ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

王の道行き

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 気がつけばもう6月で、呆然とする。そんな向きも多いのではないか。季節のうつりかわりを感じさせる折々の催しなど、今年はことごとく延期や中止となった。──東京五輪の延期決定は3月24日だったが、ほか大陸欧州でもロックダウンのさなかにあって、4月21日の時点ですでに、有名どころの祭りの中止が報じられていた。たとえばパンプローナサン・フェルミン祭や、ミュンヒェンオクトーバーフェストである。それぞれ7月と9月に開催される観光の目玉でもあるから、それ以前の時期のこまごまとした行事などは、もはや言わずもがなであった。

 春から夏にかけてのいわば分水嶺ともいえるのが、復活祭から50日をかぞえる「五旬節」で、ことしは5月31日がその日にあたっていた。別称で「聖霊降臨祭」「過ぎ越しの祭り」と呼べばいざ知らず、「ペンテコステ」は日本語でも夏の季語となっている。

 モラヴィアでは「レトニツェ」と呼ばれるこの日、村によっては「王の道行き」という民俗行事がある。チェコ語で Jízda králů といって、観光センターのサイトでは「王様騎行」という造語をもちいているが、いかにもすわりが悪い。そもそも王者が徒歩で移動する想像も湧かないのだから、簡素なのにくどい。ほかには「王様の騎馬行列」という訳が30年ほど前の社会学の論文にあったけれども、jízda とは馬や車で移動することを意味するが、行列というほどの列を成すかどうかはべつの問題である。趣旨にてらして古典芸能の「道行」を訳語に宛ててみた次第。

 馬の生育の都合から、この時期に行われていた恒例のひきまわしが起源であると考えられている。それが村落共同体の儀式として採り込まれた。一帯にひろく見られた行事であったが、とくにボヘミアでは19世紀の後半には消滅してしまった。南モラヴィアのスロヴァーツコ地方の村々では、存続ないし復活に尽力した篤志の人材に恵まれた。手もとのヴァーツラフ・フロレツらの書物によれば、戦間期には20以上の村々で挙行されていたというが、いまでも定期的に行われているのは、ヴルチュノフ、フルク、クノヴィツェ、スコロニツェのみである。なお、スロヴァーツコのほかには、ハナー地方のドロプラズィも1977年に定期開催をはじめた。これらが2011年以来、まとめてユネスコ無形文化遺産に登録されている。ほか、ドイツ圏やポーランドにまで視野をひろげれば、現在では復活祭の時期におこなわれるものに似かよった騎馬の祭事が分布するが、相互の連関はよくわからない。

 もっとも名高いのはヴルチュノフのもので、スロヴァーツコでは唯一まいとし挙行されている。といっても、ことしだけは疫禍の影響で早い段階で取り止めになった。ほんらい、9歳から13歳までの子どもが、日本の民俗学でいうところの若者組とか若衆に加入する通過儀礼である。村の20歳までの若者はすべて参加することになる。若衆が合議のうえ、ひとりだけ王役の少年を選出する。この「王」が騎乗して家臣、取り巻き連らと練り歩くのが行事の中心である。

 このとき参加者は、村に定まっている民族衣装「クロイ」で盛装するのであるが、王だけは女装する決まりである。女物のクロイを着用し、刺繍の施された赤い美男鬘のごとき頭巾をかぶる。そして終いまで薔薇の花を咥えて、沈黙を守らねばならないことになっている。王のモデルがハンガリー王マーテャーシュであり、戦いに敗れた際に女装して脱出したからだともいわれているが、これは後づけの脚色にすぎない。

 交通の便もよくない辺境の鄙にもかかわらず、数年前に訪れた際にも日本からの観光客が見られたほどで、それほど整備された観光資源となってはいる。と同時に、いまもって村の通過儀礼としても機能している。あるときぐうぜん知り合ったとある美術館の支配人というのが、このヴルチュノフのひとで、いろいろ話を聞くことができたものだったが、自身もかつて儀礼に参加したことを、また同村の出身であることを誇りに思っていると語っていた。それだからこそ、ふらり現れた日本人を自家用車で丘の上の礼拝堂まで連れてゆき、快活にいろいろ教えてくれたのだろう。

 近代化──ゲゼルシャフト化などとも言う。ムラ社会が解体し、対価を払って生活の便宜を受ける消費社会に移行したが、いっぽう旧来の共同体の価値はたびたび見直され、時代に逆行するような回帰現象も同時並行的に進行する。これを再帰的近代化と呼ぶ研究者もあった。

 しょうじき自分も、ムラの論理というようなものを嫌悪する郊外の子どもだった。いわゆる転勤族の家庭で、土着の文化をもたぬ野蛮な人間であることも自覚している。うちの村ではこうだったなあ、という理解の仕方ができぬ劣等感がつねにある。むかし、民俗学の授業のとき、教員が言った。「そういうひとにはね、見えないものがあるんだよ。でも逆に、そういうひとにしか見えないものもあるんだけどね……。」おなじ現象を目撃してもひとによって理解の仕方は異なる。個性とはひっきょう、価値観の近代化の度合いにすぎぬと喝破したひともあった──これ以上の大風呂敷を広げるのはやめにしておこう。いずれにせよ、分断の素地はどこにでもある。

 分断といえば、疫病のパニックめいた言論空間のなかでは、マスクの効能にしろ、PCR検査の実施方針にしろ、論者の属する中間集団によって、見解があるていど割れた。たとえばフランスなどでは、そこから「上層」と「下層」の分断がはからずも露呈したといわれる。そもそも社会集団によって利害が対立し、日常的にオンラインでも罵り合う人びとが、否応なしに目にはいるようになってしまっている、厭な時代ではあった。

 それでも不条理な騒動が起こってみると、やがて素朴なヒューマニズムが見直され、損得を度外視した隣人どうしによる助け合いのたいせつさが叫ばれたこともたしかであった。『ペスト』のすじがきをなぞるような展開に、カミュの慧眼が偲ばれる。とまれ、そこでひとは口々に言った。お年寄りを助けよう、子どもを守ろう、医療従事者を讃えよう……。

 だからこそ、おおくの政治家はけっきょく、弱者を犠牲にして経済を廻しつづけましょうとは言えなかった。スウェーデンはともかく、トランプ米大統領やボルソナーロ伯大統領といった狂犬じみたキャラクターでさえ、肺炎を風邪などとまったく別の病名で矮小化したり、発生源は武漢の研究所だと論点をずらし、すべて中国が悪いと遠方の敵の名を挙げ、WHOが拙劣であると責任を転嫁せねば立ち行かなかった。半歩譲って、中共が卑劣でWHOが傀儡なのは明白ではあっても、選挙戦で失策を詰られるタイミングまで連中を非難せずにきたトランプとて共犯ではないか。どうあれ、わが政権はよくやっている──などというポピュリストに、大衆がまんまと引っかかる径は多分に残ってもいる。感染爆発だ、三密だ、アラートだと、よけいな恐怖を煽りつづければ支持率も上昇し、選挙も安泰となるはずだ。

 いっぽう、このあいだ集中治療室から生還した英首相、ボリス・ジョンソンは言った──社会はあったんだ、と。かつてマーガレット・サッチャーは「社会などというものは存在しない」と嘯いて社会保障費の削減を断行したものだ。ムラの論理には「機会の平等」などというものはないが、現代では英保守党でさえも「結果の平等」を慮った政策でないと実現しえない。スペインの左派政権にいたっては、最低所得保障制度の導入を閣議で決めたとも報道されている。AFPなどはこれを「ベーシックインカム」と見做しているが、異論もある。こうして未曾有のコロナ不況が数年つづいたのち、「近代世界システム」そのものであった資本主義は、ついに終焉に向かう……と説く者もある。とすれば人類のゆく先は、原始共産制あたりなのだろうか。そんなことが可能なのか。──トランプが共産党を痛罵しはじめた心理も見えてきた。

 おもえば、スロヴァーツコくんだりまで「王の道行き」を見物しにゆく都会の人間もまた、分断社会のあたらしい型の窮屈さに倦んでいる。そして自分がどこに属して、どのような諸文化をうちに有しているのか、自問する機会を得る。しばしのあいだはきらびやかな衣裳に驚嘆するが、それはまた共同体の成員に固有の徽章であって、村の女性陣によって十数時間にもおよぶこともあるというアイロン掛けの末に仕上げられたものである。要は、テレワークも男女雇用機会均等法も週休二日も無縁の世界の産物。実物の古民家を利用した民俗展示をめぐりながら、失われた生活様式をどこか遠い目で眺めるしかない。見学者にとってもまた、人生の節目になるかも知れない儀礼なのであった。

 

*公式動画(2019年の様子): 

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*上掲画像はWikimedia