ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

アメリカの王子

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photo by Benjamin Rascoe

 あの夏、プロヴァンスを訪れる前、アメリカ合衆国にいた。

 シカゴ・オヘアー空港に着いたとたん、日本やヨーロッパとの違いに戸惑った。アメリカは「でかい国である」とか「自助努力の国である」と俗に言うのは知ってはいても、現地にゆくと実感をともなって理解させられる。しかも自助といったって、現在のように何につけてもネットで検索して手軽に手配できてしまうような時代でもなかった。

 この7本の滑走路を擁する巨大な国際空港にだって「おもてなし」など見あたらなかった。宿泊施設のリストが掲示してあって、古びた公衆電話が設置されていたのみ。成田の東京三菱銀行で米ドル紙幣を調達してきてはいたが、電話をかけるコインがない。カードがつかえるような機能的な電話機ではなかった。付近に両替機らしきものもない。右往左往していると、休憩中の作業員とおぼしき黒人男性が硬貨をくれた。ハーフ・ダラー。つまり50セント硬貨であった──と思い込んでいたが、よく考えてみると、そんなはずはない。よもや都合よく書き換えられた記憶ではないのだろうか。刻印された表面の意匠はほかでもない、ジョン・F・ケネディの横顔である。

 ホテルの部屋にたどり着くと、すぐにブラウン管に向き合った。スマートフォンがまだなかったころの一般的な行動様式だ。そこでニュース番組のアンカーやリポーターが大騒ぎで伝えていたのが、自家用飛行機を操縦したジョン・F・ケネディ・ジュニアが消息を絶ったというニュースであった。

 この事故は、先日たまたま観たドキュメンタリー『メーデー! 航空機事故の真実と真相』でも取り上げられていた。自家用のパイパー・サラトーガ機を自ら操縦してニュー・ヨークの夕景を眼下に眺めたまではよかったが、目的地であったマーサズ・ヴィニヤード島周辺の天候が悪化。予定された出発が遅れていため日が没してしまい、さらに濃霧によって視界がなくなったものと思われ、結果として空間識失調に陥ったと推定された。JFKジュニアは、計器飛行の訓練を不定期的に受けていたものの修了には至っておらず、有視界飛行の資格しか有していなかった、と説明されていた。けっきょく、飛行姿勢を立て直すことができず、同乗した妻と義理の妹とともに、機体背面から海中に没した──

 さて翌日。空港にもどって搭乗したのはATR-42。小柄な双発ターボプロップ機で、パイパー社の単発機ほど小型ではないにしろ、そうとう怖かったのを覚えている。向かった先は、アーバナ=シャンペインの空港で、おおよそひとつの大学のなかにある空港だと思ってよい。実質的な飛行時間は45分くらいだったと思う。離陸して急上昇したかとおもえば、すぐに着陸のため急降下するような按配だった。体感的には墜落である。いまだに近距離路線のATR機には乗りたくない。

 「特攻野郎Aチーム」が移動に使用していたような大型の乗り合いタクシーで、じかに大学の寮に向かった。寮といっても、毎日ハウスキーピングの小母ちゃんが出入りするような高層の建物だ。こういうところに学費や寄付金の水準やその国の中間層の生活水準が如実にあらわれるものかもしれない。──とまれ、待ち合わせた「先生」に、ケネディ・ジュニアが亡くなったそうですねと、なにげなくニュースの話題を振った。すると「優秀な学生でした」というから、「教え子だったんですか……」と呆気にとられてしまった。でかい国にしては、世間は狭いものらしい。

 建国このかた共和制の土地では、他所のロイヤル・ファミリーにも似たメディアの扱いとなるケネディ家である。しかもJFKの忘れ形見となれば、端麗な容姿もてつだって、つとに注目の的であった。が、死してなお、いまだにそうらしい。たとえば、没後20年の昨年にも伝記が刊行されていたが、書名は『祭り上げられたアメリカの皇太子』とでも意訳しておこうか。この著者スティーヴン・ギロンもまた、ブラウン大のティーチング・アシスタントとして学部生のジュニアに相対したひとりであった。講義のテーマとしてJFKの大統領時代をとりあげたが、ジュニアが講義室の前方に陣取ったため、頭のなかが真っ白になってしまったというエピソードはいかにもほほえましい。いずれにせよ、あらゆる意味でアメリカの寵児であった。

 日本でも、1963年に初の「日米宇宙中継」の電波にのってJFK暗殺の報せがはいった顛末は、団塊の世代の思い出話によく聞く。それで、当時3歳のジョン坊が亡父の柩に敬礼した姿も多くのひとに馴染みがあるわけだ。そのイメジがあるだけに、公民権運動とJFKの国から伝えられる最近の報道には気を揉んでいる向きも多いのではないか。

 ──とりとめがなくなってしまったが、「米大統領選挙まで100日」という報道で思い出した、由無し事であった。あれから時が経って、陰謀論めいたゴシップ記事もいろいろ出来した。はては「じつは生きている」とか……。しかし、じっさいにJFKジュニアが生きていたならば、かの地の有権者とて「トランプか、バイデンか」などという究極の選択めいた選挙を迫られることはなかったことであろう。

 

*参照:

www.afpbb.com

www3.nhk.or.jp

rollingstonejapan.com

www2.nhk.or.jp