ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ヒルスネル事件(1)──衆愚の法廷

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 9月12日、悪名高いヒルスネル事件の公判がはじまった。ただし、1899年の9月12日であるから、122年前のことである。

 2016年には、この事件をチェコ共和国の公共放送(ČT)がドラマ作品として映像化した。Amazonで視聴できる。前後半の2部構成で、各話50円となっていた→『無実の男』。

 いちおう日本語の字幕が付されているものの、英語からの重訳、それも機械翻訳とおぼしい。でたらめの箇所もおおい。そのかわり、50円。割り切っていただきたい。じつはPrime Videoで視聴できる作品がほかにもあるので、今後も奇怪な字幕つきの〈ČTシリーズ〉を紹介してゆく。

 1899年4月1日。ボヘミアの町・ポルナーのはずれの森で、少女の死体が発見された。近郊の村、マラー・ヴィェジュニツェ(現ヴィェジュニチュカ)に住む19歳のお針子、アネシュカ・フルーゾヴァーであった。まもなく、レオポルトヒルスネルなる青年が、ユダヤの「儀式殺人」のために殺害したとして告発され、逮捕された。そこには、「チェコナショナリズム」を背景としたボヘミアの住民たちによる、苛烈なユダヤ迫害があった……。

弾劾の経過

 アネシュカ・フルーゾヴァーは、すでに3月29日ごろから行方がわからなくなっていた。この年は、4月2日が復活祭の日曜日であったが、遺体がポルナーから徒歩15分ほどのブジェズィナの森で発見されたのは、すでに祝祭気分の週末、聖土曜日4月1日であった。

 発見された日のうちに検視がおこなわれたところ、頸部に刃物で切られた傷が認められた。これですぐに、住民の口からレオポルトヒルスネルの名が出てきた。ボフミル・チェルニー『司法の誤謬、ヒルスネル事件』(Bohumil Černý, _Justiční omyl - Hilsneriáda_, Praha, 1990)によれば、誰がはじめに言い出したのか、記憶する者はなかった。

 製靴職人の修行をちゅうとでやめてしまって、放浪の旅に出るなどしてぶらぶらしていたというヒルスネルであるが、近代以降の社会にあって若者にはありがちの身の上ではあろう。とはいえ、季節がらユダヤ教の過越しの祭りが連想され、ほかでもないユダヤの青年がたちまち槍玉にあがったのは、村社会の組織化された陰湿さの為せる業というよりほかない。

 4月4日には、はやくもヒルスネルは逮捕されて、9日に身柄がクトナー・ホラへ移送され、6月18日に起訴された。9月12日に公判がはじまったのは、前に述べたとおり。ところが、4日後の16日にはもう死刑判決が出てしまうのだから、陪審員たちにしても性急な審理が冤罪をつくりかねないと虞れを抱く余裕もなく、極刑をいいわたすのに逡巡するひまもなかったのではないか。

 11月20日、弁護人のアウジェドニーチェクは判決の取り消しを申し立てた。控訴である。1900年4月25日、ウィーンの最高裁法廷および破棄院が、クトナー・ホラの裁判所の判決を破棄した。これを受けて、10月25日には、ピーセクの裁判所に舞台をうつし、第二審が開始された。しかし11月15日には、ふたたび死刑判決が下った。

 明くる1901年1月7日には、またもアウジェドニーチェクが判決の取り消しを求める訴えを提出するも、4月23日、破棄院はこれを退けた。ここに、ヒルスネルの命運も尽きたかとおもわれた。

 ところが、4月30日、ツィスライターニエン法務大臣、アロイス・フォン・スペンス=ボーデンが、フランツ・ヨーゼフ帝に恩赦を嘆願した。のち6月といわれるが、これがとおって、死刑から終身刑減刑された。

 弁護人の誠実さがしのばれるところだが、のちにもヒルスネルの母親から恩赦の請願があった。これは1907年のことだったが、すげなく却下された。それから10年以上が経過した本人の申請も、1918年1月末にピーセクの裁判所に退けられた。にも拘わらず、またも不可解なことであるが、この裁判所の決定に反して、帝国政府は3月24日、ヒルスネルを釈放したのだった。皇帝カール1世の恩赦ということになっている。

 ──この審理における司法当局の牽強附会さかげんについては、映像作品『無実の男』にもよく描写されている。メロドラマとはいえ、とりわけ裁判の過程は史料にもとづいて綿密に構成されている。

 とまれ、福者カール帝の恩赦により、かつての青年はついに娑婆に出た。収監されてからすでに20年ちかくが経っていた。のち、ヒルスネルはヴェルケー・メズィジーチー、プラハ、ウィーンと移り住み、ヘレルと名乗って行商などをして暮らした。51歳で亡くなったのは、大腸癌のためとされ、長年の監獄暮らしに起因するともいわれている。出所してから約10年の余生だった。


ヒルスネル事件の現在

 さて、それから120年が経った、2019年。あらためて事件に向き合った弁護士がいた。

 弁護士のルボミール・ミュレルは、以前からメディアに名前が挙がっていた。冤罪や誤審、あるいは官憲の不当な扱いといった被害から時を経て、その見直しや取り消し、補償、はては名誉回復を求める訴訟を手がけ、たびたび話題になっている。

 昨夏、すなわち2020年7月、ミュレル弁護士は、チェスケー・ブディェヨヴィツェにおいて、はるか1世紀以上も前の死刑判決の見直しを請求した。翌月、はやくも審理がおわり、決定が通知された。ヨゼフ・チェスキー検事は、再審請求をする理由がないと棄却したのだった。さらに今年(2021年)はじめには高等検事局、春には最高検事局でも、同様の決定がくだされたことが報道された。

 じつのところ、この事件は過去にも最高検事局で検討されていた。1995年12月、反ユダヤ主義をあつかうウィーンの研究者が、ブルノにある最高検事局にヒルスネル訴訟における法律違反を告発した際のものだった。「ヒルスネルが犯行を犯していないという結論を正当化するものは何も見つかっていない」とする回答があったという。翌年には、証拠に基づき、ヒルスネルが主犯か、または他の者と一緒に犯行にくわわった可能性があると結論づけられた。ミュレル弁護士は「捜査の時点ではヒルスネルの共犯者は特定されていないが、現代の捜査方法では共犯者を特定できることが期待される」と述べ、すでに刑事告訴済みであることも明かした。

 ミュレルによれば、有罪判決については法的見解が分かれている。チェコスロヴァキア初代大統領のトマーシュ・ガリグ・マサリクにはじまり、1990年代以降、チェコ共和国のヴラスタ・パルカノヴァー法相やマリィェ・ベネショヴァー法相も、この裁判が不公平なものだったと認めている。いずれにせよ、かつての死刑判決を決定せしめた最高裁判所がウィーンに置かれていたことから、最終的な見直しはオーストリア当局が行うことになるというのが、共通の認識としてあった。しかし、2009年、オーストリア司法省は、ヒルスネルの有罪判決を覆すことはできないと発表している。

 こうした流れをうけて、件の公共放送、ČTでは歴史をあつかう教養番組で、今春にもこの事件をとりあげた。その際に出演した研究者たちによる見解が、現時点では穏当な論であるように思えた。すなわち、再審がおこなわれていない以上、法的にはヒルスネルが現在も「犯人」ではあることは間違いないものの、真の犯人は不明のままなのである。それから、かのヴィルマ・イガースなどの著書でも紹介された人口に膾炙した説に、被害者の実兄、ヤン・フルーザが死の床にあって妹を殺害したことを告白した、というのもあるが、地元の研究者は風説にすぎないと一蹴した。

 とまれ、この番組の副題は「アネシュカ・フルーゾヴァーの事件は終わっていない」と銘打たれていたし、2016年の『無実の男』の原題は『ポルナーにおける犯行(Zločin v Polné)』であった。これまでチェコ語では「ヒルスネル事件(ヒルスネリアーダ)」などと呼ばれることが多かったのに反し、もはやいずれにもヒルスネルの名が冠されることはなかったのだ。


マサリクの介入

 のちのチェコスロヴァキア成立後、初代大統領に就くことになるトマーシュ・ガリグ・マサリク教授は、1899年当時、49歳。教え子だったズィークムント・ミュンツが、ポルナー事件裁判の非科学性をうったえると、その返信を『ノイエ・フライエ・プレッセ』紙に掲載することに同意した。これが、介入のきっかけとなった。こうして、国際語たるドイツ語のメディアによって、ボヘミアの鄙の闇が世界に暴露されることとなった。

 大学教授をはじめとする代表的な知識人までもが、「儀式殺人」の存在を信じていることを知り、民族にはびこる迷信を糾弾すべく声をあげる決心をかためたといわれる。裁判記録に当たり、法医学や生理学を学び、さまざまな専門家との意見交換をかさねる過程で、マサリクは、徐々に仔細を理解していった。背景に、民衆にひろがる反ユダヤ主義があることは、いまや明白となった。迷信を信奉するがごとき態度は、われらが民族にとって恥辱となるだろうと、大衆に訴えることになる。

 ポルナーへも、1899年12月4日と11日の少なくとも2回、みずから検分に出向いている。その際、「ゴットリープ・ベック博士」と身をやつしたらしいのだが、ちょっと暴れん坊将軍というか、遠山の金さんというか、水戸黄門の風情がある。毛皮商人らを伴っていたというから、それが助手にして警護もかねる、つまり助さんと格さんだったのだろう。その間、ウィーンで、ときの法務大臣エードゥアルト・フォン・キンディンガーと会談し、反ユダヤ主義撲滅への支援をはたらきかけてもいたようだ。

 かくしてマサリクは『ポルナー事件訴訟を再審する不可避性』と題した冊子を刊行する。表紙をいれても20ページたらずの、いっけん論文の抜き刷りのような体裁だ。啓蒙主義時代からよくみられたというパンフレット状のメディアは、このころにもまだ生きながらえていたものらしい。すぐに検察が没収して普及を妨げんとしたのが、この精緻な分析が官憲にもおおきな衝撃をあたえたことを裏づけている。マサリクの筆は、こう始まっている。

 このポルナー事件訴訟の分析によって、私はもてる力のかぎり、ジャーナリズムの不名誉を濯ぎたいとのぞんでいる。ジャーナリズムは、煽情的で誤ったやり方によってドレフュスの事件を描くことで、われらのまえにボヘミアオーストリアにとってのドレフュス騒動を現出させたのだ。いみじくも検事たる原告みずからがポルナー事件の裁判をそう表現している。読者は、ポルナー事件の審理のすべての過程が、反ユダヤ主義の報道と儀式殺人の迷信のもとに行われたことを確信するであろう。ボヘミアオーストリアの司法制度の名誉が、この事案に携わる人びとによって守られることを願っている。


 ポルナーの一件がどれほど私を揺さぶったか、公の場での議論がいかに私の魂を傷つけたかは、言い尽くせない──あまりにも非理性的で、無思慮で、激情的な拙速さがあり、くわえて明白な非人道性と、残虐性すらある──このような現象は、神経質な苛立ちや、ボヘミアオーストリアにおけるわれわれの生活そのものの異常な状態によってしか説明できない。この状態をやや散漫ぎみにのみ傍観する者たちには、ポルナー事件訴訟は血塗られた警句となるであろう……

──Tomáš Garrigue Masaryk, _Nutnost revidovati process Polenský_, Praha, 1899, 1.

 こうした痛烈な表現によって、マサリクは民衆の憎悪を買うこととなった。「裏切り者め」と憤る学生たちの罵倒により講義が成立しなくなっただけでなく、帰りしな路上で襲撃されて暴行をうけもした。メディアでは、カリカチュアでも嘲弄され、子どものあいだでは「お前なんか、マサジークだ!」などという卑罵語まで流行った。マサリク自身はヒルスネルにさほど同情的というわけでもなかったが、民衆にとっては、ユダヤに肩入れする「民族の敵」というわけだった。

 ちなみに、このマサリクをČT版『無実の男』で好演しているいるのが、怪優、カレル・ロデン。ハリウッド映画『15ミニッツ』でみせた、ロシアからきた頭のおかしい殺人鬼の役と対比させては、毎度の天才的な演技に感心してしまう。

 ──つづく

 

*参照:

zpravy.aktualne.cz

www.irozhlas.cz