ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

メタノール──モラヴィアの暗い影

f:id:urashima-e:20211002014202j:plain

photo by Migawka

 2012年の「メタノール事件」とは、その名にあるメタノールが混入されたアルコール飲料によって引き起こされた惨劇であった。チェコスロヴァキア民主化されて以降、もっとも多くの被害者と被疑者を記録した、チェコ共和国史上最大の刑事事件となった。

 2012年9月から2014年2月末までのあいだに、計48人の死者を出した。確認されただけで79人が重度の中毒症状を呈したとされ、視力を失ったひともある。被害者の多くはモラヴィアやシレジアの住人であった。

 『メタノル(Metanol)』は、この事件をもとにしたフィクションである。2018年、公共放送(ČT)が制作したTV映画で、前後2部構成となっている。同年4月、関連する刑事裁判のすべての判決が確定したのち、22日と29日にわけて放映された。人口約1千万の国にあって、のべ250万以上の視聴者をかぞえた。

 いわゆる倒叙形式の犯罪物となってはいるものの、コロンボ警部のような天才的で傑出したヒーローは登場しない。そのぶん、犯人側の演者たちの実力にすべてがかかってくるが、とりわけルカーシュ・ヴァツリークの演技は卓越している。ヴァツリークといえば、1991年の『戦車大隊』ですでに主役を演じていたもので、チェコスロヴァキア映画ファンならば、ちょっと懐かしい名かもしれない。くわえて、いかにも映画らしい映像表現にも力点がおかれている。

 おおよそ「知らぬ者はない」事件をあつかい、基本的に当時をおぼえている国内の視聴者を想定してつくられている。それだから、おそらく一般的な外国人には理解しがたい点もあることだろう。しかし、けっして共感できない種類の作品ではない。むしろ、みぢかにある恐怖に戦慄させられ、悲しみや憤りをおぼえさせる佳作である。

物語と記憶

 ちょうど今ごろの季節だった。当時の雰囲気はよくおぼえている。事件のさなか、仕事があって泊まりがけでオストラヴァに出かけていた。翌年に予定されていた大統領選挙は、公選制が導入されて行われる初の選挙で、おおくの候補者が、立候補に必要な署名者をあつめるべく各地で遊説していた。夏休みがおわって、学校は新年度をむかえ、ビジネスの世界でも各種の行事がはじまっていた。初秋、いろいろのことが同時に進行していた。

 特別措置(mimořádné opatření)などということばは、このとき初めて聞いたし、コロナ騒ぎが降って湧くまでは二度と聞くこともなかった。具体的には、アルコールを20%以上ふくむ酒類の販売禁止などが講じられた。ハードリカーの瓶の口金には、証紙の貼付が義務づけられていて、まもなくそのデザインも変更された。ところが、事件を惹起した製品は、もとよりそのようなまともなやり方で流通している代物ではなかった。警察をはじめ、当局の対応にも批判が巻き起こったものだ。

 報道では当初、外国から移入された、課税を逃れた違法な商品が原因だという憶測があり、その手の組織犯罪ではないかという見立ても聞かれていた。それで個人としても、そういう事件なのだと漠然と想像していた。しかしそれは、自分もまた地域の社会的な事情にじゅうぶん通じていなかったからにすぎない。おなじ場所に居ても、目に映るものは人それぞれ異なっている。なにも見ていない者だってあるのだ。

 ところが賢いひとがいうには、人間は物語によって事物を理解する。したがって、報道で小出しにつたえられてきた事実の断片を、すべてつぎあわせて劇作品としてみせてもらえると、腑に落ちることも多々あるわけだ。風景描写にあるヒントを、図らずも視聴者の意識がピックアップするということも起こる。映像の力である。このあたりが、当事国で多くの視聴者を獲得し、高い評価を得た最大の所以であるのだろう。

 とりわけ作品の第1部にて描かれているのは、ごくふつうの人びとの日常である。そして、主たる現場となったモラヴィア北部や東部の風景だ。それは「チェコ」などという、大雑把でぞんざいな括りでは決して見えてこない、鄙びた地方のうらさびしい情景でもある。

ハヴィージョフ──地方と中央

 2012年9月3日、さいしょの犠牲者がでたのは、オストラヴァ近郊のハヴィージョフであった。

 この町は、第二次世界大戦がおわってから建設がはじまった。折しも、坂口安吾が「ちかごろの酒の話」などの文章で「メチル」の飲用について言及していたころだ。

 自治体としては1955年になって正式に成立したため、共和国で「もっとも若い町」ということになっている。だが、その時期に急激に勃興した炭鉱労働者の町という点からすると、脱炭素・カーボンニュートラルの時代をむかえ、想像するに今後の見通しも暗い。成立時に1万5千人だった人口は、1961年には5万を超え、68年には8万人に達した。それも1980年前後の約9万2千人をピークに減少に転じ、2012年の事件当時にはすでに、7万7千人ほどの斜陽の町になっていた。映像でも、老朽した集合住宅が呈するまだらな灰色に象徴されているようだ。

 首都プラハから放送される当時のニュース(ČT・2012年9月7日付)は、ひとごとのように、一方的で一面的な解説をしている──北モラヴィア地域は失業率もたかく、公的扶助にたよっている世帯が多い。こうした層にあって低廉なアルコール飲料は、日々を生き延びるためにもっとも入手しやすいドラッグとなっているのです……。

 これは、パリに亡命しながら深酒で健康を害して没した、ヨーゼフ・ロートのことばを思い出させる──酒は寿命をちぢめるかもしれぬが、眼前の希死念慮はとおざけてくれる。ユダヤ作家・ロートは、第三帝国の脅威が増すなかで創作を続けていた。いっぽうモラヴィアの住民のばあいは……ニュースを横目に見ながら、誰のせいなんだよと毒づきたくなった者もあったことだろう。

 作中の捜査員・ザコパルなどもはじめは、事件の社会的背景をまったく理解しようともしない。こんな怪しげな値段の酒に手を出すやつの気が知れない、と毒を吐いて、重要参考人たる被害者家族の神経を逆撫でしてしまう。しかし、捜査に携わるなかで現場の声を聴くうち、変化が生じてゆく。このあたりは、事実にもとづくのかどうかわからないが、おそらく人間的な成長を物語に織り込んだ脚本家のたくみな脚色ではないだろうか。

 あるいはプラハなどの都市部からすると、そもそも地域社会というものが存在していることじたいに、気がつかないものかもしれない。たとえば、前出の俳優、ルカーシュ・ヴァツリークは、インタヴューで語っている。

 ──プラハにいると、どこか別の場所で起きていることのようで、自分たちには関係ないことのように思えていましたね。でも、ズリーンで撮影をしているとき、商店や酒場のオーナーたち、あるいは通りすがりの人までも、出会ったほとんどすべての人が、事件と何らかの個人的なつながりをもっていることに気づいたんです。友人、知人、あるいは家族のいずれかでした。問題の製品を製造したり販売したりした加害者と面識のあるひともいました。それに撮影現場で起きたある出来事が、衝撃的でした。休憩中に男性がひとりやってきて、こう言うんです。「あんたがたのやってるのはちょっと違うよ。あのフェラーリがこの辺りを走りまわっていたのは確かだけど、正門から出てきたことはなくって、いつも裏口から出てきてたもんだよ」。それで「どうして知ってるの」と訊いたら「僕は以前、この工場で働いてたんだ」と言ってました。そのことで実感したんですが、コミューニティの全体が、文字どおり事件につながりをもっていたんです。

蒸留酒文化と異郷・モラヴィア

 モラヴィアは、バルカン伝来の蒸留酒の文化圏でもある。九州南部の焼酎文化を連想させる、地域の文化だ。名産の「スリヴォヴィツェ」については、自家製をたのしむ世帯もおおい。字幕では「梅酒」と訳されていたが、さいわい「家庭的」ないし「身近」というニュアンスは伝わる表現ではないだろうか。原料はシュヴェストキと呼ばれるセイヨウスモモの実であるが、焼酎と同様に多様な製品があり、つかわれる果実によって呼び名がかわる。

 くわえて、オーストリアに原産の合成ラムも「トゥゼマーク」などと呼ばれ、生活に根付いている。日本酒にたいする合成清酒の関係に似ている。また、いまの時期だと、夏のあいだウォトカや食用アルコールなどに未成熟の胡桃を漬けておいた、手製の「オジェホフカ」が飲み頃をむかえているかもしれない。作り方でいえば、こちらのほうが日本の梅酒にちかい。

 たしかに、チェコ共和国全体をとりあげても、アルコール飲料の消費大国とはいえる。すくなくとも2017年の報道記事では、国別のアルコールの消費量において、どの機関の統計をみても同国は世界の10位以内にはかならずランクインしている、と記者が豪語している。国全体で、1日に750万杯のハードリカーが、度数40%の製品に換算すると約37万5千リットルが消費されているとある。

 ところが注目されるのは、つづいて示されている弊害であり、その地域ごとの分布である。2015年現在で、人口1万人あたりのアルコール依存症患者数が「30」を超えている地区は、首都プラハをのぞけばボヘミアには存在せず、すべてが歴史的モラヴィア州(země)に位置する県(kraj)である。すなわち、オロモウツ県(43.5)を筆頭に、南モラヴィア県(39.1)、モラヴィア=シレジア県(34.0)、ズリーン県(30.5)となっている。

 記事のなかでペトルポポフなる医師も触れているが、20世紀初頭のオーストリア=ハンガリーでは早くも、アルコール依存症は深刻な社会問題となっており、1901年にはボヘミア領邦議会でもとりあげられてもいた。そこで「もっともアルコールを消費する」として、すでに槍玉にあがっていたのが、隣のモラヴィアの住人なのであった。社交的な生活スタイルと、安価な蒸留酒が普及していたことに原因がもとめられていたようだ。この時分にも、ボヘミアの人びと、なかんづく大都会プラハの人びとの目には、やや変わった文化を有する異郷と映っていたにちがいないのだ。

 映像では、犯行にかかわるウォッシャー液工場のオーナーが、まいどの気乗りしない用件が済むや、そそくさプラハへ帰ってゆく姿が印象的だ。搾取される地方を、これ以上ないほど端的に暗示している。

 

*主な舞台と位置関係(ウィーンは参考)

f:id:urashima-e:20211002015827j:plain

*ハヴィージョフからの距離(概数)

f:id:urashima-e:20211002015908j:plain

*参照:

jindrichohradecky.denik.cz