ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

史劇におけるヨーゼフ2世

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 プーチンの為人が、急に注目されるようになった。それについての記事も急激にふえたが、読んでいるうちに「デプリヴァント」の概念を思い起こさせた。

 それは最近、ヨーゼフ2世の人物像を造形するうえで、脚本家のミルカ・ズラトニーコヴァーが採用したものだった。

1)大河ドラマ『マリア・テレーズィア』の最終話

 『マリア・テレーズィア』について、チェコ共和国の公共放送局(ČT)に送り出され、オーストリアの公共放送(ORF)に脚本を持ち込んだら、先方に気に入られて企画がすすんだ……というサクセス・ストーリーは、脚本家本人がインタヴューで語っていたものだ。そこにスロヴァキア、ハンガリーが加わっての合作で、それぞれの言語に吹き替えられ、2018年から各国で放映されている(IMDb)。

 この2022年の正月には、最終話となる第5話が放送された(但し、このパートの制作国にかんして、ČTのサイトでは"Rakousko, Česko, Německo"となっており、いっぽうORFでは"Österreich, Tschechien, Slowakei"となっている)。

 マリア・テレーズィアを「わが国を治めた最後の女性統治者」と、脚本のミルカ・ズラトニーコヴァーは評している。女性大統領はおろか、女性首相もまだ出ていない祖国・チェコ共和国の政治を、周辺各国と比較して憂いているわけだ。

 問題意識としてジェンダー論から出発しているところが、やはり今風のインテリ的だ。つまり、旧弊な「民族の物語」ではなく「女性の物語」を構想した。国境に幾万もの敵が迫るなか、少女はひとりの女性として生き、やがて帝国を背負う……。

 そこに、各話で異なった敵役による「男の物語」が交差する。

 今回は最終話というくらいで、女帝の晩年が扱われた。息子であり、共同統治を布くことになる皇帝、ヨーゼフ2世との葛藤がひとつの軸になったことは言うまでもない。というより、女帝の最大の関心事であるヨーゼフが主人公に見えなくもなかった。

 そのヨーゼフの内心の葛藤というのは、背景として反りが合わない母后とのやりとりに重きがおかれはするが、それのみならず、御曹司のフラストレーションが宮廷生活の全般と数奇な運命に由来するように描かれていた。

 ただし、ひとつの史劇ではあるものの、本質はホームドラマである。──キャリアウーマンが国政という場で男社会に立ち向かうコンセプトで、最終話には息子という「敵」が出てくる。戦場は宮廷である。ところが、宮廷と国家が十全に分離していない時代だ。家庭のなかに政治が土足であがってくる。しかも、当時の政治、とりわけ帝国にとっての外交とは即ち婚姻政策のことであって、男だけの社会というわけでもない。……NHK大河ドラマになじんだ日本人には、あらためて説明することでもないかもしれない。

 それだから、映像としては如何せん、政略結婚と子づくり関係の挿話が多くなる。やはり王侯貴族ともなると、お世継ぎ問題がのべつ脳中を占めているらしく、この手の宮廷物のお定まりではある。

 「全欧の姑」というキャッチ・コピーも、脚本家に言わせれば「自身は恋愛結婚したくせに、子どもたちには無慈悲にも政略結婚を強いた」女君主の帰結である。最終話も冒頭から、ヨーロッパの地図をまえにしたマリア・テレーズィアが、婚姻計画をめぐって持論を展開する。子どもたちを性質や能力で格付けし、外交政策上の駒のごとくあつかう物言いに、最愛の夫であり皇帝でもあるフランツ1世がたしなめる──われらが子どもたちを愛していないのか。女帝の応答は、おおよそこうである──もちろん子どもは可愛いが、国家経営こそ第一なのだ。


2)待望の息子・ヨーゼフ

 長男のヨーゼフとて例にもれない。流行りの啓蒙主義にうつつをぬかす、この跡取り息子にたいし、女帝はとりわけ厳しく接した。国のためである。だが同時に、ヨーゼフは家にとって待ち望まれた寵児でもあった。男児に恵まれなかったカール6世が生前、女子に家督をゆずる際の艱難辛苦をおもえば、その崩御の翌年にうまれたヨーゼフに特別な期待がかけられたのも、無理はなかった。けだし、ヨーゼフに発達心理上のダブルバインドが生じうる状況はあった。

 さらに、往時の医療水準も正直にえがかれる。幼児死亡率が高い。せっかく子が産まれてもすぐに亡くなってしまう。その点では、まだ中世からさして変わっていなかった。くわえて天然痘の凶暴さも、コロナを踏まえると時宜を得た背景描写となった。やんごとなき人びとにも容赦なく死が襲いかかる。

 ヨーゼフと最初の妃・パルマ公女イサベラとの第一子は、8歳で亡くなっている。第二女の生命はさらに儚く、生後すぐに亡くなった。そのうえ、まもなくイサベラ自身も伝染病に斃れるのである。ヨーゼフはそのとき22歳。ローマ=ドイツ王、そして皇帝に即位する前史である。

 こうした境遇のすべてが、潔癖な性格を形成し、のちの急進的な諸改革の断行に結実する……と、そういう脚本家の解釈だったと、こちらは受けとったわけだ。


3)「デプリヴァント」

 しかしながら、ほんらいの作家の意図は微妙に異なっていたようだ。メディアのインタヴューやSNSによれば、ズラトニーコヴァーはもっと極端な解釈で描いたようなことを言っている。ヨーゼフを「諸国民の父」としてではなく、「デプリヴァント」として描かざるを得なかったと告白しているのだ。

 「デプリヴァント」というのは、神経病理学者のフランチシェク・コウコリークによる用語である。1990年代の著作で提出された。遺伝的な前提もあるにせよ、高い知性と教養とをもった人物が環境の犠牲になった末に発症するもので、感情が正常に機能しなくなるか、もしくは失ってしまうという。観察者の目には、その振る舞いはあたかも「モンスター」であるかのような非情なものに映る。著者は、育児放棄に遭った子どもなどが典型で、SS長官のハインリヒ・ヒムラーソ連のラヴレンチイ・パーヴロヴィチ・ベリヤを具体例として挙げている。要は、ソシオパスやサイコパスといった反社会的パーソナリティ障害を、地域の実情をふまえて包括的に捉えた概念であった(František Koukolík, Jana Drtilová, _Vzpoura deprivantů: nestvůry, nástroje, obrana_, Praha, 2011)。

 にも拘わらず、その脚本家の意図とは裏腹に、画面のヨーゼフは、ソシオパスにもサイコパスにも見えなかった。

 俳優アーロン・フリースの繊細で神経質そうな演技は、精神的な病質というよりも、傷ついた小鳥のような存在としてヨーゼフを表現していたようにみえた。感情を失うどころか、むしろ激情でもって神や運命に牙を剝くような、線は細いながらも復讐の鬼だ。それでも、亡父の遺志を知ったのちは、それを継ぐべく、とりわけ熱心に政治に取り組んだ。つまり、すぐれた才覚によって悠々と他人を魅了したり、操作して陥れるという、サイコパスの典型のような描き方ではなかった。

 要因にかんしては、妃の喪失によって人格が変わってしまった──という描写にみえた。つまり、イサベラの死を受け容れることができずにいる苦悩を、脚本は重く評価していたようだ。しかも、それも一時的なもので、国政に力を入れる時期になると、すっかり穏やかな顔になっている。仕事に向かうまえの早朝に、肺を患った最晩年の母后を見舞うなど、サイコパスらしからぬ思いやりまで見せた。思いやる振り、だったのかもしれないが。

 ある伝記の記述は、妃の死で性格が変わってしまったというより、むしろ「三つ子の魂百まで」を強調するふうである。「ヨーゼフは幼少期からすでに、その特権的地位にかかわる性質、つまり過剰な自信と仲間にたいする感受性の欠如を、死ぬまで捨て去ることができなかった」とある。きょうだいのうちでも、将来の帝位継承者として特別な存在であり、母親らの教育にもまた特別なものがあった。あるプロイセン使節が見たところでは「高慢で屈託がなく、怠惰な性格」と伝えられている(Humbert Fink, _Joseph II. Kaiser, König und Reformer_, Düsseldorf-Wien-New York 1990)。いずれにせよ、どちらか一方だけの説明では説得力に欠けそうだ。

 ところで、銀幕のヨーゼフ帝といえば、ミロシュ・フォルマン監督の映画『アマデウス』が思い浮かぶ。そしてサイコパスといえば、この「アマデウス版のヨーゼフ」のほうがむしろ該当しそうに思える。演じ手のジェフリー・ジョウンズの飄々とした演技によって、陽気な変わり者というふうに見えたが、サイコパスは周囲の目に魅力的な人物に映る、というのが精神医学のつたえるところだ。

 すくなくとも、フォルマンの解釈によれば、繊細な神経症者というよりは、エキセントリックな性質に重きがおかれたことになる。穏当すぎる見方かもしれないが、それはそれで、同時代の常識にとらわれなかった諸改革とも整合性があるように感じるわけだ。

 つい、現代史よりもやや過度に、政策に人物像が反映されているように見てしまいがちになる。けれど、往時の後進的な国情をふまえれば、正常な情勢判断に基づいたものであったと史家には評価される。母子の諸改革が不可欠かつ合理的なものだったことは間違いないようだ。マリア・テレーズィアとヨーゼフ2世の政策の背景や意図、社会的なインパクトについては、たとえば、山之内克子『啓蒙都市ウィーン』(山川出版社、2003)や、同『ハプスブルクの文化革命』(講談社、2005)がわかりやすく、かつ面白い。


4)史劇を脚色する匙

 ところで、歴史の本を読んでいると眠くなる、と言ったひとがあった。そういうものかもしれない。問題意識をもって読むひとだけが、眠らずに読み通す。そうでなければ、かつて学校で古文の授業がそうだったように、古いだけで脈絡のない文章の抜粋を無理やり読まされるのとおなじことだ。

 だから脚本家は、史実を編集ないし改変したり、誇張したりして、文字どおり歴史を劇的にする。それによって、無味乾燥のテクストに娯楽としての特性をあたえる。客を眠らせないように。

 その歴史のアレンジ具合を、観客や視聴者は味わう。そもそもがバロック的な趣味なのだ。そのさい、制作側が適切な匙加減でもって調理してくれないと、いただけない料理になってしまう。

 では、映像作品としての『マリア・テレーズィア』は、全体的にどのくらいの匙の加減であったのか。といっても、なかなか例を抽出するのもむずかしいが……。

 最終話であれば、おそらく最大の脚色は、パルマ公女イサベラをめぐる秘密にちがいない。けれども、推理もので殺人犯を明かすような最大のネタバレになりそうなので、止しておく。が、すくなくとも、まったく根拠がないこととも言えない性質のものだった。つまり妥当な脚色だった。

 かわりに、フランツ1世の崩御の場面などはどうであろう。女帝の夫にしてヨーゼフの父である。

 ──皇帝一家は、ティロールの都インスブルックに到着したところであった。日差しまばゆい夏の日、ヨーゼフの弟にあたるレーオポルトの結婚式のためである。そこで白昼、歓迎のために集まった衆人みまもるなか、様子のおかしいフランツ1世は馬車から降りてすぐ、転倒するのである。そして、息子ヨーゼフの腕のなかで息をひきとる──劇的なシーンだ。

 ところが、伝記によれば、フランツ帝はこの日の晩、喜劇の上演を堪能して自室にひきあげる途中、廊下で倒れたことになっている。ヨーゼフも駆け寄ったが、すぐに部屋に搬送されて、医師や司祭の施療をうけるも、その甲斐なく絶命したというのである。

 しかし、どちらが優れた画になるかといえば、おそらくは前者における「白昼の死」であろう。演劇学の理論では、木下順二が「劇的状況」と訳したところのものであるが、チェコ語では「ドラマティツカー・スィトゥアツェ」という。この連なりによってのみ劇作品は成立させることができる。むろん、映像としては「いい画」が必要となることは言うまでもない。

 したがって、この程度の脚色は赦してもらえなければどうしようもないし、またそれは今作では成功しているように見えた。反面「デプリヴァント」については、プーチンくらいの役者でもないかぎり不自然になるかもしれぬ、大きすぎる「匙」であった。が、前述したように、さいわい画面には反映されなかったようにみえた。

 そもそも、監督のローベルト・ドルンハイムも「真偽よりも芸術的表現を優先した」と言っている。それを「史実と異なっている」「司馬シカンだ」などと野次るのは勝手であるが。この手のコメントが、Amazonのレヴュー欄によくみられるのも確かだ。もちろん、いろいろな背景や意図があるのだろう。某国のプロパガンダだなどと言い掛かりをつけるのは典型だ。ただ、政治的に問題もない脚色をむやみに指弾するするのは、野暮なだけだ。

 要するに、虚構の世界ではあるにせよ、じゅうぶんあり得るヨーゼフ像が提示された作品だった。それだから、母后の亡きあともヨーゼフ帝の行く末を追って眺めていたかったが、終幕となってしまった。マリア・テレーズィアが主役の物語なのだから、それは当然だった。

 

アマデウス(字幕版)

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  • F・マーリー・エイブラハム
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