ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

モラヴィア辺境伯ヨープスト

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photo by urashima-e

 いつぞやのブルノ市の広報誌の記事によると、モラヴィア辺境伯ヨープストが没してから、2021年は610周年になるようである。命日が1月18日だったというから、すでに幾日も経ってしまったが、とおいむかしの話であるからして、このくらいの差はなんでもないことのようにもおもえてしまう。

 便宜上ヨープストJobstと書くけれど、現在のモラヴィアではむろん、ヨシュトJoštと一般に呼ばれる。幼少のみぎりからブルノで育った偉人で、いっとき帝冠をも射程におさめたほどの出世頭であるから、市民も誇りとするわけである。市の中心部には、チェコ共和国憲法裁判所が置かれているが、その前の通りが「ヨシュト通り」と名づけられているのも不思議はない。この通りを東へゆくとつきあたるのが聖トマス教会で、中世モラヴィア随一の君主がここに眠るからである。

 2015年の秋であったが、この教会のあるモラヴィア広場のいちばん目立つところに、ヨープストをモティーフとした騎馬像がたてられた。地面から槍の穂先までの全高は、じつに8メートル。かなり以前からコンペがおこなわれていたものの、デザインの選定に難航していた。曲折を経て、プラハの《フランツ・カフカ記念像》などで知られる彫刻家、ヤロスラフ・ローナの案が採用された。時代考証から異論が噴出した経緯もあり、それかあらぬか公式の名称は《勇気》の像ということになった。企画の段階から、プラハ・ヴァーツラフ広場にたつ《聖ヴァーツラフの騎馬像》を意識したとおぼしいところもあって、それこそ対抗心の発露であったようにもみえた。どこか、政治的野心から近しい者との抗争に明け暮れたヨープストの生涯にもつうずるところがある。

 では、ヨープストとはいかなる生涯をおくったのか、ということになるが、往年のルクセンブルク家における親族間の権謀術数は複雑にして込んでおり、要約をこころみるには手に余る感がある。それでも、くだんの広報にある記事が簡にして要を得ていたので、主としてこれに依拠して紹介したい。文責はマルケータ・ジャーコヴァー氏となっている。どのようなかたちであれ、気軽に中世史をあつかうことは畏れおおいことではあるにせよ、とまれそのむずかしさのひとつには史料の欠如というのがある。モラヴィアも多分にもれず、14世紀後半については同時代の年代記の裏づけを欠く。それだから、ヨープストの出生にしても、ブルノ市の出納記録から、1354年10月のいつかと推定されるのみという。

 ヨープストは、ルクセンブルク家のヨーハン・ハインリヒ(ヤン・インドジフ)の第二子にして長男としてうまれた。伯父、つまり父の兄がボヘミア王カレル、のちの神聖ローマ皇帝のカール4世で、兄弟のあいだで封土として下賜されてまもないころのブルノに、父の廷臣らとともに移り住み、そこで育った。そのころ王には嫡子がおらず、そのためヨープストの養育には手がかけられた。伯父の跡を襲ってボヘミア王位につくことも考慮されていたわけだ。

 事情が変わったのは1361年で、すでに皇帝となっていたカール4世に、壮健な息子ヴェンツェル、のちのボヘミア王ヴァーツラフ4世が生まれたのである。いっぽうブルノでもヨープストの家族が殖えており、ふたりの姉妹のほか、ヨーハン・ゾービェスラオス(ヤン・ソビェスラフ)とプローコプ(プロコプ)の兄弟がうまれ、のちのち従弟のヴェンツェルや、その弟にあたるズィーギスムント(ズィクムント)らと同様、ヨープストの人生にとって数奇な役割を演ずることとなる。

 ヨーハン・ハインリヒが複数の遺言をのこしたのも、息子たちへの相続を確実なものとし、紛争を回避するためであったにも拘わらず、結果としては諍いをもたらすこととなった。遺産の大部分と「辺境伯にしてモラヴィアの君主」なる称号とともに統治権はヨープストに与えられることとされていた。だが、弟に一部の財産が与えられるとともに「辺境伯」の称号も用いることができることになっていたのが、よくなかった。

 はたして1375年の父の死後、ヨープストがモラヴィアの統治を引き継いだが、すぐに弟のヨーハンとの抗争に巻き込まれた。けっきょくはヨーハンは聖職者の道をあゆむことになり、1380年にはリトミシュルの司教におさまっている。

 この70年代から80年代にかけては、さまざまな問題に直面した──モラヴィアの住民はペスト禍におそわれており、オロモウツの聖職者参事会との軋轢にあっては、空位となっていた司教に弟のヨーハンを擁立するもうまくゆかず、もうひとりの弟であるプローコプとのあいだとなると、遺産をめぐって短期の武力衝突にすら発展していた。

 争いがおさまったとき、ヨープストはモラヴィアだけでなく、ボヘミアでも、そしてルクセンブルク家のうちでも地歩を確固たるものとしていた。1378年にカール4世は崩御し、その子、ズィーギスムントがポーランドに遠征したさいには、多額の資金を貸与しもしたが、けっきょくポーランド王位を得ることはできなかった。いっぽうハンガリー王位をめぐっては、ヨープストやプローコプの多大な援助によってズィーギスムントが獲得し、その見返りに、現在のスロヴァキア西部一帯にあたるハンガリーの領土を抵当として譲渡した。

 ただ、80年代の後半には、ヨープストは財政問題に直面し、父親から相続した財産の一部を売却することを余儀なくされる。また、弟のヨーハンをオロモウツ司教の座に据える目論見も、ふたたび挫折した。のちヨーハンはアクイレイアの総大司教となり、1394年にウーディネで暗殺されることになる。

 ヴァーツラフ4世からルクセンブルクアルザスの封土を借財の抵当として譲られたとき、ヨープストの権勢はがぜん伸長をみた。ハンガリーの諸侯らは、領域の一部がよそものの統治者によって抵当がわりにされたことに不満をいだいており、それがひとつの理由らしいのだが、王ズィーギスムントは代わりに、ヨープストとプローコプにたいし、ブランデンブルクの大部分をも抵当として譲った。これらの資産がまた、諍いのもとになったことは想像にかたくない。

 90年代前半に、弟プローコプとのあいだで二度目の紛争が勃発した。また同じころ、統治に不満を抱いていたボヘミアの貴族たちによってヴァーツラフ4世にたいする謀反がおこり、ヨープストはこれにも加勢した。1394年5月の初めに反乱勢力がヴァーツラフを捕らえたとき、ヨープストはボヘミアの事実上の統治権を掌握しさえした。その後、交渉の末にヴァーツラフは解放され、逆にヴァーツラフは翌年ヨープストを捕縛したが、すぐに釈放している。けっきょく1396年にボヘミアに赴いたズィーギスムントによって情勢は収束に向かい、モラヴィアでも講和が成立した。

 その後、90年代後半には影響力をとりもどしていたヨープストにたいし、ヴァーツラフ4世は両ラオズィッツを抵当とし、さらにブランデンブルク辺境伯領の封土も譲渡した。ヨープストはブランデンブルク辺境伯にして選帝侯に就いたことで、皇帝を選定する権利までも手にした。しかしのち、ヴァーツラフ4世が遠征にでた一時期、弟プローコプにボヘミアの執政が委ねられると、プラハを明け渡すよりほかなかった。

 こうしてモラヴィアに兄弟間の紛争がつづいていた1400年、選帝侯らがローマ王・ヴァーツラフ4世を廃し、ヴィッテルスバッハ家のプファルツ伯ループレヒトをあらたに選出するという事態がおこった。ルクセンブルク家内部の抗争をいっこうに収めることができぬ「怠慢王」に、不適格の烙印が押されたのだとしても無理からぬものがあった。ヨープストは従弟であるヴァーツラフ4世側を支持するも、モラヴィアでの戦いに忙殺されていた。そこをついてプラハはズィーギスムントが掌握し、さらにボヘミア全域の統治権も確保すべく、ヴァーツラフを捕らえ、のちプローコプも捕らえた。ヨープストはこのときズィーギスムントに反旗を翻し、ボヘミアの大多数の町や貴族もこれに参集した。結果、ズィーギスムントは1403年ボヘミアを去り、1420年になるまで戻ることはなかった。

 1403年にウィーンの牢獄を脱したヴァーツラフは、ヨープストの忠実なる態度を顕彰して報償を与えた。モラヴィアにおける紛争も終結するいっぽう、1405年、ヨープストはヴァーツラフ4世の名のもと、ブダにおいてズィーギスムントと和平を結んだ。辺境伯プローコプもプレスブルク(現ブラチスラヴァ)の監獄からもどったものの、いちじるしく健康を害しており、現在はブルノの一部となっているクラーロヴォ・ポレにあるカルトゥジオ会の修道院にみじかい余生をおくり、まもなくそこで没した。ヨープストは、戦乱によって荒廃しきったモラヴィアをひとり治めたが、たほうで同様に混乱したブランデンブルクでもかなりの時間をすごした。当時まだ官邸のひとつも整備されていなかったベルリーンに好んで滞在し、種々の特許状を発するなどして、その発展に寄与したという。それが、のちのブランデンブルクプロイセンドイツ連邦共和国の首都となってゆく巨大都市の礎をかたちづくった。

 1410年、ローマ王・プファルツ伯ループレヒトが没したとき、選帝侯のなかにはズィーギスムントを支持した者もあったが、10月になるとヨープストも後継者に選出された。周知のように「ローマ王」とは、時代がくだると「ドイツ王」と表記されることがおおくなるが、つまるところ帝位継承者が帯びるものと解された君主号である。すなわち、モラヴィアから皇帝が輩出するのも目前かとあるいは受け取ることもできた。

 ところがヨープストは、ことの成り行きを見届けることなく、1411年1月18日、ブルノに居ながらあっけなく頓死してしまった。あまりに唐突であったがために、毒殺されたのだという憶測もながれたが、捜査にもかかわらず真相はわからなかった。それでもともかく亡き骸は、くだんの聖トマス教会に埋葬された。往時は聖アウグスチノ修道会に属しており、ヨープストの父、辺境伯ヨーハン・ハインリヒが開闢したものであった。

 ときはさらに下って1998年。同教会のヨープスト廟の考古学調査のおり、遺骸の人類学的研究もおこなわれた。報告によれば、ヨープストは上背180センチの偉丈夫ではあったものの、骨格に変性疾患も認められたという。それでも死因の特定には至らなかった。

 

*1400年頃の神聖ローマ帝国ルクセンブルク家の版図(Wikimedia):

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