ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ヒルスネル事件(2)──衆愚の世界

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1)反ユダヤ政治の季節

 (承前)ポルナーは、がんらいボヘミア王国の町で、モラヴィアとの辺境に位置している。現行の、チェコ共和国の行政区画ではヴィソチナ県に属す。事件当時もいまと大差ない人口およそ5千人を擁したポルナーには、記録上、ドイツ語話者がひとりも住んでいなかった。ユダヤ人はといえば、1837年の国勢調査によると、515人が居住していた。

 1890年代、十指に余る数の民族をかかえたオーストリア=ハンガリー帝国の大地は、反政府的な民族運動や民族間の対立でゆれていた。なかんづく激しさをきわめたのが、ボヘミアであった。

 とりわけ1897年の「バデーニの新言語令」をめぐる混乱では、デモや衝突が頻発した。たとえば同年12月にプラハを席巻した民族暴動は、はじめドイツ人を標的としながらも、やがてユダヤ人商店の打ちこわしへとエスカレートした。

 あのフランツ・カフカの実家も、暴徒によって掠奪されかけた。父の営む雑貨店である。首謀者か誰かが「おい、カフカは同胞だぞ」というような号令をかけたことで、からくも襲撃を免れたと伝記に書いてある。じっさい、カフカは家のなかではチェコ語で暮らしていた。

 父・ヘルマンも義務教育だけは受けていたが、学校はもとより、第二言語のドイツ語にもさほど愛着がなかったようだ。じっさいには多くの家庭が子弟を通わせたユダヤ人学校では、教授言語はドイツ語と定められていた。いっぽう、カフカ少年らの世話をしていたユダヤ系の家政婦は、チェコ語初等教育を受けたらしく、まったくドイツ語を解さなかった。カフカやその妹たちとはチェコ語で会話していた。

 それでも、チェコ語ができたからといって、そのユダヤ人が同族として社会に迎えられたわけではなかった。前述の暴徒は例外であった可能性もないではないが、おそらくヘルマン・カフカユダヤ教徒であるとは知る由もなかったのだ。ユダヤ人は、社会主義を奉じており、民族の結束を乱すのだという一種の陰謀論が流布してもいた。さりとて、ドイツ語をはなすドイツ人にしても、ユダヤ教徒に一律に同胞意識をいだいたというわけでもなかった。

 帝国の外でも、反ユダヤ的な風潮はたかまっていた。おおく、70年代からの構造的な不況に遠因がもとめられている。象徴的な事件は、なんといっても仏ドレフュス大尉の冤罪にかかわる騒動で、国際的に知られていた。さいわいドレフュスの場合は、のちに軍務に復帰できた。しかし、ロシアでの「ポグロム」にいたっては、さらに暗澹たる記述が史書のページにひろがっている。


2)儀式殺人の迷信

 じつに紀元前のむかしから「儀式殺人」をそしる風はあったものの、それはかならずしもユダヤ教徒に向けられたものではなかった。ヘレニズム時代にユダヤ人への中傷にもちだされたこともあったとはいえ、おおよそローマ帝国キリスト教の興隆をへて、また両者が利益を共有するようになるなかで「迫害」に応用されるようになっていったとおぼしい。

 のち、人血をもちいた儀式の咎によりユダヤを一括りに批難することについては、神学的に正しくないという見解がさまざまな碩学らによって提唱され、13世紀には教皇インノケンティウス4世によって公式に否定されるにいたった。にも拘わらず、この勅令は遵守徹底されたためしがなかった。主として教育程度のひくい層に顧みられることがなかったのだ──とは『ボヘミアモラヴィアにおけるユダヤの歴史』の著者、トマーシュ・ピェクニーが説明するところである(Tomáš Pěkný, _Historie Židů v Čechách a na Moravě_, Praha, 1993)。

 ユダヤの「儀式殺人」の迷信にかかわる最初の告発は、記録されるかぎり1144年にイングランドのノリッチにはじまったというのであるが、これが19世紀末にドーナウ帝国で相ついだというのは、前述の民族対立のほか、反ユダヤ主義の政治利用も多分にからんでいる。ポルナーの事件に地理的・時間的にちかいところでは、1893年のコリーンにおいて、少女の失踪事件がおこった際のプロパガンダが知られている。儀式殺人を企図したユダヤのしわざであるという風説が、いわゆる青年チェコ党によって意図的に流された。市政において多数派を擁した老チェコ党にたいする情報戦であったという。

 事実無根のたんなる迷信を、知識人や政治家たちがしたり顔で吹聴しているのだから、蒙の闇は深かった。たとえばプラハ神学者、アウグスト・ローリング教授などは、反ユダヤ主義において往年の第一人者の観がある。「儀式殺人」について論じた著書は帝国じゅうで読まれていたというし、ポルナー以前にも、1880年代のティスエスラールでおこった同様の反ユ裁判でも、おおきな影響力をもった。また、ポルナー事件裁判で被害者側の原告として検事役を買って出たカレル・バクサも、代表的な反ユダヤ政治家のひとりで、のちにプラハ市長の座に収まって、さらには憲法裁判所のトップにまでのぼりつめることになる。──ウィーンのゲオルク・フォン・シェーネラーや、カール・ルエーガーらを連想する向きも多いはずだ。


3)アウジェドニーチェクのその後

 案の定というべきか、ヒルスネルの弁護を担当したズデンコ・アウジェドニーチェクも、その後は災難にみまわれた。「民族の敵」とされていたユダヤ人に寄り添ったとして、地元のクライアントをうしない、地域住民からはいやがらせをうけた。けっきょく妻子に脅威がおよぶと、これに堪えかね、マサリクの助言にしたがって帝都ウィーンに移住した。父親から引き継いだ法律事務所をあきらめ、再出発せざるをえなくなったのだ。

 チェコスロヴァキア成立後には、大統領となったマサリクから最高裁判事への就任を打診されるも、かたくなに固辞した。ボヘミアの人間にたいする不信が、終生きえなかったのだろう。無理もない。

 1928年には、義理がたくヒルスネルの葬儀に参列した。このポルナーの青年との出会いは、人生を変えてしまったが、おそらく怨恨をいだいたことはなかった。むろん、プロフェッショナルとしての信条もあったにちがいない。しかしなにより大きいのは、映像にも描かれていたが、妻がユダヤ人であったことから、予てより周囲の言動の理不尽さに耐えてきており、それゆえ信念をもって弁護にあたったということにつきる。そこに悔恨の情は生じ得なかった。ウィーンにおいても、たぶん同様の姿勢で活動をつづけ、1932年に没した。

 妻のアナが、ようやく生まれ故郷のプラハにもどったのは1938年で、ひょっとすると前出のカレル・バクサの死が契機になったのかもしれない。しかしこの年は、チェコスロヴァキアが解体されて第三帝国保護領が成立する前夜でもあった。はたして1941年には、テレーズィエンシュタット(テレズィーン)の強制収容所に送られてしまった。さいわい、これは生き延びた。


4)『無実の男』と現在

 いまでも、ヒルスネルの有罪判決はあれでよかったのだという意見を、ウェブで発信しているひとは散見される。理由はさまざまだろうが、直接の反ユダヤ思想にとどまらない。あの有罪判決で、ユダヤロビイスト団が瓦解したがために、チェコスロヴァキアが独立できたのだ──と、誇大妄想的な歴史観をコメント欄に開陳する者もあった。「愛国無罪」を思わせる反ユ主義の肯定というところか。

 2016年、『無実の男』が放映されたあとに、弁護士にして教育者でもあるアレシュ・ロゼフナルが公表したウェブの記事もまた、波紋を呼んだことであろう。その趣旨は、審理や判決を是認する内容であった。

 「レオポルトヒルスネルをめぐる訴訟にかんする神話と真実」と題された文章は、一見するところ、純粋にテクニカルな問題としてヒルスネル事件を扱っている。法曹の現場を知る立場からいって、情況証拠だけで有罪判決が下されることは現在でもよくあることなのだ、という主張である。しかしそれでは、さまざまな問題が綯い交ぜになった歴史的事件を矮小化することになる。つまるところ、ロゼフナルの批評はピントがずれている。おそらく意図的にずらしている。

 単に「仕事のできるソシオパス」というタイプなのかもしれないし、それはそれで、法律相談料名目の手数料を延々とりつづけながらも問題はいっこうに解決されない弁護士よりはましである。だが、テクストのはしばしに見え隠れするのは、会ったこともないレオポルトヒルスネルの為人にたいする偏見であって、共感能力に欠けた、意識の低い法律家であるとの印象はぬぐえない。これが、法学部で教鞭を執り、独立系メディアの役員兼執筆者として反バビシュ首相の健筆をふるっているというのだから、よくわからない。すくなくとも、前述のルボミール・ミュレルのような弁護士とはまったく異なった世界観をお持ちなのだろう。サミズダトの精神を受け継ぐジャーナリスト、アダム・ドゥルダによる反論が、おなじ媒体に掲載されたことが唯一の希望の光ではあった。

 といっても、こうした司法の問題は、特定の国の特殊な事例にとどまらない。卑近な例として、袴田事件はいうに及ばず、たとえば和歌山カレー事件の展開からも、ヒルスネルに向けられたのと同様のバイアスが感ぜられるのである。いぜん砒素による事件をおこしたことがある人物であるから、今回もきっとこいつが下手人だ、というような先入観が、かねてより大衆メディアに満ち満ちていたものだった。これが裁判官をして、化学的な物証を黙殺せしめた……これはむろん、憶測と噂の域を出ないが。

 『無実の男』が放映され、ロゼフナルの論評が公表された当時はまだ、シリア内戦に端を発する移民・難民問題で全欧州がゆれていた。社会を覆う不安は、あるていどは致し方ないものではあった。が、そのとき標的になったのは、ユダヤではなく、ムスリムだった。単純に反ユダヤになぞらえることはできないにせよ、ČTもそうした往時の風潮に危機をおぼえて、番組を企画・制作したのかもしれない。

 ところが、難民危機がひとまず去った今でも、反ムスリムをうったえて議席をふやした政党が幅を利かせている。チェコ共和国の現政権与党・ANOもそのひとつだ。難民といっても、より豊かな国を目指して移動しており、チェコになど定住を希望した者はほぼいなかったというのに、民衆のうちの「憎悪」だけを選挙に利用したわけだ。ミロシュ・ポヤルなどは、マサリクの指導力が深刻な反ユダヤ主義から民族を救済したというようなことを書いているけれども、その実、大衆の傾向は今もあまり変わっていないようにも思えるのである。

 たしかに、ポリティカル・コレクトネスにかかわる「きれいごと」全般にうんざりさせられる時代ではある。この「政治的な正しさ」をもとめる空気にたいして、ヒルスネル訴訟は「司法的に正しい」と反駁してみせたのが、件のロゼフナルだったのだろう。ただ、思い込みが蔓延する世論に誘導された、不正な刑事裁判や冤罪、はたまた誹謗や私刑というのは、まったく次元が異なる話だ。

 昨今の報道によれば、武漢の流行り病をひろめたとして、日本人が暴行をうけたりもするご時世である。チェコの食料品店に勤務していたエジプトの青年は、その風貌からしょっちゅう「テロリスト!」と罵られることを、よく嘆いていたものだった。たほう日本国内であっても、子どもに道をたずねるだけで「不審者」呼ばわりされかねない。それ以上に根拠のない偏執狂的な誤った風聞は世に溢れているし、それを「常識」だとおもって疑いもしない人間であふれてもいる。だって知り合いに聞いたもん。週刊誌に書いてあったもん。SNSで見たもん。有名人がツイートしてたもん。ユーチューバーが言ってたもん………。「みんな」が言っているから、奴は変質者だし、ストーカーだし、ユダヤ人だし、殺人犯なのだと、一流企業にお勤めするような自称「常識人」ですら、よく知らない他人にレッテルを貼って平気な顔でいる。なかにはハーメルンの鼠を煽動するかのごとく、悪意の笛を吹く輩もある。陪審にまったく影響をあたえないと考えるほうが無理というものであろう。

 それだから、だれしも集団ヒステリーの犠牲にはなりうる。ちょうど、ヒルスネルのように。そしてそれは今日かもしれないし、明日かもしれないのだ。