ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

チェスカー・ズブロヨフカによるコルト買収

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photo by Mike Gunner

 チェコ共和国の銃器メーカーである、チェスカー・ズブロヨフカ・グループ・SE(CZG)が、同業の老舗、米・コルト社(コルト・ホールディング・カンパニー・LLC)とそのカナダの子会社の全株式を取得すると報じられた。2億2000万ドル(およそ47億コルナ、約230億円)の現金と100万株以上の新規発行の株式を充てる。目下のところ規制当局の承認待ちとされるが、手続きは2021年第2四半期中には完了する見込み。両者はそれぞれの国において、軍への代表的なサプライヤーとして認知されてもいる。売上高はあわせて、110億コルナ(約540億円)ちかくになるという。

 「全世界の軍や法執行機関、民間市場における象徴的なブランドであり指標であるコルト社の買収は、銃器業界のリーダーに、そして軍事組織の主要なパートナーになるという弊社の戦略に、ぴったり合致します」と、同グループの会長兼最高経営責任者であるルボミール・コヴァジーク氏の言がプレスリリースにある。「175年以上にわたって米軍とともに歩んできたコルトを、ポートフォリオに加えることができるのを誇りに思います」とつづく。コルトは米軍だけでなく、子会社をつうじて、カナダ軍にも独占的に火器を納入しているとつたわる。

 コルト社の経営といえば、2013年に陸軍への「M4A1カービン」納入の契約を失って以降、近年はあまり芳しい評を聞いた記憶がなかった。けれども、現在の同社のCEOは「過去5年間で、経営成績と財務成績は歴史的な好転を遂げた」と、2015年の破産保護申請から再建が順調であることを強調している。

 さかのぼれば、サミュエル・コルトが回転式拳銃の特許を取得したのは、じつに1830年代のことだった。1836年に会社を興したものの、しばらく経営は安定しなかったようだ。それでも、やがて米墨戦争などもあり、政府からの大口注文が舞い込むようになる。南北戦争のさなか、47の若さで病没するが、会社はまさにそのとき莫大な利益を上げていた。同年のリンカーン奴隷解放宣言を知ることはなかったが、世間をして「神は人間を創造し、コルトは人間を平等にした」と言わしめた。のちのサーヴィス・ピストル「M1911」は二度にわたる世界大戦を経て、同社の名声を世界規模で不動のものとした。

 いっぽうCZG社も、軍や法執行機関はもとより、狩猟用や競技用といった民間用途向けの銃器を手がけており、チェコ、米国、ドイツ連邦共和国に約1650人の従業員を擁する、と前述のリリースにある。

 がんらい「チェスカー・ズブロヨフカ」といえば、すくなくとも最近までは南モラヴィアのウヘルスキー・ブロトに置かれた、ČZUB社を指した。ながい歴史があるとはいえ、1997年に米国へ本格的に進出してのちの飛躍は、まったく別の企業になってしまった印象すらある。その年、米国法人であるCZ-USAが設立されたのだが、その後の成功は、自動拳銃「CZ_75」シリーズのかねてよりの人気によって、すでに約束されていた。2005年には早くも、「M1911」クローンも製造するダン・ウェッソン・ファイアーアームズを買収しおおせたほどである。そもそも、今回の主役であるCZGじたい、2018年にCZ-USAから生じた持ち株会社であった。つい昨年6月にプラハ証券取引所に上場し、買収の資金を調達したとされている。

 「CZ_75」の開発は、ボヘミア中部出身の技師、フランチシェク・コウツキーによって1960年代の末に始まっていたという。それにしては人間工学的なデザインとダブルスタックによる大容量の弾倉をもち、ダブルアクション仕様のトリガー機構には独特のものがあったというから、往時の共産圏にあって、よっぽど例外的な製品だったにちがいない。例外といえば端的に9mmルガー弾というのがワルシャワ陣営の規格になく、お膝もとチェコスロヴァキア軍にすら採用されなかった。とまれ、民主化を経て、後身のチェコ共和国NATO入りした今となっては、とうぜん軍や警察でも使用されており、俗にツェーゼーチュカなどと愛称で呼ばれるほど、親しまれている。

 じっさい撃ったことがある。そのときはパスポートなどの身分証明書を射撃場にもってゆけば、だれでも実射できた。残念ながら性能について公平に批評するほどの知見はないが、いずれにせよ世界に誉れたかい優秀なピストルとして、同国ではひそかな誇りになっている。それだから、このところのロックダウンで人びとが逼塞も同然に暮らすなか、各媒体がつたえる著名な米社買収のニュースは、寒空の下わずかに熱を帯びているようにも感じた。

 

*参照:

www.czg.cz

www.lidovky.cz

www.euro.cz

economictimes.indiatimes.com

www.arkansasonline.com

www.military.com

www.guns.com

 

プシェロフの虐殺

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リモート劇『目撃者』

 通話ソフトというのか、ウェブ会議アプリというのか、リモート勤務の普及にともなって、その手の仕組みを用いるひとは増えた。すっかり公演の減った演劇界でも、これを利用したプロダクションが生まれ、増えつづけている。動画として自宅から観覧できるゆえ、観る側も気楽ではあるが、それだけに演出にもさまざまな配慮が要りそうだ。映像ではあるものの、映画のような映像作品ともいえないから、どういう鑑賞がよいのか、考えてしまう。似たような映画もあったけれど、すくなくとも映画学的な構図論では語りきれないことは確かだろう。演劇学では、ラジオ・ドラマに固有の地位が与えられていたものだが、このあらたなフォーマット(オンライン動画劇?)も特別な理論の出来を待っているのかもしれない。

 そういう試みのひとつとして、チェコ共和国の公共放送がとりあげていたのが『目撃者』という国民劇場の演目で、この2月から劇場サイトをつうじてオンラインで公開されるそうである。演出は、ユィジー・ハヴェルカ。ありふれた題目から、おおよそ予測がつくように、証人が代わるがわる出てきて、ひとつの事件の別の側面をそれぞれ語りついでゆくらしい。映画であれば、黒澤明の『羅生門』に代表されるような、ある意味では古典的な形式といえるだろう。──しかし題材がまた、煽情的なのである。

 

プシェロフの虐殺

 扱われるのは、1945年におこった「シュヴェーツケー・シャンツェにおける虐殺」、あるいはもっと簡単に「プシェロフの虐殺」と呼ばれる事件である。ヒトラーすでに亡き第三帝国が瓦解し、アルフレート・ヨードルが降伏文書に調印してから、ひと月あまりが過ぎていた。とはいえ混乱のつづく大陸のあちこちで、いまだに家路をいそぐ人びともあった頃である。

 6月18日、特別列車のふたつの便がプシェロフ駅に到着した。片方の列車には、もとの第一チェコスロヴァキア人軍団の兵士らが乗っており、プラハでの式典からの帰路であった。もう一方の旅客はスロヴァキアの村々の住民たちで、スロヴァキア語やハンガリー語を話す者のほか、20世紀初頭に「カルパティア・ドイツ人」と名づけられた、中世からドイツ語を話した家系の人びともいた。といっても証言によれば、家庭内でいずれの言語がはなされていたとしても、少なくないひとがトライリンガルであったと思われる。この民間人らは、1944年12月以降、なかば強制的にスロヴァキア東部からボヘミア北東部へ疎開させられていた。

 いっぽう兵士たちは、ブラチスラヴァ近郊ペトルジャルカの駐屯地へ戻る途上であったが、そのなかに、カロル・パズールという28歳の尉官があった。はじめ、独立スロヴァキア国にてフリンカの親衛隊に所属、のち機動師団に転じて参戦したものの、1943年に赤軍の捕虜となり、そこでファシズムから共産主義に「転向」して、チェコスロヴァキア人部隊に身を投じた。ベルリンが陥落して、5月下旬にチェコスロヴァキア人軍団は解散したが、国防情報局の将校として軍にとどまった。どうやら、家族のうちにSSに入隊した者や、ドイツ側の軍人と交際していた者があり、執拗に「汚名返上」の機会をもとめていたと推測されている。

 パズールとその副官であったベドジフ・スメタナ(!)は、予防的な尋問であるとの口実のもと、列車にいた件のスロヴァキアの住民をあつめた。そこで、おのおのがスロヴァキア人であることを証明する書類を携行していたにも拘わらず、第三帝国統治下における占領者への協力者であったと一方的に断じた。

 そうして、これを近郊の丘へ連行し、地元住民には墓穴を掘らせた。日付けが19日にかわるころ、部下たちによって処刑が開始され、朝の5時までつづいた。一説には合計して270人、内訳が男75、女120、子ども75人ともいわれるが、証言により数字は異なっている。生後半年ほどの乳児もふくまれていた──と、公共放送の記事にはある。

 パズールは軍法会議にかけられ、最終的に禁錮20年が言い渡された。ところが、ほどなく「2月事件」で共産党が天下をとると、1年ほど収監はされはしたが、けっきょく有耶無耶にされた。検察役としてパズールを追いつめた法務士官のほうが、政治裁判で裁かれる始末だった。

 

その後

 事件は、長いあいだタブー視され、共産党体制下では口外が禁じられていたが、近年になって解明がすすんだ。とりわけ、史家のフランチシェク・ヒーブル氏が権威として知られ、その功績によりドイツ連邦共和国から功労勲章が授与されている。対して、スロヴァキア共和国にしろ、チェコ共和国にしろ、冷淡なものである。それというのは、おそらく直接の関係者への配慮にとどまらない。じつは戦後の「ドイツ人」の私的な処刑の噂は各地で聞かれるところで、なかにはグレーな事案も相当数あることだろう。それだから藪蛇を避け、だんまりを決め込み、あえて蒸し返すことをしないのも、学術行政的にはともかく、政治的には偉大な知恵とはいえそうだ。さいきんの社会の分断や極東の外交を眺めていると、つくづく思う。

 それでも2018年になると、シュヴェーツケー・シャンツェの現場には、高さ約4メートルの十字架が奉納され、まいとし追悼が行われるようになった。これをもって、一応の落着をみるかとおもいきや、ウェブ上ではこの話題に膨大なコメントが連なっていることがある。いわゆる炎上であるが、それを見るに、研究者の顕彰などあり得ないことを思い知るのである。そうした人びとも、それなりの信念があって書き込んでいるには違いない。というのも、実効性はともかくとして、チェコ共和国では2000年末の刑法改正により、ナツィあるいは共産主義者によるジェノサイドやそのほか人道に対する罪を公の場で否定した者には、6か月以上3年以下の禁錮刑が科されることになっているためである。いずれにせよ、いまだに関心を呼ぶテーマであることは確かなのだろう。

 チェコスロヴァキアの演劇史からみれば、こうしたモティーフは民主化以前には舞台に上げることができなかった、いわばやり残した宿題のようなものだ。演出のハヴェルカは四十そこそこの気鋭のひと。いわゆる傍観者効果など社会心理学の理論も援用して、事件の謎にもせまる意欲作であるらしい。窮状におかれた演劇界が、すこしでも公衆の興味をとりもどせれば良いのであるが。

 ちなみにプシェロフは、街なかをベチュヴァ川が流れるしずかな小都市である。民俗的にはハナー地方、行政的には現在オロモウツ県に属する。事件当時は2万人ほどであったと思われる人口も、1990年代に5万を超えたのち減少に転じ、現在は4万人あまり。

 また、シュヴェーツケー・シャンツェとは、カタカナにするとやや冗長に感ずる地名ではあるけれど、その意味するところは「スウェーデン人の丘」──モラヴィアの地名にスウェーデン人が出てきたら、おおかた三十年戦争で遠征してきた新教軍に由来するに決まっている。シャンツェとは、一般名詞としてはチャンス、すなわち好機の意味だが、地理的にはちょっとした山や高地を意味する。標高300メートル弱の丘とはいえ、北北西に数キロ先のプシェロフ市街も見わたせるから、軍事的には要衝であったことだろう。じっさい、レンナート・トルステンソンに率いられた1万名あまりが、付近に駐屯したらしい。それも17世紀のむかしである。

  

*上掲画像はWikimedia

 

 

 

 

鶏卵と動物の福祉

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photo by Emiel Maters

 鳥インフルエンザが猛威をふるっている。日本各地で感染が報告され、すみやかに殺処分の措置がとられている由である。

 人間に感染する型もあるにせよ、そもそも鳥類のインフルエンザが変異してヒトに感染するインフルエンザが発生したとも考えられているという。かつて「スペイン風邪」と名づけられた感染症も、起源には諸説あっていまだに決め手を欠くものの、鳥類が関わっていたという説も複数ある。むろんこれは医学的にインフルエンザが風邪と区別がつけられるようになる以前の命名であって、正体はインフルエンザのウイルスであったことはいうまでもなかろう。

 やっかいであることは間違いないが、さいきんでは、発見されると即時「殺処分」するという対応に疑問の声も聞かれるようになった。動物の権利や福祉との兼ね合いも想像されたところだ。

 折しも、年末から年初にかけて、元農相の衆院議員にたいする鶏卵生産業者・アキタフーズ社からの現金提供疑惑が話題になっていた。いわゆる「アニマル・ウェルフェア」への国際的な意識のたかまりのなかで、養鶏業における国際基準採用を阻止してもらいたがったゆえの陳情であった、という推測が報じられている。

 たしかに日本の卵は割安の感があるが、「物価の優等生」の政治的なからくりを見た思いがした。また価格だけではなく、よその国では加熱せずにたべる習慣がないゆえに、日本の鶏卵は鮮度でも見映えでも抜きん出ているようにみえる。たとえば英国の当局は近年、生食も可能である旨の発表をしているが、それでも日本の外では、生でたべる気にはならないひとも多いことだろう。それも、賄賂ぬきには維持できぬものであったということなのか。

 個人的には、こういう煩わしげな領域にできるだけ首を突っ込みたくはないものではあるが、それが特定の種類の文化の差異に関係するばあいには、興味を引かれてしまうことはある。それに、人類がどこへ向かっているのかということには多少の好奇心もわく。動物の福祉。

 この文脈でなかんづく印象ぶかかったのは、年末の『シュピーゲル』誌によるルクセンブルクからの報道である。欧州司法裁判所(ECJ)の判決により、EU諸国では動物の屠殺のさい、麻酔の使用が義務づけられるかもしれない、という趣旨であった。

 ハラールについては、日本でもインバウンド対策をきっかけにひろく知られるようになった。いっぱんにイスラームの作法に則って処理された食材を念頭に、その認証をさして用いられる語である。典型的には、屠殺するさいに決められた手つづきを遵守して捌かれた精肉であるかどうかが焦点となる。ユダヤにも似たような概念があり、カシュルートとか、コーシャーとか呼ばれている。

 これを規制したとしても、宗教的自由という権利を侵害することにはならないというのが、裁判官の「発見」であったらしい。動物の福祉を促進するというのはEUが定めた目標であって、それだから加盟各国は、動物の福祉と信教の自由とのあいだで「適切なバランス」をとる権利と義務がある、ということのようだ。

 もとはベルギーから求められた案件だった。2017年にフランデレン地域において、動物福祉の観点から、麻酔なしの屠殺が禁止されたことが端緒であったという。これにユダヤイスラームの団体から反対意見があがった。どちらの宗教にも、コーシャーまたはハラールにするために麻酔なしで屠殺する規則がある。そこで、信者らが宗教的自由が脅かされていると感じたようだ。

 ベルギーの憲法裁判所は紛争をECJに付託した。判決によると、EU法は例外的な場合や宗教的自由の観点から、麻酔を用いない儀式的な屠殺じたいは許可されてはいるものの、EUの各国政府は、麻酔使用を義務づけることもまたできるという。

 今回のフランデレン地域の場合、儀式的な屠殺じたいが禁じられているわけではないので、信教の自由はじゅうぶん尊重されていることになり、またコーシャーやハラール認証をうけた食肉を他所から搬入することも禁じられていない。そのため、このような判決になったとされている。

 一神教の神様がかかわってくるとなかなかに大変そうだ……というのは偏見だろう。統計上は無神論の国であるチェコ共和国でも昨秋、残虐行為からの動物の保護に関する法律が成立したという報道があった。それはまさに、日本でもいちやく議題になった「ケージ」を用いた養鶏を禁じるものであったが、むしろ同法で注目されたのは、野生動物の調教までも禁じていた点である。

 ここでは信教の自由ではなくて、職業選択の自由生存権との兼ね合いが問題になってくるのであろうが、そのあたりがどう手当てされているのかはしらない。サーカスの興行主や鸚鵡のブリーダーなどが懸念を表明しているようで、はては馬術競技などにも影響がおよぶらしい。

 調教という概念の定義がどうもよくわからない。大雑把すぎる立法は、ぎゃくに細かすぎる運用を生じることもありそうだ。同国には、薬物関係にしろ、交通法規にしろ、曖昧でよくわからない規則が多い印象がかねてよりあった。けっきょくは現場の官吏や警官の裁量によって、恣意的に運用されてしまうのであろう。

 たとえば、ひとくちに調教といっても、犬に「おすわり」や「お手」や「おかわり」を仕込むのは合法なのかどうか、まず気になる。仮に適用されたとして、「おすわり」まではよいが「お手」は禁止──などと一挙手一投足まで口を出されてはたまらない。昨今では、スーパーの同一の売り場内において食品以外の商品の販売を禁ずるという、緊急事態宣言下での無茶な営業規制に典型的にみられたが、こうなると極端である。……さすがに「お手」禁止まではありえないだろうが、事細かなスーパーの販売規制の例にかんがみるに、やりかねない国なのではと思えてくる。

 要するに、議論が煮詰まってなさげなのである。汎ヨーロッパ的な「長いもの」に巻かれただけにもみえる立法だった。だが意外にも「反ヨーロッパ」的なゼマン大統領が、四の五のいうことなく署名したらしい。政党が林立する共和国にあって、かつての環境主義的な法案にちかい位置づけの政治イシューになっているのかもしれない。いずれにせよ、進歩派の意見が通りやすくなってきているように思えるのは、あながち気のせいでもあるまい。

 むろん単純な話ではない。問題はそうとう多岐にわたり、さらに多面的である。ペットの殺処分問題ひとつ取り上げても、単に「ゼロ」を目指しただけでは、飼育環境の悪化をまねくなど、別の問題につながりかねない。1990年代には「鯨はたべてよいか」という問題がずいぶん盛り上がりをみせて、応用倫理学の書物などがよく読まれていたものだった。けれども最近はまた、あの頃とも様相が変わった。めいめい利害を主張するのはよいけれど、感染症対策と同様に「正論」を言い合うだけで済む話でもなくなってきている。このことは日本の産業界のえらい人も、政治家に工作を依頼するくらいには認識しているのだろう。しかし、海の向こうの異文化だといって、いつまで受け容れずにいられることやら。グローバル化は退潮ぎみとはいえ、気がかりではある。

 

*参照:

www.nippon.com

www3.nhk.or.jp

www.nikkei.com

www3.nhk.or.jp

keimei.ne.jp

 

冬のオロモウツと「民族の館」

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 モラヴィア辺境伯の記事を書いていて、オロモウツのことをおもいだした。はじめて訪れたのはもう、20年ほどまえの話である。つもった雪をみると、思い浮かぶ光景も多々あれども、どうしてゆくことになったことになったのかは、さだかではない。

 当時オランダに留学していた友人と、メールかなにかでやりとりしていたのだ。共通の恩師というのか、教会史にも通じた先生からの書簡にこの町の名前がでてきて、そのことを伝えたら、友人が行きたいといいだしたのではなかったか。ひょっとすると現地での生活や、経済史の研究に行き詰まりを感じていたのかもしれない。そうでなくとも、クリスマスの休暇の時期には、人びとが家族のもとへ帰って街の商店も閉まり、単身者は孤独や寂寥の念をふかめるのが常である。むろん、ロックダウンなどない年でもそうなのだ。

 しかし大陸ヨーロッパを見わたせば、ほかに愉しそうな観光地はいくらでもある。チェコ共和国にかぎっても、プラハを筆頭に観光客に人気のあるスポットは枚挙に遑がない。

 オロモウツは、共和国内で6番目にあたる10万という人口規模の小都市で、ふるくは交通の要衝であったものの、国境からも隔たったモラヴィアの内陸に位置する。いまでこそユネスコ世界遺産やその他の文化財の豊富さで知られるが、ビジネスや留学をのぞけば、とりたてて目的地とするよりも、近くまで来たら立ち寄るというほどの旅程のひとが多いのではないだろうか。

 はたして訪れてみると、道ゆくひとも稀にはあったが、雪ぶかい市街地は不思議なしじまに満ちていた。いまかんがえると、友人もあまり騒ぐ気分にもなれなかったろうし、この隠れ家のごとき宗教都市というのは絶妙な選択であったのかもしれない。

 中心部の街並みは、とりわけバロック色が濃い。その通りをつい何年かまえに訪れたというヨハネ・パウロ2世の大きな写真が、礼拝堂の入り口など、そこかしこに掲げられていた。統計上は世界有数の無神論国家ではあるけれど、ローマ教皇の降臨となると、なかんづく大司教座を擁することを誇る町にとって、このうえない栄光の一頁となったのであろう。

 じっさいのところ宗教改革の端緒とは、豪奢な聖職者の暮らしを知った庶民の憤懣に関係しているにちがいない。格差や分断といえば、現代人にもわかりやすい。だからといって蓄財の成果というわけでは必ずしもないのだろうけれど、オロモウツ郷土史博物館や美術博物館の常設展ではやはり、キリスト教美術関連が充実していた印象をうけた。とはいえ、これはとくに教会のお膝元にはかぎられない。日本でも地方の博物館というとほとんどは、仏教美術が館蔵品の中心を占めるから、なんとはなし親近感がわくことはたしかである。

 さて、夜のとばりが下りるとまもなく、あまり酒につよくない友人は酩酊して眠ってしまった。わたくしはといえば、どうも飲み足りず、ひとりホテル内のバーに赴いたのだった。

 暗がりのなかで麦酒の杯を受け取ると、とたんに騒々しい音楽がはじまって、やや弱いスポットライトが灯り、思ったより広いフロアに大勢の地元の若者らが集っていたことに気づいた。ネオルネサンス様式の上っ張りだけが取り柄の見すぼらしい安宿にしては、意外にも立派な空間である。とまれ、これは面倒なところに来てしまった。一杯やったらすぐに退散しようと思った。

 その矢さき、酔っぱらったひとりに捕捉された。音響が凄まじく、しかたなしに大声をだしてはいるが、友好的な口ぶりではあった。

 ──景気はどうだ。売れてるのか。
 ──まあ、ぼちぼち……いや、なんだって? 
 ──天幕だして、もの売っているんだろう? 靴か。古着か。クンパオか。

 どうやら、ヴィエトナム系の商店主だと思われたようだった。オロモウツにも多いのだと察した。ただ、アジア人というだけで眉を顰める者もおおい国で、意表な棘のなさであった気もしたが、このていどの会話とて、差別だと感じるひとにとっては差別なのだろう。微妙なところだ。

 ところが、このとき泊まった建物が、19世紀から20世紀はじめにかけて、同市の民族運動の最前線ともいうべき施設であったことは、のちに知ったのである。──いやいや。正直なところ、うすうすわかっていた。ネット予約など普及していない時代に、どうやって手配したのか記憶にないとはいえ、その時点で「民族会館」というような名称に気づかぬものではない。

 カトリシズムのつよさからも連想してしまうように、モラヴィアオーストリア帝冠領であった時代、オロモウツもまた、歴史家がいうところの「ドイツ人の町」のひとつであった。少数派であったスラヴ系の住民は文化的な環境を改善すべく、1888年「ナーロドニー・ドゥーム」すなわち「民族会館」ないし「国民の家」を開設した。そのころ民族意識のたかまりのなかで、文化的な行事をつうじて人びとの自覚をうながし、懇親をふかめようという趣旨で、この手の施設が各地でたてられるようになっていた。それでプラハをはじめ、ほかの町々で志を同じくする団体や個人からも、支援の手が差し伸べられたのである。

 いっぽうドイツ語をはなす人びとは、都市部などかぎられた地区をのぞけば、ボヘミアモラヴィアをはじめ帝国のおおくの土地で、じつは数的に劣勢であった。唯一の公用語をはなすという優位性も、いわゆるターフェの言語令や、のちバデーニの言語令によって失われていったようにおもわれた。それでも窮地に立つと燃えあがるのがナショナリズムというもので、ドイツ語話者は結束をつよめ、ほうぼうに「ドイツ人会館」が建設されてゆく。町によって両者の建設に前後はあろうが、民族ごとに組織された団体によって津々浦々に同種の文化施設が建てられていったのはたしかである。そして対立が昂じるなか、そのシンボル的な重要性もたかまっていった。ただ、オロモウツのドイツ人らが1870年代から計画をすすめていた施設は、戦火やインフレによって実現が難渋したらしく、1930年代になってようやく落成をみている。この建築物も市内に現存し、いまでは「スラヴ人会館」と名づけられているが、こういうのは修正主義とは呼ばれないらしい。

 オロモウツの経緯は例外に属するかもしれない。だが、第一次大戦を経て、帝国崩壊のどさくさのうちにチェコスロヴァキア共和国が成立してしまうと、こんどはぎゃくに諸民族の融和と国民の統合が喫緊の課題となって急浮上する。なにやらトランプ政権のあとを継いだ、ジョー・バイデンのスピーチに通ずるものがある。それだから相対的な重要性の低下は否めなかった反面、たいていの町々の「民族の家」じたいは壮麗な外観にとどまらず、コンサートや舞踏に好適なホールをそなえていたことから、その後もさまざまな催しにひろく利用されていった。オロモウツの「館」も社会主義体制の時代になってなお、わりと親しまれていたようだ。しかしそれも、ビロード革命によって、いちじるしい価値観の変化がおこるまでの話であったのだろう。

 21世紀はじめの時点で、われわれが投宿したオロモウツの「館」は、朽損はげしく、あわれに廃壊の惨状を呈していた。強制収容所だといわれても信じてしまったであろう拵えの客室で、廃墟に漆喰が塗りたくられていたようなものであったが、それも破格の宿泊料から推して知るべきであった。しかしそのころはむしろ、好奇心のほうがまさっていた。立地のよさも手伝って、しばらくのち二度、三度と滞在することになったのである。その間、なんらかの尽力があったことは明白で、客室は徐々にホテルらしくなっていったのだ。

 それでもほどなくして、ホテルとしての「館」は廃止されてしまった。直近の報道によると、現在ではかろうじて地上1階だけは銀行の支店や世界的なカフェのチェーン店がテナントとしてはいり、有効に活用されてはいるものの、内部の荒廃は相変わらずのようだ。所有権者らに歴史的な価値は理解されていても、先だつものがないという事情らしい。部分的な営業だけでは、やはり維持や修復に不安があるということか。数年前には、2021年を期してホテル業も再開される見通しとも報じられたが、さてどうなるだろう。観光客が絶え、飲食や宿泊の業界にきびしい情勢がつづくなかで、文化財保全にも暗雲がただよっている。

 

 *アクセス:

 

*参照:

olomouc.rozhlas.cz

 

*上掲画像はWikimediaより。

モラヴィア辺境伯ヨープスト

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photo by urashima-e

 いつぞやのブルノ市の広報誌の記事によると、モラヴィア辺境伯ヨープストが没してから、2021年は610周年になるようである。命日が1月18日だったというから、すでに幾日も経ってしまったが、とおいむかしの話であるからして、このくらいの差はなんでもないことのようにもおもえてしまう。

 便宜上ヨープストJobstと書くけれど、現在のモラヴィアではむろん、ヨシュトJoštと一般に呼ばれる。幼少のみぎりからブルノで育った偉人で、いっとき帝冠をも射程におさめたほどの出世頭であるから、市民も誇りとするわけである。市の中心部には、チェコ共和国憲法裁判所が置かれているが、その前の通りが「ヨシュト通り」と名づけられているのも不思議はない。この通りを東へゆくとつきあたるのが聖トマス教会で、中世モラヴィア随一の君主がここに眠るからである。

 2015年の秋であったが、この教会のあるモラヴィア広場のいちばん目立つところに、ヨープストをモティーフとした騎馬像がたてられた。地面から槍の穂先までの全高は、じつに8メートル。かなり以前からコンペがおこなわれていたものの、デザインの選定に難航していた。曲折を経て、プラハの《フランツ・カフカ記念像》などで知られる彫刻家、ヤロスラフ・ローナの案が採用された。時代考証から異論が噴出した経緯もあり、それかあらぬか公式の名称は《勇気》の像ということになった。企画の段階から、プラハ・ヴァーツラフ広場にたつ《聖ヴァーツラフの騎馬像》を意識したとおぼしいところもあって、それこそ対抗心の発露であったようにもみえた。どこか、政治的野心から近しい者との抗争に明け暮れたヨープストの生涯にもつうずるところがある。

 では、ヨープストとはいかなる生涯をおくったのか、ということになるが、往年のルクセンブルク家における親族間の権謀術数は複雑にして込んでおり、要約をこころみるには手に余る感がある。それでも、くだんの広報にある記事が簡にして要を得ていたので、主としてこれに依拠して紹介したい。文責はマルケータ・ジャーコヴァー氏となっている。どのようなかたちであれ、気軽に中世史をあつかうことは畏れおおいことではあるにせよ、とまれそのむずかしさのひとつには史料の欠如というのがある。モラヴィアも多分にもれず、14世紀後半については同時代の年代記の裏づけを欠く。それだから、ヨープストの出生にしても、ブルノ市の出納記録から、1354年10月のいつかと推定されるのみという。

 ヨープストは、ルクセンブルク家のヨーハン・ハインリヒ(ヤン・インドジフ)の第二子にして長男としてうまれた。伯父、つまり父の兄がボヘミア王カレル、のちの神聖ローマ皇帝のカール4世で、兄弟のあいだで封土として下賜されてまもないころのブルノに、父の廷臣らとともに移り住み、そこで育った。そのころ王には嫡子がおらず、そのためヨープストの養育には手がかけられた。伯父の跡を襲ってボヘミア王位につくことも考慮されていたわけだ。

 事情が変わったのは1361年で、すでに皇帝となっていたカール4世に、壮健な息子ヴェンツェル、のちのボヘミア王ヴァーツラフ4世が生まれたのである。いっぽうブルノでもヨープストの家族が殖えており、ふたりの姉妹のほか、ヨーハン・ゾービェスラオス(ヤン・ソビェスラフ)とプローコプ(プロコプ)の兄弟がうまれ、のちのち従弟のヴェンツェルや、その弟にあたるズィーギスムント(ズィクムント)らと同様、ヨープストの人生にとって数奇な役割を演ずることとなる。

 ヨーハン・ハインリヒが複数の遺言をのこしたのも、息子たちへの相続を確実なものとし、紛争を回避するためであったにも拘わらず、結果としては諍いをもたらすこととなった。遺産の大部分と「辺境伯にしてモラヴィアの君主」なる称号とともに統治権はヨープストに与えられることとされていた。だが、弟に一部の財産が与えられるとともに「辺境伯」の称号も用いることができることになっていたのが、よくなかった。

 はたして1375年の父の死後、ヨープストがモラヴィアの統治を引き継いだが、すぐに弟のヨーハンとの抗争に巻き込まれた。けっきょくはヨーハンは聖職者の道をあゆむことになり、1380年にはリトミシュルの司教におさまっている。

 この70年代から80年代にかけては、さまざまな問題に直面した──モラヴィアの住民はペスト禍におそわれており、オロモウツの聖職者参事会との軋轢にあっては、空位となっていた司教に弟のヨーハンを擁立するもうまくゆかず、もうひとりの弟であるプローコプとのあいだとなると、遺産をめぐって短期の武力衝突にすら発展していた。

 争いがおさまったとき、ヨープストはモラヴィアだけでなく、ボヘミアでも、そしてルクセンブルク家のうちでも地歩を確固たるものとしていた。1378年にカール4世は崩御し、その子、ズィーギスムントがポーランドに遠征したさいには、多額の資金を貸与しもしたが、けっきょくポーランド王位を得ることはできなかった。いっぽうハンガリー王位をめぐっては、ヨープストやプローコプの多大な援助によってズィーギスムントが獲得し、その見返りに、現在のスロヴァキア西部一帯にあたるハンガリーの領土を抵当として譲渡した。

 ただ、80年代の後半には、ヨープストは財政問題に直面し、父親から相続した財産の一部を売却することを余儀なくされる。また、弟のヨーハンをオロモウツ司教の座に据える目論見も、ふたたび挫折した。のちヨーハンはアクイレイアの総大司教となり、1394年にウーディネで暗殺されることになる。

 ヴァーツラフ4世からルクセンブルクアルザスの封土を借財の抵当として譲られたとき、ヨープストの権勢はがぜん伸長をみた。ハンガリーの諸侯らは、領域の一部がよそものの統治者によって抵当がわりにされたことに不満をいだいており、それがひとつの理由らしいのだが、王ズィーギスムントは代わりに、ヨープストとプローコプにたいし、ブランデンブルクの大部分をも抵当として譲った。これらの資産がまた、諍いのもとになったことは想像にかたくない。

 90年代前半に、弟プローコプとのあいだで二度目の紛争が勃発した。また同じころ、統治に不満を抱いていたボヘミアの貴族たちによってヴァーツラフ4世にたいする謀反がおこり、ヨープストはこれにも加勢した。1394年5月の初めに反乱勢力がヴァーツラフを捕らえたとき、ヨープストはボヘミアの事実上の統治権を掌握しさえした。その後、交渉の末にヴァーツラフは解放され、逆にヴァーツラフは翌年ヨープストを捕縛したが、すぐに釈放している。けっきょく1396年にボヘミアに赴いたズィーギスムントによって情勢は収束に向かい、モラヴィアでも講和が成立した。

 その後、90年代後半には影響力をとりもどしていたヨープストにたいし、ヴァーツラフ4世は両ラオズィッツを抵当とし、さらにブランデンブルク辺境伯領の封土も譲渡した。ヨープストはブランデンブルク辺境伯にして選帝侯に就いたことで、皇帝を選定する権利までも手にした。しかしのち、ヴァーツラフ4世が遠征にでた一時期、弟プローコプにボヘミアの執政が委ねられると、プラハを明け渡すよりほかなかった。

 こうしてモラヴィアに兄弟間の紛争がつづいていた1400年、選帝侯らがローマ王・ヴァーツラフ4世を廃し、ヴィッテルスバッハ家のプファルツ伯ループレヒトをあらたに選出するという事態がおこった。ルクセンブルク家内部の抗争をいっこうに収めることができぬ「怠慢王」に、不適格の烙印が押されたのだとしても無理からぬものがあった。ヨープストは従弟であるヴァーツラフ4世側を支持するも、モラヴィアでの戦いに忙殺されていた。そこをついてプラハはズィーギスムントが掌握し、さらにボヘミア全域の統治権も確保すべく、ヴァーツラフを捕らえ、のちプローコプも捕らえた。ヨープストはこのときズィーギスムントに反旗を翻し、ボヘミアの大多数の町や貴族もこれに参集した。結果、ズィーギスムントは1403年ボヘミアを去り、1420年になるまで戻ることはなかった。

 1403年にウィーンの牢獄を脱したヴァーツラフは、ヨープストの忠実なる態度を顕彰して報償を与えた。モラヴィアにおける紛争も終結するいっぽう、1405年、ヨープストはヴァーツラフ4世の名のもと、ブダにおいてズィーギスムントと和平を結んだ。辺境伯プローコプもプレスブルク(現ブラチスラヴァ)の監獄からもどったものの、いちじるしく健康を害しており、現在はブルノの一部となっているクラーロヴォ・ポレにあるカルトゥジオ会の修道院にみじかい余生をおくり、まもなくそこで没した。ヨープストは、戦乱によって荒廃しきったモラヴィアをひとり治めたが、たほうで同様に混乱したブランデンブルクでもかなりの時間をすごした。当時まだ官邸のひとつも整備されていなかったベルリーンに好んで滞在し、種々の特許状を発するなどして、その発展に寄与したという。それが、のちのブランデンブルクプロイセンドイツ連邦共和国の首都となってゆく巨大都市の礎をかたちづくった。

 1410年、ローマ王・プファルツ伯ループレヒトが没したとき、選帝侯のなかにはズィーギスムントを支持した者もあったが、10月になるとヨープストも後継者に選出された。周知のように「ローマ王」とは、時代がくだると「ドイツ王」と表記されることがおおくなるが、つまるところ帝位継承者が帯びるものと解された君主号である。すなわち、モラヴィアから皇帝が輩出するのも目前かとあるいは受け取ることもできた。

 ところがヨープストは、ことの成り行きを見届けることなく、1411年1月18日、ブルノに居ながらあっけなく頓死してしまった。あまりに唐突であったがために、毒殺されたのだという憶測もながれたが、捜査にもかかわらず真相はわからなかった。それでもともかく亡き骸は、くだんの聖トマス教会に埋葬された。往時は聖アウグスチノ修道会に属しており、ヨープストの父、辺境伯ヨーハン・ハインリヒが開闢したものであった。

 ときはさらに下って1998年。同教会のヨープスト廟の考古学調査のおり、遺骸の人類学的研究もおこなわれた。報告によれば、ヨープストは上背180センチの偉丈夫ではあったものの、骨格に変性疾患も認められたという。それでも死因の特定には至らなかった。

 

*1400年頃の神聖ローマ帝国ルクセンブルク家の版図(Wikimedia):

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/HRR_1400.png

 

あいまいな私見の私

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photo by Henning Sørby

 各国でワクチンの接種も始まったというのに、終熄しそうでいてなかなかしないのが、パンデミックパンデミックたる所以というところか。おなじコロナウイルスといっても、SARSは2002年に最初の感染例が報告された翌年に終熄宣言がでたものの、2012年のMARSに至っては、いまだに終熄の目処はついていないそうな。

 たいていの国では、政策の音頭をとっているのが疫学や感染症学の専門家であるからして、社会活動には規制を課す方向に傾きがちである。しかも報道によると日本では、特措法による制限に従わない場合の罰則をもうける方向で議論がすすんでいる。なるほど、私権を制限し放題の体制である国は、封じ込めに「成功」しているとつたわっている。だが、日本でそれをするのは、どうなのだろう。

 先週のことである。新年の日曜日。昼ごろ、メールがはいった──

 先ごろ発足した新政権が、緊急トレーニング令を発出した。13:50より、いつもの場所で。

 そんなかんじの内容だった。

 むろん、冗談めかして書かれた告知である。要は、おっさんが五、六人で集まって、屋外の卓球台に陣取り、なにかをちびりちびり飲りながら汗をながすつもりであるから、かならず来るように……というメールなのだ。じつは初めてではない。秋口くらいから、ほぼ週末の恒例となっていた。それを毎回まいかい、のらりくらりと躱してきた。一度か二度、顔を出したていどだ。

 いや、じつのところ運動はしたい。こちとら昨夏からジムに行っていない。こころなしか、いや確実に、衣類のウエストがきつくなった。それでも、あえて「不要不急の外出」の禁を犯してまで、また職務質問に遭うリスクを冒してまで出かけるのも、しょうじき面倒くさい。どの国でも官憲が巡廻しているが、じっさい卓球をしているときにも警官がやってきて、注意を喚起していったことがあったと聞いた。

 忘年会やクリスマスや大晦日にきた招待やお誘いをうけながら、ていちょうに辞退した向きは多いのではないか。このご時世であるから、なにもわたくしだけ、というわけではあるまい。

 どうも世の常として、ふたつの種類の人間がいる。気にするひとと、気にしないひとの二種である。そのあいだで、コミューニケイション上の齟齬や困難が生じる。たとえば、自分は気にしないけれど、相手が気にしていたらどうするのか。あるいは逆に、自分は細心の注意を払っているのに、相手はまったく意に介さない。──これはもう、何につけてもそうなのだ。

 営業自粛を守れとか、外出を控えよとか、マスクをせよとか、声高にきれいごとをならべるだけならば簡単である。だが、われわれが生きているのは、もっとグレーで、あいまいな世界だ。現実的には、周囲にいるさまざまなひとと、うまく折り合いをつけねばならない。白黒つかない世界で、0か1かと迫られた帰結が、社会全体の分断であったのだとすれば、しごく当然の成り行きであった。それだから、白か黒かはひとまず保留して、その場その場で好手をさぐるしかない。

 こうしたばあい、どういう行動が最適解なのか。相手に合わせるのがよいのだろうけれども、蝙蝠のごとく、まいかい行動を変えつづけることは可能だろうか。そこまで器用にたちまわることも実際にはむずかしい。──けっきょく一律に断ってしまうのがたやすかろう、という結論にいたった。事なかれ主義だといわれたら、その通りである。一事が万事であるからして、いずれの国にせよ、国民全体での危機感の共有なんぞ、はなから無理な難題であった。

 日本語にいわれる「自粛要請」という変な表現にも、すでに慣れっこになってしまった。といっても、同調圧力になれている日本人にとっては、さほど奇妙なことではない。むかし学校では「自主練習に強制参加」させられたものだったし、会社では「自主退職を勧奨」されたりもする社会なのだ。

 ではそれで、上から下まで唯々諾々したがうかといえば、どうも様子がかわってきている。報道によれば、先週末に日本でおこなわれた各種行事も対応がわかれたらしい。成人式もオンラインに切り替えたところもあれば、入れ替え制にして挙行した自治体もあった。高校サッカーの決勝は急遽、無観客試合になったが、大学ラグビーのほうは、1万人以上の観衆がスタジアムをうめた。

 よその国はともかく、日本人の行動様式がかわってきているのだとすれば、私権の制限というのは自然な議論のゆくえなのかもしれない。だが、刑事罰をもともなう法律となるとどうであろう。癩予防法や優生保護法の教訓を無視した、むしろ時代錯誤の立法になりうるのではないか。

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

www.newsweekjapan.jp

 

エピファニー

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 客席から手拍子がきこえぬ「ラデツキー行進曲」では、新年が明けた気がしない。

 元日といえばウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、まいとしほろ酔いのあたまでノイヤールコンツェアトを聴くのが習慣である。といっても高価なチケットを入手して出かけるほどの気概もなく、もとより「リモート」で満足していた。それでも、感染症対策のために観客をいれずにおこなわれた今年は、中継映像もやはり異様である。左右の壁に32体ならぶ黄金の女像柱が、眼下の空っぽの客席を睥睨しているのが、なんとも不気味な楽友協会であった。

 そうこうしているうちに日は過ぎて、すでに正月も6日。20世紀の半ばまで、カトリック教会でいう降誕節とは、クリスマスからこの日までを指していた。おおくの地域でクリスマスの飾りをかたづける日である。つまり、この期日までが日本の「松の内」に当たるのか。アドヴェントクランツくらいならまだしも、おおきなツリーを用意した家庭は大儀そうで、都会ではごみ捨て場に樅や唐檜の木が集積される光景もみられる。この日にツリーを燃やさない文化では、2月2日の聖燭祭(キャンドルマス)までそのままというところもあり、春がくるまでクリスマス気分がつづいてしまいそうだ。

 1月6日が「聖なる三王の日」とか「エピファニー」とか呼ばれるのは、イエスが世にあらわれた日という記念の主旨に由来し、東方からベツレヘムを訪れた王、ないし占星術の学者らが「世」を代表している。ひろく公現祭というけれど、辞書によれば主顕日、顕現日、また宗派によっていろいろの呼び方がある。それもむろん教会によって捉え方が異なるためである。

 正教では暦が異なって、二週間ほどの差があるけれど、とまれ神現祭とも主の洗礼祭とも呼ぶそうで、むしろこれからがクリスマス本番という観がある。というのも、東方教会ではがんらい、イエスが洗礼を受けたことを祝う日となっていることによる。起源をたどると、ナイルの神・オシリスを祀った祝祭の名残りだというから、そうとう年季がはいっている。たとえばロシアでは、プーチン大統領みずからが古式に則って、寒中水泳めいた奉神礼を受けているのが報じられたこともあった。

 西方では、つい戦後の1955年になってカトリック教会が「主の洗礼日」を分離独立させて13日としたことから、エピファニーの意味合いが明確になった。1969年にはさらに、以降の直近の日曜日にあらためられている。そうした経緯を経て、現在のエピファニーの日は、イタリアやスペイン、またオーストリアクロアチアなど、それからドイツ連邦共和国でもカトリシズムがつよい諸州にかぎって、法定の休日となっている。わりと重きがおかれている日なのである。

 聖三王の祝祭とは別に、おなじドイツ語圏でも呼び名がじつにいろいろあるのには少々おどろく。俗にホーホノイヤール(Hochneujahr)ともいうらしいが、グロースノイヤール(Großneujahr)の称にいたっては、「大正月」みたいな語感がある。が、日本語では元日から7日までの意味であるから、たしょう混乱するけれど、大差ないか。オーストリア弁で、ヴァイナハツツヴェルファー(Weihnachtszwölfer)とよばれるのは、クリスマス(ヴァイナハト)から12日目(ツヴェルファー)のことかと想像がつく。つくけれども、連想するのはまったく別のことで、ありきたりだが『十二夜』である。

 シェイクスピア_Twelfth Night, or What You Will_を『十二夜』と最初に訳したのは、おそらく逍遥坪内雄蔵先生であろうが、十三夜とか十五夜が秋の月見を思い出させることからすれば、近代の日本語にあらたな混沌をもたらした訳業だったのかもしれない。それからエピファニー・イヴのことも日本語で十二夜と呼べるようにはなりはしたが。とはいえ、かの地ではエリザベス朝のむかしから宴会の日だったわけだ。劇そのものには、どたばたの印象しかないものの、10年以上まえにアン・ハサウェイ男装の麗人ヴァイオラを演じたのが話題になったのは覚えている。

 お祝いについては、前夜といわず、クリスマスからつづくばあいもあるし、これまた土地ごとにさまざまな様相を呈している。

 フランスでは、ガトー・デ・ロワ(le gâteau des rois)などと呼ばれる菓子を焼くのだろう。これもふれておかねばなるまい。直訳すると「王のケーキ」というわけだが、めいめいに切り分けられたひと切れのなかに、陶器の人形がひそんでいれば「当たり」という、「王様ゲーム」のたぐいがつきものである。

 これがひろく知られるのも、ふるく「真珠嬢」とも訳された、モーパッサンの「マドムワゼル・ペルル」という味わいぶかい短篇による。──シャンタル家にお呼ばれした主人公は、予期せず「王様」役を拝命してしまう。となると「女王」を指名せねばならないが、おもうところあってか、シャンタル氏の令嬢をさしおいて、ペルル嬢と呼ばれていた正体不明の中年女性をえらぶ。のち、シャンタル氏とビリヤードにくりだすと、その口から件の女性に関する意外な過去が明かされる──真実の顕現、すなわち「エピファニー」という現象をえがいた古典的な傑作という気がする。

 さて、もっと牧歌的な風習は、旧ドーナウ帝国の領域にのこっている。現在のオーストリアのみならず、もとの領内であったポーランドや、ボヘミアモラヴィアなどの各地には、シュテルンズィンガーなどといって、子どもたちが「王さま」に扮して家々を訪ねてはキャロルを歌う慣らいがある。なにがしかの心づけを献じた家には、扉や鴨居などに「C+M+B」とか「K+M+B」とか、白いチョークで祝福の文字列をのこしてゆく。とはいえ報道によると、ことしは例によって感染拡大予防の見地から、実施が見送られたところがおおいようだ。

 この手書きの標識はむろん、エピファニーに現れた「マギ」の名を暗示している。

 拝火教の指導者をさしたともいう「マギ」とは、とりわけ複数形だけよく知られた謂いである。それも「マタイ伝」第2章のみに出てくるきりなのに。翻訳によって「王」とか「博士」とか「賢人」とか「占星学者」とか、いろいろな素姓で書かれてはいるとはいえ、氏名はおろか、人数すら明かされていない。黄金・乳香・没薬を贈ったという記述から、訪問者が3人であったということになったのは短絡的にもおもえるけれど、そこから具体的な名前までが案出され定着してしまっているのだから、カトリシズムという壮大な二次創作物の受容史にあって、とりたてて興味ぶかいものがある。正典と認められないながら、こういう形で布教に利用された文書も膨大にあったと思しい。

 新共同訳によれば、こうである──

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  ガスパール、メルキオール、バルタザールとか名づけられているものの、そもそもどうしてこのひとたちは、「星」を見たというだけで、イエスの誕生を知ったのか。星にチョークで書いてあったとでもいうのか。ほかでもない啓示(エピファニー)というわけであろうが、天文学のメディアに面白い記事をみつけた。

  記事によると、おそくとも13世紀いらい天文学界では議論があった。可能性として、超新星、彗星、太陽フレア、惑星のなんらかの配列という事象が想定された。あるいは、じつは何も起こっていなかった、つまりまったくの「神話」という場合もあり得る。

 筆者であるエリク・ベッツは、冴えたことを言っている。聖書では「star」と単数形の星になっているけれども、仮にそれが「彗星」であったとして、古代の人びとはふつう、それを差し迫った破滅的な運命のきざし、すなわち凶兆と考えていたはずであり、したがってマギとて、それを救世主が生まれたしるしと解したとは想像しがたい。

 このひとは現代の便利なアプリをもちいて、歴史的な天体の配置を模擬的に再現してみたらしい。すると、紀元前7年に木星土星が、うお座の領域にて「接近」したことがみとめられた。さらに4年後の紀元前3年の夏には、木星と金星が、つい暮れにもあった「グレイト・コンジャンクション」にも似た配列をみせたという。すなわち、同年8月12日、木星と金星が、ほぼ重なった状態で未明の空にあらわれた。その隔たりは、満月の直径の1/5という、わずかなひらきしかなかった。けっきょく両の天体は、翌年の6月にほとんどひとつの星にみえるまで「ダンス」をつづけた。こうした天体の配置には、たとえば17世紀のヨハネス・ケプラーなども気づいていたのだという。

 「グレイト・コンジャンクション」については、現代の天文学者占星術師たちも、最近さかんに指摘していた。2020年12月21日に木星土星が「接近」するため、夜空にひとつの天体のようにみえるようになるという話である。当該記事では、800年ぶりとされているが、解釈のちがいにより媒体によっては400年ぶりとも600年ぶりとも書かれている。

 とまれ、そのばあい天体は単数ではなくなるではないか、という指摘もできる。しかし、マギが何らかを予感したとすれば、これがきっかけであったろう、という推論じたいは成り立ちうるし、わたしたちも困難な時代にあって、この天体現象が自分にとって何を意味するのか、ひとりひとりが自身で決めたらよいのではないか──というふうに、記事は締めくくられている。けだしそれこそが、今日この日がエピファニーでありつづけていることの意義であったのかもしれない。

新訳 十二夜 (角川文庫)

新訳 十二夜 (角川文庫)

聖書 新共同訳 新約聖書

聖書 新共同訳 新約聖書

  

*参照:

astronomy.com

www.ceskenoviny.cz

 

*上掲画像はWikipedia

 

ゆく年のベートホーフン

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photo by Taylor Deas-Melesh

 2020年は、ベートーヴェン生誕250周年であった。この、せっかくの観光客万来の年だというのに、こうむったのは疫病さわぎの冷や水であった。「ベートーヴェンハウス」を擁するボンやウィーンの関係者はさぞや、ほぞを噛んだことであろう。

 どうして「ベートホーフン」など、原語の音にちかい表記がメディアに採用されていないのか、ふしぎでならなかった。音にさとい音楽関係者たちがよく平気でいられるものだと。250周年を機に、いっせいに切り替えたらよかったのに。報道機関がロナルド・リーガンを「レーガン」に訂正したのは、よっぽど早かったらしいが、アンゲラ・メルケルが「メルクル」に直されるのはどうやら、任期切れの2021年9月までなさげである。さいきんは学校の教科書もルーズベルトから「ローズヴェルト」になっているらしいというのに……。

 詮ないこととはいえ、気になるたちである。日本語に正書法がない以上、けっきょくは、おのおのの業界の慣行に合わせるしかない。英語圏をはじめ、世界の演奏家や批評家たちのあいだで会話するには、ベートーヴェンと言ったほうが通りがよいのではあろう。スペイン語圏の発音に至ってはベートーベンと音写されるはずで、かなり日本語にちかいのではないか。とはいえ、オリジナルだけが例外的な発音というのもなんだか、いっぽ日本を出たら世界中でハラキーリ、フジヤーマ、カマカーゼ、サヨナーラだった──みたいな話だ。

 さて、ベートホーフンといえば、とりわけ年の瀬には「第九」すなわち「歓喜の歌」でお馴染みであるが、この楽曲は現在では「欧州の歌」としても知られている。原詩をものしたのが、かのフリードリヒ・フォン・シラーであった。

 ウィーンの中心部、オーペァンリングとエリーザベト通りをはさんで、ゲーテの坐像と向かい合うように佇むのが、シラーの立像である。その名も「シラーパルク」という、こぢんまりとした公園になっている。いっぽうテューリンゲンのヴァイマルには、ゲーテとシラーが並んでたつ像がある。19世紀後半の作というが、じっさい行って見てみたら、どうもポーズが劇的すぎる気がして、旧東独だけにソーシャリスト・リアリズムっぽさを感じてしまった。いずれにせよ、シラーといえばゲーテゲーテといえばシラーといったところがあるほどの友誼であった。

 そういえば両者の表記とも、19世紀からギョッテとか、シルレルとか、いろいろの変遷を経ている。いつだかSNSでも文献学的に考証してまとめていたひとがいた。ゴェーテとシラァあたりが、もとの音っぽい気がして好みではあるのだが。ほかにも歴史的にはさまざまな表記があったいっぽう、共時的にみてドイツ文学をはじめ、現代ではどの界隈でも同じような表記がつかわれているようであるから混乱もすくなく、なにより、もっと原語の発音から遠い表記もあることをおもえば、ゲーテとシラーが無難であろう。……この話はきりがない。

 チェコ共和国では、かならずしもドイツ系ということを意味するわけではないにせよ、いまでもドイツ姓のひとがそうとう多い。秋口に訃報がつたわったイジー・メンツルもそうであった。じつにこのシラーさんとて、「シレル」にちかい音で発音されるものの、いらっしゃるわけだ。ほかでもない、アレナ・シレロヴァー現財務大臣が該当している。女性の苗字が原則的に-ová(-オヴァー)という語尾となるのは文法に由来する習慣であるが、シレロヴァー(Schillerová)さんの男性の家族は「シレル」さんであるはずで、綴りもかのシラー(Schiller)と同一である。

 シレロヴァー財相に関しては、元次官の経験からくる実務能力が買われたらしく、アンドレイ・バビシュ首相の肝煎りで起用されたが、むろん、民意の洗礼を受けていない「貴族政治」という批判もある。それでもやはり特殊な年であったがため、2020年には存外に活躍の機会があった。各種の補助や補償金の給付制度はもちろん、この年末には税制改革までやりおおせた。会計上のいわゆるスーパー・グロス賃金の見直しをともなう大掛かりなもので、話題になった。SNSで自らの手柄をアピールするのも忘れないが、親分とはちがってインスタ派のようすで、ツイッターでも各種の立法などを広報している。ちょっと気どった面持ちでいつも写真に収まっており、じつはけっこう出たがりなのかもしれない。

 政治の事件もSNSで知ることも多くなってひさしい。おもえば日本の総理を筆頭に、年の初めと終わりでは、人が交替してしまっているポストもすくなくない。チェコ共和国でいえば、ヴォイティェフ元保健大臣などは、春にはツイッターでさかんに感染症対策について広報をおこなっていた。このひとも「バビシュ・チルドレン」のひとりだった。あのころは、未知のウイルスへの不安もあってか、どこの国でもひとは熱心に情報収集に努めていた。たとえばドイツ語圏にはクリスティアン・ドロステン、北米にはアンソニー・ファウチというカリスマ的な権威がいて、人びとは注意ぶかく、こうしたひとの発言を追ったものだったし、ある程度までは今でもそうにちがいない。けれども、ほかのたいていの「普通の」国では、こうしたウイルス学や感染症学といった学界のスーパースターがいることは、まれである。次善の方途として、政府の対策にかんする情報くらいはタイミングよく知りたくなるというのが人情だったのであろう。よくわからんけど、政府のいうことにつき合おうと。

 人間の馴化のすばやさを目のあたりにしたのもまた、2020年だった。それまで習慣のない国ぐににおける、マスク装用の普及などは最たる例である。それでもあれ以降にも、疫病とのつきあいかたというか、規制との折り合いのつけ方や態度も、だんだん変わってきているような気もする。慣れというのもあるだろうし、またワクチンがすでに開発されてしまった事情もあるのだろうけれども。

  春から夏にかけてのころだっただろうか。100年前のスペイン風邪に関する書籍が、平凡社東洋文庫〉の公式サイトにて無料で公開されていた。『流行性感冒スペイン風邪」大流行の記録』といった。読まれた向きも多かったとおもう。資料が充実していて、大正時代の官僚の手によって、ありとあらゆる情報が網羅されていたことに嘆じつつ、読みふけってしまったのも、なんだか遠い昔のことにようにも思える。ひとつだけ、往時の臣民の流行り病への態度の移り変わりのようなものは、記述が薄かったようにおもうのだけれど、どうだっただろうか。なお、内務省衛生局の報告自体はデジタル化されていて、国会図書館の「デジタルコレクション」から閲覧することもできる(流行性感冒)。

 ベートホーフンの「交響曲第9番」が、日本ではじめて本格的に演奏されたのは、このスペイン風邪のさなか、徳島の捕虜収容所であったという説がある。疫禍から解放されたとき、やはり人びとに歓喜は満ちていたのだろうか。それとも感覚はすでに鈍磨していたか。もしくは、疲弊してそれどころではなかったか。実際には、それぞれだったろう。いずれ、2021年もなかばを過ぎれば、あるいはわかることかもしれない。

 

*参照:

book.asahi.com

natgeo.nikkeibp.co.jp

sp.universal-music.co.jp

 

www.bbc.com

アルフォンス・ムハの彷徨える《スラヴ叙事詩》

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/59/Slavnost_svatovitova_na_rujane.jpg

 モラフスキー・クルムロフへ、アルフォンス・ムハの《スラヴの叙事詩》を観に行ったのは、もう10年は前のことである。

 ムハの生まれ故郷、イヴァンチツェから約10キロ。モラヴィア南西部を蛇行するロキトナー川がS字をえがく淵に位置することから、おそらくその地名がある。流れがくるっと曲がっているからクルムロフ──といわれるのも、あながち駄洒落というわけでもなく、語源学的にkrumm(曲がった)というドイツ語の形容詞によって裏打ちされている。

 題名の「叙事詩」は、原語でepopej(エポペイ)という。当時、車をだしてくれた連れに「ところで、エポペイって何」と訊かれたものである。おいおい、日本人にチェコ語の語義を訊くのかと呆気にとられたものだ。日本での関心のほうが高い作品ということもあるが、現代語ではepos(エポス)という同義語のほうが普及しているという事情もある。いずれにせよ日常もちいられないから、要は好事家だけが知る語彙に属する。

 それゆえ、人文系の科目に疎いひとには「スラヴ人のエポペイ」という題名が厳密に何を指しているのか、よくわからない。しかし連作を観覧しているうちに、ああなるほど、こういうことかな、とアイデンティティの来歴に想いを馳せる。あるいは、それがまたムハの意図でもあったかと思う。偉大な先人たるコメニウスにあやかって、ひろく民族のための視覚教材を企図したというところか。それだからこそ、教材が置かれるのは、あらたにチェコスロヴァキア民族の聖地となったプラハでなくてはならなかった。たぶん。芸術家としての野心も相応におおきかったとは思うが。

 この大作が、画家本人の遺志によって、プラハ市に属するものとされたことは、したがって不思議ではない。実子のイジー・ムハによる画家の伝記にも、そのことが書いてある。ざっと訳してみれば──《スラヴの叙事詩》は1928年からプラハ市の所有物となったが、父[アルフォンス・ムハ]は贈与契約書のなかで、一般公開されることと、そして威厳をたもって安置されることと条件をつけた。ところが、それが執行されるべき期限を設定するのを忘れた。それでプラハ市庁は法的に拘束されることがなかったため、条件の履行はえんえんと棚上げ、先送りされることとなった。たしかに絵画はプラハの見本市の新産業会館にて厳粛に市民に公開され、そこからブルノの見本市会場に移送されたが、のちに一時的な避難場所として、プラハのナ・ストゥダーンツェにある学校のホールに追いやられ、さらに丸められたまま、戦争がはじまるまで22年ものあいだ、あちこちの倉庫を盥廻しにされた(Jiří Mucha, _Alfons Mucha_, Praha, 1999.)。

 《叙事詩》はなんとか保護領時代を生きのびたものの、戦後まもなく統治者となった共産党中央としては、汎スラヴなどという時代錯誤の胡乱なイデオロギーを喧伝する「教材」が首都に鎮座することを看過できるわけがない。しかも、ベル・エポックに活躍したブルジョワ画家の作品ときている。なるべくひとの目にふれぬモラヴィアの僻村に作品を保管させることにしたのは、合理的であった。しかし作品が無事に遺されたという結果にかんがみれば、これでよかったのかもしれない。

 画家の親族らをまきこんだ相続問題が横たわっていたにもかかわらず、大作は社会主義体制がおわったのちも、しばらくはモラヴィアの村にとどまった。それでも時代とともに価値観がおおきく変化するなかで、海外での人気も後押ししたのか、やがて文化財指定がかかり、それと前後して法廷でプラハ市庁の言い分がとおった。かくして2011年、《叙事詩》が首都にひきとられるときがやってきた。ドナドナの憂き目にあう絵画たち。人口6千人に満たない村が随一にして唯一ともいえる観光資源をむしりとられた。すでになんでも持っている、120万人の暮らすプラハに。

 ところが、この2020年の師走である。疫病騒ぎも収まらぬ年の瀬に、《叙事詩》の所有権にかんする判決の報道があった。原告は、同様の訴訟をたびたび起こしてきた、作者の孫であるジョン・ムハ氏だ。昨年末に起こした訴訟だったのではなかったか。しかし今回、プラハ第一地裁は意表な判決を下した。常設展示するための固有の施設を用意することが条件であったと解釈されるが、それが満たされていないのだから、譲渡は無効である──という論法で、プラハ市の所有権を否定したのだ。ではいったい、9年前のドナドナは何だったのか。言わずもがな、プラハ側には不服で、不当判決であるとしている。

 プラハ市庁はいぜんから、ムハの後援者であったチャールズ・リチャード・クレインから寄贈された、とも主張していた。がんらい《叙事詩》の制作を依頼したのも、所有したのもこの米国人であり、ムハは画家として制作を請け負ったにすぎず、作品を所有していたわけではないから、遺族とて相続する権利など生ずるはずもなかったのだと。とはいえ、法廷戦術にすぎぬ方便に、行政の真意をさぐるのはナンセンスであろう。というのも、市側は並行して、画家との契約の条件も履行しようとしている……すくなくとも、そういう態度をとっているのだから。

 同市は、《叙事詩》展示施設について、いまだ準備中であると表明している。なにしろ全20幅のモニュメンタルな大作で、寸法にすると横に広いものは8,1メートル、高さは高いもので6,2メートルにおよぶというから、都合するのに手まどるというのはわかる。しかし、9年はながい。以前、プルゼニュ市の博物館施設の件でも触れたように、怠慢なのか不作為なのか、チェコ共和国の行政にはよく聞かれる話ではあるにせよ。

 それでも秋口の報道では、プラハ市内に7か所ほど候補地が挙がっており、うち3つの箇所について有望視されている由であった。それが、パンクラーツ広場、サヴァリン宮、ブラーニーク製氷所だったようだ。むろん検討するだけなら誰にでもできるとはいえ、訴訟手続きのてまえ、本気度を示す必要があったためか、この討議にはムハのご遺族にも加わってもらっている旨つたえられていた。

 遺族といっても件のジョン・ムハ氏を想定するのは、われら読者にとって無理があろう。それだから、これはヤルミラ・ムハ・プロツコヴァー氏のことではないかと思われている。アルフォンス・ムハのもうひとりの孫であり、故イジー・ムハの娘にあたる。報道の文言にみる「nevlastní」とは、双方が異母きょうだいであることを意味してはいるが、一説にはジョン・ムハ氏には亡父との血のつながりもないとも言われており、ひょっとすると世論がプラハ市側の支持にかたむきがちになるのも、たんなる排外的愛郷意識だけでなく、このあたりにも背景があるのかもしれない。控訴を準備するプラハ市としては、今回の訴訟がながびくならば、両者の相続についての別件の法廷闘争を蒸し返すことで劣勢の挽回をはかるかもしれない、と虚仮おどしめいた情報をリークしている。

 ビロード革命ののち、作品群についてよく研究され、整理され、また修復され、美術館にそれを閲覧できるのもありがたいことではある。そのおおくは故イジー・ムハに負っているといわれているが、ジョン・ムハ氏とて実母とともにムハ財団を設立して、作品の保全や公開にあたってきた。結局のところ、一般の愛好家たちからみれば、状態よく保管され、妥当なやり方で公開してもらえれば、だれが所有していてもあまりかわらない。ただし、だれもが権利を主張するいっぽうで、作品が死蔵される状態におちいるならば、さまざまな意味で損失となる。これは関係者にも認識されているにちがいない。

 宙ぶらりんの所有権はともかく、《叙事詩》は2011年以降、美術館の保管庫でプラハ市が管理してきた。それが昨年10月、企画展への貸し出しという名目で、古巣のモラフスキー・クルムロフに5年間の年限で貸与されることが承認されたのも、道理である。そして、この時限がプラハ市側にとっては、展示施設を設ける猶予期間となる。とはいえ、係争中の現状であってみればプラハ政界にも異論があるらしく、ANO党などは、一時貸与というが恒久の移管になりかねないと懸念を表明していた。いっぽうのクルムロフ側は、どんな判決が下されようが関係ないと、つい先週の報道でも鼻息が荒かった。

 ふたたび展示会場となるモラフスキー・クルムロフの邸第では、貸与の条件とされた展示空間の改修がすすめられており、年末には《叙事詩》が搬入され、来年2月か3月には開場されるという見通しが示されている。10年前は荒廃してはいたが、この機会に空調までもあらたに整備されたくらいだというから、ちょっと見てみたい気がする。もともと壁のスタッコも分厚く、おそらく温度管理や吸湿にも利があった。かつてナポレオンも訪れたという由緒ある建物だ。5年といわず、そのまま置いといてやってもいいじゃないか、と思ってしまうのである。なにより、画家の望んだ威厳がたもたれている。

 もっとも観光業界にしてみると、モラフスキー・クルムロフでの展示は不利である。功利主義的な建て前じょう、人類の至宝をなるべく多くの人にみてもらうのが理想であるとするならば、観光客にとってアクセスが不便というのは、悪である。ただ、地元側が主張するように、ウィーンの観光客を取り込むことを想定するなら、多少は地の利もありそうだ。直線距離では100キロほどで、車ならばミクロフ経由かズノイモ経由、列車ならばブジェツラフ経由か、あるいはブルノ経由となる。とはいっても、移動に3時間ほどはみておかねばなるまい。直線200キロのプラハからでも2時間半かそれ以上、列車では4時間ちかくはかかることを思えば、やはり辺鄙にはちがいない。

 なお、フランス語ふうの「ミュシャ」という表記のほうが普及しているだろうことは存じ上げている。この点、ロンドン生まれのジョン・ムハ氏は英国暮らしがながく、もとより御母堂がスコットランドのひとということもあって、とうぜん英語でもインタヴューに応じるが、聞き手が「ムーカ」と発音しても、咎めたりはしない。けれど、しぜんに応答するなかで「……アルフォンス・ムハ!」と、ただしい訓みをさりげなく強調することもまた忘れない。 

ミュシャスラヴ作品集

ミュシャスラヴ作品集

  • 作者:千足 伸行
  • 発売日: 2015/03/19
  • メディア: 大型本
 

 

*参照:

bijutsutecho.com

 

 *上掲画像はWikimedia

ケリーメク──チェコ共和国の次期連立政権?

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photo by Robo Michalec

 アドヴェントも第三主日がすぎたというのに、いぜん疫禍の騒ぎはつづき、ヨーロッパではドイツ連邦共和国を中心に規制が強められている。いつも冷静なメルケル連邦宰相が悲憤慷慨しつつ国民に協力を訴える姿が報じられていたが、隣のチェコ共和国も、政府の対応策をめぐってそうとう揉めている。

 チェコ政府は人びとが接触する機会を減じるために、ふたたび対策を強化する予定である一方、国民の10人中6人は規制を気にしていないという調査結果が報じられた。公共放送の調査によると、3/5にあたる人びとが、来たるクリスマスの休暇中に家族や友人との接触を避けようとは思わないと回答したという。

 それにもかかわらず、メディアに掲載された記事では、北ボヘミアの店主が嘆く。「いまどき酒場をつづけるのは自殺行為で、もうその愚を犯すつもりはない」。営業の制限によって損害を受け、すでに廃業してしまった店も多い。「中小企業協会」なる団体によると、同国の外食産業では1/5に相当する企業が倒産すると推計されている。

 ところで、チェコ共和国で「coffee to go」という業態が流行ったのは、もう10年はまえのことになるだろうか。「Go To」ではなく「To Go」のほうである。新奇性を醸すためにわざわざ英語の表現をもってくるのは、どこでもやることだ。スタバの店舗は当時まだ見あたらなかった。すでにウィーンまでは進出していたのではないかとは思うが。

 この週末に話題になっていたのは、共和国のヤン・ブラトニー保健大臣が、この手のテイクアウトのコーヒーに言及した件であった。すでに飲食店の営業は20時までに制限され、公共の場でアルコール飲料を消費することは禁じられている同国であるが、ウイルス感染の状況は期待されたほど改善されなかった。そんななかで、通りでコーヒーを片手におしゃべりをする人びとの姿が、医師でもあるブラトニー保健相の目にとまったらしいのだ。国民は紙コップ入りのコーヒーを悪用している、とまで言ったらしい。というわけで、コーヒーの販売も禁止する意向だとつたえられた。

 さっそくこの話がSNSの俎上にのぼり、束の間の盛り上がりを見せた。プチ炎上である。あわてたのは、共和国首相アンドレイ・バビシュで、コーヒーの販売が禁じられることはないから安心してほしいと発表し、陳謝する事態となった。たしかに、もし実施されていたらば、根拠に乏しいゆきすぎた規制であって、およそ常軌を逸している。もとより、利用者たちにしろ大手メディアにしろ、公式の発表を待たずして閣僚の発言を取り上げ、勝手に憤っているのだから、世話ない話ではある。けれども、それだけ政権への不信感が拡がってもいるのであろう。

 ちなみに、この種の紙製ないし樹脂製のカップ容器を指すのに、チェコ語では、kelímek(ケリーメク)というとくべつの語がもちいられる。トルコ語からポーランド語を経由してはいってきた語だという。語源的には陶器に関係しているともいうが、焼き物やガラス製の食器類にはふつう用いられない。

 ケリーメクで思い出したのは、ミロスラフ・カロウセク元財務大臣である。中道右派の政党・TOP_09の創設者にして、元代表でもある。晩秋の候であったが、この御仁がビールのはいった「ケリーメク」を手にして微笑む画像がでまわって、ちょっとした祭り状態となった。政府によって飲食店での飲み食いが禁じられて間もなく、レストランで飲酒した旨の報道がもちあがり、それが揶揄されたのだった。

 いまや野党の一議員にすぎぬとはいえ、立場上、責められることもまた仕方がない。かといって「自粛警察」よろしく、目くじらを立ててもきりがなかろう。春のロックダウンの時節には、オーストリア共和国のファン・デア・ベレン連邦大統領すら、ウィーン市内のレストランに制限時刻をこえて滞在し、警官の注意を受けたものだった。罰金を請求されたのではなかったか。

 それに、どうやら知己の店を訪ねたものらしいから、酌量の余地もある。飲食店経営にかかわる友人や知人がいたら、だれしも思い当たるふしがあるにちがいない。しかも、ほかならぬTOP党のことである。結党された2009年には、政権与党の疑獄事件で既存の政党が国民に厭気され、たんに目新しさからという以上に注目をあつめた。党代表に、なかんづく都市部で絶大な人気を誇った外務大臣、シュヴァルツェンベルク侯が担ぎだされたことも大きかった。とくに身のまわりで外食産業にかかわる自営業者のなかに支持者が意外にいたことが記憶にのこっている。案の定というべきか、翌年の選挙でおおくの票を得、いきなり連立政権の一翼を担うことになった。とりわけ、実質的な結党者たるカロウセクは、ひょっとすると地道にドブ板的な戦術をとったのではあるまいか。古いタイプの政治家で、バビシュ首相のようなポピュリストとは対極に位置する印象がある。想像だが──共感力を欠く政府が守ってくれぬ以上、飲食店の経営者としては野党に縋るしかない。カロウセクはといえば、窮状にある有権者と膝をつきあわせ、その声に真摯に耳をかたむける政治家を自認すればこそ、「まあまあまあ」と主人に手ずからピヴォを注がれて「ナ・ズドラヴィー」の唱和をむげに拒否するわけにいかなかったのではないか。

 もともと化学徒で、南ボヘミアの郷里で洗礼を受けたという。以前はキリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)にいて、党首までつとめた人物である。市民民主党(ODS)のミレク・トポラーネク内閣では、財相として入閣した。どこの政府でも重責を担う反面、よほどのことでもないかぎり派手に表にでるポストでもないし、それ以降もとりたてて話題になったということも覚えがない。当時のことで思い出されるのは、いわゆる「サルカ事件」くらいだろうか。

 脱線ばなしになる。日本の野村グループの会社が、もとの国営銀行であった投資・郵政銀行(IPB)の株式を取得したものの、その後のチェコ共和国政府の差別的な扱いから甚大な損害をこうむり、国連商取引委員会に仲裁の申し立てが行なわれた。『デジタル大辞泉』によれば、IPB株を取得したのは、野村のオランダ法人で「サルカ」社ということになっているが、のちの野村ホールディングス社の発表では「ノムラ・プリンシパル・インベストメント」社とされている。ともかく、結果としてチェコ当局の投資保護協定違反が認定され、賠償責任が生じた。けっきょくは和解が成立したとつたわったが、すぐ後に担当大臣に就いたのがカロウセクだったと思うのだ。事後処理に奔走する姿が報じられていたものと記憶する。

 ところで、党名にある「TOP」とは、「伝統、責務、繁栄」のそれぞれの頭文字に由来するという。なにか「神学書を読んでいるとでくわすキーワード・トップ3」めいていないだろうか。ついでに、つづく数字は西暦の下二桁であるから、これがイエス・キリストの出生にかかわる暦であることは言うまでもない。つまるところ、公式サイトの紹介を裏づけるように、キリスト教ユダヤ教の価値観がバックボーンにあることを明示しているわけだ。親EUを旨とするのも、文化的にキリスト教共同体としてのヨーロッパを念頭におけば諒解しうるが、欧州懐疑論を弄しがちなポピュリスト政党とは一線を画している。そもそもカロウセクがKDU-ČSLと袂を分かつことになったのも、党内の属人的な抗争に端緒があったにすぎず、両党の立ち位置におおきな相違があるようにはおもえない。それだから、最近ではODSをくわえた中道右派の3党で共同の歩調をとっている。

 同国の公共放送が週末に報じた直近の世論調査によれば、TOP党は、10月の選挙以降、0,5ポイントほど支持を落としており、5ポイントの支持率をもつにすぎない。しかしながら、ODSの11,5とKDU-ČSLの4,5をくわえると、3党の合計は21ポイントに達する。これは、さいきん躍進の目ざましい海賊党の20ポイントを抜き、バビシュ首相率いるANO党の25ポイントが視野にはいったことを意味する。件の3党はつぎの選挙に協働してあたるというから、これを要するに、ともすると中道右派による連立政権が将来的に成立する可能性がでてきた。

 現在のバビシュ政権というのは、首相本人が実業家も兼ねるため、成立当初から利益相反の疑いがあった。これに関しては、新年早々1月中にも、EU当局による最終的な調査報告書が出来するとされている。さらに自身が関与する企業によるEUからの補助金の不当な受給の疑惑がいくつもあり、モラヴィア・ベチュヴァ川の汚染事故にかかわる疑惑などももちあがっている。連立を組む社会民主党(ČSSD)との閣内不一致にいたっては常態化していた観もあるが、足元では感染症対策をめぐっていっそうの紛糾がみられる。シリア難民の問題も、今は昔。おそらく潤沢な資金にくわえ、自社従業員やステークホルダーの動員によって選挙にはいくらでも勝てるのかもしれないが、けっきょく目下の輿論が推す理由は、疫病に抗する「戦時内閣」であるという以外にはよくわからない。

 なおTOP党は、すでに昨2019年以降、マルケータ・アダモヴァー代表が率いている。この30代の若い党首は世代相応に、SNS上でも積極的な発信をしている。前述した数多の疑惑についても、追及に余念がない。だが如何せん、典型的な野党の異議申し立てのかたむきがつよく、したがって政権の批難ばかりが目立つ。それはよしとしても、ローマの大カトーよろしく、さいごにかならず「バビシュは政権を去るべきだ」というような言わずもがなのひとことを添えるのだ。なにか芸がない。面白みがない。たぶん具体的な政策についてあまり煮詰まっていないのだと思うが、ほかに言うことがない。

 名誉代表として党にとどまるシュヴァルツェンベルク侯も高齢で、この12月10日に83歳をむかえた。となるとなおさら、まだまだカロウセクのような人物が必要とされている──とまでいえば、とりわけアンチにとっては余計なお世話であろうが。とまれ、なにしろ相手は巨大コンツェルンで私腹を肥やしながら、自営や中小企業にはコーヒーの販売すら禁じかねない政権なのだ。カロウセク本人はフス戦争に名高いターボルの生まれという。聖杯派ならぬ「ケリーメク派」の攻勢に期待したいところではある。