ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

ベルリーナー

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photo by Leon Ephraïm

 かねてからの告知どおり、チェコ共和国のミロシュ・ヴィストルチル元老院議長が台北を訪問した。日本語メディアでもさかんに報じられている。国内でもゼマン大統領は反対、バビシュ首相は沈黙──と決して一枚岩ではない小国にも拘わらず、中国外交筋はこれを看過することなく、恫喝のごとき言辞をまじえて厳しく非難した。

 同議長がかの地で行なった演説がまた奮っている。ジョン・F・ケネディの顰みに倣いましたとばかり、「私もまた台湾市民である」とやったのだ。民主主義のなんたるかを説き、共産中国の脅威に抗して自由を守らんとする独立台湾に連帯の情を示した。自国の民主政治とて混乱と混沌から抜け出したことなどないが、反共政党所属の議長がそれを棚に上げることはこのさい問題ない。大統領には言わせておけばよいし、首相は黙らせておけばよい。連中はパンダ派(panda huggers)である。

 奇遇にも、王毅外相はベルリーンにいた。「越えてはならない一線を越えた。中国はみずからの主権と領土の統一を守りぬかねばならない」と凄んだ。同席したのは、数年前の来日に際し「マースでございマース」という駄洒落も生んだドイツ連邦共和国のハイコ・マース外相で、しれっとチェコ側を支持して中国外交の鼻を明かした。

 じつにそのベルリーンで1963年の6月、ケネディは件の名演説をぶった。ローマ市民であることが誇りであった古代を想起せしめつつ、東西イデオロギー対立の最前線で四囲を壁に塞がれていった西ベルリーンにあって市民に連帯を示した。「イヒ・ビン・アイン・ベァリーナー」である。

 むかしからよく不定冠詞「ein」が話題になっていたけれど、Wikipediaにもリンクが挙がっていた記事がこの点に関して簡潔でわかりやすい。記事中のアナトール・ステファノヴィチ教授によれば、ベルリーン市民という集団は定義され周知されているものであるから、「Ich bin...」の構文でつかわれた場合、菓子の「ベルリーナー」を指すものではないのは自明である。そのうえで、厳密には当該集団に属しているわけではない話者が、共有する部分が自身のうちにもあることを表現せんとするばあいには、不定冠詞「ein」がとくに用いられる、という主旨である。つまるところ「Ich bin Berliner」であれば「私はベルリーン出身です(あるいは在住です)」という単なる自己紹介になる。いっぽうここで「Ich bin ein Berliner」とやれば「私もまた、ひとりのベルリーン市民なのです」というような意味合いがでてくる。この記事が書かれた背景もまた明白である。ドイツ語を解さぬジョン・ケネディがほんらい無用の不定冠詞を用いたことで「私はジャム・ドーナツです」と発言したとされ、何十年にもわたって揶揄されてきたものだった。

 この笑い話を知ったのは、20年以上もまえのバーデン=ヴュルテンベルク州の町であった。そこでは、たしかに「ベルリーナー」と呼称されていた。

 ……紹介が遅れた。ベルリーナー、あるいはベルリーナー・プファンクーヘンとは、ラードなどの油脂で揚げたドーナツのような菓子で、球体をやや平たくつぶしたような形状を有し、典型的には粉砂糖がまぶしてある。フィリングとしては桜桃のジャムがはいっていることが多かったが、苺類のこともあった。いずれにしても、ベルリーンに住んでいるひとはこれをベルリーナーとはあまり呼ばないから、ケネディの言について現地で誤解や哄笑が生じたとも想像しにくい。

 食物の名前にもいわば「外名」があるのだ。たとえば、広島のひとがご当地風のお好み焼きについて「広島焼き」という名称を用いないことは、よく知られている。また、日本農林規格にいう「ウィンナーソーセージ」の起源は「ヴィーナー・ヴュルストヒェン」で「ウィーン流のソーセジ」を意味するが、ウィーンのひとは同じ品を「フランクフルター」と呼ぶ。フランクフルトに住まう人びとはしかし「ヴィーナー」と呼ぶのである。ついでにピルスナーウルクヴェル(プルゼニュスキー・プラズドロイ)という銘柄の麦酒は、チェコ語で注文するときに「プルゼニュくれ」と、生産地の地名を換喩として用いるひとが多い。だが、当のプルゼニュ市内の酒場でそう呼ぶひとは皆無だった。

 ベルリーナーについては、意外に保守的な文化の一部でもある。それこそウィーンほか南のカトリック圏では、おなじ菓子がクラプフェンと呼ばれ、大晦日や謝肉祭、復活祭といった折々にたべる習慣が各地に残っている。フィリングは杏子のジャムが多い気がしたけれど、これをさして「ウィーン流」と分類するひともある。

 チェコ語ではコブリハと呼ばれる。そういえば、とあるブルノ市民の友人が、市内中心部のコブリハ通りに住んでいたことがあった。中世に専門の菓子職人が集住していた地区であったことから、古語でグラプフェンガッツと呼ばれ、時代がくだってクラプフェンガッセとなり、やがてチェコ語に訳されたという。1960年代にはソ連におもねってガガーリン通りと改称されたが、ビロード革命後に元に戻されたのは幸いだった。いずれにせよ、そのくらい歴史と日常にも溶け込んだ身近な菓子である。かつて「ウィーンの町はずれ」と呼ばれた都市だけに、ここでもフィリングはやはりウィーン流で、杏子のジャムが定番だった。──餡パンでもそうであるが、たべたときにこのジャムの部分が偏っていたり、極端に少なかったりするとがっかりするものだ。たっぷり充填されている不文律などないのだが、見えぬ中身に期待したあげく、結果として失望してしまうのは人生の暗喩に思えなくもない。

 ちなみにヴィストルチル議長の演説は、通訳を前提にチェコ語でおこなわれた。肝心の一文だけは「我是台灣人」とみずからパラフレーズしてみせたが、もとの文言は「Jsem Tchajwanec」であった。ただ、タイワネツという菓子の存在は寡聞にして知らない。月餅あたりをそう名付けたら、飛ぶように売れたりはしないだろうか。それとも中国大使館から営業妨害を受けるだけだろうか。

 

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*参照:

jp.reuters.com

www3.nhk.or.jp

www.afpbb.com

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

www.bbc.com

 

*追記:

 日本語にない冠詞にはいつも注意をひかれる。英語の報道をながめると、媒体によって「I am a Taiwanese」と「I am Taiwaneese」の両方がみられ、興味ぶかい。

nationalpost.com

www.reuters.com