ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

サライェヴォ事件とフランツ・フェルディナント大公の明治日本

 第一次世界大戦は、一発の拳銃弾から始まった──と言われる。

 6月28日は、その記念日。1914年、サライェヴォにて、帝位継承者フランツ・フェルディナント大公が殺害されたのである。

 報復としてセルビアに対し宣戦布告したとき、当のフランツ・ヨーゼフ帝は、自らの号令が世界大戦への道をひらき、同時に帝国をして崩壊へと歩み出さしめたのだとは、露にも思っていない。

 ──これは、ことし2月におけるヴラヂミール・プーチンの誤算にも通ずるものがある。まだロシアは崩壊すると決まったわけではないが。

ガヴリロ・プリンツィープのブラウニング

photo by urashima-e

 ウィーンの軍事史博物館には、かつて幾度も足を運んだ。

 ウィーン筆頭駅(むかしは南駅だった)から歩いて15分ほどだろうか。サライェヴォの暗殺に使用された拳銃《FNブラウニング・モデル1910》は、ここに展示されている(Das Attentat von Sarajevo: 28. Juni 1914)。

 オーストリアの大公を屠った拳銃が、ウィーンに展示されてあってもなんのふしぎもありはしない。

 だが、経緯は意外に紆余曲折をみていた。たとえば、2004年6月22日付けの『アイリッシュ・インディペンデント』紙のサイトに、記事がある(コピー・ライトのマークからすると、『デイリー・テレグラフ』紙からの転載か)。

 ベオグラードの学生であったガヴリロ・プリンツィープは、1914年6月28日にサライェヴォを通過した大公夫妻にたいし、7発の銃弾を見舞った。のち1914年10月に同じサライェヴォで12日間の裁判が行われ、プリンツィープには禁錮20年の判決が下った。けれども、おそらく収監される以前から結核に罹患しており、病のためというが右腕を切断され、やがて1918年4月に病院で死亡した。

 刑が下されると、帝国のボスニア省は、アントーン・プンティガム司祭に凶器のピストルとその他の遺品を所持することを許可した。というのも、イエズス会の司祭、プンティガムは大公の親友で、サライェヴォの市庁舎まで出向いて夫妻に終油の秘蹟をほどこし、のちに大公を記念して博物館を開くという意向を表明していたからだ。

 しかるに、まもなく大戦が勃発し、やがて帝国も崩壊したため、フランツ・フェルディナント博物館開設の計画は成就しなかった。1926年には司祭自身も亡くなり、このシリアル番号19074の《ブラウニング・モデル1910》は、シュタイアーマルクのイエズス会の施設に引き継がれた。そうして、いつしかその存在は忘れ去られてしまっていた。

 それでもあるとき、埃をかぶった《ブラウニング》が発見されたのだ。

 文書館の責任者であったトーマス・ノイリンガー司祭は、暗殺から90周年の節目に間に合うように、当局に引き渡すことを決めた。大公夫妻が乗車していたグレーフ&シュティフト製のセダンや血まみれのチュニックなども一緒である。

 こうして、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を殺害し、第一次世界大戦を惹起した拳銃は、ウィーン軍事史博物館で展示されることになったという。

 なお、大公の頸部から摘出された弾丸は「大戦をひきおこした銃弾」として、ボヘミアのコノピシュティェ城に保管・展示されている。

 ──日本で骨董を買い漁っていたとき、大公はそれをこの居城内のエキゾチックな装飾にしようと思い描いていたのである。

 

フランツ・フェルディナントの日本

 プリンツィープは、よりにもよって宮廷でいちばんの「親スラヴ」的な皇族を手にかけた。安重根が、征韓論に反対していた伊藤博文を殺害した事例にも似ている。いずれのケースでも、多少なりとも親しみをもつがゆえに相手に対して隙が生じ、狙いやすい標的となったということもあったのかもしれない。

 また、当日の警備体制の不備はいろいろ明かされているが、それ以上に、大公みずからが厳重な手厚い警護をきらう性分だったことも、若い時分の日本訪問の日記から読みとることができる。

 1892年からの世界を股にかけた旅の途上、フランツ・フェルディナント大公が日本を訪問したのは翌93年の夏であった。日記の既刊邦訳は、日本がかかわる部分のみの抄訳で、香港から海路をゆく皇后エリーザベト号艦上、7月29日からはじまっている(安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』講談社、2005

 低気圧を避けつつの航海で、ようやく8月2日に長崎港にはいった。

 そのとき日本駐箚オーストリア=ハンガリー公使ビーゲレーベン男爵が乗艦してきて日程が知らされるや、大公は驚愕する。

驚いたことに、わたしの希望は考慮されていなかった。
   [...]
陸路コースの準備がもうできあがっており、わたしが横浜に打電し確認していた日本側接伴員はすでに長崎に到着しているそうだ。したがって、名高い景勝地の瀬戸内海をエリーザベト皇后号の甲板から楽しむこともできず、お忍びで日本の地方風景をのんびり見学する楽しみも断念しなくてはならない。ともあれ、この長崎から日本の顕官に囲まれ、凱旋行進のように大層な行列をする破目になった。

──安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』

 8月4日からは軍艦八重山に移乗し、三角港まで航行。熊本から下関まで行き、ふたたび八重山に乗る。瀬戸内海をとおって、宮島を経由して三原へ上陸。各地を見物しながら、鉄道で大阪、京都、奈良、名古屋、箱根と移動し、8月17日、横浜から東京に至る……。

 海路と陸路をくみあわせた行程がかっちり組まれており、帝都での天皇謁見へいたる日程は、時間的にもタイトだった。ただ、お忍びで地方を散策・見学する希望がことごとく却下されたのは、時間の都合ばかりではなく、約2年前にロマノフのニコライ皇太子が斬りつけられた事件に懲りた日本政府の意向がつよくはたらいたためでもあったらしい。

 なにせ、不平等条約撤廃をめざす明治政府としては、日本がいかに文明的な国家であるか、十全にアピールしなければならなかった。そんななか「次期皇帝」と目される御仁にたいして野蛮な刃傷事件の二の舞をおこした日には、言語道断の失点となる。

 さいわい、大公は無事に東京へ至ったし、また日記を読むかぎり「アピール」もうまくいったみたいだ。大公は、神社仏閣や宗教美術、物珍しい文物や風習を好奇の目でながめるだけでなく、日本の産業化・近代化の進捗にも舌を巻いている。とりわけ軍隊は、国力を示すのに一役買ったようだ。

 大公にも軍務経験があり、とりわけ司令官まで務めたことのある騎兵科には造詣が深かった。騎乗する兵の背筋をみて、ひと目でドイツ式とフランス式を見分け、どこで訓練をうけたかわかると豪語している。装備の良し悪しにも言及しているが、鞍などは「わがオーストリア」ほどの品質ではないと断じている。ドイツ騎兵がモデルとしたオーストリアの様式を日本も採り入れていることには感心したようだし、また行進にあわせて演奏された一曲が『ラデツキー行進曲』だったことにも触れている。

 さきざきで歓迎の宴がもよおされ、しばしばドイツ語やフランス語に堪能な軍人や官吏が同席して、大公が退屈しないように腐心した。皇室の料理人が腕をふるった膳にも、微妙な言いまわしもあるが、選りすぐられた酒とともに各地でおおむね愉しめた様子だ。ビールがあると知って喜ぶ一幕もある。

料理は必ずしも口に合うというわけではなかったが、中国の料理よりは美味であった。料理の中心はなんといっても魚と米である。最初わたしたちは、料理を口に運びつつ日本酒を飲んでいたが、ビールがあることを知ってしまうと、この高貴な飲み物でたっぷりと英気を養ったのはいうまでもない。

──安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』

 日本のビール産業は、その歴史のごく初期に英国流のエールを醸造していたものの、すぐに下火になった。この明治20年代は、ドイツから設備一式を輸入し、技師を招聘するなどして再出発した時期にあたる。醸造の分野でも、世界的な潮流をとりいれる必要があった。つまるところ、大公をよろこばせたビールとは、まさに故郷で飲み慣れた下面発酵のラガー・タイプだったはずだ。

 ビールもそうなのだが、さらに象徴的な描写がある。大公の一行が東京入りして翌8月18日、フランツ・ヨーゼフ帝の誕生日にさいして、東京湾にて日英米独の軍艦が祝砲を撃ち鳴らしたという記述だ。欧米列強の軍艦がなにげなく停泊している様子にも、当時の日本のおかれた環境がしのばれるのだ。

 日本人がはじめ、19世紀のヘゲモニー国家・イギリスに近代化の範を仰いだのは自然のなりゆきだった。また、軍事、とりわけ陸戦にかんしては徳川幕府いらい、フランスを師としたのも、ナポレオンの存在を和蘭通詞経由で聞き知っていたならば至当であった。

 ところが、1871年ビスマルクがフランスを降してドイツ帝国が成立するや、明治の政府や軍や学界はいっせいにドイツを向くようになった──ともいわれるが、文明化・近代化の手本としてドイツが最有力の選択肢に加わった、という表現が穏当であろう。しかし、陸軍にかぎっては、ドイツ志向はそうとう際立った傾向だった。成績上位の者からもれなくドイツ語のグループに編入せしめられ、クラウゼヴィッツの講読に力が入れられた。

 あるいは、鷗外森林太郎を思い出す向きもあるに違いない。さいきんは、将兵脚気を減じるための陸軍の糧食改革を阻んだ元凶とされ、一部で評判がよくないものの、むろん「業績」はそれだけではない。近代日本の文学史、医学史、醸造史など、さまざまな分野に顔をだすスーパー・スターで、留学史の文脈でもおおきな存在だ(さしあたり参:ビール先進国ドイツに魅了された日本近代文学史上まれなる文豪・森鷗外)。

 じつに10歳頃からドイツ語を学んでいた鷗外だったが、大学卒業後に留学を約されていた二番目までの席次にとどかず、ドイツへの留学枠をねらって陸軍に奉職した。留学といっても、第一義的には官費によって野心あるエリートが命ぜられるもので、鷗外ものちには軍医総監まで上り詰めることになった。

 さらに同時期の陸軍でドイツといえば、陸軍大学校で教鞭を執ったメッケル少佐だ。『坂の上の雲』にも出てきた「渋柿おやじ」である。モーゼルワインの飲めぬ国には赴任できぬと固辞していたが、明治の陸軍がどうしてもとほしがった人材だった。NHKの映像版『坂の上の雲』には、高橋英樹の演じる児玉源太郎が「モーゼルヴァイン!」を届けさせて乾杯するシーンもあった。だが、このとき居並ぶ「学生」連はフランス式の軍服を着用している。

 この場面に、阿部寛が演じた秋山好古もいた。この秋山はメッケルの薫陶を受けながらも、諸般の事情から、フランスへ騎兵戦術をまなびにゆく。ただ、このひとの場合は「自費留学」ということになっている(「秋山騎兵大尉自費留学の閣議」)。いずれにせよ、やがて「日本陸軍騎兵の父」と呼ばれるようになり、相前後して大陸でロシアのコサック騎兵を敗ることになる。

 秋山好古は、1890年代初頭には帰国した。が、それを機に騎兵の運用がすっかりフランス式に統一されたわけでもなかった。往時、フランツ・フェルディナントが演習を検閲した頃は、騎兵科にドイツとフランスの両方の流儀が入り乱れていた時期だったようだ。大公の観察眼によって、それが客観的に裏付けられているわけだ。

 つまり、そうした欧米列強の「文明」を貪欲に吸収する明治日本を冷静に観察していた海外からの訪問者たちだったが、「次期皇帝」ともなると、教養の深さや世界観からいって、軍事の分野にかぎらず、あらゆる感想が含蓄に富んだものなのだった(どの程度までゴースト・ライターが書いたものであったのかという検討は、ひとまず措いておく)。

 さて、そんな大公にして、じつは堅苦しいことは嫌いなたちだったとうかがえる。皇族として教育を受けた教養人で、好奇心がつよく、興味関心も多方面にわたった。趣味にしても、猟銃を撃つ機会をもうけることは断念し、短時間の鑑賞のみで劇場もあとにしたのも悔いたが、骨董の蒐集だけは妥協したがらない。自分のペースで店を見てまわりたいという気持ちは、現代人には庶民でもよくわかる。いずれにせよ、大公は窮屈さから逃れようと画策しつづける。

 この宮島でもまた、華々しい歓迎を受けねばならなかった。ほんとうは、こうしたことから解放されたかったのだが、どうしても逃れられなかった。日本の人びとは、機会あるごとに、物事をできうるかぎり厳粛に、できうるかぎり華麗に執りおこなうことに最高の価値をおいているからだ。
   [...]
そこで、わたしは駆け足に打って出て宿舎に逃げ込んでしまったが、色めき立ったのは随員たちで、みんなハアハアと息を切らせて追いかけてきた。

──安藤勉訳『オーストリア皇太子の日本日記』

 しかし、われら読者は、この二十余年後にサライェヴォで命を落とすことになる大公の運命を知っている。日記を読んでいても、大公が警備を厭うくだりがでてくるたびに、諌めてさしあげたくなってくるのだ。

浴衣でくつろぐフランツ・フェルディナント大公御一行(1893)

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