ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ボヘミヤの伍長?

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/74/Paul_von_Hindenburg-2.png

 ボヘミアの伍長──というのは、ときのドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクが、アードルフ・ヒトラーをさしていった表現だという。久しく人口に膾炙した謂いであるものの、ヒトラーは伍長でもなければ、ボヘミア生まれでもなかった。

 こういった場合、一般的にふたつの可能性がある。単純な事実誤認か、あるいは、なんらかのモーダルな表現、典型的には尊敬か侮蔑かである。

 たとえば、相手が会社経営者でもないのに、呼び込みのひとは「社長!」と呼びかけたりする。ドイツ語圏の飲食店では、客がウェイターを呼ぶのに「給仕長!(Herr Ober!)」ということがある。それが実際にはホール長でなくとも、バイトリーダーですらなくとも(チェコ語でも同様に「Pane vrchní!」である)。

 逆に、侮蔑にもいろいろある。対象となる人物が正真の禿頭であれば、「ハゲ!」と貶めることは侮蔑から生じた侮辱である。しかしながら、完全に禿頭ではないが本人が薄めの髪を気にしている場合、あるいは、豊富に髪があることを誇っている人にたいしてでも、単にあえて罵る目的で「ハゲ!」といえば、侮蔑からくる侮辱であろう。

 ──こういうこともあった。

 チェコのワイン酒場(ヴィノテーカないしヴィナールナと呼ばれる業態)で、若い女ふたりにからまれた。20代、ことによると10代で、ひどく肥えていた。こちらが日本人だと見当をつけて、贔屓にしているアニメのキャラクターについて質問を浴びせてきたが、あいにくこちらはその手の教養に欠けている。ググって出てきた日本語の情報を読んで、概要をつたえることしかできなかった。
 それはともかく、チェコ語をはなすふたりであったが、言い間違いをしたか何かの拍子に、片方がもうひとりにたいして「このマジャル!」ということを言ったのだ。マジャルとはマジャル人であり、端的にハンガリー人を指す。
 「ハンガリー人なのかい」と訊くと、「ちがうの。母親がスロヴァキア人なのよ」という。スロヴァキアの人口の1割ほどはマジャル系であるが、当該の母親は果たしてマジャル系ではないそうだ。スロヴァキア語が母語である。
 つまり、母親が正真のスロヴァキア人であるチェコに生まれ育った者を、あえてマジャル人と呼ぶのは、チェコ語の運用上、侮蔑の表現にあたる。──ただ、それも記号論的にはいろいろあって、友人同士で用いられるときは、いわば「恋人のバカ」のケースに該当する。すなわち「馬鹿!」というより「ばかぁ♡」であり、最終的に「おまえは愚昧な人間であるから、すぐに死ぬべきだ」という意味にはならず、コミューニケイション全体の過程において愛情表現として機能することになる。

 

 「ボヘミアの伍長」に話を戻す。

 昔からの通説に、オーストリアはイン川沿いのブラウナウ出身のヒトラーを、ボヘミアの端にあるブラウナウ(チェコ語の名称はブロウモフ)出身と、ヒンデンブルクが誤認していた、というのがある。ジャーナリズムがすでに取り違えて報じていたのを、ヒンデンブルクが目にしたという。当時の人口規模でいえば、ボヘミアのブロウモフのほうが大きかったから、誤報もあり得た(1930年代には、それぞれ1万人強と7千人弱。現在では逆転していて、ざっと8千人弱と1万7千人。これにはおそらく第二次大戦後の闇の歴史も関連していよう)。

 もうひとつの可能性が、件の「侮蔑」である。「ボヘミアの」、ドイツ語にいう「böhmisch」なる語について、ものの辞書にはこうある:

böhmisch [ˈbøːmɪʃ] a
ボヘミア[人]の
②《俗》ちんぷんかんぷんの; へんてこな
──『新現代独和辞典』三修社

 ちなみに複数の辞書に採用されている例文として、次のようなものがある:

Das sind mir(またはfür mich)böhmische Dörfer.
《比》それは私には何のことだかわからない、ちんぷんかんぷんだ(ボヘミアの地名がドイツ人の耳にはわかりにくいことから)。
──『新アポロン独和辞典』同学社

 この「ボヘミアの村々」という慣用表現は、「スペインの村々」と言い換えられ、チェコ語にも取り入れられている。英語では「ギリシア語」が同様の役割を担うことは周知のとおりである。

 ──これを要するに、「böhmisch」という語は、上述「髪のはえている人に対するハゲ」のケースと同様、当該人物が地理的にボヘミア出身か否かに拘わらず、侮蔑のニュアンスそのものをも表現し得る。「へんてこ」で「わけがわからない」、胡散臭い、どこの馬の骨ともわからない人物というような含意がありそうだ。

 「伍長」のほうは、おそらく定着してしまっている「誤訳」であろう、と最初は思った。ヒンデンブルクは大統領である前に軍人であり、階級を誤ったとは想像しにくい。

 ヒトラーの最終階級は「Gefreiter」ないし「Gefreite」であって、Dudenのオンライン辞書によれば、下から2番目の階級、またはその階級を有する者、という風に定義され、「歩哨に上番することを免除された兵士」というのが、その語源だそうだ。これは現在のドイツ連邦軍でも「Soldat」(兵卒)のひとつ上、訳すとすれば一等兵とか、せいぜい上等兵NATOの尺度ではOR-2に該当するというから、陸自でいう一等陸士ととらえるのが自然である。しかしながら、Wikipediaの記事を読むと、場合によっては英語圏では「corporal」(陸軍の階級としては、ふつう伍長と訳す)にも相当するというから、そうなるとまったくの誤訳とも言い切れない。

 ということは、問題はドイツ語ではなく英語、むしろ英語の解釈である可能性がある。つまり、英語圏の伝記に、英語で「corporal」と書いてあって、それが伍長と直訳されたのではないか。「"corporal"はドイツ語の"Gefreiter"の訳語としても用いられるが、その場合は伍長と和訳するのは不適切である」などと、日本の英和辞典に親切に書いてあるとも思えない。

 たとえば、現代でも、日本語版のwikipediaにある記事などはジョン・トーランドをもとに記述されているらしい。いまだによく読まれているということだろう:

1931年10月14日、シュライヒャーの仲介でヒトラーははじめてヒンデンブルク大統領と会談した。ヒトラーは政府への協力を確約せず、さらに元帥(ヒンデンブルク)の威厳に落ち着きを失ったこともあり、相互に悪印象を与えるだけの会談となった。ヒンデンブルクヒトラーの長広舌にうんざりして「首相の器ではなく、せいぜい郵政大臣どまり」と評している。

 ──ナチ党の権力掌握 - Wikipedia

 トーランドの原著では、以下のくだりである:

“On October 14, 1931, an interview was arranged with President von Hindenburg through General Kurt von Schleicher, who had been one of the Old Gentleman’s closest advisers. Hitler was visibly ill at ease in the presence of Hindenburg, an overwhelming figure with his six-foot-five-inch height and deep, booming voice. Hitler’s lengthy remarks irritated the field marshal, who later reportedly complained to Schleicher that Hitler was a queer fellow who would never become Chancellor; the best he could hope for was to head the Postal Department.”

 -- John Toland, _Adolf Hitler_, Garden City, 1976, 1992.

 ──上記のように、じつはこの劇的な謁見の場面には、ヒンデンブルクヒトラーを伍長と呼んだということは書かれていない。だが、他の箇所に目を通してみればわかるが、ヒンデンブルクというよりも、筆者のトーランドが自著のなかで、くりかえしヒトラーを「corporal」とか「ex-corporal」とか称しているのであった。むろんトーランドばかりではあるまいが、英語の「corporal」が「伍長」の正体だろう。ヒンデンブルクは「伍長」とは呼んでいないが、英語の文献を読んだ人が日本語で慣例に従って機械的に「ボヘミアの伍長」と訳出したのであろう。ドイツ語、英語、日本語と、伝言ゲーム式の翻訳の、意味合いの差異がこのとき現れた。

 ただ、たとえばコンラート・ハイデンがほぼ同時代にのこしたヒトラー伝には、おなじ場面について「Nach der Begegnung sagt der Präsident zu Schleicher, er habe ihm da einen sonderbaren Kerl geschickt; dieser böhmische Gefreite wolle Reichskanzler werden? Niemals! "Höchstens Postminister."」とあり、シュライヒャーにたいして大統領ヒンデンブルク宣くに「ボヘミアの兵隊ごときが帝国宰相様になりたいだと? あり得ん! たかだか逓信大臣だ」──と読めるわけだ。なぜ郵便や通信に関わるポストなのかは不明だが、ヒトラーが大戦時に伝令として活躍した経歴が想起されるから、それを揶揄したものかもしれない。

 ヒトラーボヘミアの出であるという、ある時期に広まっていた誤解をヒンデンブルクも採っていたことは、おそらく間違いがない。としても、往時のドイツ人がチェコスロヴァキアくんだりの辺地を侮って見ていたこともまた確実で、それはいまもあまり変わらない。だから「どこの馬の骨ともわからない兵隊のくせに宰相になりたいだ?」とまで意訳してしまっていいものかわからないが、そういう語感はあると思う。プロイセン軍人の中華思想的なプロイセン=ドイツ中心主義からすれば、ボヘミアなんぞ、オストマルクのさらに属国で、夷狄の蛮地にすぎない。冒頭に述べた要素でいえば、事実誤認と侮蔑の綯い交ぜということになる。つまるところ、むかしからのヨアヒム・フェストの指摘をなぞるだけでしかないが……(下記参照)。そのヒトラーはのちにズデーテンラントを併合し、残りのボヘミアモラヴィア保護領化することになる。スロヴァキアは名ばかりの独立を遂げた。

 いまでも、どこかで聞いたような「歴史認識の問題」にも似た感情論はくすぶっているから、ドイツ語でボヘミアに言及する際は注意を要するものらしい。「(現在のチェコ共和国のことを)チェヒャイ(Tschechei)と呼ぶと、侮蔑のニュアンスを感じるひともいるから、チェヒエン(Tschechien)といいましょう」と、ウィーンでドイツ語の教師がいっていたことも思い出すわけだ。

 紙の文献はなにも手もとにないが、昔とは異なり、いまやウェブの大海は広大にひろがっている。いろいろと端折ってしまったが…… これも、ウラシマ体験だった。

*参考:

Hindenburg habitually called Hitler the "Bohemian corporal" because he mistakenly assumed that Hitler came from Braunau in Bohemia. But it is also possible that he intended simultaneously to stress a certain foreignness and un-Germanness in Hitler, who struck him as "bohemian" in both senses of the word. 

 -- Joachim Fest, Hitler, 781.

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*追記:

本職の大木毅/赤城毅氏が、何年もまえに同様のテーマをTwitterでとりあげておられたとは……

togetter.com

 

*上掲画像はWikimedia.