも「王冠」に由来。ウイルスのコロナも語源的には同じ)。これは継承国家のなかでは唯一無二なんです──と毛並みの良さを誇りにするのには、都合の良いときだけ旧宗主国をもちだしてくるようで辟易するが、ラシーンの判断もあって新通貨が信頼され、高く維持されたことで、のちに近隣諸国がおそわれたインフレを、ひとまずは回避できたことも確かだった。

 ところが、当時の評価はちがった。というのも通貨、緊縮、デフレにかかわるラシーンの政策は、国内産業、とりわけ輸出産業へ甚大な影響をあたえたためだ。新聞記事によると、1921年から1923年のあいだに、輸出は53%減少し、物価水準は43%さがった。失業者は7万2千人から20万7千人に増加した。国庫からの支出を抑えたことで、失業者があふれ、おおくの商店が倒産したのだ。ラシーンはむしろ、憎まれていた。

 ケインズなどは、はやくも1923年10月の時点で自著にとりあげている。通貨切り下げとデフレの両政策を対比する章である。そこで、ラシーンによる一期目の財相就任時の仕事こそ「あの時代にヨーロッパ全土で実施されたあらゆる金融手法の中で、唯一の劇的で勇敢で成功した手法」ともちあげる一方で、二期目のデフレ政策については、なんのためだったのか判らないと、けちょんけちょんに貶している。

チェコスロバキアはヨーロッパのどの国よりも、しっかりした固定通貨の基盤により経済生活を確立しやすい立場にあったのだ。財政は均衡し、借款も安定し、外国のリソースは適正であり、クローネが台無しになっていたのは自国のせいではなく、ハプスブルグ帝国の遺産でしかなかったのだから、それを切り下げてもだれも文句は言わなかっただろう。謹厳なる美徳の精神に基づくまちがった政策を追求したことで、チェコスロバキアは自国産業の停滞を選び、そして通貨はいまだに変動を続けている。


──ジョン・メイナード・ケインズ山形浩生訳『お金の改革論──A Tract on Monetary Reform』2020年、61頁。*オンラインで公開されている[PDF

暗殺者、ヨゼフ・ショウパル

 したがって、ヨゼフ・ショウパルがラシーンに手をかけたのは、貧しい民の代表として、やむにやまれぬ心情からだったのではないか──時代背景や状況証拠をみれば、そのように推論されるのは自然なことであった。

 1903年3月11日、ニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチュクーフ・ブロト)の労働者が住まうココジーン地区の家庭にうまれた。父は靴職人、母は裁縫で家計を支えた。ほか姉と弟がいた。それでも学校を卒えると、保険会社に勤め、安定して高給を得ていた。にも拘わらず、プロレタリアの環境に育ったためか、共産主義に共感していたのだという。

 それだけ共産党は身近な存在でもあったのだろう。1921年に成立したばかりのチェコスロヴァキア共産党は、地元ではそうとう支持されていたようだ。市内には地区の党指導部や事務局が設置されており、各種の行事や会合をつうじて、とりわけ学生を中心に支持を拡大していった。革命的な夢を語り合うだけの若者たちのなかで、ヨゼフ・ショウパルは、どす黒い計画を胸に秘めていたらしかった。

 ラシーンを撃ったショウパルは、現場から遠くへは逃げられそうにないと悟っていたようだ。抵抗せずに逮捕され、堂々たる態度で犯行をみとめた。自分はチェコスロヴァキア共産党をすでに辞め、目下どの政党にも所属しておらない、確信的なアナーキストであると称し、プロレタリアートのための行動だったと宣言した。犯行当時、19歳である。

 取り調べの一方で、当局はショウパルの自宅の捜索もおこなった。2日後の日曜日にはニェメツキー・ブロト市の共産主義者2名が逮捕され、翌月曜日には同5人が、木曜日にもひとり逮捕された。ショウパルにはけっきょく、18年の重禁錮の判決がくだった。ほかの逮捕者のうち4人には、6か月から8か月が言い渡された。

 いっぱんには自供のとおり、狂信的なアナーキストだといわれている。1923年7月5日付の『民族新聞(Národní listy)』の記事には、複数の証人の言が載っている。たとえば、プルゼニュの銀行員だというヴァーツラフ・スラーマなる証人は、10月に知りあい、雑談によりショウパルの為人を知り得たが、本人みずから「ボリシェヴィク」を称していたと証言している。その場では、ラシーンだけでなく、クラマーシュやベネシュの名も出てきたというから穏やかではない。

 そのいっぽう、ショウパルの言行はじつに謎めいている。一例として、監獄で医師の診察も受けた際、報告書を求められた件がある。このとき、1922年のマリアーンスケー・ラーズニェにおいて、セルブ・クロアート・スロヴェニア王国のアレクサンダル1世を暗殺する計画だった旨、記述したという。調査の結果、これは創作であるとほぼ結論されている。

 さらに再審が認められると、そこでショウパルは、殺すつもりはなかったと供述をひるがえした。冗談のつもりで、玩具で財相をおどろかす手筈だったが、知らない間に誰かがピストルをすり替えていたのだと主張した。むろん、認められるはずもなかった。こうした尽力は、裁判にはまったく影響を与えなかったようだ。のち保護領時代には釈放されたというのだが、1943年というから、ほとんど満期出所だった勘定になる。

 ショウパルは共産党に入党していたものの、暗殺事件をおこすまえに党を離れている。それが、戦争も終わってしばらくたったころ、共産党に戻ろうとしたが拒絶されたため、いったん社会民主党に入党した。のちには、共産党に移りおおせたのだという。そのころは「イリヤプラウダ」と、ロシア風の氏名に改名してもいた。

 1959年11月に死亡したときの56歳というのは、皮肉にもラシーンの没年齢にちかい。この晩年には、回想録の執筆をはじめていたらしい。評論家のミロスラフ・シシュカによると、そのなかで、共産主義者の犠牲者であると自らを称したとされる。仲間うちのくじ引きで実行犯にされたというのである。

アナーキストか、ソシオパスか

 こうしたエキセントリックな性行を聞かされると、アナルコ=サンディカリスムに共鳴した末の狂信者によるテロリズム事件などと説明されても、なにかしっくりこない。共産党を出たりはいったりしながら、アナーキストやボルシェヴィクを自称してみたり、またあるときはコミュニズムの犠牲者と主張したりしている。アナーキストにして詩人のスタニスラフ・コストカ・ノイマンの著作に影響を受けたというが、おそらく当時は大勢の学生が読んでいた。

 つまり、それらしい聞いたふうなことを述べたてるのだが、心底からそう思っているわけではない。こうした傾向をしめす人間はよく知っている。息をつくように嘘をつく、ある人物を思い出させたのだ……。

 近年になって、興味ぶかい説が出来した。研究者連の関心も引いたらしいが、なによりも「わが意を得たり」だった。

 史家のミラン・バイガルは、ショウパルはむしろ政治には無関心であったものと推測している。現代において研究のすすんできた、いわゆるソシオパスであった疑いがあるのではないかというのである。

 ソシオパス(sociopath) というのは、原田隆之によれば「社会を悩ます精神病質」を意味し、「現在はほぼサイコパスと同義で用いられている」という(『サイコパスの真実』筑摩書房、2018)。ほかに両者の差異として、ソシオパスでは後天的な要素が、サイコパスでは遺伝的な要素が大きいともされてきているようだ。いずれにしても、前の米大統領ドナルド・トランプが該当するのではいかという仮説は報道メディアも伝えていたほどで、今日ではよく知られた概念になっている。

 この性向を有する人は、要するに、特殊な一面に特化した見栄っ張りで、自分にいかに人望があるかを見せたがり、特別な人物であるとアピールすることにすべてを賭ける。周囲の気を引き、かまってもらうためになら、アナーキストとしてプレタリアートのために決起したのだと豪語することもあれば、脈絡なくアレクサンダル・ユーゴ王の名を口にすることもある。じっさい、捜査員らは裏付けをとるために、いちいち右往左往したことだろう。それを見て悦に入る、狂喜の表情をありありと想像できる。

 脳の異常によって、共感能力が欠如している反面、共感しているふりをするのもまた巧みであるとされる。談笑していても、よく観察すると目が笑っていない。もとより蛇の眼をしている。それでも、危機感を煽ったり、みずからを実際以上によく見せたり、あらゆる方法によって他人を操作する術に長け、けっきょく協力者を得て社会的に成功する。ドーパミンにかかわる報酬系に異常があり、社交することにおいて大きな愉悦に浸るから、手段の目的化というよりも、そもそも手段も目的もあまり大差がない。みずからが周囲の人気者だと感じているときがもっとも嬉しいのだ。

 また、病的に嫉妬ぶかい。良心の呵責なく、誹謗や讒言で他人を陥れたり、場合によっては生命を奪う。ショウパルは、ラシーンを暗殺するまでに、じつは二度ほど失敗している。その武勇伝を地元で仲間たちにしたりげに吹聴していたといわれる。同郷の共産党員・ステャストニーが、1919年にクラマーシュ暗殺に失敗したと聞いて、対抗心を燃やしたものであろうか。このときクラマーシュは、サスペンダーのバックルに弾丸が跳ね返って一命をとりとめたというから、西部劇なみのスペクタクルとしてショウパルの耳にはいったのかもしれない。悪名といえども名を轟かせていたラシーンは嫉妬の対象でもあり、かつまた、これを葬ることでひろく大衆の関心や感心を買うことができると踏んだのではないか。となると、当時の政治情勢を利用した日和見的な犯行で、決して狂信者のそれではない。

 興味ぶかいのは、監獄にいたときの目撃談として、ショウパルを「フェシャーク」と評した者があったことだ。「洒落者」というほどの意味の俗語であるが、当時の監獄にそんな囚人があるものだろうか。可能性として想像するに、ほかの受刑者や看守を操作して、うまくやっていたのであろう。

 確たる証拠はない。イデオロギーによる義憤とはされたが、あるいは精神病質によるものか。真相はわからない。いずれにせよ、19歳の蛮行によって、共和国はラシーンを失った。賛否の分かれる経済政策はともかく、その強烈なキャラクターはひろく惜しまれる。

 のち、1938年のミュンヒェン会談における合意をうけて、臆病なインテリだったベネシュ大統領が第三帝国の進駐を甘んじて受け容れたことは史実である。だが、もしそのとき、武闘派のラシーンがリーダーであったらば……と嘆く声もあるのだ。

*暗殺の現場(プラハ・ジトナー通り10番):

 

*参考:

havlickobrodsky.denik.cz