ウラシマ・エフェクト

竜宮城から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。日欧ブログ……?

イジー・メンツルによる架空の村

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  アカデミー賞監督、イジー・メンツルが亡くなった。享年82。数年前に、髄膜炎の手術がかなり大がかりだったと伝えられていたから、その後の容態が案じられてはいた。

 1938年プラハ生まれ。1962年にアカデミーの映画学部"FAMU"を卒えると、やがてチェコスロヴァキアヌーヴェル・ヴァーグの一角として、ミロシュ・フォルマンやヴィェラ・ヒチロヴァーらと並称されるようになった。1970年代の一時期にはヤーラ・ツィムルマン劇団に参加するなど、舞台演出も手掛け、また俳優としても活躍した。

 映画監督としての代表作とされるものには、たいていボフミル・フラバルの原作があった。あるいはヴァンチュラのか。フラバルの文芸作品群に心酔して、その文章を映像表現に翻訳しつづけた職人という印象がつよい。それだから原作ゆずりの時代や体制に翻弄される不条理や、さまざまな種類の人間にたいするやさしげなまなざしが通底する。外国語映画部門でオスカー像を獲得した『厳重に監視された列車』(1966)にしろ、共産党に20年以上ものあいだ公開が禁じられた『つながれたヒバリ』(1969)にしろ、そうみえる。考えてみると個人的には最後に劇場で観たメンツル監督作品であった『英国王給仕人に乾杯!』(2006)も、フラバルの映像化だった。

 そういう意味では、最初に観た作品は例外で、原案・脚本ともズデニェク・スヴィェラークであった。その頃はまだ足を踏み入れたことすらない風土に、おおいに興をおぼえた。1985年公開の作品は、原題を_Vesničko má středisková_といい、英題が_My Sweet Little Village_で、ついでに独題は_Heimat, süße Heimat_、そして邦題は『スイート・スイート・ビレッジ』であった。どれも絶妙な訳だけれど、「středisková」という行政にもちなんだ語をすっとばしたことで、過剰にスウィートである感をいだかせる。ラベルの雰囲気から、ビタリング用のホップを欠く甘ったるい製品と思わせておいて、飲んでみてはじめて意外なほろ苦さに気づく麦酒のごとし。しかも見てのとおり、甘みが明記され強調されているのは輸出向けのラベルだけである。それでも「美し国」というときの「うまし」が「甘し」とも綴られることを思えば、なるほどと思うところもある。どうやら故郷とは甘いものらしい。

 個性ゆたかな村の住人たちが描かれるが、トラック運転手のカレル・パーヴェクと知的発達にやや障害のある助手、オチークの日常を軸に話は展開する。ふたりの葛藤と成長といったところか。撮影が行われたのは、まだ雪の舞う4月から、炎天もまばゆい8月にかけてであったそうだが、ちょうどオチークら若い登場人物たちの人生の春から夏を描いている、ともいえそうだ。演じたのはマリアーン・ラブダとバーン・ヤーノシュで、それぞれスロヴァキアとハンガリーのひとであった。バーンの呑気はなんともいえない味があったいっぽう、ラブダの醸す人のよい親分肌も印象的だった。ラブダは残念ながら数年前なくなっており、葬儀に参列したバーンの姿も報じられていた。じつのところ、若者役をのぞくと演者の多くが、すでに鬼籍の人なのである。

 ほかに、脚本のスヴィェラークも風来の画家の役で出てくるし、ルドルフ・フルシーンスキーは父も子も孫も同姓同名の名優だが、ここでは三世代が共演している。──いつもお馴染みのキャストといったら、そのとおりだ。チェコの映画なんか観るもんか、という現地のひとからよく聞かれる批判が「どの作品も同じ風景に同じ話で、まいかい同じ役者ばっかり」というもので、これはあながち外れていない。15年ほどまえ、チェコスロヴァキアの映画を中心にブログを書いていたころは劇場に通いもしたが、様式美に飽きがきたものか、気がついたらあまり観なくなってしまっていた。メンツルの作品に関しては「代わり映えしない、いつものメンツル映画」というニュアンスをしばしば含む「メンツロフカ」という言い草も聞かれたくらいだ。

 とはいえ、この1985年の農村劇にも姿があったヤン・ハルトルとリブシェ・シャフラーンコヴァーとが、2013年公開のメンツルのオペレッタ劇に主たる役で起用されていたのは、やはり好ましく思えた。相応にお歳を重ねていらしたが、懐かしい顔に出逢えるのもまた、代わり映えしない故郷のよさというわけだ。そういえば、メンツルの夫人はまだ40代で、故人より40歳も若い。とすると、公開時はまだ小学生だったということになる。いずれにせよ、さまざまな世代のひとにとって失われた風景が、良いところも悪いところも実相も虚像も、映画のうちに切りとられて残っている。「新しき波」のマニエリスムもいまや、あらゆる層に郷愁をさそう三丁目の夕日となっている。

 この共産体制下の牧歌的な劇映画は、プラハから50キロほど南にあるクシェチョヴィツェが舞台で、かの地で撮影された。人口は現在でも800人ほどらしい。ビロード革命の記憶も薄れつつある近年になってみれば、「同じ」と思われていた田舎の風景すら、すっかりこぎれいになってしまっている。首を手折って鳩を締め、兎の皮を剥ぎ、自宅の階段の7段目に置いてほどよく冷やした麦酒の栓を抜く──映画に活写された素朴な情景もむろん、いつまでもあるわけではなかろう。じっさい、民主化後に田舎の生活は変わってしまったようだ。たとえば、映画が撮影された時分とは異なり、住民のほとんどは近郊ベネショフやプラハに通勤するようになっているという。

 いっぽうで変わっていない構造もある。文化や生活様式が「首都プラハとそれ以外の地域」で二分されているがごとき国の状況は今でも、すくなくとも人びとの頭のなかではたいした変化は生じていないと思われる。オチークが遠出して、賑わうヴァーツラフ広場に到着したとたん、挿入歌"Praha už volá"が高らかに聞こえてきた場面をよく覚えている。これが言ってみれば、プラハこそ真のチェコスロヴァキアであるかのような暗示でもあり、ひるがえって忘れ去られたかのような地方のうらぶれかたが偲ばれる、じつに効果的な演出なのだった。事情は「東京と地方」の二元論にも似ているから、おおかたの日本人がみても身につまされるのではないか。

 かといって、それだけでは単なる「町の鼠と田舎の鼠」のイソップ童話に終わってしまう。前出のヤン・ハルトル演ずるヴァシェク・カシュパルは、どうやらプラハから来た畜産関係の技術者か何かだったが、頭の弱いオチークを言葉巧みに外出させ、空いたオチークの居室をシャフラーンコヴァー扮するひと妻との逢い引きに利用していた。この件について、ここには都会とはちがうモラルがあるんだ、というふうに抽象的にたしなめられる場面があった。メンツル自身、またスヴィェラークもやはりプラハの出であるが、都会の子だったからこそ、農村の生活を美しく誇張することもできたし、またぎゃくに彼我の差をも批判的な眼で観察することもできたのだろう。

 とはいえ、それが文化批評としても有効なものであるかどうかは、別の問題である。たとえば先にも触れたけれども、階段の7段目に置くと麦酒がほどよく冷える、というのが劇中パーヴェクによって語られる。作品に言及されるさい、巷間でも人気のあるエピソードである。だがはたして、撮影につかわれた家屋の住人によると、そういう事実はないそうだ。階段に瓶を置いたところで、中身はぬるいままだと。けっきょくすべては虚構であるのだが、嘘だろうと観じつつも、しかしことによっては……というぎりぎりの線にあたっているようにも思える。つまり、ありふれた僻村をかけがえのない郷里たらしめんがために、こういう有りそうで無さげな種類のファンタジーを弄するのが上手かったのがスヴィェラークであり、メンツルだったのだとも思う。

 ちなみにメンツルというドイツ姓は首都プラハをのぞけば、チェコ共和国北辺のプロイセンに近かった地方にいまだに多く分布しているようだ。もとよりドイツ語であるからメンツルと読むが、メンズルと発音するのは若いひとに多いように思う。また、文法上の問題もよく知られている。たとえば、2格でMenzlaの形をとるかMenzelaをとるか、あるいは5格でMenzleになるかMenzeleになるかは、外国人である場合をのぞき、当該の家族がおのおの決めることになっているそうだ。したがって、本人か家族に問い合わせないかぎり、記者などは文法のうえで正確な記事は書けない仕組みになっていることになる。そこまでは誰もやらないだろうが。ほか、ハヴェル(Havel)などの苗字にも、この規則は適用される。

 

*参照:

jp.reuters.com

www.bbc.com

 

*上掲画像はWikimedia