ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

恐怖の大王

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photo by Diederik Smit

 南欧の夏は、日本ほどの降水量はない。したがって湿度が低いから、日中は鎧戸を閉め切っておけば室内温度の上昇をふせぐことができ、家屋内は暗いがすごしやすい。気候変動の影響で常識も変わりつつあるが、あの夏はまだそういう事情の南仏プロヴァンスだった。

 1999年の夏、南独フライブルクでの予定までには余裕があった。それで思い立った旅だった。ニースからフランス国鉄に俟ったが、当時はまだその路線にはTGVが走っていなかったから、鈍行での移動となった。はたして、すこしく老朽しかけた車内の温度は壊れたサウナを思わせた。地獄だった。GPS機能のついたスマフォなどない時代だから、いつ到着するのかと不安にも苛まれた。水が必要だったが、車内販売のワゴンすらやってこなかった。ほかに旅客もいなかった。干からびて死ぬかと思った。恐怖といえばそれが恐怖だった。

 だからサロン=ド=プロヴァンスの駅に到着したさいは、まさに這う這うのていであった。とまれ、初級文法を思い出しつつ旅行会話集で覚えた語彙を組み合わせただけで、タクシーの運ちゃんに話が通じたのには驚いた。向こうも驚いていた。ATMに寄ってもらい、予約してあった宿に行ってもらった。駅からさほど離れていなかったが、列車内で体力を消尽していたから仕方がなかった。

 暗闇に目覚めると、閉じられた鎧戸から煌々たる外光が漏れていた。すでにその日が明けていた。ともかく町の中心部へ移動した。そうして、ノストラダムス博物館を拝観し終え、たいして広くもない広場に出ると、訪問客が三々五々、くつろいだふうで散策していた。

 どのくらい経ったものか。やおら陽の光が翳ってゆき、そいつがやってきた。子どものころから待つとはなしに待っていた「恐怖の大王」であった。

 ノストラダムスとして知られる、ミシェル・ド・ノートルダムは1503年、プロヴァンスのサン=レミの村で生まれた。アヴィニョンモンペリエに学び、医者として活躍したのち、サロンの町に住まい、1555年以降『百詩篇』の刊行を開始した。これが反響を呼び、かのカトリーヌ・ド・メディシスのような影響力のある読者を獲得した。のちの1566年、同地で没した。……だが、こうしたことはわれら一定以上の世代にとっては、小学生のころ以来お馴染みの常識であろう。

 とはいえ、訪問そのものは節目とか禊とかいう意味合いを有していたわけでもなんでもなかった。そのときすでに「大予言」などという胡乱なテーマの書物などには触れぬようになって久しかった。というより、ほかの真面目な文献だけで手一杯だったというところかもしれない。

 南仏の巡礼を思い出す機会は、ずっと後年にやってきた。チェコ共和国にて、いわゆる「知られざる歴史」を扱った書物を薦められたとき、そんなもの……と言いきれなかったのは、なにも先方が「お客様」の立場であったからだけではない。が、ノストラダムスじたい関係なくとも、その手の読み物は子どもが読むものだと思い込んでいたこともたしかであった。というのも、活字とあらば雑食するたちで、中学生まではときたま学研の『ムー』誌をも嗜み、高校生まではなんとかいう医学博士のノストラダムス解釈すら愉しんでいたのだ。だからといって、チェコ語であの筋の荒唐無稽を読めとなると、それも手に負えない気がした。むろん、学問的な研究もあるわけだから、書名にノストラダムスの名をちらと見ただけで十把一絡げにしてはならないが。

 ひょっとすると、いまどきの中高生には、あやしげな如何わしい書物をそういうものとして味わう機会など絶無なのではないか。情報化がすすみ、手のひらの端末でググって、瞬時にあらわれるWikiなんとかの記事を斜め読みしさえすれば、真偽は白黒はっきりしたと思いがちである。結果として、いわゆるリアリティ・ショウを真に受けたり、SNSに蔓延する根拠薄弱な中傷や風聞を鵜呑みにしてしまうのではあるまいか。おとなだって大同小異で、要するに、なにか大切なことを忘れてしまった風情なのだ。

 ──五島勉の訃報に接し、そんなことを思った次第。

 

*参照:

bunshun.jp

www.asahi.com