ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

エピファニー

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/3K%C3%B6nige%2CRavennaGe%C2%B9%C2%B375%C2%B0.jpg

 客席から手拍子がきこえぬ「ラデツキー行進曲」では、新年が明けた気がしない。

 元日といえばウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、まいとしほろ酔いのあたまでノイヤールコンツェアトを聴くのが習慣である。といっても高価なチケットを入手して出かけるほどの気概もなく、もとより「リモート」で満足していた。それでも、感染症対策のために観客をいれずにおこなわれた今年は、中継映像もやはり異様である。左右の壁に32体ならぶ黄金の女像柱が、眼下の空っぽの客席を睥睨しているのが、なんとも不気味な楽友協会であった。

 そうこうしているうちに日は過ぎて、すでに正月も6日。20世紀の半ばまで、カトリック教会でいう降誕節とは、クリスマスからこの日までを指していた。おおくの地域でクリスマスの飾りをかたづける日である。つまり、この期日までが日本の「松の内」に当たるのか。アドヴェントクランツくらいならまだしも、おおきなツリーを用意した家庭は大儀そうで、都会ではごみ捨て場に樅や唐檜の木が集積される光景もみられる。この日にツリーを燃やさない文化では、2月2日の聖燭祭(キャンドルマス)までそのままというところもあり、春がくるまでクリスマス気分がつづいてしまいそうだ。

 1月6日が「聖なる三王の日」とか「エピファニー」とか呼ばれるのは、イエスが世にあらわれた日という記念の主旨に由来し、東方からベツレヘムを訪れた王、ないし占星術の学者らが「世」を代表している。ひろく公現祭というけれど、辞書によれば主顕日、顕現日、また宗派によっていろいろの呼び方がある。それもむろん教会によって捉え方が異なるためである。

 正教では暦が異なって、二週間ほどの差があるけれど、とまれ神現祭とも主の洗礼祭とも呼ぶそうで、むしろこれからがクリスマス本番という観がある。というのも、東方教会ではがんらい、イエスが洗礼を受けたことを祝う日となっていることによる。起源をたどると、ナイルの神・オシリスを祀った祝祭の名残りだというから、そうとう年季がはいっている。たとえばロシアでは、プーチン大統領みずからが古式に則って、寒中水泳めいた奉神礼を受けているのが報じられたこともあった。

 西方では、つい戦後の1955年になってカトリック教会が「主の洗礼日」を分離独立させて13日としたことから、エピファニーの意味合いが明確になった。1969年にはさらに、以降の直近の日曜日にあらためられている。そうした経緯を経て、現在のエピファニーの日は、イタリアやスペイン、またオーストリアクロアチアなど、それからドイツ連邦共和国でもカトリシズムがつよい諸州にかぎって、法定の休日となっている。わりと重きがおかれている日なのである。

 聖三王の祝祭とは別に、おなじドイツ語圏でも呼び名がじつにいろいろあるのには少々おどろく。俗にホーホノイヤール(Hochneujahr)ともいうらしいが、グロースノイヤール(Großneujahr)の称にいたっては、「大正月」みたいな語感がある。が、日本語では元日から7日までの意味であるから、たしょう混乱するけれど、大差ないか。オーストリア弁で、ヴァイナハツツヴェルファー(Weihnachtszwölfer)とよばれるのは、クリスマス(ヴァイナハト)から12日目(ツヴェルファー)のことかと想像がつく。つくけれども、連想するのはまったく別のことで、ありきたりだが『十二夜』である。

 シェイクスピア_Twelfth Night, or What You Will_を『十二夜』と最初に訳したのは、おそらく逍遥坪内雄蔵先生であろうが、十三夜とか十五夜が秋の月見を思い出させることからすれば、近代の日本語にあらたな混沌をもたらした訳業だったのかもしれない。それからエピファニー・イヴのことも日本語で十二夜と呼べるようにはなりはしたが。とはいえ、かの地ではエリザベス朝のむかしから宴会の日だったわけだ。劇そのものには、どたばたの印象しかないものの、10年以上まえにアン・ハサウェイ男装の麗人ヴァイオラを演じたのが話題になったのは覚えている。

 お祝いについては、前夜といわず、クリスマスからつづくばあいもあるし、これまた土地ごとにさまざまな様相を呈している。

 フランスでは、ガトー・デ・ロワ(le gâteau des rois)などと呼ばれる菓子を焼くのだろう。これもふれておかねばなるまい。直訳すると「王のケーキ」というわけだが、めいめいに切り分けられたひと切れのなかに、陶器の人形がひそんでいれば「当たり」という、「王様ゲーム」のたぐいがつきものである。

 これがひろく知られるのも、ふるく「真珠嬢」とも訳された、モーパッサンの「マドムワゼル・ペルル」という味わいぶかい短篇による。──シャンタル家にお呼ばれした主人公は、予期せず「王様」役を拝命してしまう。となると「女王」を指名せねばならないが、おもうところあってか、シャンタル氏の令嬢をさしおいて、ペルル嬢と呼ばれていた正体不明の中年女性をえらぶ。のち、シャンタル氏とビリヤードにくりだすと、その口から件の女性に関する意外な過去が明かされる──真実の顕現、すなわち「エピファニー」という現象をえがいた古典的な傑作という気がする。

 さて、もっと牧歌的な風習は、旧ドーナウ帝国の領域にのこっている。現在のオーストリアのみならず、もとの領内であったポーランドや、ボヘミアモラヴィアなどの各地には、シュテルンズィンガーなどといって、子どもたちが「王さま」に扮して家々を訪ねてはキャロルを歌う慣らいがある。なにがしかの心づけを献じた家には、扉や鴨居などに「C+M+B」とか「K+M+B」とか、白いチョークで祝福の文字列をのこしてゆく。とはいえ報道によると、ことしは例によって感染拡大予防の見地から、実施が見送られたところがおおいようだ。

 この手書きの標識はむろん、エピファニーに現れた「マギ」の名を暗示している。

 拝火教の指導者をさしたともいう「マギ」とは、とりわけ複数形だけよく知られた謂いである。それも「マタイ伝」第2章のみに出てくるきりなのに。翻訳によって「王」とか「博士」とか「賢人」とか「占星学者」とか、いろいろな素姓で書かれてはいるとはいえ、氏名はおろか、人数すら明かされていない。黄金・乳香・没薬を贈ったという記述から、訪問者が3人であったということになったのは短絡的にもおもえるけれど、そこから具体的な名前までが案出され定着してしまっているのだから、カトリシズムという壮大な二次創作物の受容史にあって、とりたてて興味ぶかいものがある。正典と認められないながら、こういう形で布教に利用された文書も膨大にあったと思しい。

 新共同訳によれば、こうである──

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  ガスパール、メルキオール、バルタザールとか名づけられているものの、そもそもどうしてこのひとたちは、「星」を見たというだけで、イエスの誕生を知ったのか。星にチョークで書いてあったとでもいうのか。ほかでもない啓示(エピファニー)というわけであろうが、天文学のメディアに面白い記事をみつけた。

  記事によると、おそくとも13世紀いらい天文学界では議論があった。可能性として、超新星、彗星、太陽フレア、惑星のなんらかの配列という事象が想定された。あるいは、じつは何も起こっていなかった、つまりまったくの「神話」という場合もあり得る。

 筆者であるエリク・ベッツは、冴えたことを言っている。聖書では「star」と単数形の星になっているけれども、仮にそれが「彗星」であったとして、古代の人びとはふつう、それを差し迫った破滅的な運命のきざし、すなわち凶兆と考えていたはずであり、したがってマギとて、それを救世主が生まれたしるしと解したとは想像しがたい。

 このひとは現代の便利なアプリをもちいて、歴史的な天体の配置を模擬的に再現してみたらしい。すると、紀元前7年に木星土星が、うお座の領域にて「接近」したことがみとめられた。さらに4年後の紀元前3年の夏には、木星と金星が、つい暮れにもあった「グレイト・コンジャンクション」にも似た配列をみせたという。すなわち、同年8月12日、木星と金星が、ほぼ重なった状態で未明の空にあらわれた。その隔たりは、満月の直径の1/5という、わずかなひらきしかなかった。けっきょく両の天体は、翌年の6月にほとんどひとつの星にみえるまで「ダンス」をつづけた。こうした天体の配置には、たとえば17世紀のヨハネス・ケプラーなども気づいていたのだという。

 「グレイト・コンジャンクション」については、現代の天文学者占星術師たちも、最近さかんに指摘していた。2020年12月21日に木星土星が「接近」するため、夜空にひとつの天体のようにみえるようになるという話である。当該記事では、800年ぶりとされているが、解釈のちがいにより媒体によっては400年ぶりとも600年ぶりとも書かれている。

 とまれ、そのばあい天体は単数ではなくなるではないか、という指摘もできる。しかし、マギが何らかを予感したとすれば、これがきっかけであったろう、という推論じたいは成り立ちうるし、わたしたちも困難な時代にあって、この天体現象が自分にとって何を意味するのか、ひとりひとりが自身で決めたらよいのではないか──というふうに、記事は締めくくられている。けだしそれこそが、今日この日がエピファニーでありつづけていることの意義であったのかもしれない。

新訳 十二夜 (角川文庫)

新訳 十二夜 (角川文庫)

聖書 新共同訳 新約聖書

聖書 新共同訳 新約聖書

  

*参照:

astronomy.com

www.ceskenoviny.cz

 

*上掲画像はWikipedia