ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

マラドーナ急逝

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photo by Jack Hunter

 『キャプテン翼』のノリにはちょっとついていけない、ひねくれた子どもだった。それでも、1986年のメキシコ大会におけるアルゼンチン対イングランドの一戦は、録画してくりかえし観たものだった。実況担当は、NHKの山本浩アナウンサー。いい声だった。練習で履くサッカー・シューズにしても、アシックスではなくプーマのをねだったのは、どうしてもマラドーナと同じでなくてはならなかったからだと思う。

  11月25日、ディエゴ・マラドーナが亡くなった。月初から受けていた硬膜下血腫の手術ののち、自宅療養中だった。心不全と伝えられている。享年60であった。

 各地で追悼が行なわれたが、たまたま見たニュース番組の画面で紹介されたのは、欧州チャンピオンズ・リーグからのひとこまだった。試合開始直前のセンター・サークルの線上に並んで黙祷を捧げたのは、たとえばアトレティコ・デ・マドリとロコモチフ・マスクヴァの選手たちであった。夜のとばりのなか、無観客のスタジアムにマラドーナの遺影が映し出され、短い告別式を済ませたかのようであった。

 訃報に接し、さまざまな競技関係者がインタヴューに応えて、めいめいの秘話を開陳している。現役選手ばかりではなかった。リネカー、奥寺、木村和司、ラモス……なつかしい面々もインタヴューというかたちで、種々の媒体に登場した。

 なかんづくその世代と思しいユーザーのツイートを眺めると、はげしい信仰告白を聞いている心持ちになる。かといって、若いサッカーのファンもマイクを向けられれば、ひととおりの所感を述べられるくらい「レジェンド」については勉強している。神となって久しかった。

 3日間にわたって全国民が喪に服すと発表があったアルゼンチンにとっては、やはりあのイングランド戦がマラドーナを英雄たらしめたにちがいなかった。なにしろ、フォークランド紛争での敗北からまだ4年しか経っていなかったのだ。しかし、一国の英雄という枠をこえて、世界の神となったのはやはり、サッカーという競技の為せる業であろう。あの後、速くて巧みなドリブラーを止めるべく、ゾーン・ディフェンス等の戦術が発達したともいわれる。といっても「五人抜き」や「神の手」を成したからというだけで、マラドーナマラドーナになったわけではない。

 ディエゴ・マラドーナは、たんなる優秀なサッカー選手ではなかった。さまざまな言説でも観衆を魅了した──と書いたのは、『新ツューリヒ新聞』である。つづけて、マラドーナによるもっとも伝説的な金言として引用したのは、以下のものである。「ペナルティエリアまで来てシュートを打たないのは、妹を相手にダンスするようなものだ」

 スイスで大会招致をめぐる汚職疑惑が噴出したとき、マラドーナから「ざまあみろだ」と言われたFIFAであるが、そのサイトまでもが、かつてはマラドーナの「箴言」に関する記事を載せていたくらいである。ほかにも世界中のメディアがそれぞれの言語で、似たような記事を配信している。為人を偲ばせるので、拙訳とは言い条あまりにもつたないが、いくつか引いてみよう。ただし、主にドイツ語メディアからの重訳。

「第一の夢はW杯に出ること。第二の夢はW杯で優勝すること」
──マラドーナによる最初のカメラのまえでの発言。当時12歳。

「まさに俺はカベシータ・ネグラ[アルゼンチンにおける下層労働者階級ないし貧民層の蔑称]さ。そしてそれを誇りにしている。自分の出自を否定したことはない」
──自身の出自についての古典的な発言。

「俺が恵まれているのは、神様の思し召しがあったればこそだ。神は俺が上手くプレイするようにお取り計らいになった。すでに生まれたときに能力をお授けになった。だからこそピッチにはいるたびに十字を切るんだ。そうしなけりゃ神を裏切ることになる。」
──信仰について。

「あのゴールについては永遠に悦びを感じるだろう。イングランドから手で獲得したゴールだ。あれに関してイングランドの選手には、衷心から千回だってお許しを乞うよ。でも何回でもやるだろうね」
──1986年W杯準々決勝における最初のゴール、いわゆる「神の手」について。 

「貧困はよくない。つらい。よく知っている。多くを望んだとしても、夢を見るほかない。世界にもっと正義があったらいいのにと思う。多くを持てる者がすこしだけ少なく、持たざる者がすこしだけ多く持てるように」
──貧困のうちに育ったことに関して。

「サッカー選手として、自分自身とファンをしあわせにしようとしてきた。サッカーは世界でもっともうつくしく健全な競技だ。たしかに俺は過ちも犯し、それを償いもした。しかしサッカーはそれによって毀損されはしないし、何ぴとも瀆すことはできないんだ……」

──2001年11月、自身の引退試合に際して、ファンへのメッセージ。 

「狂気というのは怖ろしいものだ。クリニックでは 『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンになったかのように感じた……。自分がロビンソン・クルーソーだと思い込んでいた男はいたが、俺がマラドーナであることは誰ひとり信じなかった」
──精神科医院について。

「ペレがベートーヴェンだとすれば、俺はサッカーにおけるロン・ウッドであり、キース・リチャーズであり、ボノである。というのも、俺はサッカーの情熱という側面を体現しているからだ」
──ペレと自身について。

「ペレなんか博物館に飾っておけ」
──代表監督への就任について、財政難だったからだろうと言われて。

  もうひとりの「神様」たるペレとのやりとりも、あちこちに記述がある。神どうしの対話にしては、人間くさい。複雑な感情は抱いていたにちがいないとはいえ、さほど深刻なものではなかったのではあるまいか。そう思わせる、コミカルな要素がある。最晩年には、よき友人同士に戻っていた。そのペレとて「私は偉大な友人を亡い、世界はレジェンドを亡った」「いつの日か、天のボールで一緒にプレイできることを願っている」とツイートしている。 

マラドーナ

マラドーナ

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*参照:

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

www.soccer-king.jp

www.cartaoamarelo.com

www.afpbb.com

number.bunshun.jp