ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

イジー・メンツルによる架空の村

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  アカデミー賞監督、イジー・メンツルが亡くなった。享年82。数年前に、髄膜炎の手術がかなり大がかりだったと伝えられていたから、その後の容態が案じられてはいた。

 1938年プラハ生まれ。1962年にアカデミーの映画学部"FAMU"を卒えると、やがてチェコスロヴァキアヌーヴェル・ヴァーグの一角として、ミロシュ・フォルマンやヴィェラ・ヒチロヴァーらと並称されるようになった。1970年代の一時期にはヤーラ・ツィムルマン劇団に参加するなど、舞台演出も手掛け、また俳優としても活躍した。

 映画監督としての代表作とされるものには、たいていボフミル・フラバルの原作があった。あるいはヴァンチュラのか。フラバルの文芸作品群に心酔して、その文章を映像表現に翻訳しつづけた職人という印象がつよい。それだから原作ゆずりの時代や体制に翻弄される不条理や、さまざまな種類の人間にたいするやさしげなまなざしが通底する。外国語映画部門でオスカー像を獲得した『厳重に監視された列車』(1966)にしろ、共産党に20年以上ものあいだ公開が禁じられた『つながれたヒバリ』(1969)にしろ、そうみえる。考えてみると個人的には最後に劇場で観たメンツル監督作品であった『英国王給仕人に乾杯!』(2006)も、フラバルの映像化だった。

 そういう意味では、最初に観た作品は例外で、原案・脚本ともズデニェク・スヴィェラークであった。その頃はまだ足を踏み入れたことすらない風土に、おおいに興をおぼえた。1985年公開の作品は、原題を_Vesničko má středisková_といい、英題が_My Sweet Little Village_で、ついでに独題は_Heimat, süße Heimat_、そして邦題は『スイート・スイート・ビレッジ』であった。どれも絶妙な訳だけれど、「středisková」という行政にもちなんだ語をすっとばしたことで、過剰にスウィートである感をいだかせる。ラベルの雰囲気から、ビタリング用のホップを欠く甘ったるい製品と思わせておいて、飲んでみてはじめて意外なほろ苦さに気づく麦酒のごとし。しかも見てのとおり、甘みが明記され強調されているのは輸出向けのラベルだけである。それでも「美し国」というときの「うまし」が「甘し」とも綴られることを思えば、なるほどと思うところもある。どうやら故郷とは甘いものらしい。

 個性ゆたかな村の住人たちが描かれるが、トラック運転手のカレル・パーヴェクと知的発達にやや障害のある助手、オチークの日常を軸に話は展開する。ふたりの葛藤と成長といったところか。撮影が行われたのは、まだ雪の舞う4月から、炎天もまばゆい8月にかけてであったそうだが、ちょうどオチークら若い登場人物たちの人生の春から夏を描いている、ともいえそうだ。演じたのはマリアーン・ラブダとバーン・ヤーノシュで、それぞれスロヴァキアとハンガリーのひとであった。バーンの呑気はなんともいえない味があったいっぽう、ラブダの醸す人のよい親分肌も印象的だった。ラブダは残念ながら数年前なくなっており、葬儀に参列したバーンの姿も報じられていた。じつのところ、若者役をのぞくと演者の多くが、すでに鬼籍の人なのである。

 ほかに、脚本のスヴィェラークも風来の画家の役で出てくるし、ルドルフ・フルシーンスキーは父も子も孫も同姓同名の名優だが、ここでは三世代が共演している。──いつもお馴染みのキャストといったら、そのとおりだ。チェコの映画なんか観るもんか、という現地のひとからよく聞かれる批判が「どの作品も同じ風景に同じ話で、まいかい同じ役者ばっかり」というもので、これはあながち外れていない。15年ほどまえ、チェコスロヴァキアの映画を中心にブログを書いていたころは劇場に通いもしたが、様式美に飽きがきたものか、気がついたらあまり観なくなってしまっていた。メンツルの作品に関しては「代わり映えしない、いつものメンツル映画」というニュアンスをしばしば含む「メンツロフカ」という言い草も聞かれたくらいだ。

 とはいえ、この1985年の農村劇にも姿があったヤン・ハルトルとリブシェ・シャフラーンコヴァーとが、2013年公開のメンツルのオペレッタ劇に主たる役で起用されていたのは、やはり好ましく思えた。相応にお歳を重ねていらしたが、懐かしい顔に出逢えるのもまた、代わり映えしない故郷のよさというわけだ。そういえば、メンツルの夫人はまだ40代で、故人より40歳も若い。とすると、公開時はまだ小学生だったということになる。いずれにせよ、さまざまな世代のひとにとって失われた風景が、良いところも悪いところも実相も虚像も、映画のうちに切りとられて残っている。「新しき波」のマニエリスムもいまや、あらゆる層に郷愁をさそう三丁目の夕日となっている。

 この共産体制下の牧歌的な劇映画は、プラハから50キロほど南にあるクシェチョヴィツェが舞台で、かの地で撮影された。人口は現在でも800人ほどらしい。ビロード革命の記憶も薄れつつある近年になってみれば、「同じ」と思われていた田舎の風景すら、すっかりこぎれいになってしまっている。首を手折って鳩を締め、兎の皮を剥ぎ、自宅の階段の7段目に置いてほどよく冷やした麦酒の栓を抜く──映画に活写された素朴な情景もむろん、いつまでもあるわけではなかろう。じっさい、民主化後に田舎の生活は変わってしまったようだ。たとえば、映画が撮影された時分とは異なり、住民のほとんどは近郊ベネショフやプラハに通勤するようになっているという。

 いっぽうで変わっていない構造もある。文化や生活様式が「首都プラハとそれ以外の地域」で二分されているがごとき国の状況は今でも、すくなくとも人びとの頭のなかではたいした変化は生じていないと思われる。オチークが遠出して、賑わうヴァーツラフ広場に到着したとたん、挿入歌"Praha už volá"が高らかに聞こえてきた場面をよく覚えている。これが言ってみれば、プラハこそ真のチェコスロヴァキアであるかのような暗示でもあり、ひるがえって忘れ去られたかのような地方のうらぶれかたが偲ばれる、じつに効果的な演出なのだった。事情は「東京と地方」の二元論にも似ているから、おおかたの日本人がみても身につまされるのではないか。

 かといって、それだけでは単なる「町の鼠と田舎の鼠」のイソップ童話に終わってしまう。前出のヤン・ハルトル演ずるヴァシェク・カシュパルは、どうやらプラハから来た畜産関係の技術者か何かだったが、頭の弱いオチークを言葉巧みに外出させ、空いたオチークの居室をシャフラーンコヴァー扮するひと妻との逢い引きに利用していた。この件について、ここには都会とはちがうモラルがあるんだ、というふうに抽象的にたしなめられる場面があった。メンツル自身、またスヴィェラークもやはりプラハの出であるが、都会の子だったからこそ、農村の生活を美しく誇張することもできたし、またぎゃくに彼我の差をも批判的な眼で観察することもできたのだろう。

 とはいえ、それが文化批評としても有効なものであるかどうかは、別の問題である。たとえば先にも触れたけれども、階段の7段目に置くと麦酒がほどよく冷える、というのが劇中パーヴェクによって語られる。作品に言及されるさい、巷間でも人気のあるエピソードである。だがはたして、撮影につかわれた家屋の住人によると、そういう事実はないそうだ。階段に瓶を置いたところで、中身はぬるいままだと。けっきょくすべては虚構であるのだが、嘘だろうと観じつつも、しかしことによっては……というぎりぎりの線にあたっているようにも思える。つまり、ありふれた僻村をかけがえのない郷里たらしめんがために、こういう有りそうで無さげな種類のファンタジーを弄するのが上手かったのがスヴィェラークであり、メンツルだったのだとも思う。

 ちなみにメンツルというドイツ姓は首都プラハをのぞけば、チェコ共和国北辺のプロイセンに近かった地方にいまだに多く分布しているようだ。もとよりドイツ語であるからメンツルと読むが、メンズルと発音するのは若いひとに多いように思う。また、文法上の問題もよく知られている。たとえば、2格でMenzlaの形をとるかMenzelaをとるか、あるいは5格でMenzleになるかMenzeleになるかは、外国人である場合をのぞき、当該の家族がおのおの決めることになっているそうだ。したがって、本人か家族に問い合わせないかぎり、記者などは文法のうえで正確な記事は書けない仕組みになっていることになる。そこまでは誰もやらないだろうが。ほか、ハヴェル(Havel)などの苗字にも、この規則は適用される。

 

*参照:

jp.reuters.com

www.bbc.com

 

*上掲画像はWikimedia

 

ベルリーナー

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photo by Leon Ephraïm

 かねてからの告知どおり、チェコ共和国のミロシュ・ヴィストルチル元老院議長が台北を訪問した。日本語メディアでもさかんに報じられている。国内でもゼマン大統領は反対、バビシュ首相は沈黙──と決して一枚岩ではない小国にも拘わらず、中国外交筋はこれを看過することなく、恫喝のごとき言辞をまじえて厳しく非難した。

 同議長がかの地で行なった演説がまた奮っている。ジョン・F・ケネディの顰みに倣いましたとばかり、「私もまた台湾市民である」とやったのだ。民主主義のなんたるかを説き、共産中国の脅威に抗して自由を守らんとする独立台湾に連帯の情を示した。自国の民主政治とて混乱と混沌から抜け出したことなどないが、反共政党所属の議長がそれを棚に上げることはこのさい問題ない。大統領には言わせておけばよいし、首相は黙らせておけばよい。連中はパンダ派(panda huggers)である。

 奇遇にも、王毅外相はベルリーンにいた。「越えてはならない一線を越えた。中国はみずからの主権と領土の統一を守りぬかねばならない」と凄んだ。同席したのは、数年前の来日に際し「マースでございマース」という駄洒落も生んだドイツ連邦共和国のハイコ・マース外相で、しれっとチェコ側を支持して中国外交の鼻を明かした。

 じつにそのベルリーンで1963年の6月、ケネディは件の名演説をぶった。ローマ市民であることが誇りであった古代を想起せしめつつ、東西イデオロギー対立の最前線で四囲を壁に塞がれていった西ベルリーンにあって市民に連帯を示した。「イヒ・ビン・アイン・ベァリーナー」である。

 むかしからよく不定冠詞「ein」が話題になっていたけれど、Wikipediaにもリンクが挙がっていた記事がこの点に関して簡潔でわかりやすい。記事中のアナトール・ステファノヴィチ教授によれば、ベルリーン市民という集団は定義され周知されているものであるから、「Ich bin...」の構文でつかわれた場合、菓子の「ベルリーナー」を指すものではないのは自明である。そのうえで、厳密には当該集団に属しているわけではない話者が、共有する部分が自身のうちにもあることを表現せんとするばあいには、不定冠詞「ein」がとくに用いられる、という主旨である。つまるところ「Ich bin Berliner」であれば「私はベルリーン出身です(あるいは在住です)」という単なる自己紹介になる。いっぽうここで「Ich bin ein Berliner」とやれば「私もまた、ひとりのベルリーン市民なのです」というような意味合いがでてくる。この記事が書かれた背景もまた明白である。ドイツ語を解さぬジョン・ケネディがほんらい無用の不定冠詞を用いたことで「私はジャム・ドーナツです」と発言したとされ、何十年にもわたって揶揄されてきたものだった。

 この笑い話を知ったのは、20年以上もまえのバーデン=ヴュルテンベルク州の町であった。そこでは、たしかに「ベルリーナー」と呼称されていた。

 ……紹介が遅れた。ベルリーナー、あるいはベルリーナー・プファンクーヘンとは、ラードなどの油脂で揚げたドーナツのような菓子で、球体をやや平たくつぶしたような形状を有し、典型的には粉砂糖がまぶしてある。フィリングとしては桜桃のジャムがはいっていることが多かったが、苺類のこともあった。いずれにしても、ベルリーンに住んでいるひとはこれをベルリーナーとはあまり呼ばないから、ケネディの言について現地で誤解や哄笑が生じたとも想像しにくい。

 食物の名前にもいわば「外名」があるのだ。たとえば、広島のひとがご当地風のお好み焼きについて「広島焼き」という名称を用いないことは、よく知られている。また、日本農林規格にいう「ウィンナーソーセージ」の起源は「ヴィーナー・ヴュルストヒェン」で「ウィーン流のソーセジ」を意味するが、ウィーンのひとは同じ品を「フランクフルター」と呼ぶ。フランクフルトに住まう人びとはしかし「ヴィーナー」と呼ぶのである。ついでにピルスナーウルクヴェル(プルゼニュスキー・プラズドロイ)という銘柄の麦酒は、チェコ語で注文するときに「プルゼニュくれ」と、生産地の地名を換喩として用いるひとが多い。だが、当のプルゼニュ市内の酒場でそう呼ぶひとは皆無だった。

 ベルリーナーについては、意外に保守的な文化の一部でもある。それこそウィーンほか南のカトリック圏では、おなじ菓子がクラプフェンと呼ばれ、大晦日や謝肉祭、復活祭といった折々にたべる習慣が各地に残っている。フィリングは杏子のジャムが多い気がしたけれど、これをさして「ウィーン流」と分類するひともある。

 チェコ語ではコブリハと呼ばれる。そういえば、とあるブルノ市民の友人が、市内中心部のコブリハ通りに住んでいたことがあった。中世に専門の菓子職人が集住していた地区であったことから、古語でグラプフェンガッツと呼ばれ、時代がくだってクラプフェンガッセとなり、やがてチェコ語に訳されたという。1960年代にはソ連におもねってガガーリン通りと改称されたが、ビロード革命後に元に戻されたのは幸いだった。いずれにせよ、そのくらい歴史と日常にも溶け込んだ身近な菓子である。かつて「ウィーンの町はずれ」と呼ばれた都市だけに、ここでもフィリングはやはりウィーン流で、杏子のジャムが定番だった。──餡パンでもそうであるが、たべたときにこのジャムの部分が偏っていたり、極端に少なかったりするとがっかりするものだ。たっぷり充填されている不文律などないのだが、見えぬ中身に期待したあげく、結果として失望してしまうのは人生の暗喩に思えなくもない。

 ちなみにヴィストルチル議長の演説は、通訳を前提にチェコ語でおこなわれた。肝心の一文だけは「我是台灣人」とみずからパラフレーズしてみせたが、もとの文言は「Jsem Tchajwanec」であった。ただ、タイワネツという菓子の存在は寡聞にして知らない。月餅あたりをそう名付けたら、飛ぶように売れたりはしないだろうか。それとも中国大使館から営業妨害を受けるだけだろうか。

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

*参照:

jp.reuters.com

www3.nhk.or.jp

www.afpbb.com

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

 

*追記:

 日本語にない冠詞にはいつも注意をひかれる。英語の報道をながめると、媒体によって「I am a Taiwanese」と「I am Taiwaneese」の両方がみられ、興味ぶかい。

nationalpost.com

www.reuters.com

 

葉月つごもり

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L'Apparition

 8月も終わりで、気がつけばもう9月なのである。当たり前だが。早い。

 8月29日は「洗礼者ヨハネの殉教日」であった。事件じたいは「刎首」とも呼ばれるが、正教では「斬首祭」という謂いをするらしい。要は首を刎ねられたのであるが、それを祭ったあげく、直截すぎる名称にしてしまうところになんともいえない趣きがある。

 いつのことだったか。「あしたはヨハネの刑死の日だ」と口を滑らせた記憶があるから、8月28日の出来事だったのはまちがいない。晩夏の週末、公園の敷地内にある店はにぎやかだった。半袖のシャツでは肌寒くなりかけていたが、モラヴィアの田舎とて、星空もさわやかなテラスのテーブルだった。そして、だいぶ酔いもまわっていた。

 なにを言っているんだこの日本人は、という雰囲気になった。それでも委細構わずつづけたらば、ひとりがスマートフォンWikiなんとかでも見たのだろう、ああ、わかった、たしかにそうだな、と言ってくれた。8月29日、聖ヨハネの……

 ヘロデ王の妃ヘロディアは、亡夫の兄弟に嫁いだものであったが、そのことを戒律に反すると咎められたがために、ヨハネに殺意を抱いていた。あるとき、ヘロデ王の生誕祭の饗宴があり、ヘロディアの娘・サロメが踊りを披露し、列座の客をもてなした。王は、褒美を取らせるから、なんなりと申してみよと宣う。少女は母堂にお伺いをたてる。すると、当のヘロディアヨハネの首を所望した──

 どうしてこの話になったのか、思い出せない。おそらくまた「ハラキリ」を揶揄する発言がその場でとびだしたのだろう。馬鹿のひとつ覚えというやつで、言うに事欠いてハラキリハラキリと囃すから、こちらもいいかげんうんざりして口から出まかせで抗弁したまでだ。酔っぱらい特有の自由連想法によって、この話題が口腔からでてきた。思考は口のなかでつくられる。

 とはいえ不勉強な不肖の身であるからして、この手の話となると大昔の学校の授業の記憶に俟つしかない。──デューラーティツィアーノ、クラナーハ、カラヴァッジョ、レンブラント等々、とくにルネサンス期から好んで絵画に描かれた。近代ではギュスターヴ・モローがとりわけご執心で、百も二百も似通った絵を遺している。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』は、リヒャルト・シュトラウスのオペラとしてもよく知られているが、独自の趣向をくわえたケン・ラッセルの映画『サロメ』は比較的あたらしい。それらをひっくるめて、たぶん比較文学の文脈で鑑賞したのだ。そのときの比較の対象が、三島由紀夫の映画『憂国』であった。

 だが、聴いている側にしたら意味不明だったことだろう。どうしてハラキリの話からクビキリの話になるのよ。お侍さんが腹を召すにしても、けっきょく介錯人が首を落とすことになるのだから、切腹とは首刎ねに通ずるのだ。面倒だからそういうことにしておいた。いちばん喰いついてきたのは、その場にいた顔なじみのユダヤ系の男で、新約とはいえ聖書の話で日本人に一本とられるのが厭だったのかもしれない。stít(首を刎ねる)という動詞がどうしても出てこず、先方はそのたびに訂正してくる。こっちも酔っているから、言い直しさせられても口が覚えていなくて、つぎにはまたuřezat(斬る)とか、popravit(処刑する)とか、別の動詞で代用してしまう。なかば意固地になって。いずれにせよ、日常生活を営むうえでは、まず要らない語彙ではある。

 夕闇から虫の声がひびき、涼しい風が吹いてくる。ゆくりなく酔狂の脳裡に浮かんだのは、別の土地の別の王族であった。しかしサロメとは似ても似つかぬが。

 この時節、ウェールズ公妃ダイアナの命日が巡ってきては多少の記事が出来する。わすれもしない。あのとし博物館で研修を受けていた。昼下がり、ほかの実習生ふたりといっしょに待機していたら、指導役の学芸員の先生が部屋にはいってくるなり「おい、ダイアナさんが亡くなったぞ」と仰ったのだった。事故死のニュースによほど衝撃を受けたのだろう。ダイアナ妃本人はともかく、そのことばが記憶に残っている。そして8月末になると思い出したりする。きっと頭の発酵樽のなかで「おい、夏が終わったぞ」と転換されつつあるのだろう。──もっとも、さいきんは次男坊の嫁しか話題にのぼらない気もする。が、そのハリー王子とウィリアム王子とによって母妃の像が建立されるという昨日の報道は、ちょっとした例外ではあった。除幕を来夏にひかえるという。

サロメ (光文社古典新訳文庫)

サロメ (光文社古典新訳文庫)

*参照:

madamefigaro.jp

 

*上掲画像はWikimedia

プルゼニュのパットン記念館

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photo by Ye R

 プルゼニュ市の〈パットン記念館〉を訪ねたのは、もう何年も前である。2005年に複合施設「ペクロ(地獄)」内に開設された資料展示館であった。ことし6月の報道によると、その古びた「地獄」とは仮の住まいであった由で、もとより本来の物件の修繕が完了しだい、そちらに移転する予定であるのだという。開館からはや15年が経過しているわけだが、行政となるとなおさら、所詮そういうテンポの国である。

 第三帝国保護領となっていたボヘミアの西部が、ジョージ・パットン将軍の米第3軍に「解放」されたのは1945年も4月から5月にかけてであった。ところが、数年のちに天下をとったチェコスロヴァキア共産党は、これを「神話」であると否定しはじめた。つまり、無かったことにしようとした。それで当時の御用ジャーナリズムは、真実を覆すことに血道を上げた。曰く、プルゼニュ市に関しては5月5日、独力によって解放されたのであって、外部の手はいっさい借りていない、最大の功があったのは革命国民評議会とシュコダ社の労働者たち、そしてむろん共産主義者らである……等々。要は、チェコスロヴァキアはソヴィエト・ロシアの同志である赤軍とわれわれ人民みずからによって解放されたのだ、米帝の出る幕などあろうはずがない、という趣旨である。

 共産党による「歴史の改竄」は手が込んでいた。たとえば、プルゼニュに向かう途中で撃墜されたアメリカ人パイロットの像というのが、近郊クラトヴィの目抜き通りに立っていたそうだ。しかしこれは、ちかばの目立たぬ公園に移築されて、銘板が共産主義の英雄ユリウス・フチークの言辞に書き換えられた。「人民よ、めざめよ!」──これでアメリカ人にはもはや見えない。だが、おまえらこそ目を覚ませ、と言いたくなるのは、なにもわたくしだけではあるまい。

 記念館では、その手のエピソードの数々が明かされ、そうしたプロパガンダのための情宣材の展示が中心を占めているようにみえた。つまり、迂遠な方法論によった、パットンら米軍将兵の名誉回復のための施設であった。

 さて、解放から75年が過ぎた2020年。8月12日に〈パットン記念館〉を訪れたのは、アメリカ合衆国国務長官マイク・ポンペイオである。解放記念日に訪問を予定していたが、悪疫の世界的流行によって、外遊を取りやめざるを得なかったらしい。

 政治家にして、異色の経歴である。ハーヴァードのロースクールに学ぶ前は軍人であった。西ドイツに駐留した第4歩兵師団第7騎兵連隊にて、戦車小隊の小隊長を務めたとされる。のち中隊副官から、大隊の車輛整備隊へ異動するなどして勤務し、大尉で除隊した。軍を去ったのは湾岸戦争の停戦後とはいえ、イラクの戦地には立ちこそしなかったものの、米ソ冷戦のさなかに最前線の戦闘部隊にいたことは特記される。そのポンペイオが、合衆国機甲部隊の草創期の指揮官でもあった伝説的な将星の名を冠した施設を観覧するというのだから、われわれ外野にも感慨がつたわってくるほどであった。立派な名前とは裏腹の、ひなびた博物館ではあったにせよ。

 翌13日、プラハチェコ共和国議会上院にて演説をぶったポンペイオは、それかあらぬか機嫌も上乗に見えた。チェコスロヴァキアの独立とは1918年にはじめてアメリカにて宣言されたものだったことや、先年ヴァーツラフ・ハヴェルが合衆国議会で説いた文言を想起させるなど、じつに名調子であった──チェコスロヴァキア国境からいくらも離れていないバイロイトのちかくで、若い尉官として勤務していたころ、こうして合衆国の国務長官プラハに立つことなど想像もできなかった。共産圏だったからだ。おもえば、わが中西部・カンザスにはモラヴィアなどから逃れてきた移民も多かったし、故郷のちいさな町にはプルゼニュのひともいた。昨日は、そのプルゼニュ解放75周年をともに祝う機会にめぐまれた。合衆国はナツィズムから、そしてコミュニズムから自由を勝ち取らんとするチェコスロヴァキアを応援してきた。われらにはつねに絆がある──というようなことを言われて、感激にうち震えんばかりの上院議員たち。すくなくともそう見えた。

 しかし、現状でもっともトランプ政権が強調せんとしたことはやはり、中国共産党の脅威であった。そのためにはあらゆる分野において、中国企業ではなくアメリカ企業をパートナーとして選択してほしい、と名代人はちゃっかり注文をだした。なかんづく報道陣が気になったらしいのが、ドゥコヴァニ原発の新規プロジェクトをめぐってウェスティングハウスを推していたことのようで、のちに首相をとりかこんで詰問していた。東芝が扱いに苦労していたウェスティングハウスである。

 そのアンドレイ・バビシュ首相がポンペイオの傍らでいつになく緊張した面持ちだったのは、さもありなん。しかし、とりわけ親露・親中と思われていた大統領ミロシュ・ゼマンとも会談するように申し入れてきたのは、むしろチェコ側外交筋のほうであったという。この悪名高き大統領にしてからが、米国との関係改善に舵を切らざるを得ない状況が、まさに今年になってから国内外で生じているわけである。

 1月にヤロスラフ・クベラ上院議長が急死した一件が、国内ではもっともつよい衝撃をもたらしたのは間違いない。翌月に台湾訪問を控え、これを阻まんとする駐プラハ中国大使館から執拗な脅迫をうけていたと報じられた。それこそシュコダ社など国内企業が中国での取り引きを禁じられることになれば……とまさに地獄の責め苦をうける心もちであったにちがいない。死因は心筋梗塞とされたが、夫人による証言などもメディアに取り上げられるにおよんで、さらに折しも一部の台湾メディアが「中共ウイルス」と呼ぶ例の悪疫が猛威をふるいはじめたことも相俟ってか、国内世論が一気に反中国に傾いた観がある。現職のプラハ市長が台湾留学の経験もある医師、ズデニェク・フジプであったこともおおきい。今回、ポンペイオを議場に迎えた議長が後任のミロシュ・ヴィストルチルで、今月28日から故人の遺志を継ぐかたちで台北に飛ぶことになっている。

 なにか似通った状況が世界から報じられてくるのは、やはり米国の外交攻勢が各地でさかんに展開されているからであろう。ポンペイオがしばしの外遊自粛ののち、最初に訪問したのが5月半ばのイスラエルであった。その数日後、テル・アヴィヴ駐箚中国大使が謎の頓死を遂げた。「プラハの仇をテル・アヴィヴで討つ」というような物語をつい想像してしまうところだが、くわしい因果関係が明らかにはなることはあるまい。

 とまれ、ポンペイオは主として、中国との関係を深めるイスラエルに釘を刺しに行ったのだと推測されていた。先端技術やチャイナ・マネーをめぐる諸々であるが、なんといっても、中国企業が来年コンテイナー・ターミナルを開業するというハイファの港は、地中海を管轄する第6艦隊が日常的に寄港する米海軍にとっても重要な拠点なのである。豪・ポート・ダーウィンにも見られたやりくちで、中国が米艦隊の動きを監視する体制を地球規模で整えつつあるのだ。

 しかしこの8月14日になって、もうひとつの意図であったとおぼしきところが明かされた。イスラエルアラブ首長国連邦とが国交正常化にむけて同意した件である。近年、その兆候が観測されていただけに、ひた隠しにしてきた夫婦関係が公になったにすぎぬ、という評論家もいる。パレスティナ人の猛反発をみるに、1938年のミュンヒェン会談の合意内容に憤懣を募らせたチェコスロヴァキアの民衆を連想するところでもあるが、今回は単なるその場しのぎの宥和策ではなく、両者の実利が伴っている。いずれにせよ歴史的な展開にはちがいなく、イランの狼狽ぶりとて隠しようがない。

 こうした百年ほど前の欧州情勢を見るような錯綜した外交戦に、ポンペイオにもまた帝国主義時代の外交官の姿が重なるのである。見るからに押しの強そうな御仁ではあるが、ひょっとしたら、かつてパットンが麾下の将兵にぶちあげた檄を思い出して自らを奮い立たせているのかもしれない。──アメリカ人が競うはつねに、勝たんがためである。それだからこそアメリカはこれまで、そしてこれからも戦に負けを知らぬのだ。

パットン大戦車軍団  (字幕版)

パットン大戦車軍団 (字幕版)

  • 発売日: 2015/01/03
  • メディア: Prime Video
 

 

 

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マター=オヴ=ファクト

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photo by Carina Chen

 夏のある日。翌日にはダブリンを発つ予定だった。ファーストフードの昼食を終えようというとき、にこにこしながらそいつはやってきた。──チャイニーズかい、とはまたご挨拶だ。そう訊かれると、心外だな、と感ずるのがわれら日本人の心性の妙なところだ。──ジァパニーズだよ。

 腹減らないか、とさかんに訊くのが可笑しかった。腹へってるなら、うちに来ないか、と誘うのである。おいおい、見てたろう、いま喰いおわったばかりだよ。男は高校で文学を教えていると自己紹介した。母方の祖母がヒトラーから逃げてきてアイルランド帰化した、とも語った。夏季だけは、外国からやってくる学生に英語を教えているが、教室にはスペイン人やイタリア人が多い。しかし、連中の発音はひどすぎる。あいつら人種的に問題があるんだ──などとユダヤびとが宣うのだから、やはり教科書を読んでいるだけでは世界は理解できぬものなのだと感心した。

 どこに住んでるの、と質問はつづいた。いちどは市内の街路の名を思い出そうとしたけれど、まともに取り合う必要もないかと思い直して、モラヴィアに住んでいると応えた。──ははあ、チェコスロヴァキアか。

 当時はチェコ共和国スロヴァキア共和国が分離してから10年経つか経たぬかという時分で、英語圏ではまだチェコスロヴァキアと呼ばれることが多かった。ひとはチェク・リパブリックと2語で言い表すのを避けたがったのだ。それを知っていたがゆえ、先回りして「モレイヴィア」と言ってさしあげたのだが、向こうはわざわざチェコスロヴァキアと旧称を用いてきた。

 けだし大正のむかしにも、ぞんざいに「チェコ」という同時代に存在しない国号を慣用的に用いてきた日本語話者と真逆の運用である。チェッコでもいいけど。英語からの訳語たるチェクならともかく。極端な場合には、たとえば中世などを語る際にもチェコと記したりする向きもあったが。類似の例として、この島は幾千年もまえから中国の領土だ、というようなレトリックのおかしさにも気づくことであろう。

 さて往時、欧州の統合プロセスも進んでいた。それだからスロヴァキアのような小国の分離独立も成り立ったものか。しかし、男はEUには反対だと言った。異なる諸文化を強引にひとからげにするのは野蛮である、と。だいたい島嶼と大陸とではメンタリティに隔たりがある。大陸のやつらは本質的に社会主義者なんだ。ドイツやフランスをみれば明らかだろう、と。

 じゃあ、チェコスロヴァキアはどうだ、と戦線を拡大してみた。すると──「連中は、マター=オヴ=ファクトなんだな」という、謎のようなこたえが返ってきた。

 その熟語は日本人も学校で習うので知っているけれど、じっさい(アズ・ア・マター・オヴ・ファクト)どういう意味なのか。いや、「as a matter of fact」じゃなくて、「matter-of-fact」さ。ハイフンでつなぐほうだ。要するに、何が起ころうが連中はこうなのさ──と言って、両の手のひらを上に向けて肩をすくめるジェスチャーを示した。緩慢な動きで、口を半開きにし、焦点の定まらない視線は宙を漂っている。

 事実に即して、事務的、無味乾燥な、平凡な……辞書にはいろいろな訳が載っているが、「感情をあらわさずに」というようなニュアンスは通底しているようだ。アパシーとか、あるいはドイツ語でいうザッハリヒということかい。それもちかいかな。つまるところ、連中にはパッションがないのさ。

 このパッションというのも、ゲイのひとたちが好んで用いる語であるが、その意味するところはよく存じ上げない。ただ、文化史的な文脈でいえば、周知のようにキリストの受難をも意味する。そこで連想したことを言って反駁してみた。──じゃ、ヤン・パラフはどうなんだ。あれをパッションといわずして……

 「チェコ事件」というのも聞き手を莫迦にした表現である。「チェコスロヴァキア事件」ならまだましだが、いずれにせよ、ほかの事件がいっさい起きない国か、無知なおまえは他の事件など知るまいというふうにもきこえる。しかし「ワルシャワ条約機構によるチェコスロヴァキア侵攻」と呼ぶのも、長すぎて不便である。チェコ語では端的に「チェコスロヴァキアの軍事占領」と言われることもあるいっぽう、もう片方の当事者らには「ドーナウ作戦」という軍事的呼称もあれど、一般にロシア語ではどうやら「チェコスロヴァキアへの軍事介入」と即物的に呼ばれるものらしい。とまれ「プラハの春」として知られる政情を封殺するための侵攻であったのだとすれば、「プラハの夏」と呼ばれないのはなぜだろう。

 ときは1968年8月20日のことであった。やがて秋が去り、冬がくるに及んで、哲学部に学んでいた青年が業を煮やし、ヴァーツラフ広場で焼身自殺を図った。それがヤン・パラフであった。病院に搬送されたのちもしばらく息があって、医師の聴き取りにも応じていた。──Proč ses to udělal? (なんであんなことしたの)という女医の問いに、人びとの目を覚ますために……と不明瞭ながら微かに聞こえる声。音源が凄絶な様相をいまに伝えている。その聴取の翌々日にあたる1969年1月19日、あえなく絶命した。弱冠といえばまさに弱冠の享年20。ちなみに近年では、50周年の節目にあたる2018年に、同名の映画が制作・公開されている。

 いい質問だ──とは、応えに窮した者が口にする常套の表現でもある。ヤン・パラフ。そうだな……あれこそ、偉大なる例外だったんだな。戦車がやってきても、あの国では皆こうさ──と白痴めいた表情で肩をすくめてみせる。なにが生起しようが白けているマター=オヴ=ファクトの民にあって、あえて闘いに挑む者などない。ヒトラーのときもそうだったが、軍すら動かなかった。やつら口を開けて見ているだけだ。じつにヤン・パラフはそんな風潮に抗議したのさ。ひとりパラフには、パッションがあったんだ──

 とちゅうからダブリン最古のパブに移り、ギネスの杯を傾けながら談義はつづいた。その間なんどもやつが強調していたことは、生きるためにはパッションが必要なんだという趣旨のことだった。曰く、マター=オヴ=ファクトは駄目だ。きみもパッションをもつことだ。

 そのうち酔いがまわってくるも、けっきょくこちらの腹は減らなかったし、またいかなるパッションも感じなかった。それどころか、暑さも相俟って、ときおり深くマター=オヴ=ファクトに陥りそうになる。

 それで、すこし歩いてから、オコンネル橋の袂であっさり別れた。西日が照っていて、リッフィー川のみなもが眩しかった。

Jan Palach

Jan Palach

  • メディア: DVD

 

アメリカの王子

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photo by Benjamin Rascoe

 あの夏、プロヴァンスを訪れる前、アメリカ合衆国にいた。

 シカゴ・オヘアー空港に着いたとたん、日本やヨーロッパとの違いに戸惑った。アメリカは「でかい国である」とか「自助努力の国である」と俗に言うのは知ってはいても、現地にゆくと実感をともなって理解させられる。しかも自助といったって、現在のように何につけてもネットで検索して手軽に手配できてしまうような時代でもなかった。

 この7本の滑走路を擁する巨大な国際空港にだって「おもてなし」など見あたらなかった。宿泊施設のリストが掲示してあって、古びた公衆電話が設置されていたのみ。成田の東京三菱銀行で米ドル紙幣を調達してきてはいたが、電話をかけるコインがない。カードがつかえるような機能的な電話機ではなかった。付近に両替機らしきものもない。右往左往していると、休憩中の作業員とおぼしき黒人男性が硬貨をくれた。ハーフ・ダラー。つまり50セント硬貨であった──と思い込んでいたが、よく考えてみると、そんなはずはない。よもや都合よく書き換えられた記憶ではないのだろうか。刻印された表面の意匠はほかでもない、ジョン・F・ケネディの横顔である。

 ホテルの部屋にたどり着くと、すぐにブラウン管に向き合った。スマートフォンがまだなかったころの一般的な行動様式だ。そこでニュース番組のアンカーやリポーターが大騒ぎで伝えていたのが、自家用飛行機を操縦したジョン・F・ケネディ・ジュニアが消息を絶ったというニュースであった。

 この事故は、先日たまたま観たドキュメンタリー『メーデー! 航空機事故の真実と真相』でも取り上げられていた。自家用のパイパー・サラトーガ機を自ら操縦してニュー・ヨークの夕景を眼下に眺めたまではよかったが、目的地であったマーサズ・ヴィニヤード島周辺の天候が悪化。予定された出発が遅れていため日が没してしまい、さらに濃霧によって視界がなくなったものと思われ、結果として空間識失調に陥ったと推定された。JFKジュニアは、計器飛行の訓練を不定期的に受けていたものの修了には至っておらず、有視界飛行の資格しか有していなかった、と説明されていた。けっきょく、飛行姿勢を立て直すことができず、同乗した妻と義理の妹とともに、機体背面から海中に没した──

 さて翌日。空港にもどって搭乗したのはATR-42。小柄な双発ターボプロップ機で、パイパー社の単発機ほど小型ではないにしろ、そうとう怖かったのを覚えている。向かった先は、アーバナ=シャンペインの空港で、おおよそひとつの大学のなかにある空港だと思ってよい。実質的な飛行時間は45分くらいだったと思う。離陸して急上昇したかとおもえば、すぐに着陸のため急降下するような按配だった。体感的には墜落である。いまだに近距離路線のATR機には乗りたくない。

 「特攻野郎Aチーム」が移動に使用していたような大型の乗り合いタクシーで、じかに大学の寮に向かった。寮といっても、毎日ハウスキーピングの小母ちゃんが出入りするような高層の建物だ。こういうところに学費や寄付金の水準やその国の中間層の生活水準が如実にあらわれるものかもしれない。──とまれ、待ち合わせた「先生」に、ケネディ・ジュニアが亡くなったそうですねと、なにげなくニュースの話題を振った。すると「優秀な学生でした」というから、「教え子だったんですか……」と呆気にとられてしまった。でかい国にしては、世間は狭いものらしい。

 建国このかた共和制の土地では、他所のロイヤル・ファミリーにも似たメディアの扱いとなるケネディ家である。しかもJFKの忘れ形見となれば、端麗な容姿もてつだって、つとに注目の的であった。が、死してなお、いまだにそうらしい。たとえば、没後20年の昨年にも伝記が刊行されていたが、書名は『祭り上げられたアメリカの皇太子』とでも意訳しておこうか。この著者スティーヴン・ギロンもまた、ブラウン大のティーチング・アシスタントとして学部生のジュニアに相対したひとりであった。講義のテーマとしてJFKの大統領時代をとりあげたが、ジュニアが講義室の前方に陣取ったため、頭のなかが真っ白になってしまったというエピソードはいかにもほほえましい。いずれにせよ、あらゆる意味でアメリカの寵児であった。

 日本でも、1963年に初の「日米宇宙中継」の電波にのってJFK暗殺の報せがはいった顛末は、団塊の世代の思い出話によく聞く。それで、当時3歳のジョン坊が亡父の柩に敬礼した姿も多くのひとに馴染みがあるわけだ。そのイメジがあるだけに、公民権運動とJFKの国から伝えられる最近の報道には気を揉んでいる向きも多いのではないか。

 ──とりとめがなくなってしまったが、「米大統領選挙まで100日」という報道で思い出した、由無し事であった。あれから時が経って、陰謀論めいたゴシップ記事もいろいろ出来した。はては「じつは生きている」とか……。しかし、じっさいにJFKジュニアが生きていたならば、かの地の有権者とて「トランプか、バイデンか」などという究極の選択めいた選挙を迫られることはなかったことであろう。

 

*参照:

www.afpbb.com

www3.nhk.or.jp

rollingstonejapan.com

www2.nhk.or.jp

恐怖の大王

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photo by Diederik Smit

 南欧の夏は、日本ほどの降水量はない。したがって湿度が低いから、日中は鎧戸を閉め切っておけば室内温度の上昇をふせぐことができ、家屋内は暗いがすごしやすい。気候変動の影響で常識も変わりつつあるが、あの夏はまだそういう事情の南仏プロヴァンスだった。

 1999年の夏、南独フライブルクでの予定までには余裕があった。それで思い立った旅だった。ニースからフランス国鉄に俟ったが、当時はまだその路線にはTGVが走っていなかったから、鈍行での移動となった。はたして、すこしく老朽しかけた車内の温度は壊れたサウナを思わせた。地獄だった。GPS機能のついたスマフォなどない時代だから、いつ到着するのかと不安にも苛まれた。水が必要だったが、車内販売のワゴンすらやってこなかった。ほかに旅客もいなかった。干からびて死ぬかと思った。恐怖といえばそれが恐怖だった。

 だからサロン=ド=プロヴァンスの駅に到着したさいは、まさに這う這うのていであった。とまれ、初級文法を思い出しつつ旅行会話集で覚えた語彙を組み合わせただけで、タクシーの運ちゃんに話が通じたのには驚いた。向こうも驚いていた。ATMに寄ってもらい、予約してあった宿に行ってもらった。駅からさほど離れていなかったが、列車内で体力を消尽していたから仕方がなかった。

 暗闇に目覚めると、閉じられた鎧戸から煌々たる外光が漏れていた。すでにその日が明けていた。ともかく町の中心部へ移動した。そうして、ノストラダムス博物館を拝観し終え、たいして広くもない広場に出ると、訪問客が三々五々、くつろいだふうで散策していた。

 どのくらい経ったものか。やおら陽の光が翳ってゆき、そいつがやってきた。子どものころから待つとはなしに待っていた「恐怖の大王」であった。

 ノストラダムスとして知られる、ミシェル・ド・ノートルダムは1503年、プロヴァンスのサン=レミの村で生まれた。アヴィニョンモンペリエに学び、医者として活躍したのち、サロンの町に住まい、1555年以降『百詩篇』の刊行を開始した。これが反響を呼び、かのカトリーヌ・ド・メディシスのような影響力のある読者を獲得した。のちの1566年、同地で没した。……だが、こうしたことはわれら一定以上の世代にとっては、小学生のころ以来お馴染みの常識であろう。

 とはいえ、訪問そのものは節目とか禊とかいう意味合いを有していたわけでもなんでもなかった。そのときすでに「大予言」などという胡乱なテーマの書物などには触れぬようになって久しかった。というより、ほかの真面目な文献だけで手一杯だったというところかもしれない。

 南仏の巡礼を思い出す機会は、ずっと後年にやってきた。チェコ共和国にて、いわゆる「知られざる歴史」を扱った書物を薦められたとき、そんなもの……と言いきれなかったのは、なにも先方が「お客様」の立場であったからだけではない。が、ノストラダムスじたい関係なくとも、その手の読み物は子どもが読むものだと思い込んでいたこともたしかであった。というのも、活字とあらば雑食するたちで、中学生まではときたま学研の『ムー』誌をも嗜み、高校生まではなんとかいう医学博士のノストラダムス解釈すら愉しんでいたのだ。だからといって、チェコ語であの筋の荒唐無稽を読めとなると、それも手に負えない気がした。むろん、学問的な研究もあるわけだから、書名にノストラダムスの名をちらと見ただけで十把一絡げにしてはならないが。

 ひょっとすると、いまどきの中高生には、あやしげな如何わしい書物をそういうものとして味わう機会など絶無なのではないか。情報化がすすみ、手のひらの端末でググって、瞬時にあらわれるWikiなんとかの記事を斜め読みしさえすれば、真偽は白黒はっきりしたと思いがちである。結果として、いわゆるリアリティ・ショウを真に受けたり、SNSに蔓延する根拠薄弱な中傷や風聞を鵜呑みにしてしまうのではあるまいか。おとなだって大同小異で、要するに、なにか大切なことを忘れてしまった風情なのだ。

 ──五島勉の訃報に接し、そんなことを思った次第。

 

*参照:

bunshun.jp

www.asahi.com

 

アードルフ・ロース生誕150周年

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Looshaus_Michaelerplatz.JPG

 当世の流行りとはいえ、銅像を打ち倒す運動には賛同しかねる。偉大な篤志家であったが奴隷も所有していた──ということになると、ヴァンダリズムの対象になるらしい。だが、200年も300年も遡及して往時の常識を今日の価値観で断罪することに、妥当性は微塵もない。E・H・カー宣く、歴史家は裁判官にあらずと。あるいは仮に裁判であったとしても、後出しじゃんけんよろしく遡及してひとを裁くことはできない。……まあ、その、壊さないでほしい。

 さて、しばらく前のことになるが「感染症は建築やデザインに影響を与えてきた」という記事が出来した。コレラ結核、インフルエンザが近代建築を生み出したのだとすれば、今般の世界的なパンデミック騒ぎをきっかけに、これからの建築や街の景観とて変わってゆくのも道理だろう。──そこでとりあげられた建築家のひとりに、アードルフ・ロースがいた。ロースといえば、ことしは生誕150周年ということで、ゆかりのある各地ではいろいろの企画展も開催されている。とはいえ、このご時世であるから客足のほどはわからない。

 ロースのイデオロギーは、なんといっても「装飾は犯罪である」というテーゼとして知られる。クリストファー・ロングによれば、かの「装飾と犯罪」じたいは1908年に手書きの原稿として成立していたらしいが、ウィーン文学・音楽協会の講演で発表されたのは1910年の1月21日。のち1913年にフランス語で出版され、オリジナルのドイツ語版のほうが新聞紙上に出来したのが1929年になってからというから、いかに地元で問題視されていたのかと憶測してしまう。20年ものあいだ、お蔵入りしていた原稿と捉えてよいのだろうか。

 ドイツ語で、Verbrechen──すなわち「犯罪」だと断じるならば、装飾を禁じる法律が存在しなければならないが、そんなものがあろうはずもなく、ロースの勇み足であることは言を俟たない。当時のゼツェスィオーン(アール・ヌーヴォー)の隆盛がよっぽど面白くなかったと見える。

 英語では題して"Ornament and Crime"である。読んでみると、これがまた辛辣というか過激なのである。今の価値観でみれば、話の筋は通っている反面、表現についてはとうてい容れられることはないだろう。

 ──2歳児はパプア人同様、不道徳である。パプア人は敵を殺し、これを喰らう。このばあい犯罪には当たらないが、現代人が誰かを殺めて食に供したならば、その者は犯罪人ないし変質者である。パプア人はまたタトゥーを施す。自身の肌に、舟に、舵に、櫂に、つまり手に入れるすべてのものに。だが、犯罪ではない。現代人でタトゥーを入れている者は、犯罪人か変質者である──

 どえらい偏見に思える。とまれ大意としてごく恣意的に抄訳させてもらえば、理性にもとづかない行為は、これすなわち犯罪であって、パッションにもとづいて建築に装飾を施すこともまた同様、とロースはつづける。現代人は経済的合理性の観念をもたねばならない。だいたい、工賃がよけいにかかってしまうのは合理的ではない。シナの彫工が15時間も作業するいっぽう、アメリカの労働者はたった8時間の労働時間である。結果として生産された装飾が施された品と、されていない品が同一の価格で販売されるならば、いずれに理があろうか。労働の無駄はすなわち健康の無駄であり、原材料の無駄は資本の無駄である──云々。

 ロースの言においては、すこしく英米が理想化されすぎている觀もなくはない。とりわけアメリカ合衆国についてで、日本人なら雪村いづみの「アメリカでは」を思い出すところだろう。映画『君も出世ができる』の挿入歌である。「〽︎アーメーリーカでは……仕事は仕事、遊びは遊び。アーメーリーカへゆけば、誰も意味なく装飾しない」というわけだ。さいきんTwitterなどで感染症対策を単純に国際比較し、現地政府がいかに優れているか褒めそやす海外在住者が「出羽守」のそしりとともに非難されていたけれど、そんなことも連想してしまう。

 パプア人のほかには「先住民、ペルシア人、スロヴァキアの農婦」が槍玉に挙がるが、「侮蔑の滝」もここまであからさまに表明されるとむしろ清々しい。連中は未開の土人なのであるから、その製品に装飾が施されておっても仕方がない、というニュアンスだ。「活動家」らによって、ロースゆかりの建築物が破壊されぬことを祈るしかない。だが、いわずもがな、これもロースひとりならず、当時の価値基準の為せる業である。アメリカの件にしても、いまでこそ「失敗国家」などとも囁かれるほどの為体であるが、19世紀と20世紀の転換期においては、まだまだ希望を抱かせる若くて先進的な理想の新大陸の星であった。

 そんなロースは、自身が設計を手がける建築によって思想を具現化してゆく。とりわけウィーンのミヒャエラープラッツに1911年、王宮に向かい合うように建てられた、通称《ロースハウス》は、建設当時「醜悪」とされ物議を醸した。ファサードにあって然るべき装飾がなかったのだ。それがいまや、同地の観光資源の重要な一部なのであって、市立博物館の上のほうのフロアの一画までがロースを扱った常設展示に捧げられているのだから、時代は変わるものだ。ちなみにほかにも同市内の《カフェ・ムゼーウム》や、パリの《トリスタン・ツァラ邸》、プラハの《ミュラー邸》などなどといったロースの仕事は、建築ファンのみならず、ゆきずりの観光客にとっても価値ある見どころになっていることは周知のとおりである。

 ロースが生まれたのは1870年、オーストリア=ハンガリー帝国のブリュン(ブルノ)であった。お蔵入りしていた「装飾と犯罪」がフランクフルトの新聞で陽の目を見たころ、チェコスロヴァキア領となっていたロースの生まれ故郷には、のち「ユネスコ世界遺産」となる建築が建立された。ミース・ファン・デア・ローエによる《トゥーゲントハート邸》にほかならない。「Less is More」の哲学とは、ロースのイデオロギーを洗練させただけのパラフレーズにも思えるほどだ。20年も経つと「装飾不要論」はひろく受け容れられ、満を持して機能主義建築が起こりつつあったのだ──とざっくり要約しておこう。

 ブルノ市内にあるロース生家の跡地には、いまはホテルがたっている。ところが現代人から見れば、このホテルというのがロースハウスなんぞよりもよほど「醜悪」である。設計のズデニェク・ジハークにはわるいけれど。

 くだんの《ホテル・コンティネンタル》(1961-64)は、「ブリュッセル様式」と呼ばれる建築に属する。1958年のブリュッセル万博が、チェコスロヴァキアの産業界にとって、ポスト・スターリン時代にふさわしい、あらたな様式を模索する契機となった。とはいえ今日的視点からみれば、ソーシャリスト・リアリズムの一変種といった趣きがある。もちろん個人的で主観的な感想にすぎないけれども、この様式の代表格たる乗用車《タトラ603》などには現代的な美も感じられるとはいえ、地方都市にある同年代の駅舎などは見るに耐えないものも多い。それでも、あれが新しいとされた時代があったこともまた忘れてはならない。

 過去の事象を今の価値観で断じても意味がない。とすると、なおさら驚くべきは、ロースの建築における、けっして古びたように見えない先進性であって、これはいかなる理由にもとづくのであろうか。控えめに残存する装飾すらも、ポストモダーン風の新しさだと思えてしまう。しかしこれも所詮、現代人の後出しじゃんけんなのだろう。

装飾と犯罪―建築・文化論集

装飾と犯罪―建築・文化論集

 
にもかかわらず――1900-1930

にもかかわらず――1900-1930

 

 

*参考:

www.newsweekjapan.jp

 

*上掲画像はWikimedia

オリンパスE-P1

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 「オリンパス、カメラ事業を売却へ」の報に接した。たまたま、イタリア語の文法をやさしく解説してくれている本を読んでいて、最初の例文が「ローマは永遠なり」を意味する《Roma è eterna.》だった。だが、永遠につづくものなどないのだ。

 思いかえしてみると、フィルムを用いないカメラには永らく懐疑的だったのだろう。そうして世間様にだいぶ遅れて、ようやく使い始めた所謂「コンデジ」には不満もあったが、しばらくは便利に使っていた。折しも、それに飽きたりなくなったころだった。オリンパスが世界初の「ミラーレス一眼」と銘打って新〈PEN〉シリーズ第一号となる「E-P1」を発売した。つい2009年のことだった。

 フィルムに取って替わったセンサーが捉えた映像を逐次みることができるならば、ファインダーは要らない。フィルムを感光させないために、光の向きをファインダーの方へ変えてやらなくともよいのだから、すでにカメラにミラーは不要になっていた。こういう理屈は成り立っていたが、あたかも「王様は裸だ」と最初に指摘した少年のごとく、一眼レフの小型化を図って商品化してしまったのがオリンパスだった。

 ちょうど必要が生じたこともあり、なんとなく飛びついたものであったが、すぐに気に入ったのはいうまでもない。半年と経たず後継として発売されたE-P2から、現状で最新のE-PL10やPEN-Fに至るまで、機能・性能やデザインは着実に洗練されていったが、なんといっても初代たるE-P1の簡素さが好きだ。とりわけ「ジャキンッ」と機械的にひびく独特のシャッター音には愛着がある。たまらなく硬質な音なのだ。

 おおよその構図と被写界深度とを思い浮かべておいて、シャッター速度と露出をてきとうに決めてジャッキン、ジャッキンと気軽に撮影しておく。基本的にファインダーが無い仕様なのだから、鷹揚に構えて、おおざっぱに撮ることが要求されるのだ。とりわけ晴れた日の屋外などでは、本体裏側の液晶画面が反射光でほとんど役に立たないから、なおのこと勘に頼ってシャッターを切るしかない。すでに消費者は携帯電話でこのスタイルに久しく慣れ親しんではいた。とはいえ、あとでMac の〈iPhoto〉や〈Aperture〉といったアプリで少しだけ調整してやる必要があった。が、これでウェブ媒体は無論のこと、ミニコミ誌向けの広報写真くらいならば、じゅうぶん間に合ってしまっていた。

 それでも比較的最近になって、諸事情からキヤノンEOSに乗り換えた。元写真部という来歴にも拘わらず、このときはじめて自前の「デジタル一眼レフ」を所有したのだ。ところが、センサー等々の性能では卓越していたものの、総合的に評価するとE-P1の使い勝手に軍配が上がる気がした。フラッシュすら内蔵されていない機種だったのに、どうしたわけであろう。なにより撮るのが愉しかった。それに近頃では、どうも一眼レフをもてあましてもいるのだ。

 今のご時世「重い一眼レフを持ち歩く代わりに……」という上の句には「スマフォでいいじゃん」という下の句がつづく。オリンパスの参画していたマイクロフォーサーズという規格も、もとは小型化のために考案されたものだったが、高性能を誇るカメラが搭載されたスマートな携帯電話の普及によって、小型の写真機そのものの存在意義が薄れてきた。まず「コンデジ」市場が衰亡して、いよいよ「ミラーレス」市場も陥落しつつある。オリンパスは新しい市場を創出したのだったが、けっきょく11年しかもたなかった。

 2009年当時つかっていた「iPhone 3G」の画質など大したことはなかったけれども、年々歳々あらたな機種が画質を向上させてゆき、いまや驚くべき水準に達している。しかも撮影専用のカメラ製品に引けを取らぬ完成度の高い画像を得るために、撮影後に調整することを前提としているような仕様になっている。昨2019年発売されたiPhone 11 Pro」に至ってはそのため、じつにみっつのレンズが搭載されて話題になった。ちょうど10年目にあたっているのが象徴的で、オリンパスのカメラ事業に引導を渡した電話器、と記憶されるのかも知れない。とはいえ、ほかのメイカーのミラーレス一眼の商売には、まだ延命策が考えられぬわけではないのだろうが……。

 なんのことはない。要するに、前述したE-P1の使い勝手というのは、昨今のスマートフォンの使い方にもそのまま当てはまる。最新の機種では撮影後におおくの項目で調整が効き、器用な向きは手のひらのうえでレタッチまで終えてしまうというだけのことである。さらに、そのままリアルタイムでSNSに投稿するような瞬時の消費に最適化されている。便利なものだ。E-P1にはあった、撮ることじたいの愉しみはもう、そこにはないが。

 とまれ、新PENの10年とは典型的な過渡期であったようにも思えてきた。しかし過渡期の工業製品には、どうしてこうも哀愁がただようのか。まことに忌むべきは「スマフォをもった猿」なれども、iPhoneを手放せずにいるみずからを鑑みるに、もはや諦念しかわかない。この世に永遠のものなどないのだ。

OLYMPUS ミラーレス一眼カメラ PEN E-PL10 14-42mm EZレンズキット ホワイト

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  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: エレクトロニクス
 
オリンパス PEN-F

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  • 発売日: 2016/02/10
  • メディア: エレクトロニクス
 

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

www.nikkei.com

www.nikkei.com

www.nikkei.com

 

*上掲画像はWikimedia.

チェコ軍の次期装輪式自走砲〈CAESAR〉

https://pbs.twimg.com/media/EZrFbR-XgAEQZdD?format=jpg

 ことし令和2年度の富士総合火力演習は、疫禍の時世から招待客なしでとり行われ、かわりに5月23日、YouTubeでライヴ映像配信が実施された。そこには昨年につづいて、最新鋭〈19式装輪自走155mmりゅう弾砲〉の姿があった。国土の道路網の整備がすすんだ結果、陸上自衛隊では装備を装輪化する傾向がつづいているが、装輪式の自走砲じたいは世界的にも珍品というわけでもない。

 この種の装輪自走砲の嚆矢となったのは、チェコスロヴァキア製〈ShKH vz. 77〉通称“DANA”ではなかったか。1976年に設計され、翌年から同国に配備が開始されたと思しい。「DANA」とは「自動装填式自動車砲」とでも訳そうか、「Dělo automobilní nabíjené automaticky」のアクロニム、すなわち頭字語である。つまり「ダナ」と読めば、女性によくある名になっている。2008年現在の数字で、チェコ共和国軍には164門が配備されているという。2016年の時点で同国軍が装備する100mm以上の火砲は179門であると国防省のサイトにあるから、この〈DANA〉が砲兵火力の主力となっているとみられる。しかし、さすがに四十年選手ともなれば、更新が急務であることもまた明白であった。

 はたして数日前、この砲を更新する計画が発表された。後継として、フランス・ネクスター社の〈CAESAR〉がすでに選定されたという報道である。第13砲兵連隊向けの計52門の契約額は、付加価値税込みで59億5000万コルナ、1門あたりおよそ1億500万コルナ(ざっくり約5億円)になる旨、国防省は発表している。

 この「CAESAR」もまた「Le camion équipé d’un système d’artillerie」すなわち「砲システムを搭載した貨車」の頭字語である。かのユーリウス・カエサルになぞらえた、おそらくアプロニムであるとはいえ、フランス軍ではふつうに自国語で「セザール」と呼称されている。チェコ語では、慣例でドイツ風に「ツェーザル」と呼ばれている。なお日本語のメディアでは、ほぼ例外なく「カエサル」とカタカナで表記されているものの、いかなる根拠で古代ローマの発音が採用されているのかは知らない。

 8種の候補からの選考を経て採用されたと伝えられているが、優先される事項はなんといってもNATO規格の装備であることで、東側の152mmの口径をもつ〈DANA〉が加盟後20年以上も運用されてきた不合理は、更新の動機として大きかったにちがいない。したがって、80の項目が審査されたともいうが、第一に挙がったのはやはり同盟国との共同交戦を可能にする、155mmの砲弾を40km先に撃ち出す性能とのことであった。

 これについて〈CAESAR〉は標準的な弾薬で42km、特殊な弾薬では55kmの射程を有すると説明されている。しかも2009年のアフガニスタンを皮切りに実戦に投入されてきており、いわゆるバトルプルーフを経ている。採用されてもふしぎはまったくない。くわえて、競合製品より50%も安価だったと報道にはあったが、ほんとうだろうか。

 といっても、そこは政府調達であるから、利権の匂いが漂うのも万国共通である。〈CAESAR〉の当初の設計では、砲を積む車体部分にルノーダイムラー製の6輪の車輛が使用されていた。ところが8輪化にともない、あらたにタトラ社のT815が採用され、すでにデンマークへの輸出にも成功している。チェコ共和国が自国産業への還流を最大限考慮したであろうこともまた、しぜんであった。

 このフランス・ネクスターとチェコ・タトラの協働は初めてではない。ちょうど1年ほどまえにチェコ共和国国防省は、MRAPと呼ばれるカテゴリーの装甲車輛を派生型もふくめて62輛購入する契約を結んでいる。これが両者の共同開発による〈ティテュス〉で、チェコ語では「ティトゥス」と呼ばれていた。ネクスターといえば、フランスの兵器廠が統合されて生まれた公社のようなコングロマリットであって、むしろチェコ側の鼻息の荒さが印象にのこっている。今回の自走砲も、最終的な組み立てが自国内で行われるよう、国防省が要求を出している。

 しかし、このコロナ不況のなかで、あたかも兵器ばかりが盛大かつ遅滞なく購入されているような報道には、批判も聞かれる。なにしろ、一連の装備の近代化プロジェクトにおいて、国産小銃の〈BREN 2〉や新型防弾ヴェスト、そのほかアンチ=ステルス性能を有すると噂される電子戦装備〈ヴィェラ=NG〉の導入などで、ざっと60億コルナがすでにかかっており、さらに年末までに700億コルナ以上の装備の刷新が計画されていると、かねてから伝わっていた。

 ちなみに12月末までに控えているものといえば、とりわけ次期歩兵戦闘車の選定が目玉であって、スウェーデンの〈CV90〉、オーストリア・スペインの〈ASCOD〉、ドイツの〈リンクス〉が候補に挙がっている。しめて、軍の購入計画としては同国史上最高額にのぼると言われている。中道右派の市民民主党からは、国内産業への恩恵を多とし、決して無駄な投資ではないと擁護する声があがる一方、極右のオカムラ氏などは、どうやら自分のかかわる企業に利がまわってこないようで、西側の大企業の儲けになるだけだと、カメラの前で口を尖らせた。

 さてひるがえって、われらが自衛隊の〈19式装輪自走155mmりゅう弾砲〉である。外野の評判は芳しくないようだ。とりわけ、車体に採用されたのがドイツ・MAN製のタクティカル・トラックであったことが驚きをもって受け止められた。陸自が国産装備に拘泥してきた経緯もあって、これまで各種装備に流用されてきた三菱重工製〈重装輪回収車〉がもちいられるのが穏当と思われていたからである。かろうじて砲熕部分は国産とはいえ、各国の装輪式自走砲の代わり映えのしない諸元を比較してみるとなおさら、はなから実績のある〈CAESAR〉を輸入してもよかったのでは、と感ぜられても無理はなかろう。

 

*参照:

www.mocr.army.cz

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