ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

インフォデミックの果て

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Nypl.digitalcollections.510d47e1-281b-a3d9-e040-e00a18064a99.001.w.jpg

 グテーレス国連事務総長をして、第二次世界大戦以来「最大の試練」と評せしめたコロナウイルスの大流行。いまやメディアの注意を引く世界の中心は、大陸欧州から北米にシフトした観がある。アメリカ合衆国の感染者数は、イタリアのそれの、ざっと倍に達している。なかでも感染者数、死者数とも急激に伸びているニューヨークでは、死者の数がすでに1000人を超えた。

 WHOは誤った情報の流行を、エピデミックになぞらえて「インフォデミックinfodemic」と呼称している。それによって、小売店の棚から紙製品が消えるくらいならば、まだよい。不安がヒステリーを惹き起こす過程について、日本人ならばさらに思い当たるふしがある。ふるくから災害時には発生しやすい「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」の類の風聞のことである。

 検疫や隔離の歴史のなかで、ニュー・ヨークといえば出てくるのが、ニューヨーク海事病院の焼き打ち事件で、このご時世に、北米のメディアでまた耳目を集めることとなった。──これについては、他所の著名なサイトに、すでに数日も前に日本語の記事が出来している。が、どうやら英語版のウィキペディアの記事を端から翻訳したと思しきくだくだしさなので、ここではあえて短く書く。以下は、ライターのマシュー・ウィルズの記事に主に依拠している。

 隔離病棟や伝染病に特化された医療機関は、感染症に対する人類最古の防御手段のひとつ。とはいえ、原発や火葬場、あるいはカジノと同様のニンビー施設といえ、これも古くからそうらしい。

 州の予算で運営されていたニューヨーク海事病院は、1799年に設立された。通称は、その名も「ザ・クワランティーン」。要は、施設じたいが「隔離」とか「検疫」そのものと見なされ、恐怖の対象とされていたようだ。スタテン島の北岸に位置していたが、やや隔絶され、岸への接近も比較的容易であったために、この立地が選ばれた。

 むろん住民もいた。1855年までの人口は2万人で、牡蠣の養殖と農業が島の主たる産業であった。1850年代をつうじて200万人もの移民がニューヨークにやってきたが、船内で黄熱病、天然痘コレラチフス等の伝染性の病がみつかるや、隔離された船は沖合に半年も停泊することとなった。これが住民の不安をかきたてたようだ。

 旧大陸では革命の年と記憶される1848年、島民は施設の撤廃をニューヨーク州に請願した。州は合意したものの、移設の計画は、島内の予定地が幾度となく放火されることで妨害されつづけた。

 運命の1858年、保健評議会と称する地元代表が、この「迷惑な施設」を排除することで市民の身を守る旨の方針を示した。数日の準備ののち、9月1日の夜、暴徒が殺到。壁が破壊され、銃撃につづいて、火が放たれた。2名が死亡した。到着した消防も、消火用のホースが切断されるなどしたため、手の出しようがなかった。翌日、島民はもどってきて、残った残骸を焼き尽くした。これを主導した人物はけっきょく無罪になった。施設のほうは、病院船が機能を肩代わりしたのち他所に移り、最終的に1920年、エリス島に移転した。──かなり端折ったが、「スタテン島隔離棟戦争(スタテン・アイランド・クワランティーン・ウォー)」とも呼ばれる騒動の顛末であった。

 公衆衛生学の研究者、カースリン・スティーヴンスンは、島民のヒステリーの根底に外人嫌悪(ゼノフォービア)の要素もあったとみている。こんにちのコロナ禍の狂乱のなかで起きた、アジア人への暴行等にも通ずるものがある。カミュの『ペスト』に学んだように、危機のときにこそ人どうしの繋がりが重要──とはいえ、ちかしい人びとから聞く噂を無条件に信じてしまうのも困りもので、暴動にまで至ってしまう群衆心理の怖さがある。

 「インフォデミックに気をつけよう」という記事は散見されるが、インフォデミックというカタカナ語以外に、日本語による定訳はいまだ無いようだ。デマ、流言、風説の流布風評被害……と、この手の語は時代や業界に応じて増えてゆくのであろうか。「エスキモーが雪をさす語の数」の寓意にかんがみれば、日本語話者すなわち日本人というのは、それだけ噂話に敏感なのかもしれない。

 

*参照:

daily.jstor.org

karapaia.com

 

*上掲画像はWikimediaStaten Island Quarantine War

エドワード・ホッパーの距離感としじま

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Nighthawks_by_Edward_Hopper_1942.jpg

 志村けんも命を落とした。幅広い年齢層によく知られた「国民的コメディアンの死」と報じられている。ニュースなど耳にはいらず遊び歩いている層も「バラエティ番組」の変化には気づくかもしれない。変わってしまった街の風景に気づいたときには、もう遅すぎる。これまでは「日本以外全部沈没」の様相を呈してきたが、ここにきて日本とて危険な兆候をみせている。

 米ジョンズ・ホプキンス大学の公開情報によると、ついにアメリカ合衆国の感染者数が15万を突破した。世界でもっとも多いということになっている。死者の数は3000に迫り、ニューヨークだけで800人弱。全米21州で、外出制限にかかわる措置がとられている。通りから人が消えた。飲食店では店内飲食禁止。フィットネス・ジムや映画館は封鎖。食料品など不可欠な業種以外は在宅勤務が普及しているが、感染者数が最多となったニューヨーク州では命令として、自宅勤務実施が義務づけられた。たがいに6フィート、約1.8メートルの距離を保つようにとも警告されている。

 ひとり米国だけではない。急にうらぶれたように閑散としてしまった町の風景や、自身の変わってしまった生活を見た各国市民のショックと、つづく不安や落胆は計り知れない。だが、それは人びとにとって、いつかどこかで見た光景だった──

 にわかに注目されているのが、米国の国民的な画家のひとり、エドワード・ホッパーであるらしい。英『ガーディアン』の記事が伝えている。ホッパーといえば、つい先日も『日経新聞』の日曜版の紙面に、カラー印刷による作品をみた気がするし、日本でもよく知られている。とりわけ愛される《ナイトホークス》(1942)に至っては、MacOSのデスクトップ用の「ピクチャ」にも工場出荷状態から格納されているほどである。

 打ち捨てられた都市景観や、孤立した人物像のモティーフは、これまで「現代生活における孤独と疎外」を捉えたものといわれてきた。が、パンデミックはホッパーの作品群にあらたな意義をあたえた、とジョーンズ記者は評する。エドワード・ホッパーの絵画のなかに、今現在のわれわれが描かれている、というひともあるくらいだと。

 アパートの一室でうちひしがれた男、映画館でひとりぼっちの女、さびしげな小売り店の販売員、夜のダイナーでそれぞれが距離をとって着座する数人の客。──もっとも甚だしいコロナ禍の社会的影響は「孤独による危機」である、というのが記者の見立てらしい。リベラル系の新聞には、社会面とも文化面とも分類できぬような種類の報道において、とくに面白い記事が多い。

 ホッパーは20世紀はじめ、ニューヨーク美術学校を卒えたのち、パリを中心に三たびヨーロッパに遊ぶ。そこで、モネ、セザンヌゴッホなど、印象派の影響を強く受けた。1910年には米国に帰国したが、晩年の1960年代になっても「自分はいまだに印象派だといいきれる」というような発言をしていた。

 印象派の人気が高い日本で、ホッパーが好まれるのも頷ける。つまり、多くの印象派の絵画と同様、鑑賞する際に神話や聖書や図像学的な知識が必要とされない。しかもパリの19世紀的な印象派よりも、やや現代にちかい身近に感ずる風景を描いている。それだけに、はばひろい鑑賞者が思いおもい感情移入して絵を体験することも容易で、自由に想像をめぐらせることで、心の癒しをも得ることができるのではないか。

ホッパー (岩波 世界の巨匠)

ホッパー (岩波 世界の巨匠)

 

 

*参照: 

www.theguardian.com

 

*上掲画像はWikimedia. 

オヴ・ザ・コンプレックス

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photo by Lisa scott

 あのね、フジナミがね……

 ──などといわれても、何のことだか、ぴんとこないほどの野球音痴である。昔日の新日本プロレスにおける藤波辰爾の勇姿しか、思い浮かばなかった。とほほ。

 しかし、ニュースを検索すると、おおよそ把握できた。阪神タイガース藤浪晋太郎選手がこのほど、食事の味がわからないと訴え出たのがきっかけとなって、コロナウイルスの検査を受けたところ、感染の早期発見につながった、ついては嗅覚異常や味覚障害という兆候が感染の察知に役立つのではないか、という話題であった。

 野球ぎらいなのかもしれない。むかしイチザキくんというのが(仮名だけど)それこそ四六時中、野球の話をするのだが、これがまた、したり気で偉そうなのだ。夜のニュースに見る野球解説者だって、そこまでの厭味はない。こちらが知らないとみるや、さらに小馬鹿にしたようなトーンを増す。

 前日のナイトゲイムの結果を知っているからといって何が偉いのか。贔屓の選手の好不調が云々できると表彰でもされるのか。国や地方自治体や公安委員会から何か減免してもらえるような特典でもあるのか──とすこしく腹も立ったが、何もいわなかった。というのも、こちらからすれば、そんなもので得意がっているのが滑稽にも見えたからだ。こういう輩は得意にさせて嗤っておくにかぎる。──へえ、ずいぶんお詳しくていらっしゃいますのね、ほほほ。それで、公式試合には何試合くらい出場されたんですの……あ、あら、まあ、ゼロなんですかあ、はあ、さようでございますかあ。え、お知り合いが……ドラフトで……、ふうん、お偉いんですのね。ドラフトでねえ。ご自身はゼロでいらっしゃって、お知り合いのかたがドラフトで。でもご本人ゼロでね。ドラフトでゼロで。へえ。ドラゼロ。そうですの。ほーほほ──もっとも、これもイチザキくんの話術をもじったもので、相手を小馬鹿にした会話表現は、話し上手なこの男に一日の長を認めざるを得なかった。

 

 遡れば、小学生の時分、少年サッカーをたしなんでいた。嗜むというのも変だけど、全国大会で優勝したとか、そういう華々しい戦果があったわけでなし。コーチにどやされながら、毎日まいにちボールをちょろちょろ蹴ってた、くらいのものだ。

 朝の練習で利用するグラウンドは、雨が降るとぬかるんで水たまりもできるような、整備されていない土地で、ピッチが2面も3面もとれるくらい、適度に広いことだけが取り柄だった。

 ところが週末ともなると、少年野球のご一行がやってきた。共同でグラウンドを利用するのだが、連中はいつもコンディションの好いほうの一画をつかうのだ。われわれ少年サッカーは、ぬかるんで水たまりまでできた、残り半分のスペースで練習だ。泥だらけは必至だ。

 それでも、すみませんね使わせていただきますね……という風情なら、まだ許せる。どうぞどうぞ。お互い仲良くやりましょう。……しかし、望むべくもない。野球をやっている連中は、ひとり残らず態度が大きかった。そしてサッカーを莫迦にしていた。

 そのころはまだ、Jリーグはなかった。いっぽう野球少年たちは、家庭でもお父さんお母さんに、「将来はプロ野球選手だー」などと、日ごろから誉めそやされて育っている。下手すると、もういっぱしのプロ選手であるかのような錯覚をもっている。まあ、サッカーなんかやっても、プロになれるわけじゃないしね──などと、両親からの受け売りにちがいない捨て台詞を残して、飛んできたボールを拾ってやっても、悪びれもせず仲間のもとへ駆けてゆくのであった。

 こういう仕打ちを受けてきた小学生はむろん、野球にかかわる情報を遮断して暮らすようになるはずだ。しぜん、野球に疎くもなる。そうすると、会話についていけないから、ますます莫迦にされ、ますます野球がきらいになる。──このままゆくと、野球のヤを聞くだけで発狂して、どうしてみんなあんな斜陽競技に夢を見るんだなどと、周囲に当たり散らすようになるかもしれない。たまに野球がきらいというひとが来ると、大いに共感して、やはり自分は間違っていないなどと確信を深めたりするのだろう。


 後年、ダブリンで、北モラヴィアから来たという留学生と一緒になって、昼休みのあいだ公園をぶらぶらしていた。すると、地元の人びとがクリケット競技をしているところにでくわした。

 「クリケットをしているね」と言うと、「ちがうでしょ。クリケットじゃないわ」と先方は反論する。

 「いやいや、間違いないよ。クリケットだ」

 すると、少女は「これはベイスボールというやつよ。きっとそうよ」と言い出した。

 「あのさ、これはクリケットといって……」と説明しようとすると、すかさず、「どうしてわかるのよ、ベイスボールかもしれないじゃない」と一歩も譲らない。

 それで訊いてみた。

 「きみはベイスボールを見たことがあるの」

 「ない。でも聞いたことはある」

 チェコ共和国で野球といえば、今でこそ代表が国際試合などにも出場しているようだが、このころはまだほとんど普及していなかったのだろう。

 「訊いてくる」と言い残して、クリケット選手たちのほうに駆けていってしまった。 

 野球もクリケットもきらいである。

オブ・ザ・ベースボール (文春文庫)

オブ・ザ・ベースボール (文春文庫)

 

 

*参照:

www.sankei.com

www.sankei.com

www3.nhk.or.jp

www.j-cast.com

www3.nhk.or.jp

www.sankei.com

 

ビハインド・ザ・マスク・2020

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photo by Juraj Varga

 世界中で一斉におなじことを体験する機会というのはめずらしい。延期になったオリンピックなど、スポーツ観戦ならあり得るが、それだって興味のない者は観ない。

 こうなってみると、各国で焦眉の課題にのぼったのは、石油でも天然ガスでもなく、マスク資源の確保である。マスク外交を展開する中国にしてみれば、これまでばら撒いてきた金品やパンダ外交よりも、はるかに安上がりに一帯一路戦略をすすめてゆけることとなった。たとえば、チェコ共和国バビシュ首相の中国大使への態度が、マスクをめぐって豹変したと『日経』の電子版が報じている。時代は、札束よりマスクだ。

 この地域におけるマスク争奪の様相をめぐっては、AFPが報じたニュースがわかりやすい。中国がイタリアに寄贈したはずのマスクが、どういうわけかチェコ共和国内で密輸品として押収され、さらに押収品を当局が地元の医療機関に分配したと知らされるや、イタリアのメディアは、チェコ政府による窃盗である旨、断罪した。

 いっぽうチェコ共和国のマスク事情に関して、賛嘆の声もあがっている。外出時の装用が義務化されたため、それまでほぼゼロであった着用率が、わずか10日間のうちに100パーセントになったと伝えられたのだ。これに連関して、イレナ・コチーコヴァーなる人物が、市民による手製マスク推進の経過について報告している。それによると、社会起業家らによってソーシャル・メディア上にマスクづくりのグループがいちはやく立ち上げられ、そこでノウハウが共有された由で、ひとつの仮説として、政府の遅々とした対応への怒りがこの運動を動機づけているという。低く抑えられている現在までの死者の数をみれば、成果までも伴っているといえるのかもしれない。

 信用できない政府を相手にした人びとの面目躍如、あるいは修羅場といえば、三十年前のビロード革命である。

 Rさんは、格安の学費に惹かれ、政治学の学位を取得するためにチェコ共和国に留学していた。ニューヨークから来た、アフリカ系の知的な女性であった。文科省のプログラムで関東某県の中学校で英語を教えた経験もあったからか、日本から来ていた中学生めいた中年に、なにか母親のように忠告をしてくれることもあった。

──チェコの人を信じてはだめ。平気で嘘をつく人たちだから。

 聞けば、カレッジを卒えて初めてやったことが、NGO団体での人道援助活動で、ビロード革命後のプラハにいたという。修羅場であった。食糧が配給される際にも、はったりをかまし、嘘をつき、他人を出し抜く人びとを目の当たりにした。

──そうしないと、この国では生きていけないのよ。

 逆にいうなら、そうまでして自分と家族を守る人たちでもあった。もとより政府も神も信じていないのだから。

 Rさんの見立てはごく主観的なもので、むろん革命前後の変化を比較するデータなどありはしなかった。だから、どこの誰でも食糧に窮したらそんなものだろうと、まず思った。それから、連中が嘘つきなのは、きっともっと昔からだと。たとえばあのよく槍玉にあがる、面従腹背のシュヴェイクの時代から。いずれにせよ、なにか大きな事件や災害を経験したことによって地域全体の人びとの行動様式が不可逆的に変化する理屈だとは、その当時、受け取らなかった。

 しかし、まもなく東日本大地震が起こった。震災の前後を比べると、日本人の振る舞いもどことなく変わったように見えたのだった。さらに、この手製マスク運動の顛末を参照するに及んで、そういうこともあるかもなと、Rさんの仮説を思い出したのだ。

 いま、世界中の人びとが同様の事象を経験していて、多かれ少なかれ似たようなストレスにさらされている。つまり、われわれは人類に共通する文化を獲得しつつあるということか。それが、マスク装用以上のものであるかどうかはわからないが。

ビハインド・ザ・マスク

ビハインド・ザ・マスク

  • 発売日: 2013/03/11
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*参照:

www.nikkei.com

www.afpbb.com

www.afpbb.com

 

*毎度ありがとうございます:

behind the mask

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  • 発売日: 2015/12/23
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
BEHIND THE MASK

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  • 発売日: 2014/11/05
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
Behind the Mask

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  • 発売日: 2007/08/22
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

チェコ語におけるドイツ語からの借用語

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/15/Adelung_WB_1811-Ausschnitt.jpg

 さいきん、Kurzarbeitというドイツ語がスラヴ語圏のメディアにあらわれるようになった。直訳すれば「短い労働」ではあるが、コロナ禍の影響で、賃金労働者の勤務時間が短縮されて稼ぎが減った分を、雇用主が解雇しないことを条件に国が補填するような仕組みを指している。雇用調整助成金の訳語をあてたものかどうか。むろん共産圏には存在するはずのない概念であって、ソ連邦の旧衛星諸国のメディアには、このご時世でもあるからして翻訳されずにそのまま流通している。1910年のドイツ帝国に遡る制度であるにせよ、いわゆるリーマン・ショック後は周辺国にも普及した。

 日本語では、ドイツ語からの借用語というと、アルバイトとかゼミとかグミとか意外なところにも残っている反面、ほとんどは医学や社会科学、山岳用語といった限定された分野の術語が主体であると思われる。カルテ、クランケ、カテゴリー、ゲマインシャフト、ゲレンデ、ザイル等々だ。ところがチェコ語のなかで生活したことがある向きは、日常会話でも毎日のようにドイツ語由来の語彙に遭遇することに気づくであろう。それ抜きにして会話するのが不可能にちかいほど、文語から口語までひろくみられるのも、ボヘミアモラヴィアの歴史を繙けば当然に思える。近代語をつくりだすときも、すべてを翻訳しきれなかったわけだが、それはそれで日本の学習者には幸いであった。

 たとえば、基本的な語彙に含まれ、一語で言い換えが困難と思われるものから挙げてみると、cukr(砂糖 Zucker)、drát(金属線、電線 Draht)、klika(扉の把手 Klinke)、malíř(画家 Maler)、malovat(絵を描くmalen)、studovat(研究する studieren)、špíz(串 Spieß)、švagr(義兄 Schwager)、tancovat(踊る tanzen)、trůn(玉座、帝位 Thron)などがある。špekもslaninaの一種であるSpeckとすれば訳しようがない。

 また、sako(上着、テイラード・ジャケット)はSakkoから来ているが、ドイツ語といっても標準的な語ではなくオーストリアの謂いで、首都がウィーンであった関係上、自然こういう例が多い。akkuratを語源とするakorátは「まさに、ちょうど、きっかり」といった意味ではつかわれるものの、標準的なドイツ語にある「入念な」という意味ではたぶん用いられない。オーストリアからバイエルンにかけての用法と共通している。

 20世紀初頭までのドイツ語の言語地図を見るとよくわかる。典型的にズデーテンと呼ばれる土地は、ボヘミアをぐるり囲む領域というイメージがあるかもしれないけれども、モラヴィアおよびシレジアにも伸びていて、くわえてドイツ語話者が優勢であった町がさらに内陸にも点在している。一種の言語島である。たとえばモラヴィアでは、どちらかというとプロイセンにちかいオルミュッツ(オロモウツ)では中部ドイツ語、ウィーンにちかいブリュン(ブルノ)では上部ドイツ語、といった色でそれぞれが示されている。それが島に見えるわけだ。

 人名なども、ドイツ語の発想がないと理解できぬ習慣や発音が多い。Jan(ヤン)をHonza(ホンザ)と称するのはなぜか。Josefをどうしてヨゼフというふうに読むのか。ただし、それがどうして愛称でペパになるのかは、イタリア語も関わってくるドイツ圏全域の習慣である。

 口語ないしスラングから、隠語(ジャーゴン)まで視野をひろげると、よりふかく地域差も関わってくるので手に負えない。方言というやつである。

 だが、たとえばブルノ市の路面電車が地元でšalinaと呼ばれていることは、いまどきプラハの人でも知っている。「Elektrische Linie」とか「Elektrische Stadtlinie」が語源といわれている。むろん標準的なチェコ語では、英語起源のtramvajである。ブルノは典型的な言語島であったから、「ハンテツ」と呼ばれる地元だけで流通する語彙のなかに、豊富にドイツ語由来の表現が残っている。

 いっぽうtrinkgeltなどは、おそらくどこでも通じる口語表現であろう。むろんTrinkgeldに由来する。飲み代に加えてウェイター等に少し多めに支払う、例の金子である。文語ではspropitnéである。酒場のスラングには多いのではないかと思う。štamgastは、Stammgastの音写であって、やはり常連客を意味する。zahlenに由来するzacálovatなども、知っておくと便利かもしれない。「お勘定!」という風に使うひともある。

 さらに業界の符丁にちかい隠語となると、日本語の事情と同様、綴りもわからないものも多い。苗字にもあることから、švarcと書くのであろう表現は、ドイツ語のschwarz(黒い)の音写にちがいない。原語では法に触れることを全般的に暗示する場合に用いられる色彩であるのに対して、チェコ語では、とりわけ雇用関係に関わる法的な「グレイゾーン」ともいうべき特定の事象を指す。現代の日本語で「ブラック」といえばやはり、会社の労働環境における特定の傾向を暗示する隠語となっているが、なかなかの奇遇である。商売といえば、kšeftなどは、Geschäftが語源であろうが、思い返すと商売人の連中は「売り上げ」から「儲け」くらいまでの曖昧な意味合いで、会話中に頻繁につかっていたものであった。

 最後に、日常会話で比較的よくでくわすと思しきものを選んでいくつか列記することで、検索サイトからご訪問いただいた諸氏の便宜に供したい。ドイツ語が第二外国語だったなどという向きには、チェコ語学習を始める際の取っ掛かりにもなる。日本の教育環境やドイツ語の学習人口からすれば、ひとつのコースであろう。あきらかに方言と思われたものは省いたが、いずれにせよ、学習者なら自分のノートをひっくり返せばたぶん記入してありそうな程度のものであるから、悪しからず。

  • blinkr:方向指示器(Blinker)
  • biflovat se:猛勉強する(büffeln)
  • deka:毛布(Decke)
  • fabrika:工場(Fabrik)
  • fajn:(体調などが)よい(fein)
  • fajnšmekr:食通(Feinschmecker)
  • falšovat:偽造する(fälschen)
  • fertik:完成、完了した(fertig)
  • fešák:洒落者、伊達男(fescher Mensch)
  • finta:フェイント(Finte)
  • flaška:ボトル(Flasche)
  • furt:いっつも、あいもかわらず(fort und fort)
  • kafe:コーヒー(Kaffee)
  • kára:カート、手押し車(Karren)
  • kasa:レジ、お会計カウンター(Kasse)
  • manšaft:ティーム(Mannschaft)
  • mašina:マシーン(Maschine)
  • pantofle:スリッパ(Pantoffeln)
  • šnek:蝸牛、カタツムリ、でんでん虫、マイマイ、ツブリ……(Schnecke)
  • šňůra:(靴などの)紐(Schnur)
  • špitál:病院(Spital)
  • taška:バッグ、袋(Tasche)
  • trefit:命中する、当てる(treffen)

 

チェコ語の基本 入門から中級の入り口まで CD付

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*上掲画像はWikimediaWörterbücher

カレル・チャペクとフゴ・ハースの『白い病』

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 感染予防のため、集会をとりやめ、人びとにお互いの距離を保つようにと、ときには政府首脳までもが直に呼びかけるなか、馬耳東風のていで遊び歩くひともいる。ドイツでは「コローナパーティ」なる語もできたそうだ。そういえば、若年層は罹りにくく、高齢者ほど危険性が増す感染症とて、社会進出の好機とみた若者がむしろ歓迎する──というシーンがでてくる物語も、かつて在った。あらゆる意味で黙示録的な作品であった。疫病からの連想であろう、どこぞの報道記事のうちにもタイトルを見かけたが。

  カレル・チャペクの戯曲_Bílá nemoc_がそれである。すでに「白い病気」という邦訳もあるにせよ、「花といえば桜」方式で「白いペスト」「白死病」などと訳してしまいたくもなるところだが、それでは日本語では結核の意味になる。くわえて、通常ハンセン病を指す語も劇中では用いられているから、いろいろな意味で少々むつかしいところがある。しかしそれだからこそ、病の寓意を延々と考えさせられもする。

 疫病に抗する人間を扱ったヒューマン・ドラマでもあるものの、全体主義へ傾く社会の風刺、というほうが主たる性格の三幕劇ではある。チャペクだけに、現代人にはすこしく説教くさいところもなくはない。が、国民社会主義の擡頭に危機感を募らせ、この手の警鐘を鳴らすようになった晩年の作であって、これをきっかけにゲシュタポの弾圧リストに載ったのだと聞くと、神妙な気持ちになる。後年、保護領化が済んで秘密警察が戸口に現れたときには、チャペクはすでにこの世になかった。

 初演がプラハとブルノ同日の1937年1月29日で、おなじ年の暮れには映画版も公開されている。映画は、かのフゴ・ハースの監督・主演にして、プロデューサーも兼ねた。ハースはプラハの舞台でも同じガレーン医師を演じており、他の配役も舞台と同じ役者にすることで、制作時間を大いに節減できたということらしい。──時間がなかった。公開の数か月後にはヒトラーは自らの故国を合邦し、チェコスロヴァキアにも触手を伸ばしつつあった。そして1938年9月には、ベネシュ大統領が一般動員令で全軍を待機させるなか、運命のミュンヒェン会談を迎えるのである。

 ──元帥と呼ばれる独裁者は、大衆を煽動して、いまにも戦争をはじめようとしている。時をおなじくして流行しつつあった謎の伝染性の疾患。白色の斑点が身体に現れると、その箇所の神経は麻痺し、やがて死に至る。45ないし50歳以上の者だけが罹患する疾病である。医師のガレーンは特効薬を発見するも、武器を売って財をなすような者の治療をかたくなに拒否する。かつて軍医として悲惨な戦場に立って以来、戦争の廃絶だけを念じて生きてきたのだ。軍需工場のオーナーで、元帥にも近しいクリューク男爵(映画版ではクローク男爵)も治療を拒否されたひとりだ。武器の製造を停止するまでは、という条件だったが、できない相談だった。近隣の小国に戦端を開いた直後のある日、群衆に向かって演説をする元帥は、自らの胸に白斑を認めたのだった……

 ところで、独裁者の「元帥」という役は舞台と同様、ズデニェク・シュテェパーネクが演じた。ほかにシラノ・ド・ベルジュラック役などを得意とした偉丈夫で、それもそのはず、チェコスロヴァキア軍団に参加したシベリア帰り。だからこの作中人物がまた健康的で恰幅がよく、あの威勢のわりに病弱そうなヒトラーにはとても見えない。チャップリンの『独裁者』とは対照的だ。つねに胸を張り、いちいち腰に手を当てる外連からは、むしろムッソリーニが想起される。これも、作品に普遍性をもたせるべく、あるいは上映禁止になるリスクを減じるべく、ハースの意図したところであろうか。じっさい「男爵」の名が公開後に変更されたのは、その筋からの圧力の結果ともいわれている。いずれにせよハースは、チャペクとは別種の危機を肌で察知していたにちがいない。

 ハースが暮らしたウィーンから列車で約1時間半、ブルノ市の観光案内所で訊けば、チャペク少年が数年暮らした通りのほか、ハース兄弟の生家の位置も教えてくれる。といっても、外壁の銘板を眺めることができるのみだ。フゴ・ハース自身はウィーンに逃れたが、音楽家の兄・パヴェルは強制収容所で生涯を終えた。

 戦後におけるフゴ・ハースの活躍はあらためて書くまでもあるまい。死後、ブルノのユダヤ人墓地に埋葬されたとはいえ、生前は一時的な訪問以外にはチェコスロヴァキアに帰ることはなく、ウィーンで没した。いっぽう「元帥」のシュテェパーネクとて、対敵協力の嫌疑をかけられ、しばらくは俳優活動ができなかった。一難去ってなんとやら。コミュニストという第二のペストがやってきていたのだった。さしずめ「赤い病気」と言えるかもしれないが、とりわけ米国でヒステリックな反応を惹き起こしたことは周知のとおりである。皮肉なことに、あるいは至当のことか、映画自体は「反ファシズム映画」として、戦後チェコスロヴァキアでも人気を博しつづけた。芝居もだ。共産党のお墨付きというわけだ。

 だが、チャペクならまだましである。たちの悪いプロパガンダに毒されて、歪んだチェコスロヴァキア民族史観で世界を見るようになってしまう輩もあるから、気をつけねばなるまい。特定のドイツ人に個人的な被害の体験や商売上の利害関係もなしに、あるいは確たる根拠もなしに「ドイツ」という茫漠たる概念を目の敵にしはじめたら、そいつは要注意だ。白赤青の病気の検査をしたら、たぶん陽性と出る。発作のごとく、なんの脈絡もなく詰り始めたりすることもある。と、と、とにかく悪いのはドイツだ。ド、ド、ド、ドイツがいつも悪いんだ。ついでにアメリカも悪い──これは「日帝残滓」などと譫言のようにくりかえす連中と同種の病気である。場末の酒場にもよくいる。知ってるか、ここはボヘミアだぜ、アジア人が居るのはおかしいとおもわないか、なあ、お前のことだよ、云々。

 とまれ、チャペクがどうして日本で人気があるのかは、じつはよくわからないけれど、たとえば戦前の北米では映画の評判は芳しくなかったらしい。問題を単純化しすぎ、とかなんとか。たしかに往時の緊迫した雰囲気を伝えているとはいえ、白と黒、善と悪の貧相なスーパー戦隊みたいな世界観で、人物造形も平板に見えたのだろう。だが、ちょっと考えてみると、連中は終戦後の日本人とて「ナイーヴな12歳」と貶したものだった。マッカーサーだったか。あれも元帥か。アングロ=サクソン45歳説。だから、幼い民族は保護領にして導いてやらないと──ひょっとしたらその辺りにチャペクと日本人の共通項があるのかもしれない。

 しかし、21世紀のポピュリズム政党乱立のさなか、この降って湧いたようなコロナ騒動の現状をチャペクが見たら、何とのたまうだろう。きっとチャペクのことだから──このようなときでも、いや、このようなときだからこそ、決して市井の生活者の生きる権利が脅かされるようなことがあってはならないのだ──とかなんとか、週末のコラムに書きそうな気はする。でも、そうだよ。正論。そうそう。そうだそうだ。そうだともそうだとも。

 今はどうなのか知らないが、かつて日本の出版社は売れないチェコ文学を毛嫌いしていたとも聞く。ただし、チャペクは例外だ。──そりゃそうさ。アメリカ人にはわかるまいが、われわれは単純な12歳だしナイーヴだから、こういう堅物のチャペクが大好きなんだ。文句あるか。

 

_Bílá nemoc_, 1937,(全編):

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疫病神の正体

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/69/Ban_Dainagon_Ekotoba_-_Mystery_character_A_detail_2.jpg/1280px-Ban_Dainagon_Ekotoba_-_Mystery_character_A_detail_2.jpg

 人間が右往左往していても、花は咲く。春である。もう春分か。夜桜をあてに暗くなってから散歩に出るのもわるくはないが──暗がりで疫病神に遭った人もいた。

 『今昔物語集』に「或る所の膳部、善雄伴の大納言の霊を見たる語」というのがある。そこで疫病神の正体が明かされている。手もとの岩波文庫版では本朝部の下巻である。

 あるとき膳部、今でいう調理師の男が、午後10時ごろ外出した。道すがら身なりのよい紳士に出遭って、だれだかわからないなりに挨拶をした。すると、先方は名告りはじめて曰く、我こそは大納言・伴の善雄であって、応天門放火事件の罪をきせられ、伊豆に流刑になって死んだ。それで疫病神になりはしたが、生前は世話にもなったし、今回は軽い咳病を流行らせるだけにしてやっている──というような弁で、それをもって世の人は疫病神の正体を知ることになったが、どうして打ち明けた相手が、よりによってその調理師の男であったかはわからん、という話である。

 「ヨシオ・トモノダイナゴン」というと、なにやら怪獣の学名のような響きだが、史実では「善男」か。この人物に取材した浄瑠璃や歌舞伎には「義雄」として登場するなどしている。また、平安前期の応天門の変については、絵巻物『伴大納言絵詞』に描かれるところで、国宝である。ウイルスというよりもこの人物自身が、キャラクター化して各種のメディアに増殖していったかのようだ。あるいは流行の語でいえば、疫病神というよりは、むしろスーパー・スプレッダーであったものか。いまごろベルガモあたりをぶらつきながら、トラットリアの大将でもつかまえて名告りをあげているのかもしらん。

 ところで、「スーパー・スプレッダー」にかぎらず、ここ数か月、使い慣れない疫学や薬学やらの術語がメディアに急増している。「クラスター」とか「ファビピラビル」とか……。一説には、子どもはほぼ成人するまで、二時間にひとつのペースであたらしい語彙を覚えてゆくという。24時間のうち半分ほどすやすや眠るとして、1日12時間とすれば、6語か。365日かけると、1年で2190語。──それにくらぶれば、たいした数でもあるまい。憶えたての新語を使いたがる子どものようなメディアに、せいぜいつきあってやるとしよう。

 と、懲りずに各種のメディアに目をやれば、「コロナ・コンテンツ」が咲き乱れている。まさに時代の徒花だ。

 先日、たまたま出くわした動画は『ワシントン・ポスト』紙のものだったか。「isolation」と「quarantine」はどう違うか──というような動画は、日本語になれば、どちらも文脈によっては「隔離」だから、ぴんとこない分、ぎゃくに語用論的な意味合いを知るのにちょうどよい英語教材にもなっていたりする。へー、なるほど、って。おなじサイトには、ニュートンの若い頃についてのコラムもあった。17世紀当時、やはり疫病が流行り、ケンブリッジも「コロナ休暇」のていで、20代のアイザック・ニュートンも自宅に籠もったが、そこで世紀の大発見をした。なにしろ、あの林檎の木があったのだ! そんなわけで、みなさんも有意義に過ごしましょう──という趣旨であったと思う。

 だが、心配には及ばない。各地で集会・行事や外出そのものが自粛されるなか、ちゃんと有意義に過ごしている向きも多いと見える。世のなか、マスクや紙を求めて血眼になっている人びとばかりではないのだと知って安心する。

 たとえば、アルベール・カミュの『ペスト』が世界中で売れているらしい。疫病に封鎖されたアルジェリア・オランの町を描写した、1947年の小説であった。主題が、非常時における結束とか団結といった肯定的なものであって、読まれること自体よいことなのかもしれない。めっきり本を読まなくなった人類にとっては。

 また、SNS等であたかも「予言」であるかのように騒がれているのが、ディーン・クーンツのなんとかいう小説で、「武漢400」なるウィルスも登場するというスパイ・アクションらしい。不勉強の不肖の身で、まだ読んでいないからなんとも言えないが、クーンツといえば『ベストセラーの書き方』で有名でもあったし、そうとう安っぽい話ではあるらしい。

 だが、たとえ散々な評判であっても、話を聞くと読みたくなるのが人情だ。そういえば半年ほど前には、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』が数十年の時を経て、SNSで話題になったのをきっかけにふたたびベストセラーになった、というニュースもあった。なつかしいな、とか、あれれどこにやったかな、とか、たしか実家にまだあるんだよな、などと思いながらも、あらためて電子版をポチッと購入してしまうのもまた人の常ではなかろうか。購買行動とは、こうして疫病のごとく伝播してゆくのであった。

 ……したがって、現代の疫病神ダイナゴン・トモノヨシオとは、じつはメディアのことであると思われる。

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

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*上掲画像はWikimedia

疫病神の道行き

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 WHOは、もはや事実を追認するだけの機関になりさがってしまったが、それでも認めるだけましだろう。コロナウイルスによるパンデミックの中心が大陸欧州に移ったことは、つとに明白であった。

 学校の閉鎖は、日本政府が打ち出したときは批判の声もあがったが、その後、世界各地の学校が閉鎖されるのを見るに、ピークを遅らせるために一定の効果があるのだと、昨今では主流の対策となっている観すらある。ドイツ語では「夏季休暇」ならぬ「コロナ休暇」という語も生まれ、児童や生徒のあいだで盛んに用いられているそうである。

 さて、ロンバルディアといえばかつてのハプスブルクの領土でもあり、気が気ではないひとも多いのだろう。「大震源地」となったイタリアと国境を接するオーストリアでは13日、アレクサンダー・ファン・デア・ベレン連邦大統領が、映像を通じて国民に結束を呼びかけた。

 一人ひとりの日常生活に深くかかわっているのです、とコロナウィルスの危険について、緑の党出身の左派インテリ大統領は優しげに語りかける──連邦政府と専門家の意見に耳を傾け、ウィルスの拡散を遅らせましょう。手を洗ってください。むやみに顔に触れぬように。握手も今はやめましょう。代わりに、たとえば私なんかこうします、と言って、合掌しながら軽くお辞儀してみせる。アジア流に行儀よくもフレンドリーに……みたいなことを言い添えて。

 いくらパーフォーマンスを得意とするわが国の総理大臣にしても、こんな保健所の小母ちゃんのような注意事項なんぞ、くだくだ言わないと思う。いわんや、畏くも大元帥陛下におかれては……。また、このところセバスティアン・クルツ連邦宰相も、ニュース番組で質疑応答を受けるなどしているが、行政の長らしく実務的な話がもっぱらであった。連邦共和制の国のそれぞれの役割が象徴的にあらわれたようで、興味深かった。

 いっぽう、この穏やかな口調にくらべると、イタリアからも隔たったチェコ共和国政府の対応はあまりにも性急で、首相と保健相の記者会見にしても余裕なさげに見えた。

 性急といえば、翌朝からの措置について、政府が夜中に公式サイトで情報を開示したというのが典型であった。コロナウィルスに関連した危機的状況の解決のため、法に基づき全土に非常事態を宣言する由であった。具体的には、以下に挙げる、小売り業およびサーヴィスの販売を3月14日6時から10日後の6時まで禁ずる、と。その一覧を眺めると──食料品、コンピューター、通信機器、AV機器、家電製品、およびその他の家庭用品、燃料、衛生用品、化粧品、薬局薬店、医療器具、ペット、動物飼料やそれに類する物資、眼鏡、コンタクトレンズと関連商品、新聞・雑誌、たばこ製品、ランドリー及びドライクリーニング……

 周辺諸国に倣ったのであろう緊急の措置にしては、またまた広範囲な──と思ってよく見ると文中「s výjimkou」とあって、これはむろん「〜を例外とする、〜を除く」という意味であるから、ずっこけた。逆に、禁止される業種を列挙してあげたほうが早いし、なにより親切ではなかろうか。

 ブリュッセルEU帝国政府からは非難めいた声もあがるなか、旧宗主国をぎこちなく真似て、国境管理を極端に強化する挙に出、すでに人の移動の制限をうち出してはいる。だが、もともと医療現場のリソースが貧弱で、住民の高齢化率も高めという自国特有の事情を考慮すればなおさら急がんとしたところか。くわえて、休校で暇をもて余した学生らが夜の街に繰り出す光景に悪夢でも見たのであろう、飲食店は20時までの営業に制限された。急に土曜の晩に営業できなくなった店主の嘆きは想像するにあまりあるが、無茶な国境封鎖に比べれば、ある程度まで致し方ない措置には思える。

 あるいは──ここからは陰謀論めいたこじつけになってくるが──翌3月15日は「チェコスロヴァキア消滅記念日」にあたるため、やはりその日は避けねばならなかったものか(ちなみに前日13日は、旧オーストリア=ハンガリー社会民主主義者にとっては大切な「革命記念日」ではあった)。

 

 ──1939年3月15日早朝、ベルリーン。前日から監禁、脅迫がつづきもすれば、心臓を病んでいなかったとしても、いずれエミル・ハーハ大統領は屈したにちがいない。大統領が署名した瞬間、第二共和政チェコスロヴァキアは消滅し、代わって「ボェーメン及びメーレン保護領」と「スロヴァキア共和国」が成立した。その15日の1915時に、ヒトラーはさっそくプラーク入りした。2日後、17日の金曜日1100時には、オルミュッツ経由でブリュンに入城する。
 朝から霧が出ていたが、やがてそれは霧雨になり、そして雪に変わった。それでもドイツ系の地元住民は、「アードルフ・ヒトラー広場」につめかけて鉤十字の旗を振ったり、かねてから練習していたナツィ式の敬礼をしたりした。この広場は、前日までは自由広場と呼ばれていて、さらにこの翌日にはふたたび自由広場の名に戻った。「アードルフ・ヒトラー」が「自由」を取り上げたというのは、さすがにまずいと思ったのか、けっきょく300メートルほど北にある別の広場、ラジャンスキー広場(現在のモラヴィア広場)が、「アードルフ・ヒトラー広場」と改称された。
 ヒトラーの車列は駅を出発して、ドイツ人市民劇場の前を通って、コリシュティェ通りからラジャンスキー広場に至った。前述のとおり、この広場は翌々日にヒトラー広場と改名され、そこに建っていた壮麗なドイツ人会館はナツィ党が接収した。
 ラシーン通りを抜けて、件の自由広場に入ってから右折する頃にはすでに雪も止んでおり、ヒトラーは、幌を畳んだ国防軍所有のメルツェーデス=ベンツG4の助手席に立って、沿道の歓迎ぶりを満足げに見下ろしたまま前進した。
 それからドミニコ会広場へ入って、その先の新市庁舎の中庭に入っていった。しばらくすると、ファサードのバルコニーに姿を見せ、眼前の広場に満ちた観衆の声援に応え、ひとしきり演説をぶった。

 1330時には再び新市庁舎を出発して駅に戻り、列車にてウィーンに向かった。
 ヒトラーが去った駅のすぐ裏手に在った、市内最大のユダヤ寺院は、その日の夜のうちに焼かれたらしい。のち、跡形もなくなった。

 

*参考:

www3.nhk.or.jp

orf.at

www.vlada.cz

www.novinky.cz

www.yomiuri.co.jp

www.nikkei.com

www.youtube.com

スペイン風邪と比べるなかれ……?

 2020年3月13日、日経平均株価は一時1800円を超える大幅な下落を記録した。取引時間中としては1990年4月以来、およそ30年ぶりの下げ幅だという。

 このところ英語圏の記事で目立っていたのは「コロナウイルススペイン風邪とは違う」というような論旨である。感染力や致死率など疫学的なファクターでみれば、100年前の惨事とはくらぶべくもないとか、そもそも数字に踊らされてはならんとか、要は、パニックを戒めているようだ。が、暴落ともいえる相場を見るだけでも、焼け石に水といった観は否めない。

 三回ほどの大きな波をともなって、1918年から数年間にわたったパンデミックは、厳密にはインフルエンザであったものの「スペイン風邪」として世に知られる。戦時の情報統制を敷かなかった中立国・スペインから、流行のニュースが逸早く配信されたことで、世界的にこの名で恐れられることとなった。けっきょく、当時の世界人口の1/3にも迫らんとする5億人が感染し、うち5千万から1億人が死亡した。以前には、その死亡率は一例で2.5%といわれていた。が、この数字の矛盾に気づき、検証し直したという記事を載せているのがWIRED誌で、けっきょく6から8%であったと結論している。

 ちなみに他の疫禍の場合を見てみると、2003年のSARSの際には、世界で約8000人の患者が出、致死率はおよそ10%だったとされている。2012年に発生したMERSでは、患者は中東を中心に2500人で、致死率は30%ほどであったという。高い致死率とともに、大騒ぎしたわりに感染の数が意外にすくなく見えることには驚く。

 感染者数が世界で12万人を突破し、さらに増え続けてもいる今般のCOVID-19についても、米CDCによると致死率1%程度になるという推測がつとに伝えられていたが、米ブルッキングス研究所による、死亡者の推定値に関する記事があらためて出来した(最善でも死者数は日本13万人、世界1500万人。GDP損失は2.3兆ドル。米シンクタンク試算 | Business Insider Japan)。

 この数字を受けての株価暴落や「比べるべからず論」の流行だったのだろうから、この日本語オンライン誌は、記事掲載のタイミングからするとやや非主流派であろうか。とまれ、過去に鑑みて未来を構想し、また想念のうちに過去に戻りつつ歴史を叙述するのが人間であるから、スペイン風邪の悪夢から完全に自由になることはあり得まい。

 ところで、トム・ハンクスが滞在先の濠州で、コロナウィルスに感染したことを明かした。むろん週末には、カムバックを祈念して『プライヴェイト・ライアン』など鑑賞する向きも多いとは思う。

 100年前のスペイン風邪には、今日われらもよく知るセレブたちも犠牲となった。なんといっても世界人口の3割ちかくが罹患したのだ。──パリではギョーム・アポリネールエドモン・ロスタンのような文人ら、ウィーンではグスタフ・クリムトにエーゴン・シーレといった画家らも死んだ。ベルリーンでは「山のあなた」のカール・ブッセ、ミュンヒェンでは『プロテスタンティズム』のマックス・ヴェーバーが斃れた。日本でも、《中央停車場》を設計した辰野金吾が生命を落とし、また抱月島村瀧太郎も感染し、死後は松井須磨子が後を追った。ニューヨークではフレデリック・トランプ──すなわちドナルド・トランプ現大統領の御祖父様にあたる実業家であるが、これも四十九という若さで没した。

 というわけで、トランプ大統領にはもう少し冷静かつ的確な対応をしていただき、多少はマーケットを安心させるようにお願いしたいものである。また、オマハの賢人などは「買い場の到来」とばかりに意気も盛んなようだが、日銀も負けずに、3兆円ごときの含み損に懲りることなく、じゃんじゃんばりばりやってほしい。両者とも、他に代わる者はないし、それ以外に道はないのだから。

プライベート・ライアン (字幕版)

プライベート・ライアン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

 

*参考:

www.wired.com

www.vox.com

www3.nhk.or.jp

www.mag2.com

www.businessinsider.jp

www.nikkei.com

weekly-economist.mainichi.jp

 

*追記:

kapok.mydns.jp

 

*上掲画像はWikimediaSpanische Grippe – Wikipedia

シン・コロナ

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photo by Jens Johnsson

 WHOがとうとうパンデミック宣言を発出した、と報じられた。「世界的大流行」と定義されたところで、流行が止まってくれるわけでなし、株価とて上昇しはじめるわけでもあるまいが。多くの識者は主観的には、パンデミックといってよい情勢になっていると久しく感じていたにも拘わらず、WHOが宣言していなかっただけなのだ──とおおかたには受け止められているようだ。

 WHOにおけるパンデミックの尺度に変更があって、運用基準が変わったという解説もあるにはある。また、囁かれつづけてきた中国共産党への配慮というものがどれだけあったのか、なかったのか、むろんそれも定かではない。とまれ、すくなくとも前例を踏襲する必要があるとすれば、2009年のインフルエンザによるパンデミック宣言を教訓のひとつにしていることは間違いない。

 その前回のパンデミックをテーマに、2008年1月に放映されたTVドラマがある。『〈NHKスペシャルシリーズ・最強ウイルス第1夜ドラマ・感染爆発~パンデミック・フルー』がそれで、再現度の程はもはや黙示録的な何かである。忍び寄る予兆を受けて制作されたものであろう、疫病と闘う際に医療機関が直面する困難の数々が微に入り細を穿ち、克明に描かれている。また、作中の「H5N1型」を「新型コロナ」に変えれば、現今の問題とて見えてきそうだ。これを鑑賞すると、イタリアにおける爆発的な感染と莫大な死者の謎についても、まざまざとした想像をめぐらせて類推できるように思えてくる。医療現場における人的・物的なリソースの絶望的な逼迫も描写されているからである。

 思えば、当時は忙しくて日本に帰ってきていなかったから、この番組じたい知らなかった。が、いま見ても、よく練られたシナリオであることにくわえて、豪華俳優陣も物語を盛り上げているのがわかる。2017年に亡くなった藤村俊二も重要な患者を演じているし、看護部長役の深浦加奈子はこのとき癌に冒されており、まもなく亡くなった。劇中、村の診療所で孤軍奮闘した老医師役の佐藤慶も、いまや鬼籍の人である。

 これを『シン・コロナ』と思わず呼びたくなったのは、もちろんゴジラの代わりにインフルエンザ・ウイルスが上陸し、それに抗して官僚たちが闘うというプロットによるわけだが、映画『シン・ゴジラ』とおなじく、会議のシーンが多いことにもよる。娯楽作品にあっては、読者や観客や視聴者に情報を小出しにして、次の展開を予測させたうえで、その予測を裏切るシーンを入れる──というシークエンスを繰り返して物語を構成する必要がある。その点、たしかに会議の場面というのは定番で、これは事情通と狂言廻しを一堂に集めて、自然な形で情報を伝えやすい仕組みだからであろう。そういえば同様に架空のパンデミックを扱った映画『復活の日』でも、みんなで雁首を揃えて延々と評定するシーンが印象に残っている。

NHKスペシャル シリーズ 最強ウイルス DVD-BOX

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設定は2008年11月。日本海に面する寒村でH5NI型新型インフルエンザの患者が相次いで確認された。村を徹底的に封じ込め、根絶を図る政府。しかし、ウイルスは信じられないスピードで東京中にまん延、感染者・死者は数万人に達する勢いに。社会システムの停滞。医療現場の崩壊…。ウイルスに侵された人々が行き場をなくす中、医師・田嶋(三浦友和)は、自分の病院に新型インフルエンザの患者を受け入れることを進言する。

NHKスペシャル シリーズ最強ウイルス 第1夜 ドラマ 感染爆発~パンデミック・フルー~ | NHK名作選

www2.nhk.or.jp

www6.nhk.or.jp

www3.nhk.or.jp

jp.reuters.com

www3.nhk.or.jp

シン・ゴジラ

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