ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

奴隷の年と東ボヘミアの城邑

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 すでに師走である。パンデミックをきっかけに、社会の矛盾があばかれた年だった──などと、年の瀬の総括らしきことを書くのは容易いが、その解決の方途について見えているわけではまったくない。

 12月2日は「奴隷制度廃止国際デー」だったそうである。『デジタル大辞泉プラス』によれば、1949年の国連総会で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が採択されたことに根拠をおいている。

 これに抵触しかねない事例を思い浮かべれば、日本には悪名たかい技能実習制度がある。制度の欠陥に起因するような事件がたびたび報じられた年だった。そもそも数十年のあいだ、自国民の過労死の問題も解決できていないというのに、輪をかけて劣悪な条件で就労させるべく海外から人材を移入するというのは、行政府による人道上の罪にも思える。思えるが、これ抜きにしてたちゆかない構造にまで堕してしまったのが、「失われた30年」を経た日本の経済と人口動態であったのだろう。

 とはいえ、今年にかぎってみれば、世界的な疫禍のなか、状況はどこも似たり寄ったりというところのようだ。「奴隷としての外人」という、煽情的な見出しがおどったのは、この夏のチェコ共和国の日刊新聞である。もとより低水準の賃金でこき使われているというのに、遅配が生じて困窮している由であった。余所者にしわ寄せがゆくのは不当ではあるが、いたるところに共通しているようである。

 歴史的な奴隷制度についてはまた、いわゆるBLM運動に連関して脚光を浴びたものだった。新大陸のプランテーションで使役された奴隷は、アフリカ大陸からの「輸入品」だったことから、のちのちまで尾をひく人種問題が生じた。いっぽう同時代の旧大陸、とりわけエルベ川以東での労働は、おもに農奴が担っていた。

 1848年という革命の季節に、ウィーンの帝国議会農奴廃止の法案を出したハンス・クートリヒについては、よく知られている。たいがい目立たない佇まいではあるものの、モラヴィアやシレジアを中心に旧帝国領の各地に功績を讃える碑銘が散在している。現在のチェコ共和国オーストリア共和国ドイツ連邦共和国、それにアメリカ合衆国の領域にあわせて76もの記念碑が現存するという報道も、近年あった。だが、先鞭をつけたのはヨーゼフ2世だった。以前すこし触れたが、およそ18世紀の人らしからぬ慧眼で、数々の利権を打破した啓蒙専制君主である。農奴解放のみならず、修道院を解散させるなどもし、とりわけ教会の利権には打撃をあたえたはずだが、それだけに孤立した君主でもあった。天につばきす、とはいいたくないが、正論を吐くやつは嫌われるものだ。改革者の宿命であろう。

 ところで、こうしたことをちょっと調べようと文献をひもとけば、とうぜん「Leibeigene」という語にでくわすことになる。辞書をひくと「農奴、隷農」という語義のまえに《史》とあり、いまは存在しない制度であることを再確認させられる。よりひろくは「Sklave」(奴隷)の語が用いられるところだろうが、英語の「slave」と同様、ギリシア起源のラテン語にゆきつく。古代ローマで奴隷といえば、まずスラヴ人をさした。

 では当のスラヴ人はどうなのかといえば、たとえばチェコ語ではまず「rab」という語が挙がる。会話ではほとんど使われないと思うが、文語では奴隷を指す唯一の語ということになっている。はんたいに日常もちいられる語となると、私見によれば、圧倒的に「otrok」の出番が多い。前述の記事「奴隷としての外人」にしても然りである。また、農奴や隷農だけならば「nevolník」という謂いもあるものの、これは形態素からして「非自由民」というような構成の語だとすぐわかるから、明解すぎてあまり面白みがない。

 むしろ面白いのは、住民たちが自分たちのことを、この「奴隷」という語で呼ぶ町が存在することである。ともすると、誇らしげにだ。同様の例をひけば、徳川の天下はもう存在しないのに、いまでも東京下町というと神田の水の産湯をつかった「江戸っ子」を自認するひとがある。あるいは、北海道出身のひとを「どさんこ」と称したりする。この場合、北海道産の馬とは別の意味であることは、ふつう日本語話者には文脈によってしぜんに察せられる。要は、その手の集合的な愛称のことである。──チェコ語を学習している向きには、あるいは知られた話であろう。

 フラデツ・クラーロヴェーは、プラハから東に100キロほどのところにある、人口9万人ほどの町である。先史時代からひとが定住していたらしいが、歴史に名をあらわすのはなんといっても、ヴァーツラフ2世の妃であったリクサ・エルジュビェタが寡婦領とした14世紀以降で、「クラーロヴェー」とはこの「王妃」に由来する。フラデツ・クラーロヴェー、その名も「王妃の城邑」というわけである。高校世界史には「ケーニヒグレーツの戦い」が出てくるから、日本ではドイツ語による名称のほうが広く知られているかもしらん。しかし「ケーニヒ」では「男の王」ではないか、と思われた諸兄諸姉はするどい。もとの名は「ケーニギングレーツ」であった。

 さて、このフラデツ市民の愛称たる「奴隷」であるが、厳密には「votrok」や複数形の「votroci」が用いられる。それでもって、標準的な「otrok」との音韻的な差異が生じて、スラングであることが察せられるのである。

 ただ、o-ではじまる語が、語頭にv-をつけて発音されるのは、口語ではよくある。もとは、とりわけボヘミアから西モラヴィアまでの一帯における方言であったという。が、たとえば「窓」を意味する「okno」が「vokno」と発音されるのは、地域にかかわらず、いまでは日常的である。あるいは、よりモーダルなニュアンスがくわわるが、英語の「he」にあたる「on」を「von」と言ったりする。ヴァーツラフ・ハヴェルの戯曲にも「von i von, vona i vona」というくだりが出てきた(そういえば「otrok je otrok」という、俚諺を引いたせりふもあった)。苗字にしても「Ostrý」さんというひとがいたかと思えば、「Vostrý」さんというのもいたものだった。あるいは「Orlík」さんと「Vorlík」さん、「Ocásek」さんに「Vocásek」さん……枚挙に遑がない。

 端的に、フラデツ市を含む東ボヘミアでいう「votrok」とは、標準的なチェコ語で「少年」や「若者」を意味する「chlap」や「chlapík」あるいは「mladík」の同義語だそうだ。そもそも「otrok」なる語は、スラヴ祖語までさかのぼって、未成熟の男子を意味したらしい。「奴隷」の意味はなかった。制度がなかった。「rab」のほうも語源的にはちかいらしく、ドイツ語の「Arbeit」もそこから派生しているというから、さらにさかのぼるのだろう。

 仔細に見てゆけば、「ot-」は、前置詞の「od」に通じ、何かから「隔てられている」状態を示しており、「-rok」とは「rokování」、ひいては「řeč」の意であった。これを要するに「言葉から隔てられた者」すなわち、村落の意思決定のための会合で「発言権がない者」「話し合いに参加する資格がない者」を「otrok」と言ったものらしい。そうすると、いにしえの村社会の「少年」と「奴隷」との共通項がみえてくる。

 用例をみると、もとの北東ボヘミアの言語環境では、がんらい呼びかけに用いられたようだ。フラデツの人びとが「Votroku!」と呼びかけ合うのは、同地出身の文人イグナート・ヘルマンが典拠に挙がっているから、遅くとも19世紀後半から20世紀初めまでにはこの習慣が定着していたのであろう。標準的には「Chlapče!」といっても意味は通じるだろうし、あるいは集合的に「Hoši!」とか「Kluci!」というほうがよく聞かれる表現だろうか。大意としては、ほぼおなじである。英語圏でも「guys」とか「mate」とか「old chap」とか、いろいろあるではないか。やや廃れたステレオタイプによれば「hey man」でもっぱら声をかけてくるは、ほかでもない新大陸のアフリカ系の人びとだ。

 以上は主としてヴァーツラフ・マヘクとボフスラフ・ハヴラーネクによる1950年代の短い記事に拠ったが、細部では両者が対立している点もあるようで、つまり議論の余地もあるわけだ。男性のコミューニティーで流通した表現なのだろうが、一方で女性形の「votrokyně」が聞かれない点について、ジェンダー論的な視点から言語社会学的ないし社会言語学的に、もうすこし捕捉があったら面白かったのにと勝手な感想をもった。

 けっきょくフラデツの住民とて、みずからをさして「奴隷」呼ばわりしているのではなかった。だが、ひるがえって、むしろ現代の埼玉や群馬あたりに、奴隷扱いを受けたことを誇るマイノリティが発生したらば、それは悪夢にちがいない。──現状では誇大妄想じみたものがあるが、種々の報道を耳にするにつれ、今後まったく起こらないとも断言できない気がしてくるのである。

  

*参照:

jp.sputniknews.com

front-row.jp

business.nikkei.com

news.yahoo.co.jp

www.bbc.com

www.reuters.com

www.bbc.com

www.sankei.com

www.idnes.cz

*上掲画像はWikimedia.