ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

疫病神の道行き

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 WHOは、もはや事実を追認するだけの機関になりさがってしまったが、それでも認めるだけましだろう。コロナウイルスによるパンデミックの中心が大陸欧州に移ったことは、つとに明白であった。

 学校の閉鎖は、日本政府が打ち出したときは批判の声もあがったが、その後、世界各地の学校が閉鎖されるのを見るに、ピークを遅らせるために一定の効果があるのだと、昨今では主流の対策となっている観すらある。ドイツ語では「夏季休暇」ならぬ「コロナ休暇」という語も生まれ、児童や生徒のあいだで盛んに用いられているそうである。

 さて、ロンバルディアといえばかつてのハプスブルクの領土でもあり、気が気ではないひとも多いのだろう。「大震源地」となったイタリアと国境を接するオーストリアでは13日、アレクサンダー・ファン・デア・ベレン連邦大統領が、映像を通じて国民に結束を呼びかけた。

 一人ひとりの日常生活に深くかかわっているのです、とコロナウィルスの危険について、緑の党出身の左派インテリ大統領は優しげに語りかける──連邦政府と専門家の意見に耳を傾け、ウィルスの拡散を遅らせましょう。手を洗ってください。むやみに顔に触れぬように。握手も今はやめましょう。代わりに、たとえば私なんかこうします、と言って、合掌しながら軽くお辞儀してみせる。アジア流に行儀よくもフレンドリーに……みたいなことを言い添えて。

 いくらパーフォーマンスを得意とするわが国の総理大臣にしても、こんな保健所の小母ちゃんのような注意事項なんぞ、くだくだ言わないと思う。いわんや、畏くも大元帥陛下におかれては……。また、このところセバスティアン・クルツ連邦宰相も、ニュース番組で質疑応答を受けるなどしているが、行政の長らしく実務的な話がもっぱらであった。連邦共和制の国のそれぞれの役割が象徴的にあらわれたようで、興味深かった。

 いっぽう、この穏やかな口調にくらべると、イタリアからも隔たったチェコ共和国政府の対応はあまりにも性急で、首相と保健相の記者会見にしても余裕なさげに見えた。

 性急といえば、翌朝からの措置について、政府が夜中に公式サイトで情報を開示したというのが典型であった。コロナウィルスに関連した危機的状況の解決のため、法に基づき全土に非常事態を宣言する由であった。具体的には、以下に挙げる、小売り業およびサーヴィスの販売を3月14日6時から10日後の6時まで禁ずる、と。その一覧を眺めると──食料品、コンピューター、通信機器、AV機器、家電製品、およびその他の家庭用品、燃料、衛生用品、化粧品、薬局薬店、医療器具、ペット、動物飼料やそれに類する物資、眼鏡、コンタクトレンズと関連商品、新聞・雑誌、たばこ製品、ランドリー及びドライクリーニング……

 周辺諸国に倣ったのであろう緊急の措置にしては、またまた広範囲な──と思ってよく見ると文中「s výjimkou」とあって、これはむろん「〜を例外とする、〜を除く」という意味であるから、ずっこけた。逆に、禁止される業種を列挙してあげたほうが早いし、なにより親切ではなかろうか。

 ブリュッセルEU帝国政府からは非難めいた声もあがるなか、旧宗主国をぎこちなく真似て、国境管理を極端に強化する挙に出、すでに人の移動の制限をうち出してはいる。だが、もともと医療現場のリソースが貧弱で、住民の高齢化率も高めという自国特有の事情を考慮すればなおさら急がんとしたところか。くわえて、休校で暇をもて余した学生らが夜の街に繰り出す光景に悪夢でも見たのであろう、飲食店は20時までの営業に制限された。急に土曜の晩に営業できなくなった店主の嘆きは想像するにあまりあるが、無茶な国境封鎖に比べれば、ある程度まで致し方ない措置には思える。

 あるいは──ここからは陰謀論めいたこじつけになってくるが──翌3月15日は「チェコスロヴァキア消滅記念日」にあたるため、やはりその日は避けねばならなかったものか(ちなみに前日13日は、旧オーストリア=ハンガリー社会民主主義者にとっては大切な「革命記念日」ではあった)。

 

 ──1939年3月15日早朝、ベルリーン。前日から監禁、脅迫がつづきもすれば、心臓を病んでいなかったとしても、いずれエミル・ハーハ大統領は屈したにちがいない。大統領が署名した瞬間、第二共和政チェコスロヴァキアは消滅し、代わって「ボェーメン及びメーレン保護領」と「スロヴァキア共和国」が成立した。その15日の1915時に、ヒトラーはさっそくプラーク入りした。2日後、17日の金曜日1100時には、オルミュッツ経由でブリュンに入城する。
 朝から霧が出ていたが、やがてそれは霧雨になり、そして雪に変わった。それでもドイツ系の地元住民は、「アードルフ・ヒトラー広場」につめかけて鉤十字の旗を振ったり、かねてから練習していたナツィ式の敬礼をしたりした。この広場は、前日までは自由広場と呼ばれていて、さらにこの翌日にはふたたび自由広場の名に戻った。「アードルフ・ヒトラー」が「自由」を取り上げたというのは、さすがにまずいと思ったのか、けっきょく300メートルほど北にある別の広場、ラジャンスキー広場(現在のモラヴィア広場)が、「アードルフ・ヒトラー広場」と改称された。
 ヒトラーの車列は駅を出発して、ドイツ人市民劇場の前を通って、コリシュティェ通りからラジャンスキー広場に至った。前述のとおり、この広場は翌々日にヒトラー広場と改名され、そこに建っていた壮麗なドイツ人会館はナツィ党が接収した。
 ラシーン通りを抜けて、件の自由広場に入ってから右折する頃にはすでに雪も止んでおり、ヒトラーは、幌を畳んだ国防軍所有のメルツェーデス=ベンツG4の助手席に立って、沿道の歓迎ぶりを満足げに見下ろしたまま前進した。
 それからドミニコ会広場へ入って、その先の新市庁舎の中庭に入っていった。しばらくすると、ファサードのバルコニーに姿を見せ、眼前の広場に満ちた観衆の声援に応え、ひとしきり演説をぶった。

 1330時には再び新市庁舎を出発して駅に戻り、列車にてウィーンに向かった。
 ヒトラーが去った駅のすぐ裏手に在った、市内最大のユダヤ寺院は、その日の夜のうちに焼かれたらしい。のち、跡形もなくなった。

 

*参考:

www3.nhk.or.jp

orf.at

www.vlada.cz

www.novinky.cz

www.yomiuri.co.jp

www.nikkei.com

www.youtube.com