ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

アロイス・ラシーン(1)──『滅亡した帝国』

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 アロイス・ラシーンの名は、経済学に明るい向きなら、あるいはご記憶のことだろう。来たる10月18日は、生誕154周年という計算になる。

 ラシーンは、第一次大戦時のボヘミアにおいて、カレル・クラマーシュらとともに、反ハプスブルク「抵抗運動」を指導した人物でもある。君主政崩壊の瞬間に権力を掌握した五人組のひとりで、建国の日付けをもって「10月28日の男」と呼ばれる。また政治家としては、チェコスロヴァキア建国後、初代の財務大臣として独自通貨を発行し、この価値の維持につとめた。

 『滅亡した帝国』は、チェコスロヴァキア建国から100周年の節目に合わせて、2018年にチェコ共和国の公共放送(ČT)により制作・放映された、独立の立役者の伝記的物語である。原題は_Rašín_ラシーン)。

 先日のヒルスネル事件をあつかった『無実の男』同様、前後編の2部構成で、おざなりの日本語字幕はほぼでたらめである。その代わり、Amazonプライム会員でなくとも、各話50円で購入が可能。割り切ってご覧いただきたい……

アロイス・ラシーン

 プラハの中心部をながれるヴルタヴァ川の右岸には、岸壁にそって遊歩道がもうけられていて、いつも地元のひとでにぎわっている。

 イラーセク橋の袂まで来ると、「ダンシング・ハウス」と呼ばれる、フランク・ゲーリーが手がけた場違いな印象の現代建築がある。そのあたりから、南のヴィシェフラト方面へと伸びる大道が「ラシーン河岸通り」である。そう呼ばれるのは、ビロード革命後の1990年からではあるにせよ、かつて1924年から1941年まで用いられた名称の復刻であった。

 いっぽう共和国第二の人口を擁するブルノでは、市内でもっとも高い尖塔をもつ聖ヤコブ教会のまえの通りが「ラシーン通り」である。

 同市でも歴史的にふるい通りで、記録の残る18世紀以降「死者街(トーテンガッセ)」とか「教会街(キルヒェンガッセ)」とか「リヒテンシュタインガッセ」とか変遷し、アロイス・ラシーンの名が冠されたのは、当人が暗殺された1923年のことであった。こちらも保護領期から共産期にかけては改称されており、革命後の1991年にラシーンの名が復活した。

 もとより民族派ないし右派の政治家が、街路に名をのこすことなど、共産体制下ではありうべくもなかった。要は、共産党が試みたダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)の一例にすぎない。

 とはいえ、これら大都市を除外すれば、他にどれだけの町で紀念・顕彰されているのだろうか。想像するに、あまり多くない気がするのだ。たしかにラシーンは、現在のチェコでも学校で習うほどの歴史上の偉人で、それも後世にとどろく高い名声によってはいるものの、存命中の評価はさんざんで、すくなくとも晩年は国民に不人気の政治家だった。それも、その政策と頑迷ぶりのせいである。

 それにしては、権力の座についていたのは、ほんの短期間にすぎなかった。チェコスロヴァキア共和国の成立した直後に、初代の財務大臣を8か月だけつとめ、その3年半あまりのち、路上で撃たれたときは、シュヴェフラ内閣で2度目の財相に就任して数か月というところだった。

 当時、あらたな通貨の発行と安定が、急ごしらえの独立国家・チェコスロヴァキアにとって焦眉の課題であったことは間違いない。当初は、オーストリア=ハンガリーのクローネ紙幣に、一枚づつ印紙を貼りつけて、チェコスロヴァキア・コルナ紙幣とした。このさいに、回収した紙幣のうち、半分の額だけを市中に戻すというやり方をした。その後、この通貨の価値を安定させるためとして、確信的に緊縮とデフレ政策をとったのだ。その意図は、主として「国家の品格」のために通貨の価値を高値でたもつことにあったとはいえ、庶民や左派からは怨まれた。が、結果的には、のちに近隣諸国が苦しめられたインフレを回避することに貢献した、とも後代では評価されるところだ。

 この点、白川と黒田の日銀両総裁にかんして巻き起こっている批判をながめていれば気がつくが、時代や文脈や論者の立場によって政策の評価は変わってくる。ブレーキとアクセルに喩えればよいものか、時空を超越して絶対的に「白黒」つけるというのはあり得ない。くわえて昨今、前の菅ガースー政権の支持率下落にさいしても素朴な疑問をもっていた。そもそも「緊急事態」などという危急の際に、国民あらゆる層の切迫した要望を平等にみたすことのできる政治家など存在するのだろうかと。

 ……ちょうどこれと同じ論法で、ラシーンを擁護していたのが、近代史家のヤナ・チェフロヴァーだった──「国家公務員、知識人、自営業者、大ブルジョアジーの利益を同じ次元で守ることは非常に困難であったと言わざるを得ない」。

 そこまではよしとしても、ラシーンというのは、おそらく性格的に「ほどほどでやめる」ということができなかった。二期目の財相就任後にはまた緊縮財政を志向して、おもに社会保障を攻撃しはじめた。とりわけ1922年12月のとある会議において、シベリアなどから復員してきたチェコスロヴァキア軍団員を非難した。ボヘミアにとどまって「抵抗運動」をつづけ、投獄までされているラシーンとしては、元軍団員だけが特権を享受している状況が不当にみえたにちがいない。ひろく大衆に慕われるようになっていた元軍団員らを、恩給や種々の利権にむらがる「寄生虫」呼ばわりし、国民には「祖国への無償の奉仕」の必要をうったえたのだった。だが、これが新聞に曝露されるや、軍関係者や右派を中心に各層の猛烈な反発を招いた。ラシーンの直情径行がいまや、左から右まですべて国民を敵にまわしてしまった。

 ところが、ひとたびラシーンが銃撃に遭って病院に担ぎ込まれると、マサリク大統領をはじめ、政治指導層はこのテロ事件を最大限に利用せんとした。民族、宗教、歴史、文化、自然条件にいたるまで「一体性というものを欠いていた」チェコスロヴァキアなる人工的で脆弱な国が、精神的に瓦解してしまうのを阻止しようとしたにちがいない。

 ラシーンが発行人をつとめていた『民族新聞』の紙面をみると、まいにち各界のコメントが掲載され、そこにラシーンの体温や脈拍や血圧まで記載してある。かつて、昭和天皇崩御する直前の時期につたえられていた「ご容体」報道を髣髴とさせる。病室への「ラシーン詣で」も行われた。その病床でラシーンが絶命したのちには、盛大な国葬が執り行われ、またすでに述べたように大都市で目抜き通りの名称に祭り上げられたり、アルフォンス・ムハがデザインした20コルナ紙幣に肖像が採用されるなどして、悲劇の英雄として神格化されてゆく。

『滅亡した帝国』

 2018年制作の『滅亡した帝国』は、夫人がのこした手記を手がかりに、ラシーンの「脱神話化」に挑んだ作品といえる。作中に描写されるのは、仕事のことを四六時中めぐらせつつも家族と時間をすごすラシーンであり、獄中にあって歳上の友人を気づかうラシーンである。つまりは、家族愛と友情をテーマとする、べたなメロドラマである。まちがっても、歴史の謎を解き明かすがごときドキュメンタリー作品ではない。そのあたり誤解をまねきかねぬような邦題は、作品の趣旨からも相当ずれている。

 しかるに、メロドラマの長所とは、史料や資料からはかならずしも捉えきれないディテールを、情感ゆたかに再現してみせてくれるところだ。あるいはそれこそが、このジャンルの存在意義といえる。

 肖像写真をみれば、眼光するどく、そうとうの強面である。反ハプスブルク地下活動あがりの不撓不屈の闘士。なにより政策実現にかけては「狂信的(ファナティツキー)」と形容されるほどの頑迷固陋の徒で、マサリクやクラマーシュにかぎらず、とりわけ政見をめぐっては他人とは一切の妥協をゆるさざるがごとき印象をあたえる。そのいっぽう、あらゆる政治運動のオーガナイザーとして大いに評価されてもいるところに、矛盾とは言わぬまでも、二面性のある想像し難い人柄を感じさせるのが、このラシーンだった。──しょうじき、3年前にこのメロドラマを観るまでは、どうしてラシーンが一部で好かれている風なのか、まったく理解していなかった。

 演ずるオンドジェイ・ヴィェトヒーは、『コリャ──愛のプラハ』(1996年)以降、日本の映画ファンにも知られている。同作では、先日なくなった伝説的な女優、リブシェ・シャフラーンコヴァーとも共演していたものだった。さわやかな生真面目さを感じさせる演技ではあるけれど、史書や肖像にみるラシーンは、もっと陰険な感じだ。よくいえば、もっと凄みがある。後述するが、ラシーンに「ソフトな」イメージを過剰に欲したのは、ほかならぬ監督であったのかもしれない。

 第一次世界大戦中、地下活動に従事してもいたラシーンは公安に追われ、ついに投獄される。いちばんの見どころは、この監獄のシーンであろう。なかんづく、年齢にしろ七つも離れたカレル・クラマーシュとの、政治的信条のちがいをもこえた友情だ。

 上司と部下といってよいものか、険悪になりがちな職場関係にくわえて、育ちも国家観もまったく異なっている。クラマーシュがラシーンを党の副代表の地位にとりたてたり、首相のクラマーシュをラシーンが財相という立場で支えることになったとはいえ、書物から空想するかぎり両者は仲がわるいにちがいないと思い込んでいたけれども、映像には別種の説得力があった。汎スラヴ主義という、自身が生まれたときにはすでに破綻していた時代遅れの「誇大妄想」に拘泥するクラマーシュであったが、それを痛烈に指摘してなじりつつも、ラシーンは決してこの年長の盟友を見棄てることはなかったのだ。ヴィェトヒーの表現によって、そのことが暗示される。

 クラマーシュは、もともとブルジョワの坊々で、肖像から受ける印象のとおりの性格で描かれている気がする。つまり、ふだんは鷹揚で、ややもすると横柄なふるまいだが、極限状態には弱い。だから、ハプスブルクの官憲に逮捕されるや、すぐに神経を衰弱させてしまう。また、それを演ずるミロスラフ・ドヌチルの演技がすごい。とりわけ動揺したときの様子が、クラマーシュそのひとだ。もちろん、じっさいのクラマーシュは存じ上げないけれど、きっとあんな感じだったろうと思わせるのが役者というものだ。

 はんたいに、20代のときにもいちど政治犯として収監されてもいるラシーンは、逆境につよい。房のなかでも気丈にふるまい、なにかとクラマーシュの世話を焼く。そんなラシーンが用意してくれたひと皿にも、クラマーシュはけちをつけるのだ。当時の監獄では、まともな食事にありつけるだけでも幸運であったろうに。要は、そういうふうに人となりが描写されているわけだ。まるで囚人の日常のごとく、灰色の単調さと退屈さのなかにも、ささやかな感動がひかる作品になっている。

 これを演出したイジー・スヴォボダ監督の活動は、近年では公共放送向けの作品制作が多いらしい。ウェブでフィルモグラフィーをながめていたら、2005年公開の『ビロードの殺人者たち(Sametoví vrazi)』が、個人的には最後に劇場で観たスヴォボダ作品だとおもいあたった。かなり昔だ。これにしても、ビロード革命後に、資本主義的な欲望に呑まれて人を殺めるようになった、元警官の話だったと思う。やはり、共産主義者の恨み節のような映画だった。というのも、同監督は代議院議員も務めた共産党員で、1990年代には党を指導する地位にもあったのだ。

 じつは『滅亡した帝国』は、共産党員としての監督による、ラシーンへの「罪滅ぼし」を企図した作品だ──ということを主張していたひとがいた。たしかに作品は、いわば「すばらしき人格者」としてラシーンを描いているわけだが、さすがにどうなのだろうか。しかし、上記の映画『ビロード殺人』の記憶がよみがえってきたら、にわかに仮説に賛同したい気もしてきた。──つづく。

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岸田ショック下の繰り言。

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photo by Joshua Woroniecki

 岸田政権が成立した。とはいえ、月末に投開票日をさだめた選挙までの、さしあたってひと月ほどの暫定政権である。

 支持率は低い。日経平均もおおきく下げた。株価が下がるというのは、経済政策が市場に評価されていないということで、こうした政権はながくつづかないといわれるが、はたして来月以降はどうなるか。

 コロナ疫禍で困窮のあえぎがひろがり、いまや世界中で左派がつよくなっている。たとえば、米国ではバイデン・民主党政権が成立し、ドイツでも先日の選挙で社民(SPD)が第一党におどりでた。しかし日本には、まともな社会民主主義政党はなくなってしまっている。看板は残っているとはいえ、風前の灯火……。

 国民なんとか党などは、党名こそ右翼的ではあるが、元官僚だという代表はけっこうバランスよく、まともなことを言っていると、最近はSNS等で評価されることも多い。しかし如何せん支持がひろがらない。それをのぞけば、反戦仏教政党か、週刊誌拡販政党か、時代遅れの革命政党、あるいは「是々非々」といえば聞こえはいいが、もろもろの政策には無定見なだけの胡乱なシングルイシュー政党しか、選択肢がない。

 そこで、さしあたって「宏池会系」の出番というわけだ。「何々会系」というと、やばい特定団体みたいだが、宏池会とそこから枝分かれした亜流の諸派をさしている。

 岸田新総理は、派閥の創始者池田勇人にならって「所得倍増計画」を打ちだした。池田が当時の社会党の政策を封じたように、岸田もまた選挙での機先を制した。また、大平正芳内閣の「田園都市国家構想」に「デジタル」という枕を冠した「デジタル田園都市国家構想」も提唱している。これも宏池会にあって伝家の政策ということになる。

 くわえて「成長と分配」というスローガンもまた、いろいろに解釈されている。給付金ばらまきをいち早く宣言したのは、これも野党の批判に先んじた選挙対策だった。かえす刀で、これまでの新自由主義路線を撤回して「新しい資本主義」をめざすと大風呂敷をひろげた。とうぜんのように成長戦略会議は廃止されてしまった。成長戦略は誰がどこで練るのだろうか。さいきん流行りの経済学者たちの言にしたがって、はやばやと成長を放棄するのだろうか。「成長と分配」はどこへ。市場は心配したのだ。良いことは言っているんだけど……。

 もっとも株価のうごきに直に関連がありそうなのは、やはり富裕層増税の話だろう。宏池会は、大蔵官僚だった池田勇人の派閥で、いまでも財務省の人脈がつよいといわれる。それかあらぬか岸田総裁は、いち早く増税を宣言してしまった。選挙前なのに。なるほど「分配」と合わせて考えると、このコロナ対策「被災者」困窘の時世であるから、まっとうに聞こえることも確かだ。しかし冷静に考えれば、これもまた、共産党などの左派が言い出しそうな政策である。じっさい最近の諸外国の選挙を観察していてもそうである。

 この状況を要するに、有権者は前の選挙で、ブルジョワ政党・自由民主党に票を投じたつもりなのに、宏池会という「党内共産党」が勝手に社会主義をはじめてしまったかのようにも見える。投資家も逃げ出すはずだ。だから速やかに選挙を実施して信を問うって言ってるじゃないかと反論されるに決まっているが、それ以前に、こんなものがはたして代表制民主主義といえるのであろうか。──じつは、そういう恨み節をSNSに見かけた。選ぶプロセスに関わりたかった由と。

 むろん、自民党員になれば、総裁選挙に参加することもできた。ただし、党員費をはらう余裕と意思のある者のみである。つまりは大昔の財産資格による制限選挙の一種だ。そこで、リベラル宏池会系か、保守の清和会系か、もしくはほかの派閥か、無所属の候補かを選ぶのである。

 しかし本来的に、そういうのは別々の党にしていただきませんと。つまり、自由民主党が分裂して、二大政党になったらいいと思うんだけど。たとえば仮に、自由党日本民主党とか。なんだ、もとに戻っただけか。

 自由民主党はながく一強政党で、それというのも一億総中流の時代の「中流」階層の利益を代表する政党であったためだ。ところが、ながびくデフレ不況のなかで国内に格差がひろがり貧困化がすすむと「中流」意識をもった階層が減少した。もしくは、「中流意識階層」じたいが解体された──このように仮定すれば、あたらしい政党システムの必要性は、ますます高まっているはずである。

 だが、そうはなっていない。現状もまた民意の反映であるとするならば、投票行動においては「中流」意識はまだ、根づよく残っているということなのではないだろうか。逆説的ながら。

 

*参考:

www.nikkei.com

jp.reuters.com

president.jp

toyokeizai.net

*追記:

www3.nhk.or.jp

*追記2(若干の軌道修正):

www.bloomberg.co.jp

メタノール──モラヴィアの暗い影

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photo by Migawka

 2012年の「メタノール事件」とは、その名にあるメタノールが混入されたアルコール飲料によって引き起こされた惨劇であった。チェコスロヴァキア民主化されて以降、もっとも多くの被害者と被疑者を記録した、チェコ共和国史上最大の刑事事件となった。

 2012年9月から2014年2月末までのあいだに、計48人の死者を出した。確認されただけで79人が重度の中毒症状を呈したとされ、視力を失ったひともある。被害者の多くはモラヴィアやシレジアの住人であった。

 『メタノル(Metanol)』は、この事件をもとにしたフィクションである。2018年、公共放送(ČT)が制作したTV映画で、前後2部構成となっている。同年4月、関連する刑事裁判のすべての判決が確定したのち、22日と29日にわけて放映された。人口約1千万の国にあって、のべ250万以上の視聴者をかぞえた。

 いわゆる倒叙形式の犯罪物となってはいるものの、コロンボ警部のような天才的で傑出したヒーローは登場しない。そのぶん、犯人側の演者たちの実力にすべてがかかってくるが、とりわけルカーシュ・ヴァツリークの演技は卓越している。ヴァツリークといえば、1991年の『戦車大隊』ですでに主役を演じていたもので、チェコスロヴァキア映画ファンならば、ちょっと懐かしい名かもしれない。くわえて、いかにも映画らしい映像表現にも力点がおかれている。

 おおよそ「知らぬ者はない」事件をあつかい、基本的に当時をおぼえている国内の視聴者を想定してつくられている。それだから、おそらく一般的な外国人には理解しがたい点もあることだろう。しかし、けっして共感できない種類の作品ではない。むしろ、みぢかにある恐怖に戦慄させられ、悲しみや憤りをおぼえさせる佳作である。

物語と記憶

 ちょうど今ごろの季節だった。当時の雰囲気はよくおぼえている。事件のさなか、仕事があって泊まりがけでオストラヴァに出かけていた。翌年に予定されていた大統領選挙は、公選制が導入されて行われる初の選挙で、おおくの候補者が、立候補に必要な署名者をあつめるべく各地で遊説していた。夏休みがおわって、学校は新年度をむかえ、ビジネスの世界でも各種の行事がはじまっていた。初秋、いろいろのことが同時に進行していた。

 特別措置(mimořádné opatření)などということばは、このとき初めて聞いたし、コロナ騒ぎが降って湧くまでは二度と聞くこともなかった。具体的には、アルコールを20%以上ふくむ酒類の販売禁止などが講じられた。ハードリカーの瓶の口金には、証紙の貼付が義務づけられていて、まもなくそのデザインも変更された。ところが、事件を惹起した製品は、もとよりそのようなまともなやり方で流通している代物ではなかった。警察をはじめ、当局の対応にも批判が巻き起こったものだ。

 報道では当初、外国から移入された、課税を逃れた違法な商品が原因だという憶測があり、その手の組織犯罪ではないかという見立ても聞かれていた。それで個人としても、そういう事件なのだと漠然と想像していた。しかしそれは、自分もまた地域の社会的な事情にじゅうぶん通じていなかったからにすぎない。おなじ場所に居ても、目に映るものは人それぞれ異なっている。なにも見ていない者だってあるのだ。

 ところが賢いひとがいうには、人間は物語によって事物を理解する。したがって、報道で小出しにつたえられてきた事実の断片を、すべてつぎあわせて劇作品としてみせてもらえると、腑に落ちることも多々あるわけだ。風景描写にあるヒントを、図らずも視聴者の意識がピックアップするということも起こる。映像の力である。このあたりが、当事国で多くの視聴者を獲得し、高い評価を得た最大の所以であるのだろう。

 とりわけ作品の第1部にて描かれているのは、ごくふつうの人びとの日常である。そして、主たる現場となったモラヴィア北部や東部の風景だ。それは「チェコ」などという、大雑把でぞんざいな括りでは決して見えてこない、鄙びた地方のうらさびしい情景でもある。

ハヴィージョフ──地方と中央

 2012年9月3日、さいしょの犠牲者がでたのは、オストラヴァ近郊のハヴィージョフであった。

 この町は、第二次世界大戦がおわってから建設がはじまった。折しも、坂口安吾が「ちかごろの酒の話」などの文章で「メチル」の飲用について言及していたころだ。

 自治体としては1955年になって正式に成立したため、共和国で「もっとも若い町」ということになっている。だが、その時期に急激に勃興した炭鉱労働者の町という点からすると、脱炭素・カーボンニュートラルの時代をむかえ、想像するに今後の見通しも暗い。成立時に1万5千人だった人口は、1961年には5万を超え、68年には8万人に達した。それも1980年前後の約9万2千人をピークに減少に転じ、2012年の事件当時にはすでに、7万7千人ほどの斜陽の町になっていた。映像でも、老朽した集合住宅が呈するまだらな灰色に象徴されているようだ。

 首都プラハから放送される当時のニュース(ČT・2012年9月7日付)は、ひとごとのように、一方的で一面的な解説をしている──北モラヴィア地域は失業率もたかく、公的扶助にたよっている世帯が多い。こうした層にあって低廉なアルコール飲料は、日々を生き延びるためにもっとも入手しやすいドラッグとなっているのです……。

 これは、パリに亡命しながら深酒で健康を害して没した、ヨーゼフ・ロートのことばを思い出させる──酒は寿命をちぢめるかもしれぬが、眼前の希死念慮はとおざけてくれる。ユダヤ作家・ロートは、第三帝国の脅威が増すなかで創作を続けていた。いっぽうモラヴィアの住民のばあいは……ニュースを横目に見ながら、誰のせいなんだよと毒づきたくなった者もあったことだろう。

 作中の捜査員・ザコパルなどもはじめは、事件の社会的背景をまったく理解しようともしない。こんな怪しげな値段の酒に手を出すやつの気が知れない、と毒を吐いて、重要参考人たる被害者家族の神経を逆撫でしてしまう。しかし、捜査に携わるなかで現場の声を聴くうち、変化が生じてゆく。このあたりは、事実にもとづくのかどうかわからないが、おそらく人間的な成長を物語に織り込んだ脚本家のたくみな脚色ではないだろうか。

 あるいはプラハなどの都市部からすると、そもそも地域社会というものが存在していることじたいに、気がつかないものかもしれない。たとえば、前出の俳優、ルカーシュ・ヴァツリークは、インタヴューで語っている。

 ──プラハにいると、どこか別の場所で起きていることのようで、自分たちには関係ないことのように思えていましたね。でも、ズリーンで撮影をしているとき、商店や酒場のオーナーたち、あるいは通りすがりの人までも、出会ったほとんどすべての人が、事件と何らかの個人的なつながりをもっていることに気づいたんです。友人、知人、あるいは家族のいずれかでした。問題の製品を製造したり販売したりした加害者と面識のあるひともいました。それに撮影現場で起きたある出来事が、衝撃的でした。休憩中に男性がひとりやってきて、こう言うんです。「あんたがたのやってるのはちょっと違うよ。あのフェラーリがこの辺りを走りまわっていたのは確かだけど、正門から出てきたことはなくって、いつも裏口から出てきてたもんだよ」。それで「どうして知ってるの」と訊いたら「僕は以前、この工場で働いてたんだ」と言ってました。そのことで実感したんですが、コミューニティの全体が、文字どおり事件につながりをもっていたんです。

蒸留酒文化と異郷・モラヴィア

 モラヴィアは、バルカン伝来の蒸留酒の文化圏でもある。九州南部の焼酎文化を連想させる、地域の文化だ。名産の「スリヴォヴィツェ」については、自家製をたのしむ世帯もおおい。字幕では「梅酒」と訳されていたが、さいわい「家庭的」ないし「身近」というニュアンスは伝わる表現ではないだろうか。原料はシュヴェストキと呼ばれるセイヨウスモモの実であるが、焼酎と同様に多様な製品があり、つかわれる果実によって呼び名がかわる。

 くわえて、オーストリアに原産の合成ラムも「トゥゼマーク」などと呼ばれ、生活に根付いている。日本酒にたいする合成清酒の関係に似ている。また、いまの時期だと、夏のあいだウォトカや食用アルコールなどに未成熟の胡桃を漬けておいた、手製の「オジェホフカ」が飲み頃をむかえているかもしれない。作り方でいえば、こちらのほうが日本の梅酒にちかい。

 たしかに、チェコ共和国全体をとりあげても、アルコール飲料の消費大国とはいえる。すくなくとも2017年の報道記事では、国別のアルコールの消費量において、どの機関の統計をみても同国は世界の10位以内にはかならずランクインしている、と記者が豪語している。国全体で、1日に750万杯のハードリカーが、度数40%の製品に換算すると約37万5千リットルが消費されているとある。

 ところが注目されるのは、つづいて示されている弊害であり、その地域ごとの分布である。2015年現在で、人口1万人あたりのアルコール依存症患者数が「30」を超えている地区は、首都プラハをのぞけばボヘミアには存在せず、すべてが歴史的モラヴィア州(země)に位置する県(kraj)である。すなわち、オロモウツ県(43.5)を筆頭に、南モラヴィア県(39.1)、モラヴィア=シレジア県(34.0)、ズリーン県(30.5)となっている。

 記事のなかでペトルポポフなる医師も触れているが、20世紀初頭のオーストリア=ハンガリーでは早くも、アルコール依存症は深刻な社会問題となっており、1901年にはボヘミア領邦議会でもとりあげられてもいた。そこで「もっともアルコールを消費する」として、すでに槍玉にあがっていたのが、隣のモラヴィアの住人なのであった。社交的な生活スタイルと、安価な蒸留酒が普及していたことに原因がもとめられていたようだ。この時分にも、ボヘミアの人びと、なかんづく大都会プラハの人びとの目には、やや変わった文化を有する異郷と映っていたにちがいないのだ。

 映像では、犯行にかかわるウォッシャー液工場のオーナーが、まいどの気乗りしない用件が済むや、そそくさプラハへ帰ってゆく姿が印象的だ。搾取される地方を、これ以上ないほど端的に暗示している。

 

*主な舞台と位置関係(ウィーンは参考)

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*ハヴィージョフからの距離(概数)

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*参照:

jindrichohradecky.denik.cz

アウトポスト──米国流の荒事

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 財貨と航空戦力にものを言わせ、アメリカがいかにでたらめな戦争をやっていたか、よくわかる。

 ロッド・ルーリー監督の映画『アウトポスト』は、端的にいえば、そういう劇映画である。そのあたりは、ドキュメンタリーよりよっぽどわかりやすく焦点が整理、調整されている。早く観たいとは思っていたけれども、観るまえに、カーブル陥落が先に起こってしまった。あれだけの衝撃的ななものを見せられたのであるから、時機を逸したような気がした。が、やっと機会を得た。

 もちろん、主としてアメリカ合衆国の観客のために制作されているのだから、かの国の安全保障について、あるいは自由をまもるために犠牲になった兵士のことを思い出してほしいというメッセージが前面にでている。そのために、やや冗漫にも感じるところもある。ただ、エンドロールには実在の関係者のインタヴューがあるので、劇場で観る場合にも早まって退場すべきではない。

 米国市民でない観客としては、戦争映画というジャンルの娯楽作品として、チケットを買うなり、ポチるなりしているはずで、そちらの需要にも対応できるようなウェルメイドな仕上がりにもなっている。換言すれば、たんなるドンパチ映画としても出色の出来だと思う。アフガニスタンの戦場を扱った作品はすでに選択肢も多いが、まず『ローン・サバイバー』(ピーター・バーグ監督、2013)を連想して、比較してしまうのも致し方ない。

 

1)主人公・ロー

 「原作」は別にあるものの、「原案」となったクリント・ロメシャの手記も、2017年に邦訳が出ている(伏見威蕃訳『レッド・プラトーン──14時間の死闘』早川書房刊)。そこで件の『ローン・サバイバー』との差異が説明されている。「兵士たちは、少年聖歌隊員のように純真無垢ではなかった。かといって、ここ一〇年ほどのあいだに多く語られてきたような、強固な意志を持つ冷徹な目のスーパーヒーローのたぐいでもなかった。」つまり、自分たちは特殊部隊の精鋭ではなく、一般の部隊にいるごくふつうの兵隊だったのだと言いたいらしい。

 そうはいっても、主人公「ロメシャ」は、ちょっと特別だ。畜産を生業としながらも軍人を輩出してきた家系の出で、祖父はノルマンディーやバストーニュの森で、父はヴィエトナムで戦った。ロメシャ本人もけっきょく、モルモン教の神学徒をやめて、1999年9月に志願入隊した。

 スカウトとか騎兵斥候と書いてあるが、要は偵察にかんする技能を叩き込まれた──偵察、監視、航法から、もろもろの通信技術、それに衛生、車両整備、戦闘支援、爆破、あらゆる火器のあつかい……。こうしたことが、軍隊にはいるまえは勉学に苦労したというロメシャには「薄気味が悪いほど、まるで本能のように身についた」といっている。天職だったのだ。さらに本人は書いている。「斥候という仕事のあらゆる面が大好きだった──もっとも、いちばん得意だったのは、〝接敵時の対応〟だった。それには、撃ち合いがはじまったとたんに、戦闘計画をひねり出さなければならない」。役職としては「セクション・リーダー」というのだけれど、ちょうど陸上自衛隊の小隊陸曹のようなかたちで部下に目をくばり、ばあいによっては上官にも食ってかかるように意見を具申し、戦闘を指揮する。(ただし、「小隊軍曹」にはゲレロ一等軍曹のというのが別のセクションにいた)。愛称で「ロー」と呼ばれ、上官や部下からの信頼も厚かった。

 まず派遣されたイラクで、優秀な部下・スネルを亡くしたことをきっかけに、下士官としての職務やティーム・メイキングについて真摯に考えるようになったらしい。そして、その喪った部下の穴をうめるラーソンという無二の相棒に出会う。ラーソンは映画でも、山のように泰然とした冷静沈着な軍曹として描かれている。演じているヘンリー・ヒューズは、元空挺隊員だという。

2)地形と物語

 題名の「アウトポスト」は「前哨基地」と説明される。映画の舞台となった陣地の名称は「COPキーティング」。COP(コンバット・アウトポスト)というのは、陸自では「戦闘前哨」と直訳されているようだ。遠目には、ベニヤ板でできた掘っ建て小屋があつまっている「フットボール場」ほどのキャンプ場にしか見えない。

 立地が問題だった。アフガン東部、ヌーリスターン県でも東の端、カームデーシュ郡。周囲にきりたった急峻な山肌から見下ろされる谷底で、「金魚鉢か、ペイパー・カップの底」と形容された。つまり、これ以上ない不利な地形で、よくこんなところに拠点を置いたなと、われわれ素人でも呆れるほどだ。2006年に設置されて以来、着任した兵士らとて口ぐちに「基地として最悪の場所」と断言していた。岩山の斜面には陣地となりうる地点が多く、逆に標的となるすべての設備や装備がそこから一望できた。そんなアウトポストへ通ずる悪路は、とりわけ雨天時には危険なうえ、待ち伏せ攻撃の脅威もあり、やがてすべての物資や人員の補給・補充を夜間のヘリ輸送にたよるようになった。

 はじめ上層部は「開発プロジェクト」という名の「バラマキ」をとおして、地域住民の人心をつかむことができると考えていたようだ。しかしながら、いくらCOPの司令官が札束とひきかえに協力をもとめても、住人たちは、ターリバーンや地元の抵抗勢力の戦闘員らが集落を通り抜けるのすら止めようともしなかった。やがて、このCOPキーティングは廃止されることが決まったのも、経緯からすれば至当であった。2009年の7月と当初は予定されていた。が、オバーマ米大統領カルザイ・アフガン大統領との信頼関係にかかわる問題から、その撤収計画は延期されてしまった。それでも、10月中旬という撤収の期日が決まってはいた。

 そうしたなか、ロメシャらは10月3日の「カームデーシュの戦い」をむかえることとなった。米側の戦力は、ラトヴィア軍所属の軍事顧問らをあわせて48名と、アフガン国民軍(ANA)の24名。ところが、報道によってご案内のとおり、戦闘がはじまるやANAの連中はほとんどが逃げ出してしまって、役に立たない。そこへ、300人にのぼるというターリバーンが攻略を期して殺到した……。

3)その他の見どころ

 映画『アウトポスト』では、前半で部隊の文化や成員どうしの親密さ、各員のジョークのセンスを描き、後半から戦闘一色のシーンへ至る。そこでは敵に包囲されつつも死闘を繰り広げ、騎兵隊の援けを待つ──。要するに、いつものアメリカ人にとっての「歌舞伎」だ。そのかわり、われら日本人の観客はこうした古典的な様式美を愉しむことにも長けている。つきつめれば「細部にこそ神は宿る」であるが、その点、本作も映像のほうは「ライアン以後」のリアリズム様式で作り込まれているようにみえる。

 歌舞伎といえば、舞台衣裳や役者の芝居も鑑賞に欠かせないポイントとなる。当時の戦闘服はACU型の被服で、マルチカム迷彩に替わるまえの、不評だったというユニヴァーサル迷彩パターンである。そして士官の一部にいわゆるコンバット・シャツを着用している者もある。こういうところで時代が把握できる向きも、想定される客層のなかには多いはずだ。この手の作品では、あざといくらいに過渡期の装備をプロップにつかうことがあるけれど、それもディーテイル描写の工夫なのだろう。

 本作中、その戦闘服の左上腕には皆、四つ葉が図案化されたワッペンをつけていて、第4師団の隷下部隊だとわかる。米陸軍はおもしろくて、右の上腕部に以前所属したことがある部隊の徽章を各自つけたりするらしいのだが、ロメシャのばあいは第2師団のものとおぼしきマークが確認できる。実在の人物であるため、いまどきググればすぐに、それが実際の軍歴を反映しているかどうか確認できてしまう。だから、そういう細部までもお座なりにしていない。

 ちなみに所属は、第4歩兵師団第4旅団戦闘団第61騎兵連隊第3偵察大隊の黒騎士中隊(ブラヴォー中隊)だそうで、同中隊は、レッド、ホワイト、ブルーの3個小隊を擁し、定員65名。ロメシャはレッド小隊のAセクションにいて、小隊長のバンダーマン中尉を支えた。

 このロメシャを演じたのが、スコット・イーストウッド。この人はしばしば、肺からの呼気をあたかも声帯にぶつけずに代わりに軟口蓋をつかうかのような発声をすることがあって、そんなとき、実父が演じたダーティ・ハリーそっくりの声にきこえるのだ。なかんづく長ぜりふを言うときに顕著にあらわれるが、おもわず「ゴウ・アヘェ、メイク・マイ・デイ……」と呟かずにはおれなかった。父、クリント・イーストウッドはことし、御年91歳だそうだ。くわえて、メル・ギブソンの子息、マイロウ・ギブソンも、イェスカス大尉役で出演している。──さしづめ、メリケン歌舞伎の襲名披露公演だ。

 また、キーティング大尉役のオーランド・ブルームは、かつて『ブラックホーク・ダウン』(リドリー・スコット監督、2001)で、作戦が開始された直後にヘリから落下して負傷するブラックバーン上等兵を演じていた。それが20年を経て大尉として帰ってきた、というふうにも映った。だが今回も……。

www.youtube.com

*参照:

klockworx-v.com

mohmuseum.org

www.sofmag.com

 

*上掲画像はWikimedia

 

敵のイコンと「オクタヴィア側」の人間

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photo by Arno Senoner

 ふた昔まえに住んでいたアパートの階上には、白髪の婦人がひとり暮らしていた。

 さいしょに顔を合わせたとき、「シュプレッヒェン・ズィー・ドイチュ?(ドイツ語わかりますか)」と訊いてくるので、「ヤー、アイン・ビスヒェン(ええ、すこしだけ)」と応じた。外国語といえばドイツ語、という世代なのだと察した。自己紹介のような会話をチェコ語でして別れたはずだった。

 目がよくないのにくわえて、すでに認知機能も衰えていたものか。それからというもの、街路で出会したときには「シュプレヒェン・ズィー・ドイチュ?」と話しかけてくるのが常だった。なんど会っても「初めまして」と言われているようで、可笑しかった。そして、立ち話をドイツ語とチェコ語で二言三言やって、別れ際には丁重にあいさつするのだ。「あたしはもうすぐ死ぬから」というのである。こちらは「まだ200年は大丈夫ですよ」となだめるのであるが。

 あるとき、玄関口にやってきて、置き時計の電池を換えたいのだが手伝ってくれないかという。おやすい御用とばかり、階上を訪問したわけだ。何でもないことを済ませると、紅茶を淹れてくれた。話し相手も必要だったにちがいなかった。そして老婦人はやはり保護領時代に教育を受けており、しかもどこかの大学で経済学を講じていたインテリだとわかった。

 そのアパートというのは、1930年代、すなわちアードルフ・ヒトラーが権力を掌握したころに建設されたらしかった。つまり、このとき築70年くらいの老朽した機能主義建築の住宅だったが、二度の世界大戦とも戦場となることを免れた国には、もっと古い建物などいくらでもあった。1939年にドイツ第三帝国が進駐してくると、市の中心部にあった豪奢なドイツ人会館は、まず保安部門が接収した。そこからほど近い当該アパートにも、SSの連中が住まって、まいあさ通勤していたらしかった。

 だから、不思議なことはなにもない。台所の壁の穴からヒトラー肖像画を発見したことがあるのだと、老女はおしえてくれた。

 おもわず「やりましたね。その絵はどうしたんですか」と反応してしまったのは、さぞ高く売れるものであろうと思ったからだ。が、「すぐに焼いてやったわ」としたり顔でいうので、自らのあさましさに恥いるしかなかった。つまり、現代の日本なら、ともすると「なんでも鑑定団」案件にすぎないが、同時代を生きたひとにとっては偶像とはいえ諸悪の根源の似姿に相違なく、したがって憎しみの対象なのだった。

 いま考えてみても、やはりもったいない。歴史的な遺物である。手もとに置いて、出どころ等々をあれこれ調べてみたい。あるいは博物館なり研究機関なりに寄贈するという手もあった。しかしあの時点では尋ねなかったし気がつかなかったが、所詮は無数に印刷された官品の類にすぎなかった可能性もある。それでもオークションに出していたら、ことによってはシュコダ・オクタヴィアの新車くらい買えたかもしれない。トヨタならカローラだ。それがナツィスの統治にたいする損害賠償の一部だとおもえば、すこしは溜飲も下がったはずだ。そこまでうまくいく売買もそうそうないだろうが、すくなくとも価値のわかる人の手に渡ったらば、金子の多寡はどうあれ、オクタヴィア以上の満足があったに違いない。

 ところが、そこまで想定してみたとしても、いざ自分が、見るに耐えぬほど記憶を掻き乱されるものを手にしたらば、なにもかんがえず焼却しまうことだろう。事後に「カッとなってやってしまった」と供述する殺人者にも似た、衝動的な行為である。

 そこまでは想像できるんだけど。しかし、想像することしかできない。

 老女とはそれだけの付き合いで、その後もなんどか話をする機会があったとはいえ、具体的な怨嗟にかかわることは聴かなかった。訊けはしなかった。だからここで自分は、どこまでいっても「オクタヴィア側」の人間にとどまっている。共感能力に足りぬところがあるとすれば、それはヒトの限界なのか、はたまた個人的な劣った資質のためなのか、それはわからない。ひょっとすると、ある種の発達障害か、反社会的なタイプの人格障害なのか、つまりなんらかの精神病質なのか、その可能性もないわけではない。いや、たんに情報の不足と思いたい。

 けれども、昨今のポリコレの文脈では、「オクタヴィア側」にいながら「焼け、焼いちまえ」と煽る人が多いような気がしてならない。「不謹慎厨」とか「自粛警察」のような連中もふくめて、とくに直接の迫害を受けたというわけでもなく、何らかの背後関係がある政治活動というわけでもなく。むしろ、なにか極端な宗派の個人的な信仰の実践のように、似非なる神秘主義の修行のように。それを十把一絡げに、偽善だとまで言うつもりはない。ただ、自身が道徳的にすぐれた人間であるという自己認識を、言動でみずから確認するために、あるいは他者に誇示するために、ひとは十全に共感してもいないことを声高に主張してしまう場合があるのだ。そのうちにきっと、そうしている自分に陶酔してしまう。煽動ハイとでも言いうる恍惚は、まるで密教における悟りの境地だ。

 

フサークの子ら

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photo by Marko Grothe

 その頃、おなじみの理容師は、タトゥーをいっぱい入れた兄ちゃんで、まいど上手にやってくれるから満足していた。いや、かなり腕がよい。髪の将来的な絶滅が危惧される情況にあっては、奇跡的といっていい仕上がりだった。──チェコ共和国にある床屋のはなしである。

 ある夏の日、カットしてもらいにゆくと、いつものように駄弁ってくれて、気がつくと「中国の脅威」みたいな話題になっている。アフリカやなんかで公共工事を請け負って吹っかけた挙句、支払いがとどこおるや港湾や鉱山の権利をもってゆく……マジやべぇ国なんだぜ。

 この兄ちゃんもニュースくらい見てるんだな、とおもいながら、ふうん、そうなんだね、すげえね、やべえねと、しばし素っとぼけて応じていたが、でもさ、この国だってゼマン大統領ときたら──と親中派の共和国大統領を、会話の俎上で生贄にしてみたところが、堰を切ったかのように、先方のくちから大統領や政権への不平が出るわでるわ……。

 そこで、まあまあ、ちかく選挙もあるからさ、となだめようとしたのだ。海賊党なんか強いらしいし、連中はむしろ親台湾って話じゃないか、政治も変わるよ、大丈夫さ……云々。でもなあ、海賊党もな……。おや、海賊はだめかい、なにが不満なんだい。富裕層に増税するってんだよ、たとえば住宅を買ったりするとな……。まあ、あれは左派の政党だからな……。

 

 そんな「床屋談義」を思い出した、選挙の秋である。

 本朝では自民党総裁選挙も告示され、つづいて国政選挙だ。すでに菅ガースー総理は任期満了で勇退が決まっている。ドイツ連邦議会の選挙も9月最後の日曜日。はや1週間を切っている。こちらもメルケル宰相の退陣は既定事項だ。今春の時点で支持率が急上昇して話題になった緑の党はのち失速し、いまや一番人気は社会民主党SPD)に取って代わられている。

 それがすんだら、もう10月。件のチェコ共和国でも、いよいよ選挙がやってくる。

 そんな折り、ウェブに面白い記事をみつけた。社会学者らによる、チェコ共和国における政党支持の社会学である。タトゥーの理容師、ホンザ(仮)のことを思い出しながら読んだ。

 前提として、識者はこう論じてきた──250万人の年金生活者が政権与党・ANOを勝利させるのか、はたまた、35歳以下の若者層が、海賊党を中心とする政党連合を第1党におしあげるのか。

 これまでは、その中間に300万人もいる「中年」層を重視する者はすくなかった。というのも、一般的にこの年齢層はもっとも多様な関心事をいだいており、一様の利害というものが存在しない。したがって、政治的志向も多様で、ひとつの政党に支持が集中することもない。

 しかし当該記事では、あえてこの年齢層を「世代」ととらえて、目をむける。

 すなわち「フサークの子ども」世代とは、具体的には1965年から1985年に生まれた有権者層で、厳密なものではないにせよ、往年の指導者たるグスターウ・フサークの名をとって呼ばれる。

 「プラハの春」の解放感は、1968年の「夏」を経て、社会主義「正常化」時代の陰鬱な冬にかわっていった。その頃うまれ育った子供たちが、いま中年になっている。そして、300万人という大所帯で、「もっとも強い」有権者の集団として浮かび上がってきたというのだ。

 社会学者らは、「フサークの子」世代のうちにある利害意識の差異は、社会主義の正常化の「遺産」であると説く。1989年の民主化より前の生き方が、資本主義へ移行した後の人生を形成したからだ、と。

 社会学者のヤン・ヘルツマンの言が援用され、記事はつづく。ビロード革命後に成功した有権者グループは、もとより高位の階層に属しており、そのため最高の「コネ」を有し、社会ではどのように物事が機能するか、知悉していた。つまり、共産体制における特権階級の子弟である。

 さらに第二のグループとして、この正常化時代のエリートの子息たちについで有利な機会にめぐまれていたのが、じつは反体制派の家庭の子供たちであった。この人びとは「あらたな体制の世では、自分たちにもより良き暮らしが待っているはずだ」という信念をもって成長した結果、資本主義社会への変化にそなえることができた、というのだ。

 多少なりとも成功したグループは、市民民主党(ODS)やそれを代替する政党から、市長と無所属議員の会(STAN)までの右派の支持層を慣例的に構成してきた。ただし、前出の「正常化エリート」層の環境でそだった子供の一部にとって、同様の環境でそだってきたアンドレイ・バビシュ首相とANO党の政策提案がよいものに思えることは当然あり得る。

 1989年の革命以降、変革を期待していた人びとのうちには、資本主義の条件のなかで挫折し、ふかい失望を味わったひともいた。この疎外されたグループから、トミオ・オカムラの極右排外ポピュリスト政党にとっての、熱烈かつ強固な支持基盤が生じた。いっぽう、あまり成功はせずとも、あたらしいチャンスの到来をまだ信じる層は、海賊党に望みをたくすこともあり得る。

 さらにヘルツマンは、民主化後もある層が生きつづけ、その態度が子へ受け継がれたと指摘する。すなわち「11月の革命以前までも、なにひとつ努力せず、刹那的にくらし、国家がなにかしてくれるのを待つだけだった人びとだ」と喝破した。

 これが、同じく社会学者のダニエル・プロコプが名づけるところの「絶滅危惧階層」あるいは「欠乏階層」であり、資本主義への転換とともに可視化されてみると、人口のかなりの部分を占めていることがわかった。ANO党に支持者をかなり奪われているにも拘わらず、左派の社会民主党(ČSSD)やボヘミアモラヴィア共産党(KSČM)が生き延びているのは、ひとえにこのヴォリューム層の存在によっている。35歳から55歳までの300万人と、その影響下にある65歳までの100万人の票田がものを言っている、という。

 端的にまとめると、近年、若年層は中道諸政党、高齢者はANO党を推しているなかで、今回の選挙でキャスティング・ヴォートを握っているのが、中年層、すなわち「フサークの子」世代というわけだ。しかし選挙の結果にかんしては、社会学者らは予断を避けた。

 とまれ「フサークの子」論を持ち出したはよいが、これだけでは「世代論」とはとてもいえない。それで、むしろ「年代論」というか、安直に「中年の危機」みたいな話でお茶を濁しているわけだ。つまり、うまくいっている奴は保守政党を支持、しくじった連中はルサンチマンを爆発させて、極右のトミオ・オカムラ一択、みたいな。面白かったけれど。

 

 ──さて、休暇旅行の慣らいから、夏がくると「ことしはどこか行くの」と訊くのが、時候の挨拶となる。

 あの日、ホンザは「今年は行けねえんだ。家を建てたからな」とのたまった。この残念そうなせりふを口にするひとは皆、あまり残念そうに見えない。どこか得意げな顔をする。人生のステージを一段あがっちまったよ、というニュアンスで。

 若いわかいと思っていたけれど、ホンザもそんな歳だったのだ。そりゃそうだ。いずれにせよ、ひとは家を買ったら、もはや「若者」ではない。年齢がどうであれ。世代がどうであれ。そして、たいがい保守化する。しぜん、海賊党なんかには共感できなくなる。

 なるほど。この兄ちゃんがまさに「フサークの子」だったとは。

 

ヒルスネル事件(2)──衆愚の世界

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1)反ユダヤ政治の季節

 (承前)ポルナーは、がんらいボヘミア王国の町で、モラヴィアとの辺境に位置している。現行の、チェコ共和国の行政区画ではヴィソチナ県に属す。事件当時もいまと大差ない人口およそ5千人を擁したポルナーには、記録上、ドイツ語話者がひとりも住んでいなかった。ユダヤ人はといえば、1837年の国勢調査によると、515人が居住していた。

 1890年代、十指に余る数の民族をかかえたオーストリア=ハンガリー帝国の大地は、反政府的な民族運動や民族間の対立でゆれていた。なかんづく激しさをきわめたのが、ボヘミアであった。

 とりわけ1897年の「バデーニの新言語令」をめぐる混乱では、デモや衝突が頻発した。たとえば同年12月にプラハを席巻した民族暴動は、はじめドイツ人を標的としながらも、やがてユダヤ人商店の打ちこわしへとエスカレートした。

 あのフランツ・カフカの実家も、暴徒によって掠奪されかけた。父の営む雑貨店である。首謀者か誰かが「おい、カフカは同胞だぞ」というような号令をかけたことで、からくも襲撃を免れたと伝記に書いてある。じっさい、カフカは家のなかではチェコ語で暮らしていた。

 父・ヘルマンも義務教育だけは受けていたが、学校はもとより、第二言語のドイツ語にもさほど愛着がなかったようだ。じっさいには多くの家庭が子弟を通わせたユダヤ人学校では、教授言語はドイツ語と定められていた。いっぽう、カフカ少年らの世話をしていたユダヤ系の家政婦は、チェコ語初等教育を受けたらしく、まったくドイツ語を解さなかった。カフカやその妹たちとはチェコ語で会話していた。

 それでも、チェコ語ができたからといって、そのユダヤ人が同族として社会に迎えられたわけではなかった。前述の暴徒は例外であった可能性もないではないが、おそらくヘルマン・カフカユダヤ教徒であるとは知る由もなかったのだ。ユダヤ人は、社会主義を奉じており、民族の結束を乱すのだという一種の陰謀論が流布してもいた。さりとて、ドイツ語をはなすドイツ人にしても、ユダヤ教徒に一律に同胞意識をいだいたというわけでもなかった。

 帝国の外でも、反ユダヤ的な風潮はたかまっていた。おおく、70年代からの構造的な不況に遠因がもとめられている。象徴的な事件は、なんといっても仏ドレフュス大尉の冤罪にかかわる騒動で、国際的に知られていた。さいわいドレフュスの場合は、のちに軍務に復帰できた。しかし、ロシアでの「ポグロム」にいたっては、さらに暗澹たる記述が史書のページにひろがっている。


2)儀式殺人の迷信

 じつに紀元前のむかしから「儀式殺人」をそしる風はあったものの、それはかならずしもユダヤ教徒に向けられたものではなかった。ヘレニズム時代にユダヤ人への中傷にもちだされたこともあったとはいえ、おおよそローマ帝国キリスト教の興隆をへて、また両者が利益を共有するようになるなかで「迫害」に応用されるようになっていったとおぼしい。

 のち、人血をもちいた儀式の咎によりユダヤを一括りに批難することについては、神学的に正しくないという見解がさまざまな碩学らによって提唱され、13世紀には教皇インノケンティウス4世によって公式に否定されるにいたった。にも拘わらず、この勅令は遵守徹底されたためしがなかった。主として教育程度のひくい層に顧みられることがなかったのだ──とは『ボヘミアモラヴィアにおけるユダヤの歴史』の著者、トマーシュ・ピェクニーが説明するところである(Tomáš Pěkný, _Historie Židů v Čechách a na Moravě_, Praha, 1993)。

 ユダヤの「儀式殺人」の迷信にかかわる最初の告発は、記録されるかぎり1144年にイングランドのノリッチにはじまったというのであるが、これが19世紀末にドーナウ帝国で相ついだというのは、前述の民族対立のほか、反ユダヤ主義の政治利用も多分にからんでいる。ポルナーの事件に地理的・時間的にちかいところでは、1893年のコリーンにおいて、少女の失踪事件がおこった際のプロパガンダが知られている。儀式殺人を企図したユダヤのしわざであるという風説が、いわゆる青年チェコ党によって意図的に流された。市政において多数派を擁した老チェコ党にたいする情報戦であったという。

 事実無根のたんなる迷信を、知識人や政治家たちがしたり顔で吹聴しているのだから、蒙の闇は深かった。たとえばプラハ神学者、アウグスト・ローリング教授などは、反ユダヤ主義において往年の第一人者の観がある。「儀式殺人」について論じた著書は帝国じゅうで読まれていたというし、ポルナー以前にも、1880年代のティスエスラールでおこった同様の反ユ裁判でも、おおきな影響力をもった。また、ポルナー事件裁判で被害者側の原告として検事役を買って出たカレル・バクサも、代表的な反ユダヤ政治家のひとりで、のちにプラハ市長の座に収まって、さらには憲法裁判所のトップにまでのぼりつめることになる。──ウィーンのゲオルク・フォン・シェーネラーや、カール・ルエーガーらを連想する向きも多いはずだ。


3)アウジェドニーチェクのその後

 案の定というべきか、ヒルスネルの弁護を担当したズデンコ・アウジェドニーチェクも、その後は災難にみまわれた。「民族の敵」とされていたユダヤ人に寄り添ったとして、地元のクライアントをうしない、地域住民からはいやがらせをうけた。けっきょく妻子に脅威がおよぶと、これに堪えかね、マサリクの助言にしたがって帝都ウィーンに移住した。父親から引き継いだ法律事務所をあきらめ、再出発せざるをえなくなったのだ。

 チェコスロヴァキア成立後には、大統領となったマサリクから最高裁判事への就任を打診されるも、かたくなに固辞した。ボヘミアの人間にたいする不信が、終生きえなかったのだろう。無理もない。

 1928年には、義理がたくヒルスネルの葬儀に参列した。このポルナーの青年との出会いは、人生を変えてしまったが、おそらく怨恨をいだいたことはなかった。むろん、プロフェッショナルとしての信条もあったにちがいない。しかしなにより大きいのは、映像にも描かれていたが、妻がユダヤ人であったことから、予てより周囲の言動の理不尽さに耐えてきており、それゆえ信念をもって弁護にあたったということにつきる。そこに悔恨の情は生じ得なかった。ウィーンにおいても、たぶん同様の姿勢で活動をつづけ、1932年に没した。

 妻のアナが、ようやく生まれ故郷のプラハにもどったのは1938年で、ひょっとすると前出のカレル・バクサの死が契機になったのかもしれない。しかしこの年は、チェコスロヴァキアが解体されて第三帝国保護領が成立する前夜でもあった。はたして1941年には、テレーズィエンシュタット(テレズィーン)の強制収容所に送られてしまった。さいわい、これは生き延びた。


4)『無実の男』と現在

 いまでも、ヒルスネルの有罪判決はあれでよかったのだという意見を、ウェブで発信しているひとは散見される。理由はさまざまだろうが、直接の反ユダヤ思想にとどまらない。あの有罪判決で、ユダヤロビイスト団が瓦解したがために、チェコスロヴァキアが独立できたのだ──と、誇大妄想的な歴史観をコメント欄に開陳する者もあった。「愛国無罪」を思わせる反ユ主義の肯定というところか。

 2016年、『無実の男』が放映されたあとに、弁護士にして教育者でもあるアレシュ・ロゼフナルが公表したウェブの記事もまた、波紋を呼んだことであろう。その趣旨は、審理や判決を是認する内容であった。

 「レオポルトヒルスネルをめぐる訴訟にかんする神話と真実」と題された文章は、一見するところ、純粋にテクニカルな問題としてヒルスネル事件を扱っている。法曹の現場を知る立場からいって、情況証拠だけで有罪判決が下されることは現在でもよくあることなのだ、という主張である。しかしそれでは、さまざまな問題が綯い交ぜになった歴史的事件を矮小化することになる。つまるところ、ロゼフナルの批評はピントがずれている。おそらく意図的にずらしている。

 単に「仕事のできるソシオパス」というタイプなのかもしれないし、それはそれで、法律相談料名目の手数料を延々とりつづけながらも問題はいっこうに解決されない弁護士よりはましである。だが、テクストのはしばしに見え隠れするのは、会ったこともないレオポルトヒルスネルの為人にたいする偏見であって、共感能力に欠けた、意識の低い法律家であるとの印象はぬぐえない。これが、法学部で教鞭を執り、独立系メディアの役員兼執筆者として反バビシュ首相の健筆をふるっているというのだから、よくわからない。すくなくとも、前述のルボミール・ミュレルのような弁護士とはまったく異なった世界観をお持ちなのだろう。サミズダトの精神を受け継ぐジャーナリスト、アダム・ドゥルダによる反論が、おなじ媒体に掲載されたことが唯一の希望の光ではあった。

 といっても、こうした司法の問題は、特定の国の特殊な事例にとどまらない。卑近な例として、袴田事件はいうに及ばず、たとえば和歌山カレー事件の展開からも、ヒルスネルに向けられたのと同様のバイアスが感ぜられるのである。いぜん砒素による事件をおこしたことがある人物であるから、今回もきっとこいつが下手人だ、というような先入観が、かねてより大衆メディアに満ち満ちていたものだった。これが裁判官をして、化学的な物証を黙殺せしめた……これはむろん、憶測と噂の域を出ないが。

 『無実の男』が放映され、ロゼフナルの論評が公表された当時はまだ、シリア内戦に端を発する移民・難民問題で全欧州がゆれていた。社会を覆う不安は、あるていどは致し方ないものではあった。が、そのとき標的になったのは、ユダヤではなく、ムスリムだった。単純に反ユダヤになぞらえることはできないにせよ、ČTもそうした往時の風潮に危機をおぼえて、番組を企画・制作したのかもしれない。

 ところが、難民危機がひとまず去った今でも、反ムスリムをうったえて議席をふやした政党が幅を利かせている。チェコ共和国の現政権与党・ANOもそのひとつだ。難民といっても、より豊かな国を目指して移動しており、チェコになど定住を希望した者はほぼいなかったというのに、民衆のうちの「憎悪」だけを選挙に利用したわけだ。ミロシュ・ポヤルなどは、マサリクの指導力が深刻な反ユダヤ主義から民族を救済したというようなことを書いているけれども、その実、大衆の傾向は今もあまり変わっていないようにも思えるのである。

 たしかに、ポリティカル・コレクトネスにかかわる「きれいごと」全般にうんざりさせられる時代ではある。この「政治的な正しさ」をもとめる空気にたいして、ヒルスネル訴訟は「司法的に正しい」と反駁してみせたのが、件のロゼフナルだったのだろう。ただ、思い込みが蔓延する世論に誘導された、不正な刑事裁判や冤罪、はたまた誹謗や私刑というのは、まったく次元が異なる話だ。

 昨今の報道によれば、武漢の流行り病をひろめたとして、日本人が暴行をうけたりもするご時世である。チェコの食料品店に勤務していたエジプトの青年は、その風貌からしょっちゅう「テロリスト!」と罵られることを、よく嘆いていたものだった。たほう日本国内であっても、子どもに道をたずねるだけで「不審者」呼ばわりされかねない。それ以上に根拠のない偏執狂的な誤った風聞は世に溢れているし、それを「常識」だとおもって疑いもしない人間であふれてもいる。だって知り合いに聞いたもん。週刊誌に書いてあったもん。SNSで見たもん。有名人がツイートしてたもん。ユーチューバーが言ってたもん………。「みんな」が言っているから、奴は変質者だし、ストーカーだし、ユダヤ人だし、殺人犯なのだと、一流企業にお勤めするような自称「常識人」ですら、よく知らない他人にレッテルを貼って平気な顔でいる。なかにはハーメルンの鼠を煽動するかのごとく、悪意の笛を吹く輩もある。陪審にまったく影響をあたえないと考えるほうが無理というものであろう。

 それだから、だれしも集団ヒステリーの犠牲にはなりうる。ちょうど、ヒルスネルのように。そしてそれは今日かもしれないし、明日かもしれないのだ。

ヒルスネル事件(1)──衆愚の法廷

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 9月12日、悪名高いヒルスネル事件の公判がはじまった。ただし、1899年の9月12日であるから、122年前のことである。

 2016年には、この事件をチェコ共和国の公共放送(ČT)がドラマ作品として映像化した。Amazonで視聴できる。前後半の2部構成で、各話50円となっていた→『無実の男』。

 いちおう日本語の字幕が付されているものの、英語からの重訳、それも機械翻訳とおぼしい。でたらめの箇所もおおい。そのかわり、50円。割り切っていただきたい。じつはPrime Videoで視聴できる作品がほかにもあるので、今後も奇怪な字幕つきの〈ČTシリーズ〉を紹介してゆく。

 1899年4月1日。ボヘミアの町・ポルナーのはずれの森で、少女の死体が発見された。近郊の村、マラー・ヴィェジュニツェ(現ヴィェジュニチュカ)に住む19歳のお針子、アネシュカ・フルーゾヴァーであった。まもなく、レオポルトヒルスネルなる青年が、ユダヤの「儀式殺人」のために殺害したとして告発され、逮捕された。そこには、「チェコナショナリズム」を背景としたボヘミアの住民たちによる、苛烈なユダヤ迫害があった……。

1)弾劾の経過

 アネシュカ・フルーゾヴァーは、すでに3月29日ごろから行方がわからなくなっていた。この年は、4月2日が復活祭の日曜日であったが、遺体がポルナーから徒歩15分ほどのブジェズィナの森で発見されたのは、すでに祝祭気分の週末、聖土曜日4月1日であった。

 発見された日のうちに検視がおこなわれたところ、頸部に刃物で切られた傷が認められた。これですぐに、住民の口からレオポルトヒルスネルの名が出てきた。ボフミル・チェルニー『司法の誤謬、ヒルスネル事件』(Bohumil Černý, _Justiční omyl - Hilsneriáda_, Praha, 1990)によれば、誰がはじめに言い出したのか、記憶する者はなかった。

 製靴職人の修行をちゅうとでやめてしまって、放浪の旅に出るなどしてぶらぶらしていたというヒルスネルであるが、近代以降の社会にあって若者にはありがちの身の上ではあろう。とはいえ、季節がらユダヤ教の過越しの祭りが連想され、ほかでもないユダヤの青年がたちまち槍玉にあがったのは、村社会の組織化された陰湿さの為せる業というよりほかない。

 4月4日には、はやくもヒルスネルは逮捕されて、9日に身柄がクトナー・ホラへ移送され、6月18日に起訴された。9月12日に公判がはじまったのは、前に述べたとおり。ところが、4日後の16日にはもう死刑判決が出てしまうのだから、陪審員たちにしても性急な審理が冤罪をつくりかねないと虞れを抱く余裕もなく、極刑をいいわたすのに逡巡するひまもなかったのではないか。

 11月20日、弁護人のアウジェドニーチェクは判決の取り消しを申し立てた。控訴である。1900年4月25日、ウィーンの最高裁法廷および破棄院が、クトナー・ホラの裁判所の判決を破棄した。これを受けて、10月25日には、ピーセクの裁判所に舞台をうつし、第二審が開始された。しかし11月15日には、ふたたび死刑判決が下った。

 明くる1901年1月7日には、またもアウジェドニーチェクが判決の取り消しを求める訴えを提出するも、4月23日、破棄院はこれを退けた。ここに、ヒルスネルの命運も尽きたかとおもわれた。

 ところが、4月30日、ツィスライターニエン法務大臣、アロイス・フォン・スペンス=ボーデンが、フランツ・ヨーゼフ帝に恩赦を嘆願した。のち6月といわれるが、これがとおって、死刑から終身刑減刑された。

 弁護人の誠実さがしのばれるところだが、のちにもヒルスネルの母親から恩赦の請願があった。これは1907年のことだったが、すげなく却下された。それから10年以上が経過した本人の申請も、1918年1月末にピーセクの裁判所に退けられた。にも拘わらず、またも不可解なことであるが、この裁判所の決定に反して、帝国政府は3月24日、ヒルスネルを釈放したのだった。皇帝カール1世の恩赦ということになっている。

 ──この審理における司法当局の牽強附会さかげんについては、映像作品『無実の男』にもよく描写されている。メロドラマとはいえ、とりわけ裁判の過程は史料にもとづいて綿密に構成されている。

 とまれ、福者カール帝の恩赦により、かつての青年はついに娑婆に出た。収監されてからすでに20年ちかくが経っていた。のち、ヒルスネルはヴェルケー・メズィジーチー、プラハ、ウィーンと移り住み、ヘレルと名乗って行商などをして暮らした。51歳で亡くなったのは、大腸癌のためとされ、長年の監獄暮らしに起因するともいわれている。出所してから約10年の余生だった。


2)ヒルスネル事件の現在

 さて、それから120年が経った、2019年。あらためて事件に向き合った弁護士がいた。

 弁護士のルボミール・ミュレルは、以前からメディアに名前が挙がっていた。冤罪や誤審、あるいは官憲の不当な扱いといった被害から時を経て、その見直しや取り消し、補償、はては名誉回復を求める訴訟を手がけ、たびたび話題になっている。

 昨夏、すなわち2020年7月、ミュレル弁護士は、チェスケー・ブディェヨヴィツェにおいて、はるか1世紀以上も前の死刑判決の見直しを請求した。翌月、はやくも審理がおわり、決定が通知された。ヨゼフ・チェスキー検事は、再審請求をする理由がないと棄却したのだった。さらに今年(2021年)はじめには高等検事局、春には最高検事局でも、同様の決定がくだされたことが報道された。

 じつのところ、この事件は過去にも最高検事局で検討されていた。1995年12月、反ユダヤ主義をあつかうウィーンの研究者が、ブルノにある最高検事局にヒルスネル訴訟における法律違反を告発した際のものだった。「ヒルスネルが犯行を犯していないという結論を正当化するものは何も見つかっていない」とする回答があったという。翌年には、証拠に基づき、ヒルスネルが主犯か、または他の者と一緒に犯行にくわわった可能性があると結論づけられた。ミュレル弁護士は「捜査の時点ではヒルスネルの共犯者は特定されていないが、現代の捜査方法では共犯者を特定できることが期待される」と述べ、すでに刑事告訴済みであることも明かした。

 ミュレルによれば、有罪判決については法的見解が分かれている。チェコスロヴァキア初代大統領のトマーシュ・ガリグ・マサリクにはじまり、1990年代以降、チェコ共和国のヴラスタ・パルカノヴァー法相やマリィェ・ベネショヴァー法相も、この裁判が不公平なものだったと認めている。いずれにせよ、かつての死刑判決を決定せしめた最高裁判所がウィーンに置かれていたことから、最終的な見直しはオーストリア当局が行うことになるというのが、共通の認識としてあった。しかし、2009年、オーストリア司法省は、ヒルスネルの有罪判決を覆すことはできないと発表している。

 こうした流れをうけて、件の公共放送、ČTでは歴史をあつかう教養番組で、今春にもこの事件をとりあげた。その際に出演した研究者たちによる見解が、現時点では穏当な論であるように思えた。すなわち、再審がおこなわれていない以上、法的にはヒルスネルが現在も「犯人」ではあることは間違いないものの、真の犯人は不明のままなのである。それから、かのヴィルマ・イガースなどの著書でも紹介された人口に膾炙した説に、被害者の実兄、ヤン・フルーザが死の床にあって妹を殺害したことを告白した、というのもあるが、地元の研究者は風説にすぎないと一蹴した。

 とまれ、この番組の副題は「アネシュカ・フルーゾヴァーの事件は終わっていない」と銘打たれていたし、2016年の『無実の男』の原題は『ポルナーにおける犯行(Zločin v Polné)』であった。これまでチェコ語では「ヒルスネル事件(ヒルスネリアーダ)」などと呼ばれることが多かったのに反し、もはやいずれにもヒルスネルの名が冠されることはなかったのだ。


3)マサリクの介入

 のちのチェコスロヴァキア成立後、初代大統領に就くことになるトマーシュ・ガリグ・マサリク教授は、1899年当時、49歳。教え子だったズィークムント・ミュンツが、ポルナー事件裁判の非科学性をうったえると、その返信を『ノイエ・フライエ・プレッセ』紙に掲載することに同意した。これが、介入のきっかけとなった。こうして、国際語たるドイツ語のメディアによって、ボヘミアの鄙の闇が世界に暴露されることとなった。

 大学教授をはじめとする代表的な知識人までもが、「儀式殺人」の存在を信じていることを知り、民族にはびこる迷信を糾弾すべく声をあげる決心をかためたといわれる。裁判記録に当たり、法医学や生理学を学び、さまざまな専門家との意見交換をかさねる過程で、マサリクは、徐々に仔細を理解していった。背景に、民衆にひろがる反ユダヤ主義があることは、いまや明白となった。迷信を信奉するがごとき態度は、われらが民族にとって恥辱となるだろうと、大衆に訴えることになる。

 ポルナーへも、1899年12月4日と11日の少なくとも2回、みずから検分に出向いている。その際、「ゴットリープ・ベック博士」と身をやつしたらしいのだが、ちょっと暴れん坊将軍というか、遠山の金さんというか、水戸黄門の風情がある。毛皮商人らを伴っていたというから、それが助手にして警護もかねる、つまり助さんと格さんだったのだろう。その間、ウィーンで、ときの法務大臣エードゥアルト・フォン・キンディンガーと会談し、反ユダヤ主義撲滅への支援をはたらきかけてもいたようだ。

 かくしてマサリクは『ポルナー事件訴訟を再審する不可避性』と題した冊子を刊行する。表紙をいれても20ページたらずの、いっけん論文の抜き刷りのような体裁だ。啓蒙主義時代からよくみられたというパンフレット状のメディアは、このころにもまだ生きながらえていたものらしい。すぐに検察が没収して普及を妨げんとしたのが、この精緻な分析が官憲にもおおきな衝撃をあたえたことを裏づけている。マサリクの筆は、こう始まっている。

 このポルナー事件訴訟の分析によって、私はもてる力のかぎり、ジャーナリズムの不名誉を濯ぎたいとのぞんでいる。ジャーナリズムは、煽情的で誤ったやり方によってドレフュスの事件を描くことで、われらのまえにボヘミアオーストリアにとってのドレフュス騒動を現出させたのだ。いみじくも検事たる原告みずからがポルナー事件の裁判をそう表現している。読者は、ポルナー事件の審理のすべての過程が、反ユダヤ主義の報道と儀式殺人の迷信のもとに行われたことを確信するであろう。ボヘミアオーストリアの司法制度の名誉が、この事案に携わる人びとによって守られることを願っている。


 ポルナーの一件がどれほど私を揺さぶったか、公の場での議論がいかに私の魂を傷つけたかは、言い尽くせない──あまりにも非理性的で、無思慮で、激情的な拙速さがあり、くわえて明白な非人道性と、残虐性すらある──このような現象は、神経質な苛立ちや、ボヘミアオーストリアにおけるわれわれの生活そのものの異常な状態によってしか説明できない。この状態をやや散漫ぎみにのみ傍観する者たちには、ポルナー事件訴訟は血塗られた警句となるであろう……

──Tomáš Garrigue Masaryk, _Nutnost revidovati process Polenský_, Praha, 1899, 1.

 こうした痛烈な表現によって、マサリクは民衆の憎悪を買うこととなった。「裏切り者め」と憤る学生たちの罵倒により講義が成立しなくなっただけでなく、帰りしな路上で襲撃されて暴行をうけもした。メディアでは、カリカチュアでも嘲弄され、子どものあいだでは「お前なんか、マサジークだ!」などという卑罵語まで流行った。マサリク自身はヒルスネルにさほど同情的というわけでもなかったが、民衆にとっては、ユダヤに肩入れする「民族の敵」というわけだった。

 ちなみに、このマサリクをČT版『無実の男』で好演しているいるのが、怪優、カレル・ロデン。ハリウッド映画『15ミニッツ』でみせた、ロシアからきた頭のおかしい殺人鬼の役と対比させては、毎度の天才的な演技に感心してしまう。

 ──つづく

 

*参照:

zpravy.aktualne.cz

www.irozhlas.cz

フリチンを待ちながら

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photo by Marisol Benitez

 反ワクチン派?

 ときおり街で顔見知りにでくわすと、時候の挨拶がわり、COVID-19ワクチンの接種について訊くようになった。

 すると意外にも、大のおとなが「接種はしない」などと胸をはる。「気がすすまなかったけれど、しぶしぶ接種を受けた」というやつもいた。つまり温度差はあるものの、なべて「ワクチン懐疑派」というわけである。

 詳しい事情までは尋ねない。ただ、呆気にとられたのは、反ワクチンなんて子どものファッション的な流行りだと思っていたからだ。ヴィーガニズムとか、反グローバリズムとか同様の、若者が感染する麻疹、ないしは通過儀礼的な何か。

 一国の行政府が市民にあまねくワクチンを行き渡らせるために、さまざまな障害を乗り越えてきたことは、昨年来の報道によってつたえられてきた。売買契約にはじまり、ワクチン供給の数量と時期の調整、輸送に管理体制に供給網の構築、冷凍や冷蔵にかかわる機材の調達、接種を実施する場所や人員の確保……。最後のハードルは、予期せぬ供給の遅滞と、反ワクチン派の抵抗というところではあるまいか。さきごろから東京や大阪など各地で発覚している、アンプルへの異物混入とならんで、おもわぬ伏兵の存在感がある。

 また、訃報がつたえられた千葉真一のように、「俺は大丈夫だから」というような、正常性バイアスにもとづく未接種というケースも多いかもしれない。積極的な反ワクチン論を主張しない、消極的反ワクチン派というわけだ。いずれにせよ、世界は偉大なアクション俳優をうしなってしまった。

 もうひとつ思い出したのは、チェコやスロヴァキアの人びとにみられる、特殊な個人主義についてである。共産党体制下の全体主義への嫌悪感に由来する、皆が全員で一斉におこなう行動に対する反感、とでもいおうか。「赤信号、みんなで渡れば」式に、全体志向のつよい日本人とは対照的にもおもえる傾向である。要は、他人とおなじ行為をするのは悪だ、という条件反射的で単純な行動原理であった。反ワクチン感情の理由のひとつとして、挙げられるかもしれない。

 

 フリチン状態とは

 さて、そんな価値観を持ち合わせぬ身としては、そうそうに2回のワクチン接種を終えた。ファイザー製だった。

 副反応については、発熱はなかったものの、インフルエンザのときのような倦怠感がひどかった。数日にわたってつづいたように感じたけれど、風邪にも似て、平熱だと長引くものなのだろうか。とまれ体感的には、1回目も2回目も、接種の翌日が副反応のピークだったようにおもう。つらかった。人体が抗体をつくるのも、そうとう大変なことらしいと実感した。

 米CDCは、2回目を接種してから2週間が経過したとき、そのひとは「完全にワクチン化された」状態になると考えられている、としている。抗体が十全に準備された状態となるのだ。そうなったら、以前の活動を再開できますよ、と(When You’ve Been Fully Vaccinated)。

 この“fully vaccinated”を、日本語でなんと言うのか。──いぜんSNS上では、これを「フルチン」というか「フリチン」と呼ぶかで、ちょっとした論争があったみたいだ。かなりどうでもよい議論ではある。

 かくして接種ののち、件のフリチン状態になるのを待つあいだ、オリンピックの中継を観るようになり、けっきょく肝心のフリチンについては忘れてしまっていた。なにかをしているうちに、なんのためにそれをしているのか失念してしまう……。なんだか、サミュエル・ベケットの不条理劇のようではないか。

 昨夏はロックダウンの狭間で、まだジムに通うことができた。が、ことしはワクチンの副反応が延々つづいているような心地で、ぼんやりした頭のまま、すべてが億劫になった。気がつくと、夏も終わろうとしている。まるで不条理な人生そのものだ。

 

接種間隔についての諸説

 ところで、BBCによると、この2回接種するタイプのうち、ファイザー製のワクチンでは、8週間の間隔を空けることがデルタ株に対してもっとも有効である、という研究が出たとのこと。じっさい、英国政府は2020年末に、接種間隔を最大12週間とする方針を示していたところが、さっそく今年7月からこの間隔を8週間に短縮した(ファイザー製ワクチン、間隔を4週以上空けると抗体増える=英研究)。

 もともとメイカー側では、3週か4週の間隔というのを推奨していて、日本の厚労省は3週間の間隔を「標準」として説明している(新型コロナワクチンQ&A|厚生労働省)。

 変異株の流行を受けて、地元の保健当局がそのあたりをどう考えていたのか、あるいは考えもしなかったのか、それはわからない。1回目のオンライン予約の際、同時に2回目の期日も自動的に予約される仕組みで、それは6週間という間隔で指定された。このあたりは各国とも、当初の接種計画によらなければ、ワクチンの供給や在庫の状況に応じて決まってくるはずで、受ける側としてはどうしようもない。それよりも、「接種後2週間」という前述の「フリチン」について、とくだんの説明がなかったのが気になった。


 ──インフォデミックに加担したくはないから、この話題は書くまいとしていたけれど、なにかの参考になるということもあるかもしれないと思い直した。ワクチン接種にかんしては、お住まいの地域を管轄する保健機関の情報を参照されたい。

 

 *参照:

www.cdc.gov

www.bbc.com

www.cov19-vaccine.mhlw.go.jp

www.mhlw.go.jp

www.fda.gov

『アルゴ』──威信の失墜

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photo by Mohammad Shahhosseini

 大山鳴動して、邦人たった1名を救出……みたいに貶した野党議員もあったけれども、のちアフガン市民の移送にも自衛隊は成功していたことが伝えられた。カーブル脱出作戦である。

 しかし、7月はじめの米軍のバグラム空軍基地撤収を、日本の外務省は口を開けて見ていたのだろうか。イラクの悪夢が関係者の脳裡をよぎったものか、外交官はさっさと引き揚げてしまった。その後で、在留邦人や現地の協力者の運命が議論の俎上にのぼった。いろいろ釈然としないものがある。

 現地の日本大使館が畳まれたあととなっては、23日にカーブル空港へ派遣された自衛隊にできることはあまりなかった。米軍ですら空港外での作戦能力を失っていることを、すでにホワイトハウスも認めていた。けっきょく、26日になってISIS-Kによる自爆テロがおこり、退避希望者を乗せたバスは空港ゆきを断念したとされる。

 難しい作戦であったにちがいない。救出隊を派遣した各国とも、一定の成果をあげながら、それぞれの敗北をあじわった。それでもドイツ連邦軍は4千人以上を輸送したことをTwitterなどで誇ったし、英国のロウリー・ブリストウ大使は現地に踏みとどまって、自国民やアフガン人スタッフの出国支援をつづけ、1万5千名ちかくを退避させたとツイートしている。

 ターリバーンは、来るべき自分たちの統治がけっして人道に悖るものではない由、世界のメディアをつうじて情報操作を行なっている。20年間でターリバーンは変わったのだという印象を与えようとしているのだ。そのいっぽうで、民間人までも巻き込んだ掃討剔抉作戦を展開していることは確実とおもわれる。外国の記者が現地に残した家族が、ターリバーンによって捜索され殺害されたという報道などがそれを裏づけている。

 ところで、こうした状況には既視感があった。──映画で見たにきまっている。

 バグラム基地や、2000年代初頭からのビン・ラーディン捜索をめぐっては、カスリン・ビグロウ監督『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012年)がまず思い出される。「撤退」というモチーフならば、近年ではクリストファー・ノーランの『ダンケルク』(2017年)がよかった。古いが、邦画では 丸山誠治『太平洋奇跡の作戦キスカ』(1965年)もお気に入りだ。ただ今回は、兵隊だけの撤収ではなく、むしろ民間人がカーブル市内に虜囚も同然のていで取り残されているところが異なる。

 そこから連想したのは、ベン・アフレック監督・主演の『アルゴ』(2012年)だ。

 1979年、イランでイスラム革命が起こると、抗議の群衆がテヘランの米国大使館に押し寄せた。革命の仇敵・パフラヴィー帝を、米国政府が保護しているとみられていたのである。

 たちまちのうちに、一部の暴徒が大使館を占拠する事態となった。民間人とはいえ、裏には革命勢力がいるのは自明であった。だが、大使館警備を担う海兵隊員らも、これを傷つけてしまっては全面的な戦争を招きかねず、実弾を使用することはできなかった。催涙弾で威嚇がつづけられている間、職員らはといえば、重要書類を処分するのがやっとだった。

 いっぽう、領事部の建物はすこし隔たったところに位置しており、そこで業務に当たっていたスタッフ6名が脱出に成功する。とはいっても、テヘラン市内はほとんど戒厳令の状態で、けっきょくカナダ大使によってかくまわれることとなった。

 大使館をまるごと人質にとられた事態に、特殊部隊デルタ・フォースを主力としたイーグル・クロー作戦が決行され、けっきょく失敗に終わるが、それはもっと後のことである。まずは、難を逃れた6名をいかに国外退避させるかが焦点となったものの、やはり計画の立案は難航した。ところがあるとき、CIAのメンデスが映画『猿の惑星』の放送を目にしたことで、ある妙手が浮かんだのだった。

 トニー・メンデスは、製図を学んだのちグラフィック・アーティスト枠で採用された、異色のCIA職員だった。偽造パスポートの作成などを得意としたが、事件当時は救出作戦を担当していた。映画業界にメイキャップ・アーティストの知己があり、「ハリウッド作戦」が形になってゆく。

 こうして、中東を舞台とするSF映画『アルゴ』という、怪しげな企画がでっち上げられる。この作品のテヘランでの撮影にさきがけて、現地でロケハンを敢行する制作スタッフを領事部の6人に装わせ、堂々と民間航空機でイランを脱出させようというのだ……。(つづきは本編をご覧ください→Amazon Prime

 まもなく、ときの大統領ジミー・カーターは、現職でありながら選挙に敗れ、一期かぎりで政権を去った。国内経済の悪化が主たる敗因だったとはいえ、イラン革命アメリカの威信低下を招いたことも影響していると指摘されており、さらに革命の混乱も第二次石油危機となって米国経済にさらに打撃を加えることとなった(たとえば、今川瑛一「カーター大統領の挫折 : アメリカのアジア政策」『アジア動向年報1981年版』を参照)。

 ちょうど目にとまったのが『ファイナンシャル・タイムズ』ウェブ版の記事だ。ずばり“Joe Biden’s potential Jimmy Carter moment”という見出しだった。バイデン大統領は、アフガニスタン撤退でしくじりはしたが、つぎの選挙までは時間があるし、経済政策などほかの面で国民にアピールしてゆけばよい、というような趣旨だった。カーターと同じ道はたどらないらしい。

 経済運営で挽回できさえすれば、アメリカの有権者はアフガンの失態を水に流してくれる。また、3年もたてば、カーブルの悲劇はきれいに忘れ去られてもいる。そんなところだろう。今だって、いかほどの関心があるものか。

 目下、かの国の経済は「ポスト・コロナ」で空前の好況に沸く。その一方で、報道によれば、いわゆる「テーパリング」の年内開始もほぼ決定されたようだ。自粛生活から解放された人びとの消費意欲はしばらく旺盛なまま変わらないとしても、相場にかんしては、秋雨前線がちかづいているのかもしれない。

www.youtube.com

 

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

news.yahoo.co.jp

www.news24.jp

www.bbc.com

jp.reuters.com

 

*追記:

www.sankei.com

www.bbc.com