ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

マルヒフェルトの戦い

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  826日は、1278年にマルヒフェルトの戦いがあった日づけである。

 マルヒフェルトとは「マルヒ川(モラヴァ川)のほとりに広がる草原」を意味する地名であって、ウィーンの郊外に位置している。これでは漠とした印象も否めないためか、「デュルンクルート=イェーデンシュパイゲン間の戦い」というふうにも呼ばれる。

 そこで、権勢を誇ったプシェミスル家のボヘミア王オタカル2世が、「貧窮伯」とも嘲弄されたローマ王・ハプスブルクのルードルフ1世に敗れたのである。これによってルードルフは、帝国内での地歩をたしかにし、大空位時代からの混乱をおさめ、あらたな版図を併せて、その後のハプスブルク家の興隆に道をひらいた。ちなみに、たとえば岩崎周一『ハプスブルク帝国』など新書版の概説にすらある話だが、ルードルフが王に選出されたころのハプスブルク家は、地域で屈指の有力諸侯には成長していたというから、「貧しき伯爵」ないし「弱小の伯爵」というのは不当な謗りだったようである。

 それにしても、じつに700年以上もむかしのことだ。極東では、同じ時期に元寇があった。これが日本では戦前の国粋の風がつよかったころ、「神風」に代表されるように、神州不滅の逸話として好んでとりあげられた。だが、いうまでもなく時代の風潮として穏やかなものではない。

 ところが、チェコ語のメディアは今でも「マルヒフェルト」を、歴史に名だかい「われらの敗北」とやるのだから、ただごとではない。ビーラー・ホラとならぶ、民族にとっての屈辱の日、というわけだ。日本でいえば戦前のノリか。近代的な国民意識をもつはずもなかったオタカルを、民族代表のようにとらえて疑わないところに、不思議さを感じる。ナショナリズムには、興味がつきない。

 ことしの記念日に、ウェブに掲載された『レフレクス』誌の記事も、まさに「われらの敗北」として書きおこされている。さらに煽情的にも、王が殺害された状況が述べられる。オタカルは裸で戦場を引き廻されたあと、兵士らに小便をかけられ、最終的に剣で頭蓋骨をまっぷたつに割断された……。

 この敗北の原因はながらく、ボヘミア諸侯らの背信にもとめられてきた。すなわち、人口に膾炙してきた敗因とは、戦力の要であった重装の騎兵を率いたミロタ・ス・ディェヂツが戦線から逃亡したためとか、ザーヴィシュ・ス・ファルケンシュテイナが一度オタカルへの支援を約していたにも拘わらず、直前にハプスブルク側に寝返ったからだとかいうものであった。

 こうした見方は、優勢なボヘミア王が簡単に敗れるわけがないと、当時の年代記作家らがあれこれ解釈をこころみた結果で、事実に反すると現代の研究者はみている。けっきょくのところ、オタカルはさほどすぐれた戦略家ではなかった、というのが今では通説になっているようだ。

 なるほど、没するまで20年のあいだ、オタカルの名は轟いていた。「鉄」とも形容された重騎兵は、ボヘミア王の代名詞でもあった。ただ、そのころの戦闘とは、おおよそ両陣営の軍勢が正面からぶつかり合うという単純なもので、騎士道精神にのっとり君主も最前列でたたかう慣わしであった。オタカルもそこにいた。そして敗死の憂き目をみた。

 兵力では大差なく容易な戦ではなかったとはいえ、外交的に支持を拡げ勢いにのる敵を、ルードルフは泥くさい知恵で凌いだのだった。冷静な識者は「傲岸な四十代が、老獪な六十代に敗れた」とも評している。それぞれ、オタカルとルードルフの年齢、ひいては経験の差、そしてアドリア海にまで至る広大な領土を擁したボヘミア王の慢心をもあらわしている。

 端的には、林野に配した伏兵による奇襲が奏功したといわれる。旧来の騎士道的な規範を自明のものと考えていたオタカルには、まったく意想外で防ぎようがなかったにちがいない。おもえば、ヴィエトコンにしろ、ターリバーンにしろ、強大な敵に抗するには、待ち伏せ攻撃しかなかった。

 そういえば元寇に関しても、幕府側の武士にはひとりづつ名告りをあげるという牧歌的な慣習があって、モンゴル勢のよい標的になったというようなまことしやかな俗説があるが、おどろくべき相似ではないだろうか。ユーラシアの東西で同じ時期に、おそらく遊牧民族の侵攻が契機となって、戦術上の画期があったのかもしれない。紳士的な戦いの作法が、時を同じくして廃れたことを類推させるのだ。

 

 さて、じつはひと月ほど前にチェコの公共放送が報じたところによると、このマルヒフェルトの戦いについての「ドキュメンタリー」が制作中との由である。中世のドキュメンタリーとは、胡乱な表現にもおもえるが。ともかく「撮影快調!」というていで、報道とも番宣ともつかないニュースではあった。ドイツとオーストリアの公共放送との合作で、これはマリア・テレーズィアなどを題材にした「大河ドラマ」では近年よくある制作体制だ。それぞれの国を代表する名優たちが、めいめいの言語で共演して、おのおのの地元の言語に吹き替えられて放映されることが多い。

 報道ではまた、この歴史的な戦いについて、国によって学校で教わるニュアンスが異なる点にも触れ、そこにも困難があるとつたえていた。しかしこれは一個のプロダクションとしては、むしろ利点ともなろう。

 「歴史に“もしも”はない」という。歴史学の研究対象となるのは「起こったこと」であって、「起こらなかったこと」すなわち「もしも」は対象外であるという、当然のことを言っているにすぎない。したがって、人びとが「もし、あのときこうなっていれば……」と想像するのは、むろん歴史ではなく、ファンタジーの範疇に属する。

 劇映画などのフィクションであれば、ファンタジーでもかまわないだろう。それでも国際的な合作となると、相当程度すり合わせが必要となるだろうから、歴史ものとは名ばかりの愛国ファンタジー活劇に堕する危険も減るのではないか。とりわけ第三国の観客にとっては、見ごたえに直結するはずだ。もっとも今回は「ドキュメンタリー」らしいが……。

 

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*参照:

www.reflex.cz

ct24.ceskatelevize.cz

 

 *上掲画像はWikimedia