令和元年11月10日、東京では、ひと月ほど延期されていた祝賀御列の儀が行われ、沿道にたくさんの人がつめかけたと報じられている。この光景は、1993年6月の御成婚のパレード以来であると伝えるメディアもあった。じつに四半世紀以上が経過している。
それに先だつ11月6日には、「チェコスロヴァキア最後の首相」、ヤン・ストラースキーの訃報があった。享年78。首相就任は1992年の7月のことで、同年末までの短期間の在任であったが、それというのも、翌1993年1月1日をもってチェコスロヴァキアが崩壊し、チェコ共和国とスロヴァキア共和国が成立したためである。
厳密には、その数年前に、チェコスロヴァキアなどというものはすでに消滅していた。すなわち、1990年からはČeská a Slovenská Federativní Republika("チェコ人とスロヴァキア人の連邦制の共和国")と称する「家庭内別居」のごとき国家が成立しており、「離婚」は時間の問題であった(いまにして思えば、だが)。
ストラースキーが連邦首相に任命されてから二週間のちには、スロヴァキア国民評議会によって同国の独立宣言が採択され、「ビロード革命」から盛り上がりつづけた、スロヴァキア人のナショナリズムは最高潮に達した。7月20日、ヴァーツラフ・ハヴェルが連邦大統領を辞任すると、もはや政治家の仕事は、連邦国家解体の方法に関しての協議のみとなった。
ブルノに在るトゥーゲントハット邸において協定調印に至ったのは、わずかひと月あまり後の8月26日。署名したのは、市民民主党のヴァーツラフ・クラウスと人民党=民主スロヴァキア運動のヴラヂーミル・メチアルであった。クラウスはのち、新生チェコ共和国において、ハヴェルの後任の大統領となった。メチアルもスロヴァキア共和国の首相を務めることになる。
結局のところ、そもそもの引き鉄となったのは、いわゆる「ベルリンの壁」の崩壊であった。1989年11月の9日から10日にかけて、それは起こった。──折しも今年は30周年にあたり、関連した行事や報道も盛んである。
当時のプラハが果たした役割について言及し、チェコ人に感謝を述べたたのは、かつてのドイツの連邦宰相、ゲアハルト・シュレーダーだった。チェコのメディアが伝えている。あの秋、在プラハの西ドイツ大使館には、西側への渡航を求める東ドイツ市民が殺到していたのだ。けっきょくは、この「ピクニック」熱のたかまりが、東欧革命の進行に拍車をかけた。
あの頃、日本の報道も東欧一色だった。昭和帝崩御と、つづく新帝の践祚やら即位式やら関連行事のニュースが、ちょうどひと段落した時分だったのだろう。日本じゅうが、ソ連の衛星国について理解を深めたものだった。
──ベルリンを初めて訪れたのは、壁の崩壊から10年近く経過した頃だ。観光客向けの土産物としてのベルリンの壁のかけらには、すでにノスタルジーの匂いが漂っていたが、それからさらに20年以上が経ってしまった今日、人びとはやや冷静に自身の記憶をたぐっているようだ。というのも、世代論を論じる者にとっては30年とは、一世代分の時間を意味するものだから、ひと山こえてしまった観もある。また占星術師ならば、30年というのは土星が太陽を一周する周期で、今ちょうど土星が山羊座に戻ってきている、などと説きはじめるだろう。30年前と似通った情勢なり、風潮なり、雰囲気なりが、現在の社会にあるのだ、と。──たしかに、その頃のドイツでは、壁の向こう側は、心情的には同胞であっても、イデオロギー的には敵であって、昨今の「分断社会」も連想させられる。境遇に共通点のある朝鮮半島にも、今年は注目が集まった。
すると、映画『グッバイ、レーニン!』も、すでに15年もまえの作品ということになる。「オスタルギー」、すなわち「社会主義時代回顧趣味」の芸術作品も、あまり話題にならなくなった。しかし、関係者が存命中には制作や発表ができなかったという事情もあるそうだから、チェコなどではむしろ、これからあらためて盛んになってゆくジャンルなのかもしれない。
*参考:
- 作者: 高橋徹
- 出版社/メーカー: 郁文堂
- 発売日: 2015/11/09
- メディア: 大型本