ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

インフォデミックの果て

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/Nypl.digitalcollections.510d47e1-281b-a3d9-e040-e00a18064a99.001.w.jpg

 グテーレス国連事務総長をして、第二次世界大戦以来「最大の試練」と評せしめたコロナウイルスの大流行。いまやメディアの注意を引く世界の中心は、大陸欧州から北米にシフトした観がある。アメリカ合衆国の感染者数は、イタリアのそれの、ざっと倍に達している。なかでも感染者数、死者数とも急激に伸びているニューヨークでは、死者の数がすでに1000人を超えた。

 WHOは誤った情報の流行を、エピデミックになぞらえて「インフォデミックinfodemic」と呼称している。それによって、小売店の棚から紙製品が消えるくらいならば、まだよい。不安がヒステリーを惹き起こす過程について、日本人ならばさらに思い当たるふしがある。ふるくから災害時には発生しやすい「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」の類の風聞のことである。

 検疫や隔離の歴史のなかで、ニュー・ヨークといえば出てくるのが、ニューヨーク海事病院の焼き打ち事件で、このご時世に、北米のメディアでまた耳目を集めることとなった。──これについては、他所の著名なサイトに、すでに数日も前に日本語の記事が出来している。が、どうやら英語版のウィキペディアの記事を端から翻訳したと思しきくだくだしさなので、ここではあえて短く書く。以下は、ライターのマシュー・ウィルズの記事に主に依拠している。

 隔離病棟や伝染病に特化された医療機関は、感染症に対する人類最古の防御手段のひとつ。とはいえ、原発や火葬場、あるいはカジノと同様のニンビー施設といえ、これも古くからそうらしい。

 州の予算で運営されていたニューヨーク海事病院は、1799年に設立された。通称は、その名も「ザ・クワランティーン」。要は、施設じたいが「隔離」とか「検疫」そのものと見なされ、恐怖の対象とされていたようだ。スタテン島の北岸に位置していたが、やや隔絶され、岸への接近も比較的容易であったために、この立地が選ばれた。

 むろん住民もいた。1855年までの人口は2万人で、牡蠣の養殖と農業が島の主たる産業であった。1850年代をつうじて200万人もの移民がニューヨークにやってきたが、船内で黄熱病、天然痘コレラチフス等の伝染性の病がみつかるや、隔離された船は沖合に半年も停泊することとなった。これが住民の不安をかきたてたようだ。

 旧大陸では革命の年と記憶される1848年、島民は施設の撤廃をニューヨーク州に請願した。州は合意したものの、移設の計画は、島内の予定地が幾度となく放火されることで妨害されつづけた。

 運命の1858年、保健評議会と称する地元代表が、この「迷惑な施設」を排除することで市民の身を守る旨の方針を示した。数日の準備ののち、9月1日の夜、暴徒が殺到。壁が破壊され、銃撃につづいて、火が放たれた。2名が死亡した。到着した消防も、消火用のホースが切断されるなどしたため、手の出しようがなかった。翌日、島民はもどってきて、残った残骸を焼き尽くした。これを主導した人物はけっきょく無罪になった。施設のほうは、病院船が機能を肩代わりしたのち他所に移り、最終的に1920年、エリス島に移転した。──かなり端折ったが、「スタテン島隔離棟戦争(スタテン・アイランド・クワランティーン・ウォー)」とも呼ばれる騒動の顛末であった。

 公衆衛生学の研究者、カースリン・スティーヴンスンは、島民のヒステリーの根底に外人嫌悪(ゼノフォービア)の要素もあったとみている。こんにちのコロナ禍の狂乱のなかで起きた、アジア人への暴行等にも通ずるものがある。カミュの『ペスト』に学んだように、危機のときにこそ人どうしの繋がりが重要──とはいえ、ちかしい人びとから聞く噂を無条件に信じてしまうのも困りもので、暴動にまで至ってしまう群衆心理の怖さがある。

 「インフォデミックに気をつけよう」という記事は散見されるが、インフォデミックというカタカナ語以外に、日本語による定訳はいまだ無いようだ。デマ、流言、風説の流布風評被害……と、この手の語は時代や業界に応じて増えてゆくのであろうか。「エスキモーが雪をさす語の数」の寓意にかんがみれば、日本語話者すなわち日本人というのは、それだけ噂話に敏感なのかもしれない。

 

*参照:

daily.jstor.org

karapaia.com

 

*上掲画像はWikimediaStaten Island Quarantine War