ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

鶏卵と動物の福祉

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photo by Emiel Maters

 鳥インフルエンザが猛威をふるっている。日本各地で感染が報告され、すみやかに殺処分の措置がとられている由である。

 人間に感染する型もあるにせよ、そもそも鳥類のインフルエンザが変異してヒトに感染するインフルエンザが発生したとも考えられているという。かつて「スペイン風邪」と名づけられた感染症も、起源には諸説あっていまだに決め手を欠くものの、鳥類が関わっていたという説も複数ある。むろんこれは医学的にインフルエンザが風邪と区別がつけられるようになる以前の命名であって、正体はインフルエンザのウイルスであったことはいうまでもなかろう。

 やっかいであることは間違いないが、さいきんでは、発見されると即時「殺処分」するという対応に疑問の声も聞かれるようになった。動物の権利や福祉との兼ね合いも想像されたところだ。

 折しも、年末から年初にかけて、元農相の衆院議員にたいする鶏卵生産業者・アキタフーズ社からの現金提供疑惑が話題になっていた。いわゆる「アニマル・ウェルフェア」への国際的な意識のたかまりのなかで、養鶏業における国際基準採用を阻止してもらいたがったゆえの陳情であった、という推測が報じられている。

 たしかに日本の卵は割安の感があるが、「物価の優等生」の政治的なからくりを見た思いがした。また価格だけではなく、よその国では加熱せずにたべる習慣がないゆえに、日本の鶏卵は鮮度でも見映えでも抜きん出ているようにみえる。たとえば英国の当局は近年、生食も可能である旨の発表をしているが、それでも日本の外では、生でたべる気にはならないひとも多いことだろう。それも、賄賂ぬきには維持できぬものであったということなのか。

 個人的には、こういう煩わしげな領域にできるだけ首を突っ込みたくはないものではあるが、それが特定の種類の文化の差異に関係するばあいには、興味を引かれてしまうことはある。それに、人類がどこへ向かっているのかということには多少の好奇心もわく。動物の福祉。

 この文脈でなかんづく印象ぶかかったのは、年末の『シュピーゲル』誌によるルクセンブルクからの報道である。欧州司法裁判所(ECJ)の判決により、EU諸国では動物の屠殺のさい、麻酔の使用が義務づけられるかもしれない、という趣旨であった。

 ハラールについては、日本でもインバウンド対策をきっかけにひろく知られるようになった。いっぱんにイスラームの作法に則って処理された食材を念頭に、その認証をさして用いられる語である。典型的には、屠殺するさいに決められた手つづきを遵守して捌かれた精肉であるかどうかが焦点となる。ユダヤにも似たような概念があり、カシュルートとか、コーシャーとか呼ばれている。

 これを規制したとしても、宗教的自由という権利を侵害することにはならないというのが、裁判官の「発見」であったらしい。動物の福祉を促進するというのはEUが定めた目標であって、それだから加盟各国は、動物の福祉と信教の自由とのあいだで「適切なバランス」をとる権利と義務がある、ということのようだ。

 もとはベルギーから求められた案件だった。2017年にフランデレン地域において、動物福祉の観点から、麻酔なしの屠殺が禁止されたことが端緒であったという。これにユダヤイスラームの団体から反対意見があがった。どちらの宗教にも、コーシャーまたはハラールにするために麻酔なしで屠殺する規則がある。そこで、信者らが宗教的自由が脅かされていると感じたようだ。

 ベルギーの憲法裁判所は紛争をECJに付託した。判決によると、EU法は例外的な場合や宗教的自由の観点から、麻酔を用いない儀式的な屠殺じたいは許可されてはいるものの、EUの各国政府は、麻酔使用を義務づけることもまたできるという。

 今回のフランデレン地域の場合、儀式的な屠殺じたいが禁じられているわけではないので、信教の自由はじゅうぶん尊重されていることになり、またコーシャーやハラール認証をうけた食肉を他所から搬入することも禁じられていない。そのため、このような判決になったとされている。

 一神教の神様がかかわってくるとなかなかに大変そうだ……というのは偏見だろう。統計上は無神論の国であるチェコ共和国でも昨秋、残虐行為からの動物の保護に関する法律が成立したという報道があった。それはまさに、日本でもいちやく議題になった「ケージ」を用いた養鶏を禁じるものであったが、むしろ同法で注目されたのは、野生動物の調教までも禁じていた点である。

 ここでは信教の自由ではなくて、職業選択の自由生存権との兼ね合いが問題になってくるのであろうが、そのあたりがどう手当てされているのかはしらない。サーカスの興行主や鸚鵡のブリーダーなどが懸念を表明しているようで、はては馬術競技などにも影響がおよぶらしい。

 調教という概念の定義がどうもよくわからない。大雑把すぎる立法は、ぎゃくに細かすぎる運用を生じることもありそうだ。同国には、薬物関係にしろ、交通法規にしろ、曖昧でよくわからない規則が多い印象がかねてよりあった。けっきょくは現場の官吏や警官の裁量によって、恣意的に運用されてしまうのであろう。

 たとえば、ひとくちに調教といっても、犬に「おすわり」や「お手」や「おかわり」を仕込むのは合法なのかどうか、まず気になる。仮に適用されたとして、「おすわり」まではよいが「お手」は禁止──などと一挙手一投足まで口を出されてはたまらない。昨今では、スーパーの同一の売り場内において食品以外の商品の販売を禁ずるという、緊急事態宣言下での無茶な営業規制に典型的にみられたが、こうなると極端である。……さすがに「お手」禁止まではありえないだろうが、事細かなスーパーの販売規制の例にかんがみるに、やりかねない国なのではと思えてくる。

 要するに、議論が煮詰まってなさげなのである。汎ヨーロッパ的な「長いもの」に巻かれただけにもみえる立法だった。だが意外にも「反ヨーロッパ」的なゼマン大統領が、四の五のいうことなく署名したらしい。政党が林立する共和国にあって、かつての環境主義的な法案にちかい位置づけの政治イシューになっているのかもしれない。いずれにせよ、進歩派の意見が通りやすくなってきているように思えるのは、あながち気のせいでもあるまい。

 むろん単純な話ではない。問題はそうとう多岐にわたり、さらに多面的である。ペットの殺処分問題ひとつ取り上げても、単に「ゼロ」を目指しただけでは、飼育環境の悪化をまねくなど、別の問題につながりかねない。1990年代には「鯨はたべてよいか」という問題がずいぶん盛り上がりをみせて、応用倫理学の書物などがよく読まれていたものだった。けれども最近はまた、あの頃とも様相が変わった。めいめい利害を主張するのはよいけれど、感染症対策と同様に「正論」を言い合うだけで済む話でもなくなってきている。このことは日本の産業界のえらい人も、政治家に工作を依頼するくらいには認識しているのだろう。しかし、海の向こうの異文化だといって、いつまで受け容れずにいられることやら。グローバル化は退潮ぎみとはいえ、気がかりではある。

 

*参照:

www.nippon.com

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

keimei.ne.jp