ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

カレル・チャペクとフゴ・ハースの『白い病』

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 感染予防のため、集会をとりやめ、人びとにお互いの距離を保つようにと、ときには政府首脳までもが直に呼びかけるなか、馬耳東風のていで遊び歩くひともいる。ドイツでは「コローナパーティ」なる語もできたそうだ。そういえば、若年層は罹りにくく、高齢者ほど危険性が増す感染症とて、社会進出の好機とみた若者がむしろ歓迎する──というシーンがでてくる物語も、かつて在った。あらゆる意味で黙示録的な作品であった。疫病からの連想であろう、どこぞの報道記事のうちにもタイトルを見かけたが。

  カレル・チャペクの戯曲_Bílá nemoc_がそれである。すでに「白い病気」という邦訳もあるにせよ、「花といえば桜」方式で「白いペスト」「白死病」などと訳してしまいたくもなるところだが、それでは日本語では結核の意味になる。くわえて、通常ハンセン病を指す語も劇中では用いられているから、いろいろな意味で少々むつかしいところがある。しかしそれだからこそ、病の寓意を延々と考えさせられもする。

 疫病に抗する人間を扱ったヒューマン・ドラマでもあるものの、全体主義へ傾く社会の風刺、というほうが主たる性格の三幕劇ではある。チャペクだけに、現代人にはすこしく説教くさいところもなくはない。が、国民社会主義の擡頭に危機感を募らせ、この手の警鐘を鳴らすようになった晩年の作であって、これをきっかけにゲシュタポの弾圧リストに載ったのだと聞くと、神妙な気持ちになる。後年、保護領化が済んで秘密警察が戸口に現れたときには、チャペクはすでにこの世になかった。

 初演がプラハとブルノ同日の1937年1月29日で、おなじ年の暮れには映画版も公開されている。映画は、かのフゴ・ハースの監督・主演にして、プロデューサーも兼ねた。ハースはプラハの舞台でも同じガレーン医師を演じており、他の配役も舞台と同じ役者にすることで、制作時間を大いに節減できたということらしい。──時間がなかった。公開の数か月後にはヒトラーは自らの故国を合邦し、チェコスロヴァキアにも触手を伸ばしつつあった。そして1938年9月には、ベネシュ大統領が一般動員令で全軍を待機させるなか、運命のミュンヒェン会談を迎えるのである。

 ──元帥と呼ばれる独裁者は、大衆を煽動して、いまにも戦争をはじめようとしている。時をおなじくして流行しつつあった謎の伝染性の疾患。白色の斑点が身体に現れると、その箇所の神経は麻痺し、やがて死に至る。45ないし50歳以上の者だけが罹患する疾病である。医師のガレーンは特効薬を発見するも、武器を売って財をなすような者の治療をかたくなに拒否する。かつて軍医として悲惨な戦場に立って以来、戦争の廃絶だけを念じて生きてきたのだ。軍需工場のオーナーで、元帥にも近しいクリューク男爵(映画版ではクローク男爵)も治療を拒否されたひとりだ。武器の製造を停止するまでは、という条件だったが、できない相談だった。近隣の小国に戦端を開いた直後のある日、群衆に向かって演説をする元帥は、自らの胸に白斑を認めたのだった……

 ところで、独裁者の「元帥」という役は舞台と同様、ズデニェク・シュテェパーネクが演じた。ほかにシラノ・ド・ベルジュラック役などを得意とした偉丈夫で、それもそのはず、チェコスロヴァキア軍団に参加したシベリア帰り。だからこの作中人物がまた健康的で恰幅がよく、あの威勢のわりに病弱そうなヒトラーにはとても見えない。チャップリンの『独裁者』とは対照的だ。つねに胸を張り、いちいち腰に手を当てる外連からは、むしろムッソリーニが想起される。これも、作品に普遍性をもたせるべく、あるいは上映禁止になるリスクを減じるべく、ハースの意図したところであろうか。じっさい「男爵」の名が公開後に変更されたのは、その筋からの圧力の結果ともいわれている。いずれにせよハースは、チャペクとは別種の危機を肌で察知していたにちがいない。

 ハースが暮らしたウィーンから列車で約1時間半、ブルノ市の観光案内所で訊けば、チャペク少年が数年暮らした通りのほか、ハース兄弟の生家の位置も教えてくれる。といっても、外壁の銘板を眺めることができるのみだ。フゴ・ハース自身はウィーンに逃れたが、音楽家の兄・パヴェルは強制収容所で生涯を終えた。

 戦後におけるフゴ・ハースの活躍はあらためて書くまでもあるまい。死後、ブルノのユダヤ人墓地に埋葬されたとはいえ、生前は一時的な訪問以外にはチェコスロヴァキアに帰ることはなく、ウィーンで没した。いっぽう「元帥」のシュテェパーネクとて、対敵協力の嫌疑をかけられ、しばらくは俳優活動ができなかった。一難去ってなんとやら。コミュニストという第二のペストがやってきていたのだった。さしずめ「赤い病気」と言えるかもしれないが、とりわけ米国でヒステリックな反応を惹き起こしたことは周知のとおりである。皮肉なことに、あるいは至当のことか、映画自体は「反ファシズム映画」として、戦後チェコスロヴァキアでも人気を博しつづけた。芝居もだ。共産党のお墨付きというわけだ。

 だが、チャペクならまだましである。たちの悪いプロパガンダに毒されて、歪んだチェコスロヴァキア民族史観で世界を見るようになってしまう輩もあるから、気をつけねばなるまい。特定のドイツ人に個人的な被害の体験や商売上の利害関係もなしに、あるいは確たる根拠もなしに「ドイツ」という茫漠たる概念を目の敵にしはじめたら、そいつは要注意だ。白赤青の病気の検査をしたら、たぶん陽性と出る。発作のごとく、なんの脈絡もなく詰り始めたりすることもある。と、と、とにかく悪いのはドイツだ。ド、ド、ド、ドイツがいつも悪いんだ。ついでにアメリカも悪い──これは「日帝残滓」などと譫言のようにくりかえす連中と同種の病気である。場末の酒場にもよくいる。知ってるか、ここはボヘミアだぜ、アジア人が居るのはおかしいとおもわないか、なあ、お前のことだよ、云々。

 とまれ、チャペクがどうして日本で人気があるのかは、じつはよくわからないけれど、たとえば戦前の北米では映画の評判は芳しくなかったらしい。問題を単純化しすぎ、とかなんとか。たしかに往時の緊迫した雰囲気を伝えているとはいえ、白と黒、善と悪の貧相なスーパー戦隊みたいな世界観で、人物造形も平板に見えたのだろう。だが、ちょっと考えてみると、連中は終戦後の日本人とて「ナイーヴな12歳」と貶したものだった。マッカーサーだったか。あれも元帥か。アングロ=サクソン45歳説。だから、幼い民族は保護領にして導いてやらないと──ひょっとしたらその辺りにチャペクと日本人の共通項があるのかもしれない。

 しかし、21世紀のポピュリズム政党乱立のさなか、この降って湧いたようなコロナ騒動の現状をチャペクが見たら、何とのたまうだろう。きっとチャペクのことだから──このようなときでも、いや、このようなときだからこそ、決して市井の生活者の生きる権利が脅かされるようなことがあってはならないのだ──とかなんとか、週末のコラムに書きそうな気はする。でも、そうだよ。正論。そうそう。そうだそうだ。そうだともそうだとも。

 今はどうなのか知らないが、かつて日本の出版社は売れないチェコ文学を毛嫌いしていたとも聞く。ただし、チャペクは例外だ。──そりゃそうさ。アメリカ人にはわかるまいが、われわれは単純な12歳だしナイーヴだから、こういう堅物のチャペクが大好きなんだ。文句あるか。

 

_Bílá nemoc_, 1937,(全編):

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