ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

マター=オヴ=ファクト

f:id:urashima-e:20200807061749j:plain

photo by Carina Chen

 夏のある日。翌日にはダブリンを発つ予定だった。ファーストフードの昼食を終えようというとき、にこにこしながらそいつはやってきた。──チャイニーズかい、とはまたご挨拶だ。そう訊かれると、心外だな、と感ずるのがわれら日本人の心性の妙なところだ。──ジァパニーズだよ。

 腹減らないか、とさかんに訊くのが可笑しかった。腹へってるなら、うちに来ないか、と誘うのである。おいおい、見てたろう、いま喰いおわったばかりだよ。男は高校で文学を教えていると自己紹介した。母方の祖母がヒトラーから逃げてきてアイルランド帰化した、とも語った。夏季だけは、外国からやってくる学生に英語を教えているが、教室にはスペイン人やイタリア人が多い。しかし、連中の発音はひどすぎる。あいつら人種的に問題があるんだ──などとユダヤびとが宣うのだから、やはり教科書を読んでいるだけでは世界は理解できぬものなのだと感心した。

 どこに住んでるの、と質問はつづいた。いちどは市内の街路の名を思い出そうとしたけれど、まともに取り合う必要もないかと思い直して、モラヴィアに住んでいると応えた。──ははあ、チェコスロヴァキアか。

 当時はチェコ共和国スロヴァキア共和国が分離してから10年経つか経たぬかという時分で、英語圏ではまだチェコスロヴァキアと呼ばれることが多かった。ひとはチェク・リパブリックと2語で言い表すのを避けたがったのだ。それを知っていたがゆえ、先回りして「モレイヴィア」と言ってさしあげたのだが、向こうはわざわざチェコスロヴァキアと旧称を用いてきた。

 けだし大正のむかしにも、ぞんざいに「チェコ」という同時代に存在しない国号を慣用的に用いてきた日本語話者と真逆の運用である。チェッコでもいいけど。英語からの訳語たるチェクならともかく。極端な場合には、たとえば中世などを語る際にもチェコと記したりする向きもあったが。類似の例として、この島は幾千年もまえから中国の領土だ、というようなレトリックのおかしさにも気づくことであろう。

 さて往時、欧州の統合プロセスも進んでいた。それだからスロヴァキアのような小国の分離独立も成り立ったものか。しかし、男はEUには反対だと言った。異なる諸文化を強引にひとからげにするのは野蛮である、と。だいたい島嶼と大陸とではメンタリティに隔たりがある。大陸のやつらは本質的に社会主義者なんだ。ドイツやフランスをみれば明らかだろう、と。

 じゃあ、チェコスロヴァキアはどうだ、と戦線を拡大してみた。すると──「連中は、マター=オヴ=ファクトなんだな」という、謎のようなこたえが返ってきた。

 その熟語は日本人も学校で習うので知っているけれど、じっさい(アズ・ア・マター・オヴ・ファクト)どういう意味なのか。いや、「as a matter of fact」じゃなくて、「matter-of-fact」さ。ハイフンでつなぐほうだ。要するに、何が起ころうが連中はこうなのさ──と言って、両の手のひらを上に向けて肩をすくめるジェスチャーを示した。緩慢な動きで、口を半開きにし、焦点の定まらない視線は宙を漂っている。

 事実に即して、事務的、無味乾燥な、平凡な……辞書にはいろいろな訳が載っているが、「感情をあらわさずに」というようなニュアンスは通底しているようだ。アパシーとか、あるいはドイツ語でいうザッハリヒということかい。それもちかいかな。つまるところ、連中にはパッションがないのさ。

 このパッションというのも、ゲイのひとたちが好んで用いる語であるが、その意味するところはよく存じ上げない。ただ、文化史的な文脈でいえば、周知のようにキリストの受難をも意味する。そこで連想したことを言って反駁してみた。──じゃ、ヤン・パラフはどうなんだ。あれをパッションといわずして……

 「チェコ事件」というのも聞き手を莫迦にした表現である。「チェコスロヴァキア事件」ならまだましだが、いずれにせよ、ほかの事件がいっさい起きない国か、無知なおまえは他の事件など知るまいというふうにもきこえる。しかし「ワルシャワ条約機構によるチェコスロヴァキア侵攻」と呼ぶのも、長すぎて不便である。チェコ語では端的に「チェコスロヴァキアの軍事占領」と言われることもあるいっぽう、もう片方の当事者らには「ドーナウ作戦」という軍事的呼称もあれど、一般にロシア語ではどうやら「チェコスロヴァキアへの軍事介入」と即物的に呼ばれるものらしい。とまれ「プラハの春」として知られる政情を封殺するための侵攻であったのだとすれば、「プラハの夏」と呼ばれないのはなぜだろう。

 ときは1968年8月20日のことであった。やがて秋が去り、冬がくるに及んで、哲学部に学んでいた青年が業を煮やし、ヴァーツラフ広場で焼身自殺を図った。それがヤン・パラフであった。病院に搬送されたのちもしばらく息があって、医師の聴き取りにも応じていた。──Proč ses to udělal? (なんであんなことしたの)という女医の問いに、人びとの目を覚ますために……と不明瞭ながら微かに聞こえる声。音源が凄絶な様相をいまに伝えている。その聴取の翌々日にあたる1969年1月19日、あえなく絶命した。弱冠といえばまさに弱冠の享年20。ちなみに近年では、50周年の節目にあたる2018年に、同名の映画が制作・公開されている。

 いい質問だ──とは、応えに窮した者が口にする常套の表現でもある。ヤン・パラフ。そうだな……あれこそ、偉大なる例外だったんだな。戦車がやってきても、あの国では皆こうさ──と白痴めいた表情で肩をすくめてみせる。なにが生起しようが白けているマター=オヴ=ファクトの民にあって、あえて闘いに挑む者などない。ヒトラーのときもそうだったが、軍すら動かなかった。やつら口を開けて見ているだけだ。じつにヤン・パラフはそんな風潮に抗議したのさ。ひとりパラフには、パッションがあったんだ──

 とちゅうからダブリン最古のパブに移り、ギネスの杯を傾けながら談義はつづいた。その間なんどもやつが強調していたことは、生きるためにはパッションが必要なんだという趣旨のことだった。曰く、マター=オヴ=ファクトは駄目だ。きみもパッションをもつことだ。

 そのうち酔いがまわってくるも、けっきょくこちらの腹は減らなかったし、またいかなるパッションも感じなかった。それどころか、暑さも相俟って、ときおり深くマター=オヴ=ファクトに陥りそうになる。

 それで、すこし歩いてから、オコンネル橋の袂であっさり別れた。西日が照っていて、リッフィー川のみなもが眩しかった。

Jan Palach

Jan Palach

  • メディア: DVD