ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

消えゆく赤軍顕彰の像

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 承前ポール・ウェラーワルシャワのジャズ・クラブで「壁は崩れる」と呪いのことばを吟じてから4年後、はしなくも「壁」が崩れ去ったことは、周知のとおり。労働者独裁をやっている国はなくなった。アジアで僭称している政権などは除いて。

 友人のさそいにのるかたちでワルシャワ訪問がかなったのは、それからさらに何年も後のことではあった。「スターリングラード通り」はすでになく、「ヤギェウォ王朝通り」に変わっていたが、すくなくともその時点で《武装せる兄弟の記念像》はまだ健在であった。スタイル・カウンシルのプロモーション映像のなかで、スティーヴ・ホワイトがふしぎそうに見あげていた、ヴィルニュス広場の群像のことである。

1)ワルシャワ

 この兄弟像は、1945年11月に完成した。当初は、解放の記念碑、感謝の碑などとも呼ばれていたようだ。ところが、祖国解放の感動も感謝もしだいに薄れてきたものか、より写実的な名称に落ち着いた。といっても「兄弟」というのは、イデオロギー的な比喩にちがいないが。ともかく、協働してナツィの軍勢に対抗している画をあらわす、いかにも「していますよ」という情景描写は、いわゆるソーシャリスト・リアリズムのまがまがしい様式美だ。記念碑の頂では、PPSh-41短機を携える者と、手榴弾を投擲せんとする2名の赤軍兵士が進撃している。台座の四隅に立つのは、五芒星のついた鉄帽をかぶる赤軍兵士と、四角い制帽のポーランド人民軍兵士。俯きかげんの姿勢から、俗に「居眠り四人組」というふうにも呼ばれた。

 ドイツの第三帝国から解放されたと思ったら、それはソヴィエト・ロシアによる新たなる支配の始まりだった──東欧革命とは、さらにそこからの解放でもあるはずだった。結果、ソ連邦によるポーランド支配の象徴とも見なされるようになったがために、1990年代には早くも、記念碑を撤去する計画が持ち上がった。これは一度は阻止され、1994年には、記念碑の保全を主旨とするロシアとの外交的な協定の締結をみた。ところが2007年以降、こんどは地下鉄駅を整備するつごうから、記念碑を移転する計画がもちあがり、紆余曲折を経て2011年、いったんはすっかり撤去された。しかしながら、いずれの場所にもふたたび設置されることはなかった。なし崩し的に、撤去は恒久的なものとなったのだ。端から計画された「なし崩し的な恒久化」だったのかもしれないが、知る由もない。

 その後の2016年、「脱共産主義法」が成立し、似かよったソ連時代の記念碑や像が、全体主義体制を思い起こさせる過去の遺物として、軒なみ取り払われていった。これが内外で議論を呼んだことは、記憶にあたらしい。が、ひとりポーランドだけではない。同様に赤軍将兵を讃え、勝利や解放を記念する碑は、ベルリーン以東の欧州各地にも見られる。米ソ冷戦終結後には多くが、撤去するの、しないのといった問題をひきおこしている。

2)プラハ、ウィーン

 たとえばボヘミアプラハでは、解放35周年の1980年以来、同市6区のブベネチュに立っていた《コーニェフ元帥記念像》が、こちらも曲折を経て、つい先日、じつに2020年4月3日、最終的に撤去された。むろんロシアは外交ルートをつうじて抗議したが、「プラハの解放者」の撤去に反対していたボヘミアモラヴィア共産党からもまた、ならばウィンストン・チャーチル像も撤去せよ、という意表な声もあがった。

 いっぽう、ウィーンのシュヴァルツェンベルク広場にある《赤軍英雄記念像》は、ロシア政府とのあいだの協定によって撤去という選択肢が封じられた。だから代わりに、ホーホシュトラールの泉から高くふきあがる噴水によって隠され、市街中心部をゆく衆人の目に触れぬようにされているのだ──という噂である。じっさい見えない。

3)モラヴィア

 1945年のちょうど今ごろの時節、3月末から4月初めにかけて、ブラチスラヴァやウィーンを解放したのと前後して、赤軍モラヴィア攻略に着手する。戦争自体が終結する5月までに順に解放されていった町々では、赤軍兵士をかたどった大小の像を目にするのもしぜんで、この一帯だけでもおびただしい数にのぼるものと思われる。

 兵士単体のモティーフとしてはズノイモやブルノの銅像などが、町の規模のわりに大きい印象がある。とくにズノイモの《勝利の記念像》は、地元では「イヴァン」などと呼ばれ、鉄道駅と市街地のあいだの七叉路の中心に立ち、稀少なランドマークとして親しまれてきた。が、それはかならずしも、好かれているという意味ではない。そのかぎりで「イヴァン」とは、ニュアンスまでも汲めば「露助」と意訳してもよさげなくらいだ。

 赤い星のみを台座の上に戴くだけのシンボリズムの記念碑もあるし、それに兵士像を組み合わせた折衷主義のものもある。オロモウツに在るのはたしか前者で、オストラヴァのは後者である。オストラヴァの場合は、先達て半年ほどまえに、何者かによって像に赤いペンキがかけられたというニュースもあったから、憶えている。

4)ブラチスラヴァほか

 この周辺で例外的なものは、ブラチスラヴァの《スラヴィーン》である。これは施設の名とそこに設置された赤軍兵士像の名を兼ねている。像は全高およそ40メートルという台座に立つ、圧倒的なサイズだ。つまるところ戦没者墓地の廟であり、慰霊の碑でもあるから、余所とはすこしく趣きを異にするのだろう。ワルシャワにもじつは兄弟像とは別に、モニュメンタルな軍人墓地がある。こうしたケースでは靖国神社のようなものかとも思えば、あえて撤去するという計画など、寡聞にしてきかない。

 そのほか思わぬところで、小ぢんまりとした赤軍兵士を目にしたりもする。石造によるものは辺境の町などに多い印象で、それが学校のまえであったり、郊外のバス停のわきに目立たず佇んでいたりもするから、東欧の二宮金次郎か、はたまた共産党の創作地蔵か、といった風情がある。

 しかし、これらもひょっとすると風前の灯。はかない群小の文化財である。ワルシャワの兄弟像のように、いつの間にか消えていた、ということも今後ありうる。独ソ戦の延長戦は、真の解放を求める旧衛星諸国による闘いのようでもあり、また東西のせめぎ合いのつづきのようでもある。

 プラハの解放者コーニェフ元帥の像は撤去後、20世紀記念博物館に収蔵されるという話であったが、この施設じたいが最近は政治的な論争の的にもなっていて、どうも雲ゆきがあやしい。しかし、そもそも同市内には、共産主義博物館なる観光施設も建ち、インバウンド客でにぎわう昨今ではあった。どうせなら、東欧じゅうの類似した廃止済みの記念碑をどこか一か所に集めて保存、展示するというわけにはいくまいか。箱根彫刻の森みたいになったら、あんがい面白いと思う。ひろく東欧旧共産圏には「skanzen」という独特な語もあるが、教育施設化されたスウェーデンの要塞史跡に由来し、おおく野外博物館と訳される。明治村のような密閉されない屋外空間の博物館施設は、これからの脱パンデミック時代には向いている。廃棄してしまうよりは……とここまで空想してみたけれど、「ヴァンダリズムだ、蛮行だ」とも報じられるロシアで、かの地の世論が納得するとも、また思えない。いずれにしてもプーチンやラヴロフはよい顔はしないにちがいない。

  

*参照:

jp.rbth.com

www.lidovky.cz

www.idnes.cz

 

*上掲画像はWikipediaPomnik Braterstwa Broni w Warszawie