100を超える博物館施設があるというウィーンに、日本からやってくるひとは多いが、ユダヤ博物館をふらり訪れる者は、むしろ稀だろう。けれども、ウィーン市立博物館で町の歴史を概観したあとなどにゆくと、意外な発見があって、ユダヤの艱難の道のりを知る以上の興味深さがある。施設は、ドロテーアー街のエスケレス宮と、ユーデンプラッツの2か所にわかれて在る。
博物館が好きなたちで、件の博物館を訪れたときも、展示がおもしろかったということもあり、メモまで取りながら長居してしまった。しかし、ふと我に返って、こんなところでなにをやっているんだ……つまり、これは言い換えれば、ユダヤ教徒でない者にとっての同博物館の存在意義に関する哲学的な問いであるが、つらつら考えずにはおれなかったのだ。さしあたり、ここでは大仰に、寛容な社会の必要を説く啓蒙施設といえるのではないか──とでもしておこう。まあ、誰に問うても、単なる集金マシーンだよ、とは応えまい。
さて、そのユーデンプラッツ博物館で、11月27日から開催されているというのが「へディ・ラマー展」である。
ことし生誕105周年を迎えた、ヘディ・ラマー(1914-2000)は、ここで「ウィーン出身のユダヤ系ハリウッド女優にして、発明家」とされている。
ルーイ・B・メイヤーは、この女優を1930年代のハリウッドで売り出すにあたり「世界でもっともうつくしい女」と触れ込んだという。──ところが、博物館の公式サイトの記事の見出しは「Lady Bluetooth. Hedy Lamarr」である。つまり「ブルートゥース女史」なる表現だが、Bluetoothとは周知のとおり、ヘッドフォンやマウスやキーボードといったワイヤレス機器に欠かせない通信規格の名である。
この亡命女優は、第二次大戦のさなかに魚雷の誘導システムに問題点を見出し、周波数ホッピングに関して特許を取得している。その技術が、今日の携帯電話や無線LAN、そして各種の誘導兵器にも生きているというのだ。
端役による出演などを除けば、おそらく本格的なデビュー作となったのは、1933年のチェコスロヴァキア映画『春の調べ』だった。全裸の水泳シーンなどから、議論を呼んだ作品である。ヘディ演ずる主人公のエヴァが、歳の離れた商人に嫁がされるものの、耐えきれず離婚を決意するが……という筋書きは、女優自身の将来を暗示しているように思えてならない。とまれ、当然のことながら、このモノクロ・フィルムから思い浮かべる技術水準と、現行のAirPods Proにも採用されるBluetoothという無線通信は、頭のなかでどうしても繋がらない。
はたしてヘディが19歳で嫁いだ先は、ヴィーナー・ノイシュタット近郊ヴェラースドルフに弾薬工場を有する実業家であった。女優をしてテクノロジーへの関心を抱かしめたといわれる軍需産業くらい、この時代での成功を約束された業種もめずらしい。第一次大戦後のハイパー・インフレを経て、1931年にはクレディート・アンシュタルトが破綻している。そんなご時世に、なに不自由ない生活を捨ててまでパリへ逃亡をはかったのは、よっぽどの仕打ちをうけたからともいえそうだが、それは政商たる夫の庇護を失うことを意味した。すでにヒトラーは政権についており、スイスからフランスにわたるのが定番の亡命コースとなっていた時分であろう。
生涯をつうじて6回、結婚と離婚を繰り返したというから、ヘディ自身、そもそもエキセントリックな人物なのでは、と同時代人から見られていたとしてもおかしくはない。じっさい多くの伝記が刊行されているが、伝記作家も書きつらねるネタに事欠かなかったろう。Wikipediaの記事なども豊富なエピソードの量を誇っている。──しかし、この人柄と衆目こそが、陰鬱な晩年に影を落としているともいえそうだ。40代で映画界から身を引いたのち、幾度か万引きの咎で逮捕されるなどしている。
映画『春の調べ』の原題は「Ekstase(エクスターゼ)」で、日本語では「エクスタシー」といえば話が早い。これは、巷で依存性が話題になっているらしいMDMAの別称のひとつでもある。こうした問題の渦中にあるひとに必要なのは、司法手続きや厳罰よりも、むしろ治療や相談相手、それから寛容な社会であることは言を俟たない。かのアードルフ・ヒトラーすら、不寛容な社会が生み出した怪物ともいえるが、ヘディ・ラマーの場合はどうであろう。
機会さえあったならば、研究者として活躍していたかもしれない──とすら、ある記事には書かれている。だが、けっきょく、寛容さに欠ける社会がヘディに許した肩書きは「美しい女」のみだった。……近年の再評価が起こるまでは。
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Besucherinfo | Jüdisches Museum Wien
*金曜日は14時まで。土曜休館。
*参考:
*数か月前、映像化の予定も報じられた:
*2015年には、生誕101年にして、Googleにもとりあげられた: