ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

犬かけて──チェコ共和国・ゼマン大統領と憲法論争

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photo by Florian Olivo

 ソクラテスが「犬にかけて誓う」といったのは、正確には「エジプトの犬」、つまりアヌビス神を引き合いに出して、みずからの言の真実を約したのだ──という話がある。

 絶対的な存在を挙げて誓う習慣は、洋の東西を問わずひろく見うけられる「人情」であるように思える。日本語でも「神掛けて」という連語が、じつに『源氏物語』における用例とともに辞書にあるくらいだ。

 ドイツ連邦共和国憲法たる「基本法」においては、第59条で連邦大統領が就任するときの宣誓の文言が規定されているが、さいごに「神」がでてくる。

私は、私の力をドイツ国民の幸福に捧げ、その利益を増進し、損害を回避し、基本法および連邦の法律を守り、かつ擁護し、良心に従って私の義務を果たし、何人に対しても正義を行うことを誓う。神よ、我れの、かくあるべく助け賜え。

──ドイツ連邦共和国基本法・三カ国語対訳

 とはいえ、これでは「信教の自由」(同4条)に抵触するおそれがあるからであろう、つづく第二項によって留保されている。──「宣誓は、宗教上の誓約なしに行うこともできる。」と。

 いっぽう、1993年に施行されたチェコ共和国憲法でも、やはり59条で共和国大統領の宣誓を定めている。

私は,チェコ共和国への忠誠を誓う。 私は,共和国の憲法と法律を遵守することを誓う。私は自らの名誉にかけ,全人民の利益のために自らの最高の見識と良識をもって,自己の職務を遂行することを誓う。

──早川弘道ほか訳「チェコ共和国憲法」『比較法学』36巻1号、2002

 ちなみに同69条には、共和国首相の宣誓についても規定がある。

私はチェコ共和国への忠誠を誓う。私は,共和国の憲法と法律を遵守し,それらを実施することを誓う。私は自らの名誉にかけて,自己の職務を誠実に遂行し,その地位を濫用しないことを誓う。

──同上。

 いずれにせよ、こちらの憲法には「神」が出てこない。「自らの名誉」という曖昧で相対的な代物がこれに替えられている。

 同共和国における「思想・良心・宗教の自由」については、同憲法と同時に成立した「基本的権利および自由の憲章」によって保障されている。憲法はこれを厳格にまもっているともとれるが、歴史的な無神論大国であるから、もとより「神」をもちだすことが馴染まないとされても何の不思議もありはしない。

 ただ、「共和国への忠誠」を誓うのに「自らの名誉」という、いわば自由裁量でもってするのは、やや不釣り合いな気がする。「人情」に欠ける気もする。いずれにしても「政治家の口約束」にすぎぬことにかわりはないわけだが。

 となると、現職のミロシュ・ゼマン大統領がなにをもって「自らの名誉」としているのか、不安になってくる。「共和国への忠誠」にしても、それが「『中華人民』共和国への忠誠」でないとは否定しきれまい──という皮肉のひとつもいいたくなるのは、このところ同大統領が、またぞろ相応の態度を示しているからである。

 先週、『ポリーティコ』でも報じられていたけれど、任命済みのペトル・フィアラ首相の次期内閣において外務大臣に就任することになったヤン・リパフスキー元代議院議員(海賊党)について、任命を拒否したのだった。──ただ、この問題は週明けには解決し、金曜日には無事に新内閣が発足する見込みと報じられている。つまり、いったん拒否した人事を大統領はしぶしぶ了承したわけだ。

 大統領が人事を拒否した時点では、憲法68条がとりあげられていた──「①政府は,下院に対し責任を負う。②首相は,共和国大統領によって任命される。首相の提案に基づき,大統領は,政府のその他構成員を任命し,政府構成員に省またはその他の官庁を指揮する権限を与える。」

 同条文によると、大統領には拒否する権限がない、というのが憲法学者らによる、おおかたの解説であった。それだから、フィアラ新首相にしても憲法裁判所に提訴する意向を表明してもいた。

 報道によると、ゼマン大統領の拒否の言い分としては、リパフスキー氏が学士号しか取得していないのが不満との由であった。ほかに同氏のヴィシェグラード・グループと距離をおく態度や、ズデーテン・ドイツ人問題への融和的な姿勢、さらに対イスラエル外交における方針を問題視し「新政府の準備したプログラムと相反する」と主張してもいたが、これらのほうが主たる理由であったことは間違いない。

 もともと、チェコ共和国のようなドイツ文化圏の大学では修士号にあたる「マギストゥル」がながらく基本的な「大卒」の学位であって、欧州連合EU)加盟後にブリュッセルのお達しによって、学士号にあたる「バカラーシュ」課程が無かった専攻にも急ぎ設けられたという経緯があった。リパフスキー氏の有するプラハ・カレル大学の「学士」では、頭のふるい世代には「大卒」とは認め難いという理屈も成り立つのだろう。ところが、前政権で外相もつとめたヤン・ハマーチェク副首相などは、それすらも有しておらない、いわば「高卒」だったことから、大臣就任を拒否する理由にはなっていないとの批判が相次いだのだ。ちなみに、チェコ共和国の高等教育や学位にかんしては、たとえば『チェコとスロヴァキアを知るための56章』(薩摩秀登編、明石書店、2003)の「チェコの教育制度──ドクトルがたくさんいるわけ」に簡潔にまとめられている。

 「中卒」の宰相で近年も人気が高まった田中角栄の例などを知るわれら日本人としては理解に苦しむ。だが、リパノフスキー氏の経歴に「マッキンゼー」とあるのを見るや、ゼマン大統領ら「共産主義者」たちが拒否反応を示す心境について、ぴんとくるのである。要するに、外相が親米派では困るのであろう。なにより、中国やロシアに対する強硬な姿勢で知られる御仁である。

 端的に、ゼマン大統領が駄々を捏ねたわけは何かと邪推すれば、今夏の『人民網』の記事がまず浮かぶのである。同大統領が中国の習近平主席との電話会談をおこなったというものだ。

習主席はゼマン大統領との会談で、「中国及び中国の発展を正しく受け止め、中国とチェコの意思疎通及び協力の強化に尽力し、関係する問題を適切に処理して、両国関係の健全性及び活力の維持を図る関係者がチェコ側に増えることを希望する。双方は『一帯一路』(the Belt and Road)共同建設などのプラットフォームを活用し、新コロナウイルス感染症との闘いにおける協力を深め、経済活動の再開及び回復を推進し、相互投資及び貿易を促し、注目点となるような協力を増やすべく努力する必要がある」とした。

ゼマン大統領は、「チェコ側は中国との友好協力の強化に尽力しており、中国側と緊密に意思を疎通し、妨害を排除し、両国関係の健全で順調な発展を確保することを望んでいる。双方が共に努力して、経済協力を促進することを希望する」とした。

──習近平国家主席がチェコ大統領、ギリシャ首相と電話会談--人民網日本語版--人民日報

 「妨害を排除」すると習主席に誓った手前、これまでも中国へ恭順の意を示してきたゼマン大統領としては、いずれにしても海賊党から外相をだすことは阻止したに違いない。同党はリパフスキーのみならず、なかんづく台北への留学経験まであるズデニェク・フジプ・プラハ市長に象徴されるけれども、親台湾政党といっていい。また、ヴィシェグラード・グループにしても、いまやEU内の「半グレ」集団に堕した観もあるが、ハンガリー・オルバーン政権に典型的にみられるように親中国の傾きもあり、ゼマン大統領も外交の枠組みとして重視してきたものだった。

 せんじつ同大統領が入院していたさいには、憲法第66条にある「共和国大統領が重大な理由によりその役職を行使できない場合」の「権力移譲」についての議論が盛んになったものだった。これだけ憲法の規定をおびやかしつつも必死に抵抗しているとも言える。そのゼマン大統領が「自らの名誉」をかけても共産中国に忠誠をつくす、その真意があきらかになる日はくるのだろうか。

 

*参照:

ct24.ceskatelevize.cz

www.politico.eu

www.derstandard.at

j.people.com.cn