ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

アルフォンス・ムハの彷徨える《スラヴ叙事詩》

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 モラフスキー・クルムロフへ、アルフォンス・ムハの《スラヴの叙事詩》を観に行ったのは、もう10年は前のことである。

 ムハの生まれ故郷、イヴァンチツェから約10キロ。モラヴィア南西部を蛇行するロキトナー川がS字をえがく淵に位置することから、おそらくその地名がある。流れがくるっと曲がっているからクルムロフ──といわれるのも、あながち駄洒落というわけでもなく、語源学的にkrumm(曲がった)というドイツ語の形容詞によって裏打ちされている。

 題名の「叙事詩」は、原語でepopej(エポペイ)という。当時、車をだしてくれた連れに「ところで、エポペイって何」と訊かれたものである。おいおい、日本人にチェコ語の語義を訊くのかと呆気にとられたものだ。日本での関心のほうが高い作品ということもあるが、現代語ではepos(エポス)という同義語のほうが普及しているという事情もある。いずれにせよ日常もちいられないから、要は好事家だけが知る語彙に属する。

 それゆえ、人文系の科目に疎いひとには「スラヴ人のエポペイ」という題名が厳密に何を指しているのか、よくわからない。しかし連作を観覧しているうちに、ああなるほど、こういうことかな、とアイデンティティの来歴に想いを馳せる。あるいは、それがまたムハの意図でもあったかと思う。偉大な先人たるコメニウスにあやかって、ひろく民族のための視覚教材を企図したというところか。それだからこそ、教材が置かれるのは、あらたにチェコスロヴァキア民族の聖地となったプラハでなくてはならなかった。たぶん。芸術家としての野心も相応におおきかったとは思うが。

 この大作が、画家本人の遺志によって、プラハ市に属するものとされたことは、したがって不思議ではない。実子のイジー・ムハによる画家の伝記にも、そのことが書いてある。ざっと訳してみれば──《スラヴの叙事詩》は1928年からプラハ市の所有物となったが、父[アルフォンス・ムハ]は贈与契約書のなかで、一般公開されることと、そして威厳をたもって安置されることと条件をつけた。ところが、それが執行されるべき期限を設定するのを忘れた。それでプラハ市庁は法的に拘束されることがなかったため、条件の履行はえんえんと棚上げ、先送りされることとなった。たしかに絵画はプラハの見本市の新産業会館にて厳粛に市民に公開され、そこからブルノの見本市会場に移送されたが、のちに一時的な避難場所として、プラハのナ・ストゥダーンツェにある学校のホールに追いやられ、さらに丸められたまま、戦争がはじまるまで22年ものあいだ、あちこちの倉庫を盥廻しにされた(Jiří Mucha, _Alfons Mucha_, Praha, 1999.)。

 《叙事詩》はなんとか保護領時代を生きのびたものの、戦後まもなく統治者となった共産党中央としては、汎スラヴなどという時代錯誤の胡乱なイデオロギーを喧伝する「教材」が首都に鎮座することを看過できるわけがない。しかも、ベル・エポックに活躍したブルジョワ画家の作品ときている。なるべくひとの目にふれぬモラヴィアの僻村に作品を保管させることにしたのは、合理的であった。しかし作品が無事に遺されたという結果にかんがみれば、これでよかったのかもしれない。

 画家の親族らをまきこんだ相続問題が横たわっていたにもかかわらず、大作は社会主義体制がおわったのちも、しばらくはモラヴィアの村にとどまった。それでも時代とともに価値観がおおきく変化するなかで、海外での人気も後押ししたのか、やがて文化財指定がかかり、それと前後して法廷でプラハ市庁の言い分がとおった。かくして2011年、《叙事詩》が首都にひきとられるときがやってきた。ドナドナの憂き目にあう絵画たち。人口6千人に満たない村が随一にして唯一ともいえる観光資源をむしりとられた。すでになんでも持っている、120万人の暮らすプラハに。

 ところが、この2020年の師走である。疫病騒ぎも収まらぬ年の瀬に、《叙事詩》の所有権にかんする判決の報道があった。原告は、同様の訴訟をたびたび起こしてきた、作者の孫であるジョン・ムハ氏だ。昨年末に起こした訴訟だったのではなかったか。しかし今回、プラハ第一地裁は意表な判決を下した。常設展示するための固有の施設を用意することが条件であったと解釈されるが、それが満たされていないのだから、譲渡は無効である──という論法で、プラハ市の所有権を否定したのだ。ではいったい、9年前のドナドナは何だったのか。言わずもがな、プラハ側には不服で、不当判決であるとしている。

 プラハ市庁はいぜんから、ムハの後援者であったチャールズ・リチャード・クレインから寄贈された、とも主張していた。がんらい《叙事詩》の制作を依頼したのも、所有したのもこの米国人であり、ムハは画家として制作を請け負ったにすぎず、作品を所有していたわけではないから、遺族とて相続する権利など生ずるはずもなかったのだと。とはいえ、法廷戦術にすぎぬ方便に、行政の真意をさぐるのはナンセンスであろう。というのも、市側は並行して、画家との契約の条件も履行しようとしている……すくなくとも、そういう態度をとっているのだから。

 同市は、《叙事詩》展示施設について、いまだ準備中であると表明している。なにしろ全20幅のモニュメンタルな大作で、寸法にすると横に広いものは8,1メートル、高さは高いもので6,2メートルにおよぶというから、都合するのに手まどるというのはわかる。しかし、9年はながい。以前、プルゼニュ市の博物館施設の件でも触れたように、怠慢なのか不作為なのか、チェコ共和国の行政にはよく聞かれる話ではあるにせよ。

 それでも秋口の報道では、プラハ市内に7か所ほど候補地が挙がっており、うち3つの箇所について有望視されている由であった。それが、パンクラーツ広場、サヴァリン宮、ブラーニーク製氷所だったようだ。むろん検討するだけなら誰にでもできるとはいえ、訴訟手続きのてまえ、本気度を示す必要があったためか、この討議にはムハのご遺族にも加わってもらっている旨つたえられていた。

 遺族といっても件のジョン・ムハ氏を想定するのは、われら読者にとって無理があろう。それだから、これはヤルミラ・ムハ・プロツコヴァー氏のことではないかと思われている。アルフォンス・ムハのもうひとりの孫であり、故イジー・ムハの娘にあたる。報道の文言にみる「nevlastní」とは、双方が異母きょうだいであることを意味してはいるが、一説にはジョン・ムハ氏には亡父との血のつながりもないとも言われており、ひょっとすると世論がプラハ市側の支持にかたむきがちになるのも、たんなる排外的愛郷意識だけでなく、このあたりにも背景があるのかもしれない。控訴を準備するプラハ市としては、今回の訴訟がながびくならば、両者の相続についての別件の法廷闘争を蒸し返すことで劣勢の挽回をはかるかもしれない、と虚仮おどしめいた情報をリークしている。

 ビロード革命ののち、作品群についてよく研究され、整理され、また修復され、美術館にそれを閲覧できるのもありがたいことではある。そのおおくは故イジー・ムハに負っているといわれているが、ジョン・ムハ氏とて実母とともにムハ財団を設立して、作品の保全や公開にあたってきた。結局のところ、一般の愛好家たちからみれば、状態よく保管され、妥当なやり方で公開してもらえれば、だれが所有していてもあまりかわらない。ただし、だれもが権利を主張するいっぽうで、作品が死蔵される状態におちいるならば、さまざまな意味で損失となる。これは関係者にも認識されているにちがいない。

 宙ぶらりんの所有権はともかく、《叙事詩》は2011年以降、美術館の保管庫でプラハ市が管理してきた。それが昨年10月、企画展への貸し出しという名目で、古巣のモラフスキー・クルムロフに5年間の年限で貸与されることが承認されたのも、道理である。そして、この時限がプラハ市側にとっては、展示施設を設ける猶予期間となる。とはいえ、係争中の現状であってみればプラハ政界にも異論があるらしく、ANO党などは、一時貸与というが恒久の移管になりかねないと懸念を表明していた。いっぽうのクルムロフ側は、どんな判決が下されようが関係ないと、つい先週の報道でも鼻息が荒かった。

 ふたたび展示会場となるモラフスキー・クルムロフの邸第では、貸与の条件とされた展示空間の改修がすすめられており、年末には《叙事詩》が搬入され、来年2月か3月には開場されるという見通しが示されている。10年前は荒廃してはいたが、この機会に空調までもあらたに整備されたくらいだというから、ちょっと見てみたい気がする。もともと壁のスタッコも分厚く、おそらく温度管理や吸湿にも利があった。かつてナポレオンも訪れたという由緒ある建物だ。5年といわず、そのまま置いといてやってもいいじゃないか、と思ってしまうのである。なにより、画家の望んだ威厳がたもたれている。

 もっとも観光業界にしてみると、モラフスキー・クルムロフでの展示は不利である。功利主義的な建て前じょう、人類の至宝をなるべく多くの人にみてもらうのが理想であるとするならば、観光客にとってアクセスが不便というのは、悪である。ただ、地元側が主張するように、ウィーンの観光客を取り込むことを想定するなら、多少は地の利もありそうだ。直線距離では100キロほどで、車ならばミクロフ経由かズノイモ経由、列車ならばブジェツラフ経由か、あるいはブルノ経由となる。とはいっても、移動に3時間ほどはみておかねばなるまい。直線200キロのプラハからでも2時間半かそれ以上、列車では4時間ちかくはかかることを思えば、やはり辺鄙にはちがいない。

 なお、フランス語ふうの「ミュシャ」という表記のほうが普及しているだろうことは存じ上げている。この点、ロンドン生まれのジョン・ムハ氏は英国暮らしがながく、もとより御母堂がスコットランドのひとということもあって、とうぜん英語でもインタヴューに応じるが、聞き手が「ムーカ」と発音しても、咎めたりはしない。けれど、しぜんに応答するなかで「……アルフォンス・ムハ!」と、ただしい訓みをさりげなく強調することもまた忘れない。 

ミュシャスラヴ作品集

ミュシャスラヴ作品集

  • 作者:千足 伸行
  • 発売日: 2015/03/19
  • メディア: 大型本
 

 

*参照:

bijutsutecho.com

 

 *上掲画像はWikimedia

ケリーメク──チェコ共和国の次期連立政権?

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photo by Robo Michalec

 アドヴェントも第三主日がすぎたというのに、いぜん疫禍の騒ぎはつづき、ヨーロッパではドイツ連邦共和国を中心に規制が強められている。いつも冷静なメルケル連邦宰相が悲憤慷慨しつつ国民に協力を訴える姿が報じられていたが、隣のチェコ共和国も、政府の対応策をめぐってそうとう揉めている。

 チェコ政府は人びとが接触する機会を減じるために、ふたたび対策を強化する予定である一方、国民の10人中6人は規制を気にしていないという調査結果が報じられた。公共放送の調査によると、3/5にあたる人びとが、来たるクリスマスの休暇中に家族や友人との接触を避けようとは思わないと回答したという。

 それにもかかわらず、メディアに掲載された記事では、北ボヘミアの店主が嘆く。「いまどき酒場をつづけるのは自殺行為で、もうその愚を犯すつもりはない」。営業の制限によって損害を受け、すでに廃業してしまった店も多い。「中小企業協会」なる団体によると、同国の外食産業では1/5に相当する企業が倒産すると推計されている。

 ところで、チェコ共和国で「coffee to go」という業態が流行ったのは、もう10年はまえのことになるだろうか。「Go To」ではなく「To Go」のほうである。新奇性を醸すためにわざわざ英語の表現をもってくるのは、どこでもやることだ。スタバの店舗は当時まだ見あたらなかった。すでにウィーンまでは進出していたのではないかとは思うが。

 この週末に話題になっていたのは、共和国のヤン・ブラトニー保健大臣が、この手のテイクアウトのコーヒーに言及した件であった。すでに飲食店の営業は20時までに制限され、公共の場でアルコール飲料を消費することは禁じられている同国であるが、ウイルス感染の状況は期待されたほど改善されなかった。そんななかで、通りでコーヒーを片手におしゃべりをする人びとの姿が、医師でもあるブラトニー保健相の目にとまったらしいのだ。国民は紙コップ入りのコーヒーを悪用している、とまで言ったらしい。というわけで、コーヒーの販売も禁止する意向だとつたえられた。

 さっそくこの話がSNSの俎上にのぼり、束の間の盛り上がりを見せた。プチ炎上である。あわてたのは、共和国首相アンドレイ・バビシュで、コーヒーの販売が禁じられることはないから安心してほしいと発表し、陳謝する事態となった。たしかに、もし実施されていたらば、根拠に乏しいゆきすぎた規制であって、およそ常軌を逸している。もとより、利用者たちにしろ大手メディアにしろ、公式の発表を待たずして閣僚の発言を取り上げ、勝手に憤っているのだから、世話ない話ではある。けれども、それだけ政権への不信感が拡がってもいるのであろう。

 ちなみに、この種の紙製ないし樹脂製のカップ容器を指すのに、チェコ語では、kelímek(ケリーメク)というとくべつの語がもちいられる。トルコ語からポーランド語を経由してはいってきた語だという。語源的には陶器に関係しているともいうが、焼き物やガラス製の食器類にはふつう用いられない。

 ケリーメクで思い出したのは、ミロスラフ・カロウセク元財務大臣である。中道右派の政党・TOP_09の創設者にして、元代表でもある。晩秋の候であったが、この御仁がビールのはいった「ケリーメク」を手にして微笑む画像がでまわって、ちょっとした祭り状態となった。政府によって飲食店での飲み食いが禁じられて間もなく、レストランで飲酒した旨の報道がもちあがり、それが揶揄されたのだった。

 いまや野党の一議員にすぎぬとはいえ、立場上、責められることもまた仕方がない。かといって「自粛警察」よろしく、目くじらを立ててもきりがなかろう。春のロックダウンの時節には、オーストリア共和国のファン・デア・ベレン連邦大統領すら、ウィーン市内のレストランに制限時刻をこえて滞在し、警官の注意を受けたものだった。罰金を請求されたのではなかったか。

 それに、どうやら知己の店を訪ねたものらしいから、酌量の余地もある。飲食店経営にかかわる友人や知人がいたら、だれしも思い当たるふしがあるにちがいない。しかも、ほかならぬTOP党のことである。結党された2009年には、政権与党の疑獄事件で既存の政党が国民に厭気され、たんに目新しさからという以上に注目をあつめた。党代表に、なかんづく都市部で絶大な人気を誇った外務大臣、シュヴァルツェンベルク侯が担ぎだされたことも大きかった。とくに身のまわりで外食産業にかかわる自営業者のなかに支持者が意外にいたことが記憶にのこっている。案の定というべきか、翌年の選挙でおおくの票を得、いきなり連立政権の一翼を担うことになった。とりわけ、実質的な結党者たるカロウセクは、ひょっとすると地道にドブ板的な戦術をとったのではあるまいか。古いタイプの政治家で、バビシュ首相のようなポピュリストとは対極に位置する印象がある。想像だが──共感力を欠く政府が守ってくれぬ以上、飲食店の経営者としては野党に縋るしかない。カロウセクはといえば、窮状にある有権者と膝をつきあわせ、その声に真摯に耳をかたむける政治家を自認すればこそ、「まあまあまあ」と主人に手ずからピヴォを注がれて「ナ・ズドラヴィー」の唱和をむげに拒否するわけにいかなかったのではないか。

 もともと化学徒で、南ボヘミアの郷里で洗礼を受けたという。以前はキリスト教民主同盟=チェコスロヴァキア人民党(KDU-ČSL)にいて、党首までつとめた人物である。市民民主党(ODS)のミレク・トポラーネク内閣では、財相として入閣した。どこの政府でも重責を担う反面、よほどのことでもないかぎり派手に表にでるポストでもないし、それ以降もとりたてて話題になったということも覚えがない。当時のことで思い出されるのは、いわゆる「サルカ事件」くらいだろうか。

 脱線ばなしになる。日本の野村グループの会社が、もとの国営銀行であった投資・郵政銀行(IPB)の株式を取得したものの、その後のチェコ共和国政府の差別的な扱いから甚大な損害をこうむり、国連商取引委員会に仲裁の申し立てが行なわれた。『デジタル大辞泉』によれば、IPB株を取得したのは、野村のオランダ法人で「サルカ」社ということになっているが、のちの野村ホールディングス社の発表では「ノムラ・プリンシパル・インベストメント」社とされている。ともかく、結果としてチェコ当局の投資保護協定違反が認定され、賠償責任が生じた。けっきょくは和解が成立したとつたわったが、すぐ後に担当大臣に就いたのがカロウセクだったと思うのだ。事後処理に奔走する姿が報じられていたものと記憶する。

 ところで、党名にある「TOP」とは、「伝統、責務、繁栄」のそれぞれの頭文字に由来するという。なにか「神学書を読んでいるとでくわすキーワード・トップ3」めいていないだろうか。ついでに、つづく数字は西暦の下二桁であるから、これがイエス・キリストの出生にかかわる暦であることは言うまでもない。つまるところ、公式サイトの紹介を裏づけるように、キリスト教ユダヤ教の価値観がバックボーンにあることを明示しているわけだ。親EUを旨とするのも、文化的にキリスト教共同体としてのヨーロッパを念頭におけば諒解しうるが、欧州懐疑論を弄しがちなポピュリスト政党とは一線を画している。そもそもカロウセクがKDU-ČSLと袂を分かつことになったのも、党内の属人的な抗争に端緒があったにすぎず、両党の立ち位置におおきな相違があるようにはおもえない。それだから、最近ではODSをくわえた中道右派の3党で共同の歩調をとっている。

 同国の公共放送が週末に報じた直近の世論調査によれば、TOP党は、10月の選挙以降、0,5ポイントほど支持を落としており、5ポイントの支持率をもつにすぎない。しかしながら、ODSの11,5とKDU-ČSLの4,5をくわえると、3党の合計は21ポイントに達する。これは、さいきん躍進の目ざましい海賊党の20ポイントを抜き、バビシュ首相率いるANO党の25ポイントが視野にはいったことを意味する。件の3党はつぎの選挙に協働してあたるというから、これを要するに、ともすると中道右派による連立政権が将来的に成立する可能性がでてきた。

 現在のバビシュ政権というのは、首相本人が実業家も兼ねるため、成立当初から利益相反の疑いがあった。これに関しては、新年早々1月中にも、EU当局による最終的な調査報告書が出来するとされている。さらに自身が関与する企業によるEUからの補助金の不当な受給の疑惑がいくつもあり、モラヴィア・ベチュヴァ川の汚染事故にかかわる疑惑などももちあがっている。連立を組む社会民主党(ČSSD)との閣内不一致にいたっては常態化していた観もあるが、足元では感染症対策をめぐっていっそうの紛糾がみられる。シリア難民の問題も、今は昔。おそらく潤沢な資金にくわえ、自社従業員やステークホルダーの動員によって選挙にはいくらでも勝てるのかもしれないが、けっきょく目下の輿論が推す理由は、疫病に抗する「戦時内閣」であるという以外にはよくわからない。

 なおTOP党は、すでに昨2019年以降、マルケータ・アダモヴァー代表が率いている。この30代の若い党首は世代相応に、SNS上でも積極的な発信をしている。前述した数多の疑惑についても、追及に余念がない。だが如何せん、典型的な野党の異議申し立てのかたむきがつよく、したがって政権の批難ばかりが目立つ。それはよしとしても、ローマの大カトーよろしく、さいごにかならず「バビシュは政権を去るべきだ」というような言わずもがなのひとことを添えるのだ。なにか芸がない。面白みがない。たぶん具体的な政策についてあまり煮詰まっていないのだと思うが、ほかに言うことがない。

 名誉代表として党にとどまるシュヴァルツェンベルク侯も高齢で、この12月10日に83歳をむかえた。となるとなおさら、まだまだカロウセクのような人物が必要とされている──とまでいえば、とりわけアンチにとっては余計なお世話であろうが。とまれ、なにしろ相手は巨大コンツェルンで私腹を肥やしながら、自営や中小企業にはコーヒーの販売すら禁じかねない政権なのだ。カロウセク本人はフス戦争に名高いターボルの生まれという。聖杯派ならぬ「ケリーメク派」の攻勢に期待したいところではある。

 

もずのはやにえ

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photo by Ryosuke Yamaguchi

 それにしても、あっと思ったら師走だったのである。立冬もすぎて久しいことからしても、あきらかにもう秋ではない。降雪だってあった。気がつけばアドヴェントも第二主日を迎え、残す蝋燭もあとふたつ。けれども、近年では11月の声を聞くと市が立ってクリスマスのムード一色になる世界からすると、パンデミックの今年は趣がだいぶ異なっている。いまだ秋がつづいているような気がするのだ。

 各国政府とも、感染拡大防止と消費経済との両立に腐心している。日本では第3波と目されるチャートから、ガースー総理肝煎りのGoTo政策にも方向修正がはいった。飲食店の営業に制限がかけられ、忘年会シーズンもあきらめざるを得ない情勢となっている。

 そういえば……と、春さきに棚にしまっておいた食品を手にとれば、消費期限がすでに超過してしまったと見つけるにつけ、折から「食品ロスを減らせ」とも叫ばれてきたこともあるし、悩ましい気分にもなるかもしれない。それでもクリスマスや正月を控えて、またぞろ食料品を買い込む機会も増えてくる時節である。

 まるで「百舌の速贄」である。ふるくから秋の季語でもあったにせよ、どうしてモズが餌を立ち木の枝に刺しておくのか、いまだに諸説ある。通説では、基本的に貯食行動であることがほぼ間違いないとされていた。つまり、冬に備えた保存食といったところか。

 ところが先ごろ、これが繁殖にもかかわっている可能性があるという研究の記事を目にした。要は、この行動に雌雄差がみとめられるという報告である。すると印象が修正されるわけだ。すなわち、摂食するわけでもない昆虫をむやみに殺害し、その死骸をこずえに誇示しつづける百舌というのは、かのワラキアの串刺し公爵すら想起させる不気味さをおびてくる。

 百舌といえば、『もずのこども』という児童書がむかしあったのだ。あったのは覚えているが、仔細はとっくに忘却している。それでも、カッコウの托卵がモティーフであったことは確かである。モズの雛は謀殺され、カッコウの雛にすり替えられているわけだが、健気にもモズはカッコウの雛を懸命に育てる、というあらすじではなかったか。子どもは生まれるところを選べない一方、誰に吹き込まれたのでもなく、当然のように目の前の子を育てる親鳥。

 ……読者たる幼児にとっては、不条理すぎるメッセジを秘めた絵本であったのかもしれない。モズの意外な二面性をみるにつけ、ヒトのみならず、生き物とはおしなべて呪われた存在でもあるようだ。

もずのこども (1976年)
 

 

*参照:

www.osaka-cu.ac.jp

 

奴隷の年と東ボヘミアの城邑

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 すでに師走である。パンデミックをきっかけに、社会の矛盾があばかれた年だった──などと、年の瀬の総括らしきことを書くのは容易いが、その解決の方途について見えているわけではまったくない。

 12月2日は「奴隷制度廃止国際デー」だったそうである。『デジタル大辞泉プラス』によれば、1949年の国連総会で「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」が採択されたことに根拠をおいている。

 これに抵触しかねない事例を思い浮かべれば、日本には悪名たかい技能実習制度がある。制度の欠陥に起因するような事件がたびたび報じられた年だった。そもそも数十年のあいだ、自国民の過労死の問題も解決できていないというのに、輪をかけて劣悪な条件で就労させるべく海外から人材を移入するというのは、行政府による人道上の罪にも思える。思えるが、これ抜きにしてたちゆかない構造にまで堕してしまったのが、「失われた30年」を経た日本の経済と人口動態であったのだろう。

 とはいえ、今年にかぎってみれば、世界的な疫禍のなか、状況はどこも似たり寄ったりというところのようだ。「奴隷としての外人」という、煽情的な見出しがおどったのは、この夏のチェコ共和国の日刊新聞である。もとより低水準の賃金でこき使われているというのに、遅配が生じて困窮している由であった。余所者にしわ寄せがゆくのは不当ではあるが、いたるところに共通しているようである。

 歴史的な奴隷制度についてはまた、いわゆるBLM運動に連関して脚光を浴びたものだった。新大陸のプランテーションで使役された奴隷は、アフリカ大陸からの「輸入品」だったことから、のちのちまで尾をひく人種問題が生じた。いっぽう同時代の旧大陸、とりわけエルベ川以東での労働は、おもに農奴が担っていた。

 1848年という革命の季節に、ウィーンの帝国議会農奴廃止の法案を出したハンス・クートリヒについては、よく知られている。たいがい目立たない佇まいではあるものの、モラヴィアやシレジアを中心に旧帝国領の各地に功績を讃える碑銘が散在している。現在のチェコ共和国オーストリア共和国ドイツ連邦共和国、それにアメリカ合衆国の領域にあわせて76もの記念碑が現存するという報道も、近年あった。だが、先鞭をつけたのはヨーゼフ2世だった。以前すこし触れたが、およそ18世紀の人らしからぬ慧眼で、数々の利権を打破した啓蒙専制君主である。農奴解放のみならず、修道院を解散させるなどもし、とりわけ教会の利権には打撃をあたえたはずだが、それだけに孤立した君主でもあった。天につばきす、とはいいたくないが、正論を吐くやつは嫌われるものだ。改革者の宿命であろう。

 ところで、こうしたことをちょっと調べようと文献をひもとけば、とうぜん「Leibeigene」という語にでくわすことになる。辞書をひくと「農奴、隷農」という語義のまえに《史》とあり、いまは存在しない制度であることを再確認させられる。よりひろくは「Sklave」(奴隷)の語が用いられるところだろうが、英語の「slave」と同様、ギリシア起源のラテン語にゆきつく。古代ローマで奴隷といえば、まずスラヴ人をさした。

 では当のスラヴ人はどうなのかといえば、たとえばチェコ語ではまず「rab」という語が挙がる。会話ではほとんど使われないと思うが、文語では奴隷を指す唯一の語ということになっている。はんたいに日常もちいられる語となると、私見によれば、圧倒的に「otrok」の出番が多い。前述の記事「奴隷としての外人」にしても然りである。また、農奴や隷農だけならば「nevolník」という謂いもあるものの、これは形態素からして「非自由民」というような構成の語だとすぐわかるから、明解すぎてあまり面白みがない。

 むしろ面白いのは、住民たちが自分たちのことを、この「奴隷」という語で呼ぶ町が存在することである。ともすると、誇らしげにだ。同様の例をひけば、徳川の天下はもう存在しないのに、いまでも東京下町というと神田の水の産湯をつかった「江戸っ子」を自認するひとがある。あるいは、北海道出身のひとを「どさんこ」と称したりする。この場合、北海道産の馬とは別の意味であることは、ふつう日本語話者には文脈によってしぜんに察せられる。要は、その手の集合的な愛称のことである。──チェコ語を学習している向きには、あるいは知られた話であろう。

 フラデツ・クラーロヴェーは、プラハから東に100キロほどのところにある、人口9万人ほどの町である。先史時代からひとが定住していたらしいが、歴史に名をあらわすのはなんといっても、ヴァーツラフ2世の妃であったリクサ・エルジュビェタが寡婦領とした14世紀以降で、「クラーロヴェー」とはこの「王妃」に由来する。フラデツ・クラーロヴェー、その名も「王妃の城邑」というわけである。高校世界史には「ケーニヒグレーツの戦い」が出てくるから、日本ではドイツ語による名称のほうが広く知られているかもしらん。しかし「ケーニヒ」では「男の王」ではないか、と思われた諸兄諸姉はするどい。もとの名は「ケーニギングレーツ」であった。

 さて、このフラデツ市民の愛称たる「奴隷」であるが、厳密には「votrok」や複数形の「votroci」が用いられる。それでもって、標準的な「otrok」との音韻的な差異が生じて、スラングであることが察せられるのである。

 ただ、o-ではじまる語が、語頭にv-をつけて発音されるのは、口語ではよくある。もとは、とりわけボヘミアから西モラヴィアまでの一帯における方言であったという。が、たとえば「窓」を意味する「okno」が「vokno」と発音されるのは、地域にかかわらず、いまでは日常的である。あるいは、よりモーダルなニュアンスがくわわるが、英語の「he」にあたる「on」を「von」と言ったりする。ヴァーツラフ・ハヴェルの戯曲にも「von i von, vona i vona」というくだりが出てきた(そういえば「otrok je otrok」という、俚諺を引いたせりふもあった)。苗字にしても「Ostrý」さんというひとがいたかと思えば、「Vostrý」さんというのもいたものだった。あるいは「Orlík」さんと「Vorlík」さん、「Ocásek」さんに「Vocásek」さん……枚挙に遑がない。

 端的に、フラデツ市を含む東ボヘミアでいう「votrok」とは、標準的なチェコ語で「少年」や「若者」を意味する「chlap」や「chlapík」あるいは「mladík」の同義語だそうだ。そもそも「otrok」なる語は、スラヴ祖語までさかのぼって、未成熟の男子を意味したらしい。「奴隷」の意味はなかった。制度がなかった。「rab」のほうも語源的にはちかいらしく、ドイツ語の「Arbeit」もそこから派生しているというから、さらにさかのぼるのだろう。

 仔細に見てゆけば、「ot-」は、前置詞の「od」に通じ、何かから「隔てられている」状態を示しており、「-rok」とは「rokování」、ひいては「řeč」の意であった。これを要するに「言葉から隔てられた者」すなわち、村落の意思決定のための会合で「発言権がない者」「話し合いに参加する資格がない者」を「otrok」と言ったものらしい。そうすると、いにしえの村社会の「少年」と「奴隷」との共通項がみえてくる。

 用例をみると、もとの北東ボヘミアの言語環境では、がんらい呼びかけに用いられたようだ。フラデツの人びとが「Votroku!」と呼びかけ合うのは、同地出身の文人イグナート・ヘルマンが典拠に挙がっているから、遅くとも19世紀後半から20世紀初めまでにはこの習慣が定着していたのであろう。標準的には「Chlapče!」といっても意味は通じるだろうし、あるいは集合的に「Hoši!」とか「Kluci!」というほうがよく聞かれる表現だろうか。大意としては、ほぼおなじである。英語圏でも「guys」とか「mate」とか「old chap」とか、いろいろあるではないか。やや廃れたステレオタイプによれば「hey man」でもっぱら声をかけてくるは、ほかでもない新大陸のアフリカ系の人びとだ。

 以上は主としてヴァーツラフ・マヘクとボフスラフ・ハヴラーネクによる1950年代の短い記事に拠ったが、細部では両者が対立している点もあるようで、つまり議論の余地もあるわけだ。男性のコミューニティーで流通した表現なのだろうが、一方で女性形の「votrokyně」が聞かれない点について、ジェンダー論的な視点から言語社会学的ないし社会言語学的に、もうすこし捕捉があったら面白かったのにと勝手な感想をもった。

 けっきょくフラデツの住民とて、みずからをさして「奴隷」呼ばわりしているのではなかった。だが、ひるがえって、むしろ現代の埼玉や群馬あたりに、奴隷扱いを受けたことを誇るマイノリティが発生したらば、それは悪夢にちがいない。──現状では誇大妄想じみたものがあるが、種々の報道を耳にするにつれ、今後まったく起こらないとも断言できない気がしてくるのである。

  

*参照:

jp.sputniknews.com

front-row.jp

business.nikkei.com

news.yahoo.co.jp

www.bbc.com

www.reuters.com

www.bbc.com

www.sankei.com

www.idnes.cz

*上掲画像はWikimedia.

 

西ボヘミアの醜聞──サッカー協会の腐敗

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photo by Daniel Kirsch

 亡くなったマラドーナは、ピッチにあがるたびに十字を切っていた姿が印象に残っている。ほんの思いつきの乱暴な仮説だが、カトリック諸国のサッカーは、ドイツやイングランドとはやはり一味ちがうのかもしれない。おしなべて「母ちゃん」が強い国々で、それが聖母マリア信仰から来ていると措定するのは安直に過ぎるだろうか。おおかた母に褒められるためにボールを蹴りはじめ、長じてクラブにスカウトされるなどすれば、街路や村を出てスター選手への道がひらける。一種のラテンアメリカン・ドリームか。プロ選手になってからも、試合のたびにその母ちゃんを筆頭に一族郎党が応援しにやってきては、お祭り騒ぎをくりひろげる。

 旧共産圏には旧ユーゴスラヴィア諸国のような強国もあれど、無神論サッカーはまた筋が違う。中東欧といっても、いまは正教会サッカーといったほうがよい国もあるだろうし、むしろカトリックなのに、というポーランドのような国もあるにはある。いずれにしても、冷戦が終わって、近隣にブンデスリーガセリエAプレミアリーグリーガ・エスパニョーラが降って湧いた国々だ。けっきょくは資金のあるクラブが国境を越えて優秀な選手をひっぱっていってしまうから、どうしてもスポンサーの細い国のリーグは不利である。くわえて、汚職もはびこりがちである。袖の下など顕在化しなくとも、ほうぼうの酒場では目のさといファンが噂している──この試合もどうせスパルタが勝つんだろ、そういうことになってるんだ。どうしてだろうな、え? ほんとにつまんねえよな……。なにがしか賭けていれば、なおさら鋭い視線を試合に向けることになるから、人びとを騙すのは至難である。

 さて、マラドーナからこういう自由連想に至ったのは、さいきんのボヘミア西部からの報道に関係している。

 先月なかば、チェコ共和国サッカー協会(FAČR)の副会長を筆頭に、審判員など総勢20人が逮捕されたという報道があった。プルゼニュ地区のサッカー協会において、大規模な審判員の買収があったとされ、また同副会長には協会の資金を横領した嫌疑もかけられている。折しも、欧州選手権の予選スケジュールが着々と進行するなかでのニュースであった。

 そのロマン・ベルブル副会長というのは、地元プルゼニュのひとで、元警察官。一時期は国家保安部(StB)の防諜部門にも在籍していたと報じられている。その後、サッカー協会の審判員に転じた。欧州サッカーの審判にはどういうわけか警官や元警官が多いから、警察時代の職階がのちのちまで人間関係に影響を及ぼし、それが頭角を現すきっかけになったのではないか。けっきょく直近では、チェコ・サッカー界の「ゴッドファーザー」とも目されていた。

 試合の判定に不当に関与していた疑いについては、然もありなん。以前から囁かれてはいた。それがここにきて公共放送の取材からも、複数の関係者を巻き込んでのやらせ判定の数々が具体的に明らかになっている。国外のオンライン・ブックメーカーやマフィアとの関係はまだ判然とはしないものの、何らかの関係があったことが推定されており、おぼろげながらサッカー界全体への影響力の行使の形が見えてきている。いまおもえば、数年前に事情通による内部告発のていで、協会の「マフィア的運営」が非難されたこともあったのだ。

 さらに横領の容疑が逮捕後に出てきた。とはいえ、当局は過去2か年にわたって個人資産を捜査していたというから、証拠がそうとう固まっているらしいことはわかる。タックス・ヘイヴンとして知られるセーシェル諸島に登記上所在する会社「ルガス・コーポレーション」をつうじて、事業ないし資産を管理していたという情報も報じられている。ひょっとすると、5年ほど前に話題になった「パナマ文書」に関連した筋のリークもあったのかもしれない。

 ああ、やっぱりな、チェコだし、サッカー協会だし、元警官だし──と断じてしまうのは気が早い。裁判官が有罪といっていない以上、推定無罪の原則に反する。にも拘わらず、なかんづくタブロイド紙などが不動産などの個人的な資産をリストアップして報じるなどしているわけであるが、これは私刑にちかい。

 しかしながら、ありふれた疑獄事件と異なるのは、市民にひろく被害意識が共有されている点であろう。といっても、賭け事をたしなむ層のみではあるが。昨2019年にチェコ共和国の国民がギャンブルに費やした額は3892億コルナにのぼり、そのうち「スポーツくじ」を含む「ロテリイェ」と呼ばれるカテゴリーでは約166億コルナ、日本円にしてざっと800億円ほどになるという。単純比較はできないとしても、日本のtotoやBIGといったスポーツくじに関して「令和元年度売上」が「約938億円」であったと発表されていることに鑑みれば、かなりの額ではないだろうか。人口規模では東京都よりも小さな国なのだ。この層が憤っていればこそ、報道の過熱は避けられない。いかさまではないかと訝っていた競技に身銭をむしられたと感じ、そのうえ横領ときいては、腹の虫もおさまるまい。

 疫禍の現状にあって、世界では無観客による試合がおこなわれることが多い。忘れがちではあるがこれは、観客が主催者側を完全に信頼していることが前提にあり、その信頼のみに拠って成立している興行スタイルである。それだから仮に、選手や審判らをはじめ、放送にたずさわる関係者の全員が結託していたらば、どうなるのか。ヴィデオ判定(VAR)すら、おおよそデジタル技術によってどうとでも加工できる世である。極端な話をすれば、映像スペクタクルによって、大がかりな賭け銭の詐取も理論上は可能となろう。ちょうど、映画『スティング』で描かれたような犯行だが、遠隔でやるのだから容易いはずである。そうなったら最後、無神論サッカーの面目躍如だ。マラドーナが奉じた神はそもそも不在であり、くわえて現場に証人もいないときている。担がれたと勘づいた視聴者がいたとしても、ブーイングによる弾劾はこれまで同様、津々浦々のバーやお茶の間でむなしく響くのみである。

 ゴッドファーザー本人と逮捕された審判員らがじかに関与していたと疑われるのが2部や3部のリーグであることも、慰みにはなるまい。実際のところは、わかりゃしない。それだけに、ことはサッカー協会の信用問題に関わっている。むろん協会としては、これを背任として告発できないか検討中で、12月8日に開催される会合で決定される見込みと伝わっている。

 さて余談だが、そんな八百長にまみれたチェコ共和国のサッカーがひときわつまらなかった時代に、何度か観戦に行ったことがある。最初はよく覚えている。当時、留学で同国ブルノ市に滞在していた知己が誘ってくれたのだった。モラヴィア近代史の大家といえども、留学当初の言語の学習に明け暮れていた時期には、スポーツ観戦が無上の息抜きになりえたのではないか。ルールさえ知っていれば、言葉がいらないからだ。じっさい、よく応援に通っていたらしく、スタジアムにも慣れているふうであった。かといって、こちらには先入観があったので気が進まなかったが、けっきょくお供することにした。──結論からいえば、愉しかった。

 ブルノのクラブ・チームは当時、束の間のスポンサーだった建設会社の名を冠し「スタヴォ・アルティケル・ブルノ」と呼ばれていた。現在の「FCズブロヨフカ・ブルノ」である。閑散としたスタンドに、けっして多くはないが熱心なサポーターが前のほうで興奮した表情で声援を送っている。ピッチをみれば、経験豊富なカドレツや、若いパツァンダといった巧みな選手たちが、よく動いていた。

 ミロスラフ・カドレツというのはすでに選手としての峠は越えていたのかもしれないが、チェコスロヴァキア社会主義共和国時代からの代表選手で、1990年代にはブンデスリーガで幾度か優勝したカイザースラオテルンで活躍していた。ミラン・パツァンダのほうも卓越したフォーワードとして定評を得ており、のちプラハのスパルタに移籍して優勝も経験することになる。

 ボビ・ツェントルムというスタジアムもぱっとしないどころか、むしろ荒廃の極みであった。けれどもそれがまた、小学生の時分に「読売クラブ」の試合を観に行った、地方のグラウンドを髣髴とさせるような寂れ具合で、ぎゃくに好ましく思えた。やがて「読売ク」が「ヴェルディ川崎」になり、「東京ヴ」へと変遷していったように、Jリーグ発足から日本のサッカーが商業化に成功して爾後、環境が変化しつづけていったことを認識させられる。が、あの時はたんにノスタルジーに浸っただけだったのかもしれない。

 いずれせよ、決闘には証人の立ち会いが不可欠である。神がいても、いなくても。そして証人を務めることは、中継映像の画面を眺めることとは決定的に異なる。なにより愉しい。これを機に業界の膿も一掃され、ついでに感染症も撲滅され、できるだけ早くスタジアムに証人たる観衆が戻ることを願ってやまない。 

 

 

マラドーナ急逝

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photo by Jack Hunter

 『キャプテン翼』のノリにはちょっとついていけない、ひねくれた子どもだった。それでも、1986年のメキシコ大会におけるアルゼンチン対イングランドの一戦は、録画してくりかえし観たものだった。実況担当は、NHKの山本浩アナウンサー。いい声だった。練習で履くサッカー・シューズにしても、アシックスではなくプーマのをねだったのは、どうしてもマラドーナと同じでなくてはならなかったからだと思う。

  11月25日、ディエゴ・マラドーナが亡くなった。月初から受けていた硬膜下血腫の手術ののち、自宅療養中だった。心不全と伝えられている。享年60であった。

 各地で追悼が行なわれたが、たまたま見たニュース番組の画面で紹介されたのは、欧州チャンピオンズ・リーグからのひとこまだった。試合開始直前のセンター・サークルの線上に並んで黙祷を捧げたのは、たとえばアトレティコ・デ・マドリとロコモチフ・マスクヴァの選手たちであった。夜のとばりのなか、無観客のスタジアムにマラドーナの遺影が映し出され、短い告別式を済ませたかのようであった。

 訃報に接し、さまざまな競技関係者がインタヴューに応えて、めいめいの秘話を開陳している。現役選手ばかりではなかった。リネカー、奥寺、木村和司、ラモス……なつかしい面々もインタヴューというかたちで、種々の媒体に登場した。

 なかんづくその世代と思しいユーザーのツイートを眺めると、はげしい信仰告白を聞いている心持ちになる。かといって、若いサッカーのファンもマイクを向けられれば、ひととおりの所感を述べられるくらい「レジェンド」については勉強している。神となって久しかった。

 3日間にわたって全国民が喪に服すと発表があったアルゼンチンにとっては、やはりあのイングランド戦がマラドーナを英雄たらしめたにちがいなかった。なにしろ、フォークランド紛争での敗北からまだ4年しか経っていなかったのだ。しかし、一国の英雄という枠をこえて、世界の神となったのはやはり、サッカーという競技の為せる業であろう。あの後、速くて巧みなドリブラーを止めるべく、ゾーン・ディフェンス等の戦術が発達したともいわれる。といっても「五人抜き」や「神の手」を成したからというだけで、マラドーナマラドーナになったわけではない。

 ディエゴ・マラドーナは、たんなる優秀なサッカー選手ではなかった。さまざまな言説でも観衆を魅了した──と書いたのは、『新ツューリヒ新聞』である。つづけて、マラドーナによるもっとも伝説的な金言として引用したのは、以下のものである。「ペナルティエリアまで来てシュートを打たないのは、妹を相手にダンスするようなものだ」

 スイスで大会招致をめぐる汚職疑惑が噴出したとき、マラドーナから「ざまあみろだ」と言われたFIFAであるが、そのサイトまでもが、かつてはマラドーナの「箴言」に関する記事を載せていたくらいである。ほかにも世界中のメディアがそれぞれの言語で、似たような記事を配信している。為人を偲ばせるので、拙訳とは言い条あまりにもつたないが、いくつか引いてみよう。ただし、主にドイツ語メディアからの重訳。

「第一の夢はW杯に出ること。第二の夢はW杯で優勝すること」
──マラドーナによる最初のカメラのまえでの発言。当時12歳。

「まさに俺はカベシータ・ネグラ[アルゼンチンにおける下層労働者階級ないし貧民層の蔑称]さ。そしてそれを誇りにしている。自分の出自を否定したことはない」
──自身の出自についての古典的な発言。

「俺が恵まれているのは、神様の思し召しがあったればこそだ。神は俺が上手くプレイするようにお取り計らいになった。すでに生まれたときに能力をお授けになった。だからこそピッチにはいるたびに十字を切るんだ。そうしなけりゃ神を裏切ることになる。」
──信仰について。

「あのゴールについては永遠に悦びを感じるだろう。イングランドから手で獲得したゴールだ。あれに関してイングランドの選手には、衷心から千回だってお許しを乞うよ。でも何回でもやるだろうね」
──1986年W杯準々決勝における最初のゴール、いわゆる「神の手」について。 

「貧困はよくない。つらい。よく知っている。多くを望んだとしても、夢を見るほかない。世界にもっと正義があったらいいのにと思う。多くを持てる者がすこしだけ少なく、持たざる者がすこしだけ多く持てるように」
──貧困のうちに育ったことに関して。

「サッカー選手として、自分自身とファンをしあわせにしようとしてきた。サッカーは世界でもっともうつくしく健全な競技だ。たしかに俺は過ちも犯し、それを償いもした。しかしサッカーはそれによって毀損されはしないし、何ぴとも瀆すことはできないんだ……」

──2001年11月、自身の引退試合に際して、ファンへのメッセージ。 

「狂気というのは怖ろしいものだ。クリニックでは 『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンになったかのように感じた……。自分がロビンソン・クルーソーだと思い込んでいた男はいたが、俺がマラドーナであることは誰ひとり信じなかった」
──精神科医院について。

「ペレがベートーヴェンだとすれば、俺はサッカーにおけるロン・ウッドであり、キース・リチャーズであり、ボノである。というのも、俺はサッカーの情熱という側面を体現しているからだ」
──ペレと自身について。

「ペレなんか博物館に飾っておけ」
──代表監督への就任について、財政難だったからだろうと言われて。

  もうひとりの「神様」たるペレとのやりとりも、あちこちに記述がある。神どうしの対話にしては、人間くさい。複雑な感情は抱いていたにちがいないとはいえ、さほど深刻なものではなかったのではあるまいか。そう思わせる、コミカルな要素がある。最晩年には、よき友人同士に戻っていた。そのペレとて「私は偉大な友人を亡い、世界はレジェンドを亡った」「いつの日か、天のボールで一緒にプレイできることを願っている」とツイートしている。 

マラドーナ

マラドーナ

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*「五人抜き」や「神の手」などの動画:

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*参照:

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www.afpbb.com

number.bunshun.jp

ビロード革命の記念日

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photo by S. Hermann & F. Richter

今年の記念日

 チェコ語の11月、"listopad"とは「落葉月」である旨、まえに書いたが、現代では文脈によって「ビロード革命」を意味することがある。典型的には、"polistopadový"(ポスト11月の)という形容詞として「ビロード革命後の」社会なり政治なりに言及される文章で目にする。

 11月17日が記念日で、チェコ共和国では祝日であった。全国で催しがあったが、疫禍の年に例年どおりというわけにはいかず、どこも規模が縮小されていた。

 主たる舞台のひとつとなったプラハのナーロドニー・トゥシーダ(国民劇場のある目抜き通り)ではまいとし、全体主義の犠牲者へ献花や蝋燭による献灯など行われるのが慣いとなっている。そして今年も政治家はおのおの、カメラのまえで所感を述べた。たとえば、海賊党のイヴァン・バルトシュ代表などは、31年前にはじめられた西欧型民主政治へ向けての変革を成就させなければならないとコメントした、と伝わっている。誇張のない現状認識として、これが今年は優勝か。首相のアンドレイ・バビシュは、感染症対策にからめて、革命でかちとった自由の価値について触れた。展望は上々であるとしたが、政府のせいで不自由な生活を強いられていると感ずる市民の神経を逆撫でしない保証はない。

 いっぽう共和国大統領ミロシュ・ゼマンといえば、さいきん外観からして満身創痍のていで痛いたしいのだが、事前の発表どおり、献花には現れなかった。かわりにこの日、いつものように秘書官名義のTwitterアカウントにひとこと投稿させたようである。「全体主義共産主義にかぎられない。全体主義とはもっと一般的な概念である。そして全体主義はつねに検閲をともなうものだ」と、よりによってこの日に、またぞろ共産党を擁護していると非難されかねない言辞を弄していたのは、さすがである。つきぬけている。

 ちなみに現共和国における三人の歴代大統領のなかで、もっとも不人気らしいという調査結果も出来していたが、これはいわずもがなであろう。なんだかんだいっても、初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルがいちばんよかったというひとが多かったものとみえ、30年を超えた「ポスト11月」期の時間を経てなお、ビロード革命の栄光に彩られた記憶が人びとのなかで色褪せていない証左ではないかとも思われた。いや、むろん他二名が横柄な印象で嫌われすぎていることがおおきいのであろうが。

 

「マルタの祈り」

 1989年当時、日本では多くのひとが報道番組に首っぴきだった。その中継された映像の裏では、日本人ないし日系人らも徒党を組んでいた。そのうちのひとりなど現在では、おなじ土地の極右ポピュリスト政党を率いて、直接民主制の導入を主張しているわけであるが、個人的な一回の体験から民主政治のひとつの側面に過大な意味を見いだしてしまったものか。近年ではチェコ共和国でもハンガリーポーランドでと同様に、危機感をあおる政治手法が確立されてしまった。ドミノ倒しにも喩えられた東欧革命の経験を共有する国がおしなべて、こんにち政治情勢において一部に似かよった傾向を示しているのも興味ぶかい。

 革命の歌と目された大衆音楽があったことも、報道を通じて日本でも知られるようになった。NHKによって2000年に制作された『世紀を刻んだ歌、ヘイ・ジュード──革命のシンボルになった名曲──』という番組は、ご存知の向きも多いだろう。人気があるのか、その後もたびたび放送されているからだ。チェコスロヴァキアの国民的な歌手、マルタ・クビショヴァーを中心に構成された、回顧的なドキュメンタリーである。音楽活動を封じられた正常化時代の不遇から、ビロード革命さなかの群衆をまえにした絶唱による復活までを描いていた。初回の放映のときは当のチェコ共和国にいたのだが、そのころクビショヴァーはもう歌手としてよりも、各地の愛玩犬を紹介する番組の司会者として現地では親しまれている、と若い友人は語っていた。それも何度か観たけれど、犬の扱いはたしかに堂に入っていた。番組じたいはいまも存続しているものの、クビショヴァーが出演することはなくなった──と思うが、そこはちょっとわからない。

 その楽曲「マルタのための祈り」をことし、象徴的な時刻である17時11分に国民劇場のバルコニーで詠じたのは、アネタ・ランゲロヴァーであった。2004年のオーディション番組からデビューした歌手で、革命のときは3歳になったかならないかくらいだった。そういえば件のオーディション番組も、当時たまたまリアルタイムで観ていた。いまや中継映像をオンラインで視聴できるようになったのには隔世の感があるが、今年の記念日は接続環境が不安定だったものか、歌も音声が途切れがちでなんだかよくわからなかった。ダイヤルアップ接続の時代を思い出させられた。

 ランゲロヴァーの歌唱とちょうど同じ頃、そこへはまた、政府の「ロックダウン」措置に抗議するデモ隊が向かっていたはずであった。革命の精神はいまも健在とみえる。いっしょに国歌を斉唱することを企図していたようであったけれど、それもどうなったのかは知る由もない。「政府はウイルスより無能だ」とか、「いも掘りじゃなくて、学校へ行かせろ」とか、「国はロックフェラー財団の計画を遂行中」とか、なかなかに面白いセンスのプラカートを掲げていたようだ。なにより平和的で、革命に発展する可能性は皆無と思われた。

 

そもそも──1939年と1989年

 さて改めて、そもそも11月17日、すなわちチェコ共和国における「自由と民主政をもとめる闘争の日」とは、端的には1989年のビロード革命を記念する日である。この日はもともと第三帝国の蛮行を糾弾する目的で「国際学生の日」とされており、このための集会がのちに革命と呼ばれる事件に発展した。それだから、こんにち祝日の名称としては、当該の学生の日も併記されている。すべての因縁をひっくるめて、全体主義の犠牲者を悼む日とされている。

 さきごろ、チェコスロヴァキア国家の成立した記念日たる10月28日に、あるひとがSNSでアンケートをしていた。問いは「10月28日と11月17日のうち、あなたにとって重要なのはどちらですか」というようなものであったが、8割がたが後者、すなわち11月の共産体制からの解放の日を選択していたように思う。むろん、1918年の建国を記念する日と、1989年の革命を記念する日では、とうぜん後者のほうが身近ではあろう。自身で行動したというひとも母集団のなかに多かったはずなのだから。とまれ、両の日付けは、分かちがたくむすびついている。

 時はチェコスロヴァキア建国21周年をむかえた、1939年10月28日のことであった。ドイツ第三帝国保護領であったボヘミアプラハでデモが起こり、官憲の鎮圧によって重傷を負った医学生が、およそ2週間にわたる治療もむなしく、落命した。オロモウツ近郊の出身、ヤン・オプレタルといって、24歳の若さであった。モラヴィアへと送られる柩をみおくる参列者から、占領者にたいする抗議デモが発生し、やがて数千人の参加者と官憲がふたたび衝突した。これを受けて、アードルフ・ヒトラーは3年間の大学閉鎖と9名の学生組織の代表者の処刑を決定し、同時に多数の学生を逮捕して収容所に送った。11月16日から17日にかけてのことである。

 英国に在ったチェコスロヴァキア人部隊のなかで、ナツィの残虐行為を記念するというアイディアが生じたのは翌年のことであった。1941年には在ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府の後援のもと、あらたな学生組織を創建してしまう。そこで、占領に抗議の声をあげた学生らを記念した宣言文を起草し、最終的に14か国の代表から署名を得たという。──こうして、もともと反ナツィのプロパガンダとして生まれた「学生の日」が、半世紀後には反共の日になるのだから、皮肉なものである。

Songy A Balady

Songy A Balady

  • 発売日: 2018/05/29
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

www.youtube.com

 

*参照:

www.nhk.or.jp

www.blesk.cz

 

マサリク・サーキットの危機?

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photo by Jiří Rotrekl

 エリシュカ・ユンコヴァー(1900-1994)といえば、初期モータースポーツにおいて名を残した、チェコスロヴァキアの女性ドライヴァーであった。2020年11月16日にGoogleの記念のロゴ“Doodle”に採用されたらしく、生誕120周年を迎えたことは、それではじめて知った。

 1900年の同日、オーストリア=ハンガリー帝国の領邦モラヴィアオロモウツに生まれた。学校で簿記やドイツ語を学んだことで、齢16から銀行づとめをはじめ、そこでのちの夫に出逢ったのがレースとの邂逅でもあったらしい。1928年7月15日、夫のチェニェク・ユネクとともに出場したドイツ大会、ニュルブルクリンク・サーキットで事故に遭う。助手席に乗っていたエリシュカは軽傷で済んだが、夫は頭部に重傷を負い、死去した。このあたりは、こんにち「Wikiなんとか」にも書いてある。

 思い出したのは、おなじモラヴィアでもブルノ市郊外に在る「マサリク・サーキット」であり、それにまつわる昨今の報道である。

 というのも、エリシュカは夫を亡くすと、レースのほうは引退してしまったが、くだんのマサリク・サーキットの開設に力をつくしたのだった。因縁のニュルブルクリンクを参考に、チェコスロヴァキア初の本格的サーキットの建設を主導したのである。1929年に、大統領マサリクは自らの名を冠することを承諾し、建設費の600万チェコスロヴァキア・コルナは、けっきょく大統領府が後援することになった。現在でも、主に二輪車の競技に使用されており、とりわけロードレース世界選手権("MotoGP"と全クラスを俗に総称)のチェコGPの会場となっている。1990年代以降は、毎年のように日本人選手も出場し、いくども優勝の栄誉に輝いている。

 2000年前後のことになるが、ふとした折り「ブルノ」の風聞を開陳したのは、テューリンゲンの大学町の医師であった。周囲に訊けば、共産圏では珍しかった本格的なサーキットを擁し、そのため旧東ドイツではよく知られた町なのだ、と。それだから、ブルノの側でも一定以上の世代になると、サーキットを町の誇りとしているひともある。

 ところが先日、来年度の世界選手権のスケジュールに記載できない状態がつづいると、報道があったのだ。路面の状態がわるく、安全を保証できないためだ、とはプロモーターの言である。老朽化のためであろう、補修は喫緊の課題であった。つきつめると、ひとえに予算の問題である。路面の事情が改善をみれば、8月上旬開催の枠でまだ登録申請できると、大会主催者側は述べていたのだが。

 そのころ、南モラヴィア県のボフミル・シメク知事は10月の選挙結果を受けて、間もなくの退任が決まっていた。そのため、ブルノ市長のマルケータ・ヴァニュコヴァーに対応を委ねた。ところが、同市長と先週あらたに就任したヤン・グロリフ知事は、別の問題に直面したようである。すなわち、補修の費用を拠出するかしないかという問題とともに、サーキットを会場登録するための費用の問題が横たわっていた。開催が危ぶまれる所以である。

 折しも当年は5年契約の更新が予定され、登録料というのか、1億2000万コルナの費用が見込まれていた。とはいっても、ご案内のとおり、世界中が催し物をとりやめたり、縮小せざるを得ない疫禍の年である。そこで主催団体の代表者は納める額について、今年度のみ無観客で開催して100万ユーロ(約2700万コルナ)とし、来年度は観客をいれて600万ユーロ(約1億6200万コルナ)とすることで、ロードレース世界選手権の諸権利を管理するドルナ・スポーツ社と合意していた。これに、市と県は一致して6000万コルナの拠出を承認しており、国からもそれぞれの開催に8500万コルナの補助が期待されてはいた。だが、ここでレース開催の断念を行政が決断すれば、補修の費用として見込まれるという数億コルナとともに、応分の財政の節減ができる。感染防止やそれに附随する不況への対策費の足しにするのであろう。そこで目下、政治と関係者とのあいだで綱引きがつづいている模様である。

 ことし9月下旬には悪疫による死者の累計が、人口規模で同等のスウェーデンと比して大幅にすくないと胸を張ったチェコ共和国首相アンドレイ・バビシュであったが、秋以降の感染拡大の結果、11月半ば現在でのそれは6200人を超え、かの国を追い越してしまった。世界に目を転じても、ワクチンを開発中の独ビオンテックの共同創業者、ウール・シャーヒン教授は、ふつうの生活がもどるのは来年の冬である、とBBCに語っている。となると、来年8月の観客を動員しての開催というのも、ありえないことになる。いっぽうIOCのバッハ会長などは、来夏に延期された東京五輪の予定どおりの開催に自信を見せたと伝えられてもいる。いずれにせよ、情勢は、予算以上にまだまだ不透明である。

 費用そのものの問題はどうしようもない。それでも、世界選手権へ参加する第一の政治的な意義が国威発揚であることをおもえば、こんな感染症騒動さえなければ、自治体も国も費用の負担にやぶさかではないはずであると思われていた。しかし、マサリクを称えたヴァーツラフ・ハヴェルもいまは亡く、それだけマサリクの威光も求心力を失っているということもあるのかもしれなかった。一般企業への命名権売却という方策は、やはり国民の威信にかけても避けたいところなのか、それとも思いついていないだけなのか。もっとも、この時局では成功する保証もない。ひょっとすると、仮に「毛沢東サーキット」と改名しうるとしたらば、パンダをこよなく愛するゼマン大統領が悠々と北京からの援助をひきだしおおせたのではあるまいか。あり得ない想定は措くとしても、命名とはかくも大事なものである。

 けれども、そもそも今のご時世、そろそろ化石燃料を炊く乗り物の競技にはスポンサーが付きにくくなってきても致し方ないとも思われる。政府の補助がしづらくなるのも、あるいは時間の問題であろう。直近では、英国が2030年以降のガソリン車の販売を禁ずるという報道があった。ホンダのF1撤退の報も、この観点からの経営判断だとすれば、おおいに理解できる。エリシュカ・ユンコヴァーがブガッティを駆って活躍した時代は、もはや遠くなったのだ。

 

*参照:

www.bbc.com

www.auto.cz

www.stuttgarter-nachrichten.de

 

*今年8月の開催時の様子:

www.youtube.com

 

チェコ共和国軍、トヨタ・ハイラックス導入へ

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Twitterより

 チェコ共和国国防省は先ごろ、GLOMEXミリタリー・サプライズ社(プロスティェヨフ市)を通じて、最大1200輛のトヨタ・ハイラックスを購入することを決定した。2年間のメンテナンスやパーツを含め、1輛あたりのコストは税込み89万3千チェコ・コルナで、合計約10億コルナ(およそ46億円)の契約となる見通し。年末までに締結され、来年から2024年にかけて受領する予定だという。

  旧ソ連製UAZや英ランドローヴァー・ディフェンダーを更新する計画は、2017年に発表があった。UAZ_469は、1970年代から使用されているロートルで、はじめソ連で、のちチェコスロヴァキア国内で生産された。1990年代以降、海外派兵の際も用いられてきたが、近年ではパーツの入手やメンテナンスのコストが課題となっていた。昨年には、この選考は決まっていたものの、年末に取り消され、先日、選定基準をあらためて実施されたのだという。その結果、10件の応募があったうちからハイラックスが選ばれた。

 近代的な自動車は軍の基盤であり、わが国の兵士たちが「四十年もの」の機材を今日まで使用していることは恥ずべきことである。我われは十のオファーから選考したが、保証された品質が確認できた車輛で有利な価格が提示されたものが勝利した──と国防大臣のルボミール・メトナルはコメントした。装甲は施されないものの、小銃受けを設けたり、軍で用いられる色に塗装する必要はあるとしている。色彩について地元の公共放送は「カーキ」と呼んでいるものの、想定画像の印象を日本語で表すとすれば、むしろ従来の装備同様のオリーヴ・ドラブにちかい色である。

 恥ずべきかどうかわからないが、たしかに地元の公共放送の取材に際して、UAZのエンジンがなかなか始動しない様子が収録されたようだ。自動車関係のサイトを参照するところ、おおかたファンベルトの劣化に起因するらしい、きゅるきゅるきゅる……という音をむなしく発するのみであった。老朽のため更新が急務であるという、国防省の主張が映像でも裏づけられたかたちである。

 自衛隊には〈高機動車〉というのがあるけれども、トヨタ車は民間仕様の車輛であっても、すでに世界中の紛争地帯で信頼性が証明されている。ことし夏ごろ、三菱自動車パジェロの国内工場を閉鎖するという報道があったが、そうなると三菱製〈73式小型トラック〉ないし〈1/2tトラック〉の後継として、ハイラックスという選択肢も今後ありうるのかもしれない。もっとも、次代はEVの世になっているのであろうか。

 やはりこのご時世にあって、ハイラックス選定の理由として燃費も評価されたことも明かされた。ちなみに搭載エンジンは2,4リッターのディーゼルであると伝わっている。

 なお、件のGLOMEX社というのはまた、日産車をおなじく改造してポーランド軍に納入する契約もことし勝ち得ており、日本政府が頭を悩ます防衛装備品の輸出も、地味な民生品の転用というところではあんがい好調なのだとわかる。問題は、このG社が日本企業ではないという点か。

 

*参照:

www.glomex-ms.com

www.idnes.cz

www.idnes.cz

死者の日と晩秋の祝日

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photo by Adam Nieścioruk

 早いもので霜月、11月である。ローマ起源のNovemberは、かつての暦で「九番目の月」を意味するが、チェコ語ポーランド語のlistopadとは、形態素をもとに訳せば「落葉月」とでもなろうか。月がかわったとたん、紅葉した木々の葉がきゅうに街路に落ちはじめる。

 11月1日は万聖節で、すべての聖人をことほぐカトリック教会の祝日であった。翌2日が万霊節、あるいは「死者の日」である。今度はすべての俗人のための日というわけである。ダンテの『神曲』のとおり、カトリシズムの教えでは煉獄という場があり、ひとが死ぬとここで霊魂の浄化を受けることになっている。やがては天国にいたるが、しばしそこに滞留する者のために祈りを捧げる慣いであった。現在では宗派にかかわりなく、各地で墓参の日となっている。

 周知のように「諸聖人の日の前夜」が訛ってハロウィーンになったというけれども、いつの頃からか渋谷に仮装したひとが集まる日として知られてもいる。そもそもドルイド教の暦で大晦日にあたる祝祭の篝火が焚かれたのがこの10月31日といわれ、がんらいが異教の祭りであった。──そういえば先日、ジェイムズ・フレイザーの名著が電子版でバーゲンになっていた気がしたのだけれど、たぶんセール期間はとうに終わってしまっている……。それでもこういう話が好きな向きには、ぜひ読んでいただきたい。土着の祝祭を、キリスト教が悉皆とり込んでいったのである。

 1日はさらに自衛隊記念日でもあって、2020年には警察予備隊の創隊から起算して70周年となったのを記念した動画が公開された。こうして旧軍との断絶を強調しつづけるのが組織の宿命である。つぎの祭りは3日、もとの明治節で、のち文化の日であり、例年は入間航空祭の日でもあるが、ことしは感染拡大防止のためとて中止となった。そして、4年にいちどのアメリカ合衆国大統領選挙をむかえる。

 さかのぼって10月28日は、チェコ共和国では「独立チェコスロヴァキア国家成立の日」の祝日であった。片割れのスロヴァキア共和国では、お休みをともなった国の祝日ではないところからして、チェコスロヴァキアという歴史的国家にたいする両国民の評価の差がみてとれる。だが、スロヴァキアにも国民の休日とすべしという論があり、ズザナ・チャプトヴァー大統領も賛意を表明している。将来的には変わるかもしれない。なにしろ「離婚」後も、種々の恩恵を享受している。

 チェコスロヴァキアを懐かしむ声は、とくにチェコ側の巷間にあふれる。だがスロヴァキアをさして「兄弟国」だという者の言には、注意を要するかもしれない。対等な弟分という意味でも、国家や国民を兄弟に喩えるのがすでに不快であるし、なにか特定団体の「舎弟」にちかいニュアンスなら、さらにがらが悪い。搾取の対象としての「兄弟国」呼ばわりであるという感覚に無自覚なのであるとすれば、スロヴァキアのナショナリストにとってはありがた迷惑ということになる。それこそがスロヴァキアの市民をして分離独立に向かわしめた遠因でもあったのであろう。

 しかし多民族が共存する国家の理想像として回顧する論客ならば、まだ話はわかる。今年の記事のなかでも、ヤン・ウルバンのものが出色であった。憲章77や市民フォーラムで名のある歴史家である。チェコスロヴァキア潜在的な可能性を粉砕した政治家の野心や失策、またショーヴィニスムの風潮などを批判している。とくにベネシュの政治については、全体主義と断じ、共産期への非民主的な前奏曲である由、けちょんけちょんに扱き下ろしている。ズデーテンでも反ヒトラーの立場をとるドイツ人と手を握ることを拒絶したいっぽう、ロンドンの亡命政府としてモスクワの息のかかった共産主義者と協調することで、戦後の共産化を準備したという評価である。おもしろかった段落を引いてみよう。

 チェコスロヴァキアの成立後、マサリクとベネシュは国内において、神聖不可侵ともいえるほど神格化された。大多数のひとが「世界はふたりに聞き従う」ものと確信していた。両者とも己の信ずる皮肉めいた言辞をしばしば引用し、「政治においては自らの目的を達するに悪魔とも結託しうるが、悪魔に騙されるのではなしに、悪魔を出し抜くことを確実なものとすべきである」と曰った。かつての英国首相クレメント・アトリーは、ベネシュにたいしてはつねに距離を置いていたが、のちにベネシュについて簡にして要を得た文を遺した。すなわち「悪魔と会して羹を食するに、どれだけ柄の長いスプーンが要るものか、どうやら認識していなかったようだ」と。しこうして、すでにパリ講和会議の時分にも、英首相ロイド・ジョージがベネシュを描写しているのである。「……衝動的にして、賢明ではあるが、いっぽう理知的というにはほどとおく、多くを求めればもとめるほど、得るものがすくなくなるということを予見できぬくらいに、そうとう近視眼的な政治家」
──Československo a krize české identity

 ユダヤの寓話に喩えられている箇所があるけれども、地獄での会食というのがあるらしく、どういうわけか肘が曲がらないために、自分の口もとにスプーンをもってゆくことができない。それゆえ向かいに坐した悪魔とたがいにスープないしシチューをたべさせ合うのだが、このとき長いスプーンを用いるというのである。そうなるとベネシュというよりも、チェンバレンの宥和政策を戯画化しているようにも思える。なにしろ、大戦の劈頭、ナルヴィクの軍事作戦をめぐって議会でやり合った間柄でもあった。

 1918年の共和国成立ののちには案の定、全土にお祭り騒ぎが捲き起こったが、そのせいでスペイン風邪の感染が増大した──という公共放送によるレポートもことしは出来した。じつに時宜を得ている。ちなみに、2日前にあたる10月26日は、オーストリア共和国の「国民の日」で、1955年の連合軍の撤退が実質的な独立記念日として祝われている。軍を中心に式典がおこなわれたのは、ウィーンの王宮前のヘルデンプラッツであって、すなわち露天の空間であった。無観客かつ露天の式典は、いろいろと示唆的である。

 というのも、チェコ共和国にて恒例の式典については、パンデミックの年にあって、開催の是非をめぐり長々と議論がつづいていた。ゼマン大統領は例年どおりの挙行に拘泥していたものの、たほう保健省以下の行政府の側は、感染者の再度の増大をうけ、とりやめるのが至当であるという総意にみえた。

 けっきょく、ヴィートコフの丘にある無名戦士の廟において、大統領や政府閣僚らが献花を実施する形におちついた。こちらでも、密閉された会場にひとが集まるのを避け、慰霊施設の屋外空間のみで済ませたわけである。頑迷固陋の大統領も納得した面持ちであったことから、ウィーンでの式典における各自マスクを装用した儀仗隊の様子などを、あるいは参照したのかもしれない、と想像した。

 同国で秋の祝日といえば、さらに11月17日が控えている。これはまた改めて書くとしよう。