ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

プーチニズムとチェコ共和国

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photo by Nati Melnychuk

 現代ロシアの統治体制を指して、プーチニズムなる術語も出来して久しい。定義によっては、スターリニズムとの類比もあるのかもしれないが、このところのプーチン大統領といえば、スターリンよりも、むしろヒトラーと対比されるのがもっぱら、という印象がある。

 今般のウクライナへの侵攻も、8年前のクリミア併合と同様に、1930年代のアンシュルス(独墺合邦)とか、ズデーテンとか、ミュンヒェン会談とかの比喩を通して語られたものだった。つまり──

 いっぽ間違えば、わが国もウクライナのように……

 ──と、一様に肝を冷やしたのは、チェコ共和国の住民たちであった。

 

1)ペトル・フィアラ政権

 ロシア軍が侵攻を開始した24日、チェコ共和国の公共放送(ČRo)が公表した世論調査によると、同国では87%の住民が、この戦争をロシアによる「不当な侵略行為」であると見ている。

 すでに侵攻前の19日、同国のペトル・フィアラ首相は、「戦争が解決策にならぬのは周知の通りですが、浅はかな譲歩もまた然り」と述べて毅然たる態度を示しつつ、欧州の政治や安全保障におけるロシアの工作に注意をうながして、「ロシアがいかようにも影響を及ぼしうるように、わが国を分断し、ふたたび弱体化させる試みを看過するわけにはいきません」と、団結を訴えていた。

 そのさい引き合いにしたのはやはり、チェコスロヴァキアの歴史的経験で、具体的には1938年のミュンヒェン協定、1945年のヤルタ会談、1968年8月のワルシャワ条約機構軍による占領が挙げられた。

 1938年と1968年の事件は、ロシアのウクライナへの侵攻が開始された前後にひろくSNSで見られた比喩だった。が、1945年の事例だけはわかりにくいかもしれない。端的には、ヤルタに会した大国同士の手打ちによって、チェコスロヴァキアポーランドといった国ぐにがソヴィエト連邦に「売られた」と、一般には解されており、それを指している。

 いずれの事件を見ても、既視感をおぼえることだろう。だが、大きな差異として忘れてはならぬのは、われわれが核時代を生きているということである。相互確証破壊の理論は制度化されており、北大西洋条約機構NATO)という形で集団的に保障される体制が、米ソ冷戦集結後も存続してきた。

 それだからフィアラ首相は、NATO加盟国であるため安全が保障されていると、自国民の不安を宥めることも忘れなかった。──じつは本日、1999年3月12日にチェコ共和国NATOに加盟してから、ちょうど13周年を迎えた。

 中道右派のフィアラ政権は、昨2021年秋の選挙結果をうけて、つい年末に成立したばかり。親欧州連合EU)・親NATOを標榜している。

 ことし元日、首相による演説が公共放送(ČT)で放映されたが、首相の背後にはチェコ共和国旗を包み込むように、欧州旗とNATO旗が立てられていた。

 いぜんコロナ対策のロックダウンか何かのとき、前のアンドレイ・バビシュ首相が演説した際には、国旗とEU旗は、画面の端と端に離れて設置されていたものだから、対照的におもえた。──「政治の図像学」というのは、あんがい当てになる。

 また、他日には注意を喚起してもいた。「ソ連がどこまで達したか、何をもってロシアが自らの勢力圏と見做しているか……旧い地図を見れば、どれほど根本的に我われに関わっているのか、誰もが理解することでありましょう」。国民の歴史的トラウマに訴えかけたのだ。

 

2)ゼマン=バビシュ体制と東西のあいだ

 さて、ロシアのウクライナ侵攻開始後。

 親露路線を堅持してきたミロシュ・ゼマン大統領とて、さすがにこの狼藉では庇いきれぬと観念したものか、これまた中継された国民への演説のなかで、侵略を非難する仕儀となった。ただ、その際にも開口一番、「ロシアにはナツィスから解放してもらった恩義があるとはいえ……」というような言辞から始めたのは、支持層への配慮でもあったのだろう。

 たほう、前首相のアンドレイ・バビシュは、チェコスロヴァキア共産党の特権的な人脈によって財を成した、いわば「オリガルヒ」である。この表現が国内メディアであまり使われないのは、当人のメディアへの影響力のつよさを表している。政策や経歴からも、ロシアとの関係の近さも窺われるものの、さいきんでは「対露・対中政策はゼマン大統領案件で、自分は首相としては対EUを担当していた」ということを言って、視聴者を煙に巻いたものである。

 このバビシュ前首相は、フィアラ現首相が危急の時局に団結を呼びかけたにも拘わらず、党派的な政権批判をつよめている。事態は話し合いによってのみ解決を目指すべきで、対露制裁は効き目がないからやめるべき──などと主張している始末である。このタイミングでは、プーチン・ロシアを擁護していると受け止められても仕方がない。

 共産党の体制から脱したビロード革命以降、かつてのヴァーツラフ・ハヴェル大統領が掲げた国是は「ヨーロッパへの回帰」であった。すなわち、具体的な政策としては、NATOへの加入とEUへの加盟であり、最終的に「NATOおよびEUと結合したチェコ共和国としてのチェク・アイデンティティー」は成就した(文化史家デレク・セイヤーの表現)。

 ところが、昨年末までのアンドレイ・バビシュ政権は、同時期のハンガリーポーランドの「欧州懐疑派」政権と同様に、難民受け入れ拒否を掲げるなど、欧州の基本的な価値観に楯突き、のちには、とりわけ利益相反の嫌疑をめぐってEUと激しく対立した。

 対するフィアラ現首相を筆頭とした中道右派連合は、かつてのハヴェルの理想を想起させる選挙戦を展開した。NATOEUの一員としての、復活したナショナル・アイデンティティーを有権者に思い起こさせ、けっきょく昨秋の戦いを制した。

 とはいえ、これは、チェコスロヴァキアという文脈でみれば、まったく新しいアイデンティティーというわけでもない。また、この東西間での葛藤が、政治シーンに投影されるのも初めてのことでは決してない。

 たまたま、フィクションながら象徴的なせりふを見つけた。チェコスロヴァキア共産化をめぐる殺人事件をあつかった大衆小説である。エドヴァルト・ベネシュ大統領が、ヤン・マサリク外相に語りかける場面だ。

ベネシュ大統領の顔に、苦渋に満ちた表情が浮かんだ。「わたしは、つね日ごろ主張してきた。われわれチェコスロバキア人は、文化的には西ヨーロッパ人だ。この地位は、変えることはできない。なぜかというと、文化的発展というものは、そのときどきの政治形態に合わせて、上衣かなにかのように、昨日と今日は別のものといった具合に着替えることのできないものだからだ。チェコスロバキアが東ヨーロッパへつくか、西ヨーロッパへつくかという問いに対しては、答えは、ただ一つだ。チェコスロバキアは、東と西へ向く」
  ──高柳芳夫『モスクワから来たスパイ』講談社、1987年

 見方によっては、ヤルタ秘密協定によって、すでに帰趨は決していた。この1948年2月、共産党は権力を掌握する。そして、マサリク外相は変死体で発見されたのだった。

 いずれにせよ、チェコスロヴァキアおよび後継のチェコ共和国有権者は、「保守か、革新か」以上に、「西か、東か」を、毎度まいどの選挙で絶え間なく選択してきた。もちろん、社会主義時代を除いて。

 

3)プーチニズムの歴史的文脈

 こうした国において、プーチニズムというのは、きのうきょう、とつぜん湧いてきた話ではない。

 明快に解説していたのが、プラハの史家、ペトル・フラヴァーチェクだった。すなわち、プーチン大統領は「偉大なロシア」を夢想してはいるが、その侵略戦争ロシア帝国主義に由来するものである、と喝破した。

 15世紀に「タタールの軛」を脱したモスクワは、それと前後して滅したビザンツの「第二のローマ」ことコンスタンティノープルを継いで、「第三のローマ」を自認するようになる。この挿話は近代以降のロシア人をして、ある種の撰民思想を抱かしめ、西方の悪しきキリスト教徒や東洋のムスリムを征服する「運命」を正当化する意識の根拠となった。

 ロシア帝国主義の手法のひとつに、周辺部の「ロシア人の土地を収拾」するというものがあった。1721年、ピョートル大帝が国名をロシア帝国と号するや、拡大、併合、占領をつうじて勢力をひろげ、シベリアやカフカスの人びとを隷属させていった。さらに、ポーランド=リトアニアオスマンからも領土を奪い、イェカチェリーナ2世の代には、黒海沿岸にノヴォロシアを建設し、トルコを降してクリミアを併合。さらにポーランド分割に参画して、ユーラシアの植民地帝国を完成させた。

 ロシアは未開のアジアにたいする文明化の使命を果たす一方、頽廃したヨーロッパを救う、ないし吸収する、という植民地主義帝国主義の考え方は、19世紀から20世紀にかけて展開されたものであった。汎スラヴ主義とは、偽装されたロシア帝国主義にすぎない。のちのソ連すら、マルクス主義の毛皮を被った旧来の帝国にすぎなかった。これらの遺風がプーチン主義のうちに融合された結果を、ロシアのウクライナ戦争というかたちのなかに見ることができるのである──と、このようにフラヴァーチェクはまとめている。

 しかし、ソ連が崩壊してすでに30年が経過してなお、そうした考えが残っているのはなぜか──とインタヴューアーは畳み掛けた。

 ──ソ連は、形式上は共産主義と国際主義を信奉していたが、やがて仮面をかぶったロシア帝国に変貌した。つまり、1941年にスターリンヒトラーの同盟が決裂して独ソ戦が始まると、大ロシア的なショーヴィニスムがレトリックにもちだされ、ベラルーシウクライナを含む、ソ連領内のすべての民族はある程度までロシア化の対象とされた。のち1989年になって、衛星国とよばれた植民地が失われたことは、帝国主義的ロシアを志向するプーチンにとっては大いなる屈辱であった。バルト諸国やポーランドチェコスロヴァキアハンガリーなどは、帝国主義者にとってグベールニヤ、すなわちロシア国内の行政区にも等しかったのだから。

 けれども、ソ連崩壊後しばらくは国力が衰微しており、国の建て直しに専念するしかなかった。徐々に失地回復に着手しはじめたが、とりわけプーチンの政治家としての特質は、このパンデミックのあいだに研ぎ澄まされた。「孤独な暴君」となったプーチンにたいして、衷心から諫める者はクレムリンにはいなくなった──

 さらにフラヴァーチェクは、その仔細を明かす──連絡をとり合っているロシアの史家アンドレイ・ズボフによれば、孤立したプーチンは、コロナウイルスへの恐れに苦しみながらも、19世紀から20世紀にかけてのロシアの政治思想家のうち、もっとも陰鬱な論纂を耽読しすぎてしまった。

 安全保障アナリストらは、プーチンの大時代的な修辞を、陳腐な決まり文句のように捉えているかもしれないが、じつはそうではない。政治家としてのプーチンは、ソ連からだけではなく、おそらくロシアの帝国主義思想の伝統のすべてを一身に備えた人物と解されるべきである。プーチンとは、大政治家でもなければ、天才軍事戦略家でもなく、折衷主義的イデオローグなのである──と、フラヴァーチェクはいう。

 この文脈でいえば、開戦当初からあった「プーチンは正気を失ったのか」という議論にも、参考となる視角が出来している。

 はやい段階では、言動から推測されるプーチンの精神状態について、「狂気」か「狂気を装っている」かのいずれかと言われてきた。世界のさまざまな識者が種々の媒体で述べていることは、ご案内のとおり。

 ただ、プラハの安全保障政策の専門家、ヤン・ルドヴィークが侵攻直後に解説したところによれば、戦略研究の理論において「狂気は、発狂した振りをするだけであっても、有利」に働くとされている。かつて、ヴィエトナム介入に際してソ連の妨害を排すべく、米大統領リチャード・ニクソンが用いたのだという。

 くわえて、数日前からTwitter上で徐々に明らかにされてきた、連邦保安庁FSB)職員の手になるという真贋不明の手紙は、さらなる示唆を与えている。要は、内部告発状であるが、FSBの耳触りのよい報告書にもとづいて、侵攻が決定された旨の内情などが明かされている。

 誤った情報から次のようなシナリオが導き出された。すなわち、現ウクライナ政権の斬首作戦が電撃的に完了するか、もしくはウクライナ軍の組織的な抵抗が起こらず、それどころか侵攻したロシア軍が地元住民から熱狂的な歓迎を受けて、いずれにしても、すみやかに作戦が終了する──。

 だが結果は、毎日の報道のとおりの惨状である。つまり、おもわぬウクライナ側の徹底抗戦に遭い、激戦を予期していなかった軍の統制も崩壊し、甚大な損害がでている……。

 それかあらぬか、昨日から今朝がたにかけて伝えられたところでは、プーチン大統領FSB高官の粛清に乗り出した由である。

 つまるところ、プーチンは、誤った情報にもとづいて「合理的な」判断を下したということなのかもしれない。たとい発狂しているとしても。


4)ロシア=ウクライナ戦争とチェコ共和国

 では、そんなロシア帝国ウクライナ侵略戦争において、チェコ共和国の住民が見落としていることはないのだろうか、またこの戦争は我らにとってどのような意味があるのか──という気の利いた質問は、インタヴューの最後のほうに飛び出した。以下、フラヴァーチェクの回答を掻い摘んでみよう。

 ──残念ながら、見落とされていることは、ある。多くのチェコ人が、いまだにすべてのスラヴ民族の特別な親和性という妄想のうちに暮らしているが、これこそは危険な汎スラヴ的な戯言である。ウクライナ人が我われに近しいのは、スラヴ語を話すからではなく、ヨーロッパの物語と共通する部分を多く有し、ヨーロッパ人に、それも「西」のヨーロッパ人になりたがっているからなのだ。

 同じスラヴ語を話すからと言って、ロシア人は我われに近いという考え方はもうやめにしよう。立脚する物語が異なっている。我われは西、連中は東だ。ヤーン・コラール流のスラヴ世界の統一、その前に「全欧州」が、いつか跪くという発想は、怪物的ですらある。

 願わくば、このロシア帝国主義の残忍さの表れが、恥ずべき共産主義時代へのノスタルジーや無批判的な汎スラヴ的親露主義を本邦から消滅させることにも貢献してほしいものである。また、チェコスロヴァキアにおける共産主義全体主義の時代に関する歴史研究の根本的な文脈づけに最終的に寄与することを期待している。共産主義政権の近代化・解放とやらの現象をいくら執拗に掘り起こしても、わが国がソヴィエト=ロシア帝国の属州でもあったこと、しかも1968年から1991年までは占領されていたという事実を無視するわけにはいかないのだ──

 フラヴァーチェクは史家としては、いわゆる近代論の立場をとっている。というのも、民族については、つぎのように述べているからだ──「結局のところ、民族とは、地質学的な褶曲や神の何らかの行為によって生まれたものではなく、すべての民族は人工的なものであり、その創造はプロセスであり、ある共同体が民族であると決定することなのである」

 それなのに、同じインタヴューのなかで「我われはウクライナ人と同じ文明に何千年も属してきた」などと口を滑らしている。だが、これすら厳密に矛盾しているとは必ずしも断言できぬところに、この領域の難しさがある。

 

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