ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

冬のオロモウツと「民族の館」

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 モラヴィア辺境伯の記事を書いていて、オロモウツのことをおもいだした。はじめて訪れたのはもう、20年ほどまえの話である。つもった雪をみると、思い浮かぶ光景も多々あれども、どうしてゆくことになったことになったのかは、さだかではない。

 当時オランダに留学していた友人と、メールかなにかでやりとりしていたのだ。共通の恩師というのか、教会史にも通じた先生からの書簡にこの町の名前がでてきて、そのことを伝えたら、友人が行きたいといいだしたのではなかったか。ひょっとすると現地での生活や、経済史の研究に行き詰まりを感じていたのかもしれない。そうでなくとも、クリスマスの休暇の時期には、人びとが家族のもとへ帰って街の商店も閉まり、単身者は孤独や寂寥の念をふかめるのが常である。むろん、ロックダウンなどない年でもそうなのだ。

 しかし大陸ヨーロッパを見わたせば、ほかに愉しそうな観光地はいくらでもある。チェコ共和国にかぎっても、プラハを筆頭に観光客に人気のあるスポットは枚挙に遑がない。

 オロモウツは、共和国内で6番目にあたる10万という人口規模の小都市で、ふるくは交通の要衝であったものの、国境からも隔たったモラヴィアの内陸に位置する。いまでこそユネスコ世界遺産やその他の文化財の豊富さで知られるが、ビジネスや留学をのぞけば、とりたてて目的地とするよりも、近くまで来たら立ち寄るというほどの旅程のひとが多いのではないだろうか。

 はたして訪れてみると、道ゆくひとも稀にはあったが、雪ぶかい市街地は不思議なしじまに満ちていた。いまかんがえると、友人もあまり騒ぐ気分にもなれなかったろうし、この隠れ家のごとき宗教都市というのは絶妙な選択であったのかもしれない。

 中心部の街並みは、とりわけバロック色が濃い。その通りをつい何年かまえに訪れたというヨハネ・パウロ2世の大きな写真が、礼拝堂の入り口など、そこかしこに掲げられていた。統計上は世界有数の無神論国家ではあるけれど、ローマ教皇の降臨となると、なかんづく大司教座を擁することを誇る町にとって、このうえない栄光の一頁となったのであろう。

 じっさいのところ宗教改革の端緒とは、豪奢な聖職者の暮らしを知った庶民の憤懣に関係しているにちがいない。格差や分断といえば、現代人にもわかりやすい。だからといって蓄財の成果というわけでは必ずしもないのだろうけれど、オロモウツ郷土史博物館や美術博物館の常設展ではやはり、キリスト教美術関連が充実していた印象をうけた。とはいえ、これはとくに教会のお膝元にはかぎられない。日本でも地方の博物館というとほとんどは、仏教美術が館蔵品の中心を占めるから、なんとはなし親近感がわくことはたしかである。

 さて、夜のとばりが下りるとまもなく、あまり酒につよくない友人は酩酊して眠ってしまった。わたくしはといえば、どうも飲み足りず、ひとりホテル内のバーに赴いたのだった。

 暗がりのなかで麦酒の杯を受け取ると、とたんに騒々しい音楽がはじまって、やや弱いスポットライトが灯り、思ったより広いフロアに大勢の地元の若者らが集っていたことに気づいた。ネオルネサンス様式の上っ張りだけが取り柄の見すぼらしい安宿にしては、意外にも立派な空間である。とまれ、これは面倒なところに来てしまった。一杯やったらすぐに退散しようと思った。

 その矢さき、酔っぱらったひとりに捕捉された。音響が凄まじく、しかたなしに大声をだしてはいるが、友好的な口ぶりではあった。

 ──景気はどうだ。うれてるのか。
 ──まあ、ぼちぼち……いや、なんだって? 
 ──天幕だして、もの売っているんだろう? 靴か。古着か。クンパオか。

 どうやら、ヴィエトナム系の商店主だと思われたようだった。オロモウツにも多いのだと察した。ただ、アジア人というだけで眉を顰める者もおおい国で、意表な棘のなさであった気もしたが、このていどの会話とて、差別だと感じるひとにとっては差別なのだろう。微妙なところだ。

 ところが、このとき泊まった建物が、19世紀から20世紀はじめにかけて、同市の民族運動の最前線ともいうべき施設であったことは、のちに知ったのである。──いやいや。正直なところ、うすうすわかっていた。ネット予約など普及していない時代に、どうやって手配したのか記憶にないとはいえ、その時点で「民族会館」というような名称に気づかぬものではない。

 カトリシズムのつよさからも連想してしまうように、モラヴィアオーストリア帝冠領であった時代、オロモウツもまた、歴史家がいうところの「ドイツ人の町」のひとつであった。少数派であったスラヴ系の住民は文化的な環境を改善すべく、1888年「ナーロドニー・ドゥーム」すなわち「民族会館」ないし「国民の家」を開設した。そのころ民族意識のたかまりのなかで、文化的な行事をつうじて人びとの自覚をうながし、懇親をふかめようという趣旨で、この手の施設が各地でたてられるようになっていた。それでプラハをはじめ、ほかの町々で志を同じくする団体や個人からも、支援の手が差し伸べられたのである。

 いっぽうドイツ語をはなす人びとは、都市部などかぎられた地区をのぞけば、ボヘミアモラヴィアをはじめ帝国のおおくの土地で、じつは数的に劣勢であった。唯一の公用語をはなすという優位性も、いわゆるターフェの言語令や、のちバデーニの言語令によって失われていったようにおもわれた。それでも窮地に立つと燃えあがるのがナショナリズムというもので、ドイツ語話者は結束をつよめ、ほうぼうに「ドイツ人会館」が建設されてゆく。町によって両者の建設に前後はあろうが、民族ごとに組織された団体によって津々浦々に同種の文化施設が建てられていったのはたしかである。そして対立が昂じるなか、そのシンボル的な重要性もたかまっていった。ただ、オロモウツのドイツ人らが1870年代から計画をすすめていた施設は、戦火やインフレによって実現が難渋したらしく、1930年代になってようやく落成をみている。この建築物も市内に現存し、いまでは「スラヴ人会館」と名づけられているが、こういうのは修正主義とは呼ばれないらしい。

 オロモウツの経緯は例外に属するかもしれない。だが、第一次大戦を経て、帝国崩壊のどさくさのうちにチェコスロヴァキア共和国が成立してしまうと、こんどはぎゃくに諸民族の融和と国民の統合が喫緊の課題となって急浮上する。なにやらトランプ政権のあとを継いだ、ジョー・バイデンのスピーチに通ずるものがある。それだから相対的な重要性の低下は否めなかった反面、たいていの町々の「民族の家」じたいは壮麗な外観にとどまらず、コンサートや舞踏に好適なホールをそなえていたことから、その後もさまざまな催しにひろく利用されていった。オロモウツの「館」も社会主義体制の時代になってなお、わりと親しまれていたようだ。しかしそれも、ビロード革命によって、いちじるしい価値観の変化がおこるまでの話であったのだろう。

 21世紀はじめの時点で、われわれが投宿したオロモウツの「館」は、朽損はげしく、あわれに廃壊の惨状を呈していた。強制収容所だといわれても信じてしまったであろう拵えの客室で、廃墟に漆喰が塗りたくられていたようなものであったが、それも破格の宿泊料から推して知るべきであった。しかしそのころはむしろ、好奇心のほうがまさっていた。立地のよさも手伝って、しばらくのち二度、三度と滞在することになったのである。その間、なんらかの尽力があったことは明白で、客室は徐々にホテルらしくなっていったのだ。

 それでもほどなくして、ホテルとしての「館」は廃止されてしまった。直近の報道によると、現在ではかろうじて地上1階だけは銀行の支店や世界的なカフェのチェーン店がテナントとしてはいり、有効に活用されてはいるものの、内部の荒廃は相変わらずのようだ。所有権者らに歴史的な価値は理解されていても、先だつものがないという事情らしい。部分的な営業だけでは、やはり維持や修復に不安があるということか。数年前には、2021年を期してホテル業も再開される見通しとも報じられたが、さてどうなるだろう。観光客が絶え、飲食や宿泊の業界にきびしい情勢がつづくなかで、文化財保全にも暗雲がただよっている。

 

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*参照:

olomouc.rozhlas.cz

 

*上掲画像はWikimediaより。