ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

敵のイコンと「オクタヴィア側」の人間

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photo by Arno Senoner

 ふた昔まえに住んでいたアパートの階上には、白髪の婦人がひとり暮らしていた。

 さいしょに顔を合わせたとき、「シュプレッヒェン・ズィー・ドイチュ?(ドイツ語わかりますか)」と訊いてくるので、「ヤー、アイン・ビスヒェン(ええ、すこしだけ)」と応じた。外国語といえばドイツ語、という世代なのだと察した。自己紹介のような会話をチェコ語でして別れたはずだった。

 目がよくないのにくわえて、すでに認知機能も衰えていたものか。それからというもの、街路で出会したときには「シュプレヒェン・ズィー・ドイチュ?」と話しかけてくるのが常だった。なんど会っても「初めまして」と言われているようで、可笑しかった。そして、立ち話をドイツ語とチェコ語で二言三言やって、別れ際には丁重にあいさつするのだ。「あたしはもうすぐ死ぬから」というのである。こちらは「まだ200年は大丈夫ですよ」となだめるのであるが。

 あるとき、玄関口にやってきて、置き時計の電池を換えたいのだが手伝ってくれないかという。おやすい御用とばかり、階上を訪問したわけだ。何でもないことを済ませると、紅茶を淹れてくれた。話し相手も必要だったにちがいなかった。そして老婦人はやはり保護領時代に教育を受けており、しかもどこかの大学で経済学を講じていたインテリだとわかった。

 そのアパートというのは、1930年代、すなわちアードルフ・ヒトラーが権力を掌握したころに建設されたらしかった。つまり、このとき築70年くらいの老朽した機能主義建築の住宅だったが、二度の世界大戦とも戦場となることを免れた国には、もっと古い建物などいくらでもあった。1939年にドイツ第三帝国が進駐してくると、市の中心部にあった豪奢なドイツ人会館は、まず保安部門が接収した。そこからほど近い当該アパートにも、SSの連中が住まって、まいあさ通勤していたらしかった。

 だから、不思議なことはなにもない。台所の壁の穴からヒトラー肖像画を発見したことがあるのだと、老女はおしえてくれた。

 おもわず「やりましたね。その絵はどうしたんですか」と反応してしまったのは、さぞ高く売れるものであろうと思ったからだ。が、「すぐに焼いてやったわ」としたり顔でいうので、自らのあさましさに恥いるしかなかった。つまり、現代の日本なら、ともすると「なんでも鑑定団」案件にすぎないが、同時代を生きたひとにとっては偶像とはいえ諸悪の根源の似姿に相違なく、したがって憎しみの対象なのだった。

 いま考えてみても、やはりもったいない。歴史的な遺物である。手もとに置いて、出どころ等々をあれこれ調べてみたい。あるいは博物館なり研究機関なりに寄贈するという手もあった。しかしあの時点では尋ねなかったし気がつかなかったが、所詮は無数に印刷された官品の類にすぎなかった可能性もある。それでもオークションに出していたら、ことによってはシュコダ・オクタヴィアの新車くらい買えたかもしれない。トヨタならカローラだ。それがナツィスの統治にたいする損害賠償の一部だとおもえば、すこしは溜飲も下がったはずだ。そこまでうまくいく売買もそうそうないだろうが、すくなくとも価値のわかる人の手に渡ったらば、金子の多寡はどうあれ、オクタヴィア以上の満足があったに違いない。

 ところが、そこまで想定してみたとしても、いざ自分が、見るに耐えぬほど記憶を掻き乱されるものを手にしたらば、なにもかんがえず焼却しまうことだろう。事後に「カッとなってやってしまった」と供述する殺人者にも似た、衝動的な行為である。

 そこまでは想像できるんだけど。しかし、想像することしかできない。

 老女とはそれだけの付き合いで、その後もなんどか話をする機会があったとはいえ、具体的な怨嗟にかかわることは聴かなかった。訊けはしなかった。だからここで自分は、どこまでいっても「オクタヴィア側」の人間にとどまっている。共感能力に足りぬところがあるとすれば、それはヒトの限界なのか、はたまた個人的な劣った資質のためなのか、それはわからない。ひょっとすると、ある種の発達障害か、反社会的なタイプの人格障害なのか、つまりなんらかの精神病質なのか、その可能性もないわけではない。いや、たんに情報の不足と思いたい。

 けれども、昨今のポリコレの文脈では、「オクタヴィア側」にいながら「焼け、焼いちまえ」と煽る人が多いような気がしてならない。「不謹慎厨」とか「自粛警察」のような連中もふくめて、とくに直接の迫害を受けたというわけでもなく、何らかの背後関係がある政治活動というわけでもなく。むしろ、なにか極端な宗派の個人的な信仰の実践のように、似非なる神秘主義の修行のように。それを十把一絡げに、偽善だとまで言うつもりはない。ただ、自身が道徳的にすぐれた人間であるという自己認識を、言動でみずから確認するために、あるいは他者に誇示するために、ひとは十全に共感してもいないことを声高に主張してしまう場合があるのだ。そのうちにきっと、そうしている自分に陶酔してしまう。煽動ハイとでも言いうる恍惚は、まるで密教における悟りの境地だ。