ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

アードルフ・ロース生誕150周年

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Looshaus_Michaelerplatz.JPG

 当世の流行りとはいえ、銅像を打ち倒す運動には賛同しかねる。偉大な篤志家であったが奴隷も所有していた──ということになると、ヴァンダリズムの対象になるらしい。だが、200年も300年も遡及して往時の常識を今日の価値観で断罪することに、妥当性は微塵もない。E・H・カー宣く、歴史家は裁判官にあらずと。あるいは仮に裁判であったとしても、後出しじゃんけんよろしく遡及してひとを裁くことはできない。……まあ、その、壊さないでほしい。

 さて、しばらく前のことになるが「感染症は建築やデザインに影響を与えてきた」という記事が出来した。コレラ結核、インフルエンザが近代建築を生み出したのだとすれば、今般の世界的なパンデミック騒ぎをきっかけに、これからの建築や街の景観とて変わってゆくのも道理だろう。──そこでとりあげられた建築家のひとりに、アードルフ・ロースがいた。ロースといえば、ことしは生誕150周年ということで、ゆかりのある各地ではいろいろの企画展も開催されている。とはいえ、このご時世であるから客足のほどはわからない。

 ロースのイデオロギーは、なんといっても「装飾は犯罪である」というテーゼとして知られる。クリストファー・ロングによれば、かの「装飾と犯罪」じたいは1908年に手書きの原稿として成立していたらしいが、ウィーン文学・音楽協会の講演で発表されたのは1910年の1月21日。のち1913年にフランス語で出版され、オリジナルのドイツ語版のほうが新聞紙上に出来したのが1929年になってからというから、いかに地元で問題視されていたのかと憶測してしまう。20年ものあいだ、お蔵入りしていた原稿と捉えてよいのだろうか。

 ドイツ語で、Verbrechen──すなわち「犯罪」だと断じるならば、装飾を禁じる法律が存在しなければならないが、そんなものがあろうはずもなく、ロースの勇み足であることは言を俟たない。当時のゼツェスィオーン(アール・ヌーヴォー)の隆盛がよっぽど面白くなかったと見える。

 英語では題して"Ornament and Crime"である。読んでみると、これがまた辛辣というか過激なのである。今の価値観でみれば、話の筋は通っている反面、表現についてはとうてい容れられることはないだろう。

 ──2歳児はパプア人同様、不道徳である。パプア人は敵を殺し、これを喰らう。このばあい犯罪には当たらないが、現代人が誰かを殺めて食に供したならば、その者は犯罪人ないし変質者である。パプア人はまたタトゥーを施す。自身の肌に、舟に、舵に、櫂に、つまり手に入れるすべてのものに。だが、犯罪ではない。現代人でタトゥーを入れている者は、犯罪人か変質者である──

 どえらい偏見に思える。とまれ大意としてごく恣意的に抄訳させてもらえば、理性にもとづかない行為は、これすなわち犯罪であって、パッションにもとづいて建築に装飾を施すこともまた同様、とロースはつづける。現代人は経済的合理性の観念をもたねばならない。だいたい、工賃がよけいにかかってしまうのは合理的ではない。シナの彫工が15時間も作業するいっぽう、アメリカの労働者はたった8時間の労働時間である。結果として生産された装飾が施された品と、されていない品が同一の価格で販売されるならば、いずれに理があろうか。労働の無駄はすなわち健康の無駄であり、原材料の無駄は資本の無駄である──云々。

 ロースの言においては、すこしく英米が理想化されすぎている觀もなくはない。とりわけアメリカ合衆国についてで、日本人なら雪村いづみの「アメリカでは」を思い出すところだろう。映画『君も出世ができる』の挿入歌である。「〽︎アーメーリーカでは……仕事は仕事、遊びは遊び。アーメーリーカへゆけば、誰も意味なく装飾しない」というわけだ。さいきんTwitterなどで感染症対策を単純に国際比較し、現地政府がいかに優れているか褒めそやす海外在住者が「出羽守」のそしりとともに非難されていたけれど、そんなことも連想してしまう。

 パプア人のほかには「先住民、ペルシア人、スロヴァキアの農婦」が槍玉に挙がるが、「侮蔑の滝」もここまであからさまに表明されるとむしろ清々しい。連中は未開の土人なのであるから、その製品に装飾が施されておっても仕方がない、というニュアンスだ。「活動家」らによって、ロースゆかりの建築物が破壊されぬことを祈るしかない。だが、いわずもがな、これもロースひとりならず、当時の価値基準の為せる業である。アメリカの件にしても、いまでこそ「失敗国家」などとも囁かれるほどの為体であるが、19世紀と20世紀の転換期においては、まだまだ希望を抱かせる若くて先進的な理想の新大陸の星であった。

 そんなロースは、自身が設計を手がける建築によって思想を具現化してゆく。とりわけウィーンのミヒャエラープラッツに1911年、王宮に向かい合うように建てられた、通称《ロースハウス》は、建設当時「醜悪」とされ物議を醸した。ファサードにあって然るべき装飾がなかったのだ。それがいまや、同地の観光資源の重要な一部なのであって、市立博物館の上のほうのフロアの一画までがロースを扱った常設展示に捧げられているのだから、時代は変わるものだ。ちなみにほかにも同市内の《カフェ・ムゼーウム》や、パリの《トリスタン・ツァラ邸》、プラハの《ミュラー邸》などなどといったロースの仕事は、建築ファンのみならず、ゆきずりの観光客にとっても価値ある見どころになっていることは周知のとおりである。

 ロースが生まれたのは1870年、オーストリア=ハンガリー帝国のブリュン(ブルノ)であった。お蔵入りしていた「装飾と犯罪」がフランクフルトの新聞で陽の目を見たころ、チェコスロヴァキア領となっていたロースの生まれ故郷には、のち「ユネスコ世界遺産」となる建築が建立された。ミース・ファン・デア・ローエによる《トゥーゲントハート邸》にほかならない。「Less is More」の哲学とは、ロースのイデオロギーを洗練させただけのパラフレーズにも思えるほどだ。20年も経つと「装飾不要論」はひろく受け容れられ、満を持して機能主義建築が起こりつつあったのだ──とざっくり要約しておこう。

 ブルノ市内にあるロース生家の跡地には、いまはホテルがたっている。ところが現代人から見れば、このホテルというのがロースハウスなんぞよりもよほど「醜悪」である。設計のズデニェク・ジハークにはわるいけれど。

 くだんの《ホテル・コンティネンタル》(1961-64)は、「ブリュッセル様式」と呼ばれる建築に属する。1958年のブリュッセル万博が、チェコスロヴァキアの産業界にとって、ポスト・スターリン時代にふさわしい、あらたな様式を模索する契機となった。とはいえ今日的視点からみれば、ソーシャリスト・リアリズムの一変種といった趣きがある。もちろん個人的で主観的な感想にすぎないけれども、この様式の代表格たる乗用車《タトラ603》などには現代的な美も感じられるとはいえ、地方都市にある同年代の駅舎などは見るに耐えないものも多い。それでも、あれが新しいとされた時代があったこともまた忘れてはならない。

 過去の事象を今の価値観で断じても意味がない。とすると、なおさら驚くべきは、ロースの建築における、けっして古びたように見えない先進性であって、これはいかなる理由にもとづくのであろうか。控えめに残存する装飾すらも、ポストモダーン風の新しさだと思えてしまう。しかしこれも所詮、現代人の後出しじゃんけんなのだろう。

装飾と犯罪―建築・文化論集

装飾と犯罪―建築・文化論集

 
にもかかわらず――1900-1930

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*参考:

www.newsweekjapan.jp

 

*上掲画像はWikimedia