ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ビロード革命の記念日

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photo by S. Hermann & F. Richter

今年の記念日

 チェコ語の11月、"listopad"とは「落葉月」である旨、まえに書いたが、現代では文脈によって「ビロード革命」を意味することがある。典型的には、"polistopadový"(ポスト11月の)という形容詞として「ビロード革命後の」社会なり政治なりに言及される文章で目にする。

 11月17日が記念日で、チェコ共和国では祝日であった。全国で催しがあったが、疫禍の年に例年どおりというわけにはいかず、どこも規模が縮小されていた。

 主たる舞台のひとつとなったプラハのナーロドニー・トゥシーダ(国民劇場のある目抜き通り)ではまいとし、全体主義の犠牲者へ献花や蝋燭による献灯など行われるのが慣いとなっている。そして今年も政治家はおのおの、カメラのまえで所感を述べた。たとえば、海賊党のイヴァン・バルトシュ代表などは、31年前にはじめられた西欧型民主政治へ向けての変革を成就させなければならないとコメントした、と伝わっている。誇張のない現状認識として、これが今年は優勝か。首相のアンドレイ・バビシュは、感染症対策にからめて、革命でかちとった自由の価値について触れた。展望は上々であるとしたが、政府のせいで不自由な生活を強いられていると感ずる市民の神経を逆撫でしない保証はない。

 いっぽう共和国大統領ミロシュ・ゼマンといえば、さいきん外観からして満身創痍のていで痛いたしいのだが、事前の発表どおり、献花には現れなかった。かわりにこの日、いつものように秘書官名義のTwitterアカウントにひとこと投稿させたようである。「全体主義共産主義にかぎられない。全体主義とはもっと一般的な概念である。そして全体主義はつねに検閲をともなうものだ」と、よりによってこの日に、またぞろ共産党を擁護していると非難されかねない言辞を弄していたのは、さすがである。つきぬけている。

 ちなみに現共和国における三人の歴代大統領のなかで、もっとも不人気らしいという調査結果も出来していたが、これはいわずもがなであろう。なんだかんだいっても、初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルがいちばんよかったというひとが多かったものとみえ、30年を超えた「ポスト11月」期の時間を経てなお、ビロード革命の栄光に彩られた記憶が人びとのなかで色褪せていない証左ではないかとも思われた。いや、むろん他二名が横柄な印象で嫌われすぎていることがおおきいのであろうが。

 

「マルタの祈り」

 1989年当時、日本では多くのひとが報道番組に首っぴきだった。その中継された映像の裏では、日本人ないし日系人らも徒党を組んでいた。そのうちのひとりなど現在では、おなじ土地の極右ポピュリスト政党を率いて、直接民主制の導入を主張しているわけであるが、個人的な一回の体験から民主政治のひとつの側面に過大な意味を見いだしてしまったものか。近年ではチェコ共和国でもハンガリーポーランドでと同様に、危機感をあおる政治手法が確立されてしまった。ドミノ倒しにも喩えられた東欧革命の経験を共有する国がおしなべて、こんにち政治情勢において一部に似かよった傾向を示しているのも興味ぶかい。

 革命の歌と目された大衆音楽があったことも、報道を通じて日本でも知られるようになった。NHKによって2000年に制作された『世紀を刻んだ歌、ヘイ・ジュード──革命のシンボルになった名曲──』という番組は、ご存知の向きも多いだろう。人気があるのか、その後もたびたび放送されているからだ。チェコスロヴァキアの国民的な歌手、マルタ・クビショヴァーを中心に構成された、回顧的なドキュメンタリーである。音楽活動を封じられた正常化時代の不遇から、ビロード革命さなかの群衆をまえにした絶唱による復活までを描いていた。初回の放映のときは当のチェコ共和国にいたのだが、そのころクビショヴァーはもう歌手としてよりも、各地の愛玩犬を紹介する番組の司会者として現地では親しまれている、と若い友人は語っていた。それも何度か観たけれど、犬の扱いはたしかに堂に入っていた。番組じたいはいまも存続しているものの、クビショヴァーが出演することはなくなった──と思うが、そこはちょっとわからない。

 その楽曲「マルタのための祈り」をことし、象徴的な時刻である17時11分に国民劇場のバルコニーで詠じたのは、アネタ・ランゲロヴァーであった。2004年のオーディション番組からデビューした歌手で、革命のときは3歳になったかならないかくらいだった。そういえば件のオーディション番組も、当時たまたまリアルタイムで観ていた。いまや中継映像をオンラインで視聴できるようになったのには隔世の感があるが、こんかい接続環境が不安定だったものか、歌も音声が途切れがちでなんだかよくわからなかった。ダイヤルアップ接続の時代を思い出させられた。

 ちょうど同じ頃、そこへはまた、政府の「ロックダウン」措置に抗議するデモ隊が向かっていたはずであった。革命の精神はいまも健在とみえる。いっしょに国歌を斉唱することを企図していたようであったけれど、それもどうなったのかは知る由もない。「政府はウイルスより無能だ」とか、「いも掘りじゃなくて、学校へ行かせろ」とか、「国はロックフェラー財団の計画を遂行中」とか、なかなかに面白いセンスのプラカートを掲げていたようだ。なにより平和的で、革命に発展する可能性は皆無と思われた。

 

そもそも──1939年と1989年

 さて改めて、そもそも11月17日、すなわちチェコ共和国における「自由と民主政をもとめる闘争の日」とは、端的には1989年のビロード革命を記念する日である。この日はもともと第三帝国の蛮行を糾弾する目的で「国際学生の日」とされており、このための集会がのちに革命と呼ばれる事件に発展した。それだから、こんにち祝日の名称としては、当該の学生の日も併記されている。すべての因縁をひっくるめて、全体主義の犠牲者を悼む日とされている。

 さきごろ、チェコスロヴァキア国家の成立した記念日たる10月28日に、あるひとがSNSでアンケートをしていた。問いは「10月28日と11月17日のうち、あなたにとって重要なのはどちらですか」というようなものであったが、8割がたが後者、すなわち11月の共産体制からの解放の日を選択していたように思う。むろん、1918年の建国を記念する日と、1989年の革命を記念する日では、とうぜん後者のほうが身近ではあろう。自身で行動したというひとも母集団のなかに多かったはずなのだから。とまれ、両の日付けは、分かちがたくむすびついている。

 時はチェコスロヴァキア建国21周年をむかえた、1939年10月28日のことであった。ドイツ第三帝国保護領であったボヘミアプラハでデモが起こり、官憲の鎮圧によって重傷を負った医学生が、およそ2週間にわたる治療もむなしく、落命した。オロモウツ近郊の出身、ヤン・オプレタルといって、24歳の若さであった。モラヴィアへと送られる柩をみおくる参列者から、占領者にたいする抗議デモが発生し、やがて数千人の参加者と官憲がふたたび衝突した。これを受けて、アードルフ・ヒトラーは3年間の大学閉鎖と9名の学生組織の代表者の処刑を決定し、同時に多数の学生を逮捕して収容所に送った。11月16日から17日にかけてのことである。

 英国に在ったチェコスロヴァキア人部隊のなかで、ナツィの残虐行為を記念するというアイディアが生じたのは翌年のことであった。1941年には在ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府の後援のもと、あらたな学生組織を創建してしまう。そこで、占領に抗議の声をあげた学生らを記念した宣言文を起草し、最終的に14か国の代表から署名を得たという。──こうして、もともと反ナツィのプロパガンダとして生まれた「学生の日」が、半世紀後には反共の日になるのだから、皮肉なものである。

Songy A Balady

Songy A Balady

  • 発売日: 2018/05/29
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*参照:

www.nhk.or.jp

www.blesk.cz