ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

もずのはやにえ

f:id:urashima-e:20201207090329j:plain

photo by Ryosuke Yamaguchi

 それにしても、あっと思ったら師走だったのである。立冬もすぎて久しいことからしても、あきらかにもう秋ではない。降雪だってあった。気がつけばアドヴェントも第二主日を迎え、残す蝋燭もあとふたつ。けれども、近年では11月の声を聞くと市が立ってクリスマスのムード一色になる世界からすると、パンデミックの今年は趣がだいぶ異なっている。いまだ秋がつづいているような気がするのだ。

 各国政府とも、感染拡大防止と消費経済との両立に腐心している。日本では第3波と目されるチャートから、ガースー総理肝煎りのGoTo政策にも方向修正がはいった。飲食店の営業に制限がかけられ、忘年会シーズンもあきらめざるを得ない情勢となっている。

 そういえば……と、春さきに棚にしまっておいた食品を手にとれば、消費期限がすでに超過してしまったと見つけるにつけ、折から「食品ロスを減らせ」とも叫ばれてきたこともあるし、悩ましい気分にもなるかもしれない。それでもクリスマスや正月を控えて、またぞろ食料品を買い込む機会も増えてくる時節である。

 まるで「百舌の速贄」である。ふるくから秋の季語でもあったにせよ、どうしてモズが餌を立ち木の枝に刺しておくのか、いまだに諸説ある。通説では、基本的に貯食行動であることがほぼ間違いないとされていた。つまり、冬に備えた保存食といったところか。

 ところが先ごろ、これが繁殖にもかかわっている可能性があるという研究の記事を目にした。要は、この行動に雌雄差がみとめられるという報告である。すると印象が修正されるわけだ。すなわち、摂食するわけでもない昆虫をむやみに殺害し、その死骸をこずえに誇示しつづける百舌というのは、かのワラキアの串刺し公爵すら想起させる不気味さをおびてくる。

 百舌といえば、『もずのこども』という児童書がむかしあったのだ。あったのは覚えているが、仔細はとっくに忘却している。それでも、カッコウの托卵がモティーフであったことは確かである。モズの雛は謀殺され、カッコウの雛にすり替えられているわけだが、健気にもモズはカッコウの雛を懸命に育てる、というあらすじではなかったか。子どもは生まれるところを選べない一方、誰に吹き込まれたのでもなく、当然のように目の前の子を育てる親鳥。

 ……読者たる幼児にとっては、不条理すぎるメッセジを秘めた絵本であったのかもしれない。モズの意外な二面性をみるにつけ、ヒトのみならず、生き物とはおしなべて呪われた存在でもあるようだ。

もずのこども (1976年)
 

 

*参照:

www.osaka-cu.ac.jp