ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

伯林から

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photo by Artem Sapegin

 大陸ヨーロッパでは、感染症対策の各種行動制限が緩和に向かいつつあり、そんな各地の動向を報じるメディアも多い。

 NHKのニュースでは5月12日、ベルリーン在住の多和田葉子とのインタヴューが放映された。いまや全米図書賞受賞作『献灯使』が書店ではしきりに推されているが、初期の『犬婿入り』も面白かった。所収の「ペルソナ」や、あるいは別の短篇「ゴットハルト鉄道」なども身につまされるところもあって、愛着がある。

 多和田はベルリーン市内の様子を伝え、また、危機対応の遣り様から支持率が8割にまで上昇しているというアンゲラ・メルケルについて「理系のお母さん」というふうに紹介した。トランプを暗示する「威張ったお父さん」との対比もよかった。もともとブンデスカンツラー(連邦宰相)をもじって、ブンデスムター(連邦の母)と呼ぶひともあったくらいで、納得がいった。そういえばモラヴィアの酒場で会ったŠ氏などは、財布にメルケルの写真を忍ばせていたものだった。しばらくのちには持ち歩くのをやめてしまったが。ヒトラーという歴史的なトラウマから、カリスマが信用されない風土とはいうものの、政治家としてというよりも、人品骨柄からして長期政権を維持してきたくらいの人気はやはり元からあるのだ。

 報道を追ってきたかぎり、各州政府からの突き上げに屈して、急に「緩和」に踏み切らざるを得なくなったようにも見えたが、これもいつもの母の豹変というやつである。移民政策しかり、原子力政策しかり……。有り体にいえば風見鶏だが、この「バランス感覚」がなかったならば、ここまで君臨することもなかった。そして、子らを守るために暮らしを変更してゆくとき、理由についても自然科学的に明快かつ説得的に言い含めることもわすれない母親、というのが多和田の印象なのだろう。

 振り返ると、かつてイスラーム国のイデオロギーに毒されたジハーディストが世に跋扈していたころ、冬のベルリーンでアドヴェントの市が標的になったことがあった。愛娘がかの地に住むという友人にすぐ尋ねれば、無事との返事であった。西欧の大都市に住むのも命懸けで、脅威はウィルスに替わったが、いまだに心配の種は尽きぬことだろう。

 旅行で訪れるぶんには気楽でたのしいものだ。むかしの話である。学部の後半はヴァイマール文化の資料に首っぴきだったから、のち訪れてみると、見るものすべてが知識を確認するための装置のようにも思えた。啓蒙主義の時代からヨーロッパには、大学を卒えた若者が勉学の仕上げに旅行する習慣があったが、卒業旅行というのは本来そうしたものであろう。知恵も生半可な在学中に行ったのでは尚早で、さほどは愉しくなかったと思う。

 けっきょくヒトラーに投票したのは誰だったのか、という犯人捜しじみた研究は、戦後まもない時期からさかんであった。中間層、なかんづくホワイトカラー労働者が支持層の中心を成したのではないか、という説もまた早くからあった。それだから、ジークフリート・クラカウアーがルポルタージュに描きだした往時のサラリーマンなどは、とりわけ面白く読んだ。邦訳の書名も『サラリーマン』であった。ナツィを支持するに至った人びとはどのような生活をおくっていたのか、という興味は学問的なものであったにせよ、やはりどちらかといえば下世話なものであろうか。

 クラカウアーといえば『カリガリからヒトラーまで』のほうが知られているけれども、だいぶ経ってから、その映画版というのを観る機会も得られたのは幸運であった。とまれ、文章の理解を補完してくれるのが視覚情報であることは、ふるくコメニウスの実践にも示されたとおりである。20世紀において典型的には活動写真、すなわち映画を意味した。たとえば 、マレーネ・ディートリヒが歌手を演じた『嘆きの天使』には、当時の労働者が余暇に好んで通ったというヴァリエテが描写されていたものだった。それを踏まえて、じっさいにポツダム通りの〈ヴィンターガルテン〉へ行って、拍手喝采する観衆のひとりとなってみると、百聞は一見になんとやらで、大小の疑問が氷解したものだった。とりわけ、当時のサラリーマンの気晴らしの実態がわかったことで、なんともいえない満足の感を得た。

 それも、どうということはない。『ベルリン・天使の詩』を愛する映画ファンならば、むしろ〈ズィーゲスゾイレ〉を見て感涙するだろう。美術史やデザイン史を専攻したひとなら〈バウハウス=アルヒーフ〉であろうし、軍事史なら〈総統地下壕(の案内板)〉だ。観光の愉しみとは本来こういうもので、つい最近までは、アニメを観て育った欧州の若者が、同様の体験をもとめて日本に殺到していた。若いうちには旅をせよと世に言われる所以であろうが、コロナ世代はこうした学習の機会も奪われることになるわけか。

 ただ正直なところ、観光や仕事でゆくならともかく、あの町に住みたいというほどの魅力があるかというと、自分には感じることができないようだ。どうせなら食文化のゆたかな南の諸州のほうがよいし、じっさいよかった。が、これも相対的なものだろう。つまり「行けば稼げますよ」などとそそのかされれば、急に魅力を感じるようになるとは思う。そんなものだ。

 ということは、文豪たちには「あの町に行けば書けますよ」と何者かがささやくのだろうか。多和田葉子については何も存じ上げないが。芸術家は大都会に集まりたがるものではあるにせよ、文学者にとってはとくべつな町ではあるらしい。

 端的な例といえば、最晩年のフランツ・カフカである。晩年といっても、結核にむしばまれ40歳という若さで絶命したカフカだ。1923年9月24日、重病をおしてベルリーンに移り住んだのは、ナポレオンのロシア遠征にも似た無謀な跳躍であった、と本人も述懐している。といっても、はじめて踏んだ地というわけでもなかった。たしか出張経験もあったし、一時期婚約していたフリーツェを訪ねたこともあった。身近な大都市だった。プラハでは現代ヘブライ語の個人レッスンを受けていたが、その教師役の女性が生物学を学ぶため転居した、というのもひとつのきっかけにはなっていた。

 とはいえ、書けるわけでも稼げるわけでも何でもなかった。折しも戦後のハイパー・インフレに喘いでいたメトロポリスである。旧来の1兆マルクを1マルクとした、レンテンマルクが登場した年でもあった。じっさいカフカも困窮した。原稿用の紙を買うのもおぼつかず、電気やガスも止められて難儀した。

 それでもドーラなる少女と暮らす途を選んだカフカに、瀕死の作家の壮絶な「けなげさ」を見る。シュテーグリッツ=ツェーレンドルフといえば今でこそ高級住宅街も擁するが、シュテーグリッツ地区にかぎれば、移民の割合もまた高い。そこで、ヘブライ語の書を朗読し合うなどして、遙かなパレスティナに思いを馳せ、つつましやかに暮らした。創作においては己に厳しいカフカのこと、草稿の多くを少女に焼却させているが、かろうじて「小さい女」「巣穴」といった小品がここで成立し、のちに日の目をみた。

 けっきょく病状の悪化で、翌1924年の3月17日にはプラハに連れ戻された。連れ戻したのは親友のマックス・ブロートだった。自身がドイツ語訳を担当した、ヤナーチェクのオペラ『イェヌーファ』のベルリーン公演に合わせてやってきていた。しかしカフカは、ひと月もプラハに留まらなかった。4月7日には、ウィーンのサナトリウムへ出発したのだった。体重40キロ台にまで痩せ衰えたカフカ喉頭結核も併発し、嚥下すら困難となるなか、ビールやワインをのむ幻覚を見るほどに意識も混濁してゆく。とちゅう大学病院での高度な治療を経るも、戦局かならずしも好転せず、6月3日の白昼、郊外の別のサナトリムでついに没した。

 件のドーラ・ディアマントを名乗った少女は、カフカの最期を看取った。のち女優として活躍したが、ドイツ共産党の幹部と結婚したのがまた艱難のはじまりで、遺品として私蔵していたというカフカの原稿がゲシュタポに押収されてしまった。なかには、知られざる傑作もあったかもしれぬ。あーあ。──以上は主に、エルンスト・パーヴェルによる伝記によった。

 ところで「伯林」と表記したとたんに思い出すのが鷗外森林太郎であるが、あれは留学という名の軍務のために逗留したにすぎない。そうそう、ルイーゼ通りの〈森鷗外記念館〉にも行ってみたのは言うまでもない。近年には館内の改装がつたえられていたが、いずれにしても現在は閉鎖されているにちがいない。そういえば、先般クルーズ船へ派遣された陸自の隊員らにあっては、運用ノウハウのうちに、鷗外のもちかえった衛生学の知見を受け継いでいるのだろう。

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)

 

 

*参照:

www3.nhk.or.jp

 

 

犬婿入り (講談社文庫)

犬婿入り (講談社文庫)

 
フランツ・カフカの生涯

フランツ・カフカの生涯

 

 

ポストコロナ・フューチャー?

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photo by Chang Su

 NHKのニュースに、イアン・ブレマーが出てきてインタヴューにこたえていた。いろいろの予言めいた著作で知られるが、コロナ禍終息後の世界については「3年後にEUが存続しているかどうかさえわからない」などと率直に述べた。

 未来について断言できる者はないのか。たとえば未来学といえば、1980年代以降アルヴィン・トフラーの著書で世に知られるようになった観がある。のちに振り返れば、おおよそトフラーの言ったとおりの「未来」になっていた。白眉は「デジタル革命」が「情報化社会」をもたらすという『第三の波』であった。いっぽう、過去のプロセスを観察する領域の代表格としておもいうかぶ歴史学とて、E・H・カーが「過去と未来の対話」と喝破したように、じつは過去のみに目を向けるものでもない。歴史を叙述する者にも、ある程度まで未来が見えている必要があるという。とはいえ……

 ところで米ソ冷戦が終結をみたころ、フランシス・フクヤマの『歴史の終わりと最後の人間』が一世を風靡した。──歴史とは認知をめぐる闘争であり、リベラル・デモクラシーが共産主義に勝利することで、ヘーゲル=コジェーヴ的な意味での歴史が終焉を迎える……といえるのではないか、というような問題提起の作であったが、「歴史が終わった」という部分ばかりが独り歩きして、センセイションを巻き起こした。

 それだから、これに対する反論も囂々で、そうした論文ばかりをあつめた論文集も出来した。忘れもしない。これを教材にした授業に、むかし出席していた。参加したわれら学生は、毎週の担当者を決められ、割り当てられた論文を和訳して、タイプして、人数分のコピーを作成して、配布しておかねばならなかった。担当の教師がまた大先生で、客員として教鞭を執られていたドイツ政治史の大御所であった。柔道家然たる強面とは裏腹に、穏やかな物言いではあった反面、そのじつ授業では容赦がなかった。

 当時は卒論すら原稿用紙に手書きしていた時代だったが、この時間のために、はじめて〈MS-Word〉を実戦投入することにした。現在のコモディティ化しきったPCとくらべれば格段に高価だったデスクトップの製品は、もともとintel製のCPUが載っていたもので、高速を謳われたAMD社のなんとかいうのに交換するなどしてだいじに使っていた。〈一太郎〉には慣れていたが、欧文とは相性がわるいと言われていた。というより、WindowsではXPの時代になるまで、複数の言語をひとつのファイルに混在させるのに〈Word〉がもっとも手っ取り早かったのではなかったか。だが当初は、お節介なイルカやオートコレクトなどの謎の挙動を繰り返す諸機能にさんざん悩まされた。「未来」から眺めれば、笑いばなしにすぎないが。

 それに、最初に割り振られたのが、忘れもしない「ポストモダンの魔術師」と呼ばれた、リチャード・ローティのものした論文だった。もっと平易そうなのがよかったのに。結果はよく覚えていないが、首尾よくいった条件も思いつかない。くわえて人数も少なかったから、ひと月も経てば、また順番がまわってきてしまうのであった。

 とまれ、あるとき思い返してみると、あの論文集に出てきた「未来予測」はほとんどが的中したような印象があった。中国の擡頭、インドの経済発展、それにともなう地球環境の危機……等々。恐ろしいほどであった。どんな領域であれ、過去についての研究を極めるにつけ、未来が予測できるようになってくるものらしい。

 ひるがえって、コロナ禍という近代に未曾有の惨事がおよぼす影響は、いまだはかりしれない。ほぼ第三次世界大戦を意味する米中激突を危惧する者もあれば、むしろ米国の凋落によって、中国の覇権が確立し、「日本のフィンランド化」は避けられない、との声もきかれる。

 しかし一方で、それもこれも、コロナ以前から言われていたことではないか、とも思った。たとえば、イアン・ブレマーが有馬キャスターに面と向かって説いた「グローバリズムの破綻」や「ポピュリズムのさらなる隆興」とて所詮、すでに数年前に自著のなかで警告していた命題のリフレインにすぎなかった。

 つまるところ、コロナ騒動によっても事態の進行方向は変わらず、速度が増すだけだ。

 これと同様の見解を表明していたのは、ミシェル・ウエルベックであった。小説『セロトニン』は、ジレ・ジョーヌ(黄巾の乱)を予見した書とも言われた。何年か前の『服従』では、2022年の選挙でフランスにイスラム政権が成立するという未来を提示したが、この「予言」もどうなることか。

 こちらは物好きだから、それ以前からぼちぼち読んではいたけれど、「あれは最高の小説家だ」などと評したチェコ人の飲み仲間には驚いた。かつての数学徒は自己啓発のようなものはよく読んでいる様子ではあったが、小説なんか読む趣味もあったとはね。当世フランス文学のアンファン・テリブルは、それほどまでに世界中で読まれているものらしい。

 だからというわけでもないが、チェコ語の報道からの重訳で失礼する。"Život všech nemá stejnou cenu"──命の価値はみな等しいわけではない、という主張は、とりわけ悪疫が猖獗を極めるフランスにあって、ウエルベック特有の辛辣さによるものとは言いきれまい。ふつうトリアージとは、病の重篤さの度合いによって患者のあいだに治療の優先順位をつけることをいうけれども、かの地では感染者の年齢によって、高齢の患者から治療を断念する、いわば逆トリアージュによる生命の選別がすでに常態化している、という暗示がある。

 コロナ以前にも、こうした潜在的な傾向はおちこちに囁かれていた。ベヴァリッジ型かビスマルク型かはともかく、公的な医療が普及した先進諸国において、医療費を削減することは自然な財政の要請であって、高齢化が顕著な日本だけの問題ではなかった。老いるということ自体が、死にゆくという意味であることも間違いないが。ともかく、かつては表明するのも憚られてきたことが、いまや人びとの日常に居座っている。──コロナ禍が終わっても元の生活に戻れない、などという者にたいして、いや、以前とおなじさ、ただちょっと悪いほうに変化しているだけだ、と嘯いてみせるのがウエルベックらしい。が、それだけだ。稀代の作家にとっては、予言とも言えない瑣末事も同然の感想であろう。

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セロトニン

セロトニン

 
服従 (河出文庫)

服従 (河出文庫)

 
第三の波 (中公文庫 M 178-3)

第三の波 (中公文庫 M 178-3)

 
End of History and the Last Man (English Edition)

End of History and the Last Man (English Edition)

 

 

*参照:

www.nikkei.com

jp.reuters.com

 

 

雨さえ降れば

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photo by Oscar Keys

 このところ、大陸欧州に雨が降らない。防疫にも欠かせない水資源が心許ない。なんでも、停滞ぎみのふたつの低気圧によって北方に高気圧が膠着し、あたかもヨーロッパの天気図上にギリシア語の「Ω」の字が描かれたような「オメガ状況」を呈して、晴天に恵まれる反面、まとまった降雨が期待できない大気の事情があった、と『南ドイツ新聞』は伝えている。

 さいきんは暖冬の傾向で、雪融けの水がすくないという背景もある。2月には多少のおしめりもあったが、じゅうぶんでなく、すでに4月から夏の水不足が懸念されていた。この5月にはいって、ベルリーンの新聞はシュプレー川の水位の低さを報じ、また南ドイツの新聞によると、バイエルン自由州が対策のための予算措置を発表した。農業用水に関しては、3年連続で心配の種となっている。

 コロナ流行下の農業には、災難がかさなる。国境封鎖の影響で、出稼ぎ労働者がやって来ない。日本国は「現代の奴隷制度」との批判もある技能実習制度を擁するが、なにも日本の農業だけが外国からの労働力に頼っているわけではない。多かれ少なかれ「三ちゃん農業」的な生産を強いられている農家は目下、世界中にある。それも相俟って禁輸措置に動いた国も出たことから、国連食糧農業機関(FAO)などが「世界的食料危機」の恐れを警告したのは、じつにひと月もまえ、4月も劈頭のことであった。

 となると、各国の食糧自給というものが気になりだす。じつは何年か前にチェコ共和国などでさかんに議論になっていた頃があった。というのも、あらたにEUに加盟した東欧の「新欧州」諸国では、その後おしなべて「食料自給率」が低下したからである。そもそも食糧自給とは社会主義的な概念であって、これからの自由と民主の資本主義の時代にあっては無用の長物である、とある者は主張した。これにたいして、業界団体のトップはとうぜん反駁したわけだが、その際に好んで取り上げたのが、日本の例であった。

 すなわち、食糧安全保障というものを真摯にとらえている国が、ほかならぬ日本なのであると。日本は裕福な国であるから世界中から食料品を輸入することはできるし、かえって経済的であるにも拘わらず、ひたぶるに自給体制の構築を目指している。とりわけ米穀については、政府が助成することで、わざわざ高いコストをかけて国内生産の維持に努めている。結果、リーマンショック前後の世界的な食糧需給の悪化に際しても、影響を受けなかった。わが国もかくあるべし──というような論旨であったと思う。

 しかし、これは盛大な買いかぶりと言わねばなるまい。今年3月の参院予算委員会で江藤農水大臣はコロナ禍の影響を問われ、「今のところ輸入が滞っていることはない」としながらも、いっぽうで「深刻な事態も想定しなければならない」とも述べている。米はともかく、全般的な食料自給率となると、37%という低水準にとどまっている国なのだ。

 ちなみにこのとき農水相は「米が政府備蓄米と民間在庫を合わせて日本国民の消費量の6・2カ月分、食料小麦が2・3カ月分、大豆が民間在庫で1カ月分」である旨の説明をしている。自給率も高く、秋の収穫まで保ちそうな米は良しとしても、問題は小麦と大豆である。

 とりわけ小麦というのは、戦後日本にとってまた特殊な食品で、食管法に替わった食糧法にもとづき、いまだに政府が一括して輸入する体制をとっている。昨年の輸入先は米加豪の三か国で、五つの品種が輸入された旨の実績が、農水省のホームページに掲載されている。ところが今年は、北米でも旱魃が起きていると伝えられている。例年のように悩まされている山林火災も、カリフォルニア北部などでは今年は早く始まるのではないかと危惧されているほどである。欧州だけではないのだ。

 報道を眺めれば、件のチェコ共和国でもまた危機感が昂まっている。前年比で20から40%の収穫減、あるいは過去500年で最悪の干害になるのでは、との見出しすら踊っている。ラジオ局のサイトでは、インタヴューを聴くこともできる。すると「人手不足と旱魃とではどちらが深刻な問題ですか」と、アナウンサーが馬鹿な質問をしている。農家の男性曰く「そりゃあ、旱魃だよう。人手の問題は農家によってそれぞれだけど、日照りはみんなが影響をうけるんだから」──当たり前である。雨さえ降ってくれれば……。

 

 ところで話は変わるが、今は亡き桂枝雀が小学生のころから好きだった。その珠玉の演目に『雨乞い源兵衛』というのがあったものだ。かの小佐田定雄による新作落語である。

 ひでりに苦しんでいる村の庄屋が、百年前の先祖の縁から、源兵衛なる若者に雨乞いの儀を強要した。源兵衛がやぶれかぶれで氏神の社に籠ると、瓢箪から駒とばかり、ぐうぜん雨が降り出した。……かと思えば、こんどは一向に降り止まない。雨を止めるように言われる。するとまた季節がめぐって、ぴたり雨はあがるも、源兵衛の姿はなかった──という、いささか神話的な味わいのある噺だが、これも上方落語の鬼才が演じると、抱腹絶倒の一席となるのである。

 そこで枝雀がかならず枕に振ったのが「気象庁職員のソフトボール大会が雨で流れた」というような真偽不明のエピソードだった。ちっともあてにならない天気予報を揶揄したものだ。上方の巨匠が元気だった頃とくらぶれば、たしかにテクノロジーは進歩を見た。だがそれでも、水不足の予測が当たらないことを願うばかりである。

桂 枝雀 落語大全 第二十八集 [DVD]

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  • 発売日: 2003/05/28
  • メディア: DVD
 

 

*参照:

www.moneypost.jp

www.agrinews.co.jp

www.sankeibiz.jp

www.afpbb.com

人民の阿片

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photo by Monica Volpin

 新たな感染者の伸びをチャートで毎日追っている向きも多いだろう。ここにきて国によっては、当面の医療崩壊が避けられそうな気配が見えてきた。日本でも緊急事態宣言をいったん終了させることも可能であろうと、種々の分野の研究者がブログなどで言い始めた。ただ、たいてい元からの宣言不要論者のようではある。責任を伴う医学や疫学のひとが言明しないのは、連休が過ぎぬうちは時期尚早ということもさることながら、確証なしには何も言えないためではあろう。PCR検査の精度にも疑問符がついた今、抗体検査の実施が望まれるのも無理はない。そして、専門家会議の言質さえ取れれば、それを受けてこんどは政治家が動ける。コロナ肺炎による死者を400人に食い止めたとしても、いっぽうで1800人の自殺者を出していたら如何にせん……というような批判の声もすでにあがっている。

 医師の言うことと、疫学者の言うことが異なっても当然であるが、経済学者にもまた言い分がある。けっきょくは、それぞれが自らの利害に基づくポジショントークを繰り広げているに過ぎない。こうしたときの調停、ないし利益の分配という役目を負っているのが政治であることは言を俟たない。そしてSNSを見るかぎりでは、民主的に選ばれた代表が「医療崩壊を防ぐために外出自粛に協力してよ」と言ってるんだから、できるかぎりそうしてあげようよね、というひとが日本には多いようで、なんというか健気で、また日本的といわれればまさにそんな感じだとも思った。

 ところで、民間の調査会社による世論の各国比較が報道されていた。注目を集めていたのが「ウイルス拡散防止に役立つなら、自分の人権をある程度犠牲にしても構わない」という命題に「そう思う」と回答したひとの割合が、日本では30か国中最低の、32パーセントであったというものである。1位はオーストリアで95パーセント。30か国の平均は75パーセントだった、とつたえられている。

 聴き取り調査の時期と、その間の感染者拡大の段階も各国間で異なっている以上、調査そのものはともかく、そもそも乱暴な比較ではある。しかしなによりも、この手の各国比較の世論調査の数字というのは、翻訳というプロセスが噛んでいるがために、まったくあてにならない。

 日本では、じっさいには多くのひとが自粛の「要請」にたいして「人権」など度外視して「協力」で応えており、そのため、やたらパチンコ店の利用者が目立つ事態ともなっているが、それは数少ない例外だからであろう。つまり、日本の回答者は「人権」という概念がおそらくよくわかっていない。これはTwitter上にもさかんに寄せられている感想ではある。質問の文にこの語を用いなかったならば、結果は違っていたのではないか。

 今回ばかりではない。おなじような調査はしょっちゅうある。たまたま手もとに高橋徹『日本人の価値観・世界ランキング』(中央公論社、2003)という新書があるが、このなかで、たとえば「人生にとって宗教は重要か」という項目は、同様の感想を抱かせる。ちなみに「非常に重要」「やや重要」とした日本の回答者の割合は、73か国中72位という低さで、最下位の73位は共産中国である。ほか、下位にはやはり東欧や北欧の諸国がつらなる。「宗教は人民の阿片」と教育されてきた国ぐによりも低い数字というのだから、順位には違和感を覚える。

 お祓い、厄除け、安産祈願、合格、健康、交通安全、護符におみくじ、パワースポット、絵馬に破魔矢に縁起だるま……等々をもとめる参拝者によって、盆暮れ正月はもちろん、日常的に神社仏閣はにぎわっている。SNSを眺めていても、日本人であること自体があたかも宗教であるかのような文化にも思えるが、それを除いたとしても、首を傾げたくなる。しかし、宗教という抽象的な概念が理解できていない人びとの回答ということであれば、合点もいく。あるいは「初詣で神道」と「葬式仏教」は宗教にカウントされないものかもしれないし、はたまた「日本人なら無宗教と回答すべし」という教義の宗教なのかもしれないし。

 さて、パチンコ店の前で「感染したら、そんときはそんときだ」とでも嘯いているひとなども、ひょっとすると政治家や疫学者の要請の趣旨がわかっていないのであろう。依存症のひとは気の毒だが、やらせてあげれば良いと思う。ただし、14日間は店から出られない決まりにでもすれば安心だ。……それにしてもパチンコって、そんなに面白いものか。そんなに勝てるのか。なにがしかでも稼げるならば、経済活動ということになり、テレワーク化し難い「やむを得ない出勤」に該当しそうではあるが。

 賭博にして賭博にあらず。けだしパチンコほど、現代日本の矛盾を凝縮したような産業もそうあるまい。北のミサイル開発とか、警察利権とかいろいろ囁かれるところだが、利用者のみならず幅広い関係者を儲けさせる、現世利益に特化した神社のようなものか。

 

*参照:

www.sankei.com

togetter.com

diamond.jp

pachinko-shiryoshitsu.jp

抗体検査とガタカな未来

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 まっさらな新型のウイルスには、真の専門家が存在しない。日々あらたな経験知を蓄積しつつある、というのが世界の現状だろう。それでも、この数か月にわたる闘争から得られた人類の知見というのがあって、それを簡潔にまとめた記事というのが、このほど『ニューヨーク・タイムズ』に出来した──というふうにSNSで話題になっていた。公衆衛生学から、いわゆる感染症学や疫学、医学、歴史学にまでにわたる、20名以上の専門家による提言集のようなものか。

 すでに報道され、よく知られている見解も多かったとはいえ、とくに気になったのは、近未来における新たな分断社会の可能性である。すでに社会には2種類の人間がいる。──コロナウイルスの抗体に由来する持てる者と持たざる者である。感染症から快復した人間には抗体ができていると考えられる一方、いまだ感染せざる者にはそれが欠けており、絶えず感染の危険にさらされている。

 それは「ぞっとする分裂」と表現されている。WHOのデイヴィッド・ナヴァロの推測によれば、抗体をもつ人間は旅行もでき、働くことができるが、残りの人間は差別されることになる。要は、すでに免疫があると推定される人びとであるが、こうした持てる者はどこでもひっぱりだこで、血液の寄付を要請されもするし、さらに危険な医療の仕事に果敢にとりくむように求められることになる。

 わかり易いのは、19世紀のニュー・オーリンズの黄熱禍の例である。かの地では黄熱の免疫を持たない市民は、仕事の獲得や、住居の確保がむずかしく、ローンを組むことも、結婚することも困難であったという。もともと黒人奴隷という集団もいた時代だったが、さらに免疫の有無によって、ふたつの社会階層が形成されたも同然であった。

 今般の封鎖状況のもと、300年にいちどの不況がやってくるのだともいわれている。そこで、感染のリスクを冒しても苦境を打開したがる若い者も多いと推測される。というのも、雇用者は免疫がついている者を雇いたがるから、免疫を獲得しさえすれば就職できると考えた若者が、無茶をやらかしかねないのだ。経済を維持するために、コロナパーティを開催し続けなきゃ、という者までいるらしい。おそらく無謀な若者を止めることはできない。医療リソースを守るための感染抑止に付き合う義理も感じないのだろう。社会の分裂が自己実現を阻むならば。

 ここで思い出したのが、1990年代の映画『ガタカ』であった。出演したイーサン・ホークとウマ・サーマンの娘もいまや、いっぱしの女優となっているのだから、隔世の感がある。

 人為的な操作によって生まれた、遺伝子的にすぐれた種族である「適格者」と、いっぽう自然妊娠によって生まれた「不適格者」の2種類の人類が暮らす未来である。優生学の適用が徹底された世界観は、ディストピア文学の骨頂であろう。

 イーサン・ホーク演ずる主人公は、不適格者として生を受けたものの、宇宙飛行士になるという夢をかなえるべく、ある適格者から生体情報を買い取って、その人物に成りすますことで適格者を装う。結果、宇宙局「ガタカ」に潜り込むことに成功するが……という話であった。

 遺伝子とは異なり、免疫は後天的に獲得できるとはいえ、どうも似かよった近未来が想定されているようである。

 ニューヨーク州のクオモ知事も、抗体検査の実施に言及した。経済活動の再開には、データの裏付けが必要であるが、IgG抗体のテストを大規模に実施することによって、人口のどのくらいの人びとが感染しているのか、はじめて推定が可能となるのだと。だが、それが世界にあらたな差別を生むことは、おおよそ確定している。

ガタカ (字幕版)

ガタカ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

 

*参照:

www.nytimes.com

www.nikkei.com

gigazine.net

 

モラヴィアのワイン酒場 (2)

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photo by LEEROY

 承前。中高年は昔話ばかりするからきらわれるのだ──といわれても、書くねたに窮すれば致し方ない。だが、個人的には年寄りの話もさほど苦痛に感じないたちだから、聴くのを厭うひとの気持ちはよくわからない。内容にもよるか。いずれにせよ、物語の基本は思い出ばなしではないか。日記からしてそうだ。「今」と発話した瞬間、それはもう今ではなく、過去のことになっているわけだから、けっきょく程度の問題に帰する。

 とある酒場の噺である。

 そこは地元モラヴィアのワインをもっぱら扱っている店だった。屋号は件のヴィノテーカだったにも拘わらず、価格帯としてはモラヴィアだけに低廉で、そうかといって地元の感覚からすれば、格安というのでもなかった。絶妙な価格設定だった。見方によっては小洒落たインテリアで、立地もよいのに、安酒を好む賑やかな学生などはあまり来なかった。当時は、Hさんというのが経営しており、客層としては同年輩の、シニア層が多かったのだ。

 こうした、ややひなびた店に来る年寄りだから、けっして富裕層ではない。だが、教養がゆたかなひとが多かった。話が面白いのだ。この「学ある年配者」というのはしかし要注意で、それは、かつて共産党員の身内があったがゆえに高い水準の教育が受けられた、ということを暗示している。だから、多くの酒場で盛り上がる共産党を揶揄する話題は、ここでは御法度も同然であった。

 たとえば、Pという紳士がいた。かつて人類学を専攻し、研究のため北海道に滞在したこともあると話し、歴史、民俗、文化から形質人類学的なテーマに至るまで、話題は自由自在であった。いくら呑んでも酔わないていで、呂律も乱れることがなかった。

 このひとはヤポネツ(日本人)なんだ、ハワイを奇襲し、米領アリューシャンを占領までした、あの偉大なヤポネツだ──などという、個人と民族の歴史とを混同した輩は、つうじょうは唾棄すべき存在なのであるが、ここまであからさまに冗談だとわかれば、むしろ歓迎の辞であることもまた明白であって、ありがたく照れるしかない。とにかく弁舌さわやかで、立ち居振る舞いも洗練された、いわゆるロマンスグレーであった。いっぽう推察のとおり、反米的な軽口は聞かれても、共産党の悪口だけはやはり本人の口から出たことはなかった。

 しかし、客は共産系紳士にとどまらなかった。画廊がちかくに在ったから、作品を売りにくる年配の芸術家も出入りしていた。こういう向きにはむしろ、共産時代には海外に逃れていたというひともあった。

 なかでも彫刻家のŠ氏などは、P氏と対照的にも思えた人物であった。地元の訛りもあったが、なにより口がきたなかった。ナダーフキと呼ばれる、公共の媒体に流せぬ語句を多用した。ここは嘘つきばかりでどうしようもない国なんだと、ボヘミアを、モラヴィアを、かつてのチェコスロヴァキアを、すべてを扱き下ろした。おおよそ同居する娘夫婦以外のものはすべて、非難の対象になり得た。しょうじきな心情の吐露ではあったのだろうが、けだし部分的には裏返しの愛情表現も含まれていたのではあるまいか。密告を恐れた共産党員ならば、こういう表現をすることは決してないだろう。だが、べた褒め形式の礼賛は、心理学的に防衛機制の一種にこそあらめ、基本的には胡散臭いものなのだ。平壌市民への街かどインタヴューなどに典型であろう。──むろん、アフィリエイト目的のブログの記事だけは、お許しいただきたいが。

 P氏とは真逆のヴェクトルを有するような在野の知性だから、はてはご想像のとおり、たとえばヴァーツラフ・ハヴェルの後妻に関する品のない冗談にまで発言は及んだが、こちらにとってはおしなべてよい教材であった。かと思えば、母親がウィーンの出だそうで、自身もスイスに滞留した経験から、ノスタルジーが昂ずると、ときどきドイツ語で話しだしたりする。意表な一面もあったものだ。

 とりわけ盛り上がった話題は、世界のおおきなお友だちが総じて好む、火器や戦車や艦船や戦闘機であった。ズボロフの戦いにはじまり、真珠湾にミッドウェイ、チェッコ式機銃ことVz. 26を称賛すれば、ベネシュの嘲罵へつづくなどした。こちらが油断していると、レイテ湾の「謎の転進」について話題を振られたりして、戦史への造詣の深さに驚かされたりした。そのあたりはまた長くなるので省くが、ひょっとしたらいずれ書くだろう。

 とまれ、いろいろ面白い話をしてもらったら、こちらも多少は応酬せねばなるまい。たとえば、日本帝国の三八式歩兵銃というのは、死んだ祖父も満洲で馴染んだ一般的な小銃であった。これが、1905年型小銃というふうに呼ばれ、プラハ国立図書館にもマニュアルが収められているが、これはなぜか──と問えば、小火器の不足に悩まされた帝政ロシアが購入し、のちチェコスロヴァキア軍団にまとまった数を供与したためである。日本軍は出兵の口実こそ「軍団の救援」であったが、けっきょくシベリアでは、当の軍団と小競り合いを演じることになった。その双方が、じつは同じ型式の銃を撃ち合っていた、ということもじゅうぶん考えられるのだ。云々。──所詮は居酒屋談議。70代の友だちとの与太話。いずれも酔っ払いのたわい無い話だった。

 しかし、終わりというのは唐突にやってくる。

 あるとき、何か月かぶりに店を訪れた。すると、オーナーであったH氏が「おい、どこに行っていたんだ。──じつは店の権利を売ってしまったんだよ」と言うのである。少子化によって日本でも後継者不在の問題はさかんに取り上げられるようになったが、個人主義のつよい国々では、昔からのありふれた懸案ではあった。若い経営者に世代交代した店は、客層も入れ替わってしまい、若者でにぎわう反面、あの気の良い年寄り連の足は遠のいてしまった。以前とおなじ場所に足を運んでも、以前とおなじ人間に会うことは、もうないのだ。

 コロナ禍が終息してのち、世界じゅうにいったいどれだけの飲食店が生き残っているのかは、わからない。酒場の消失は地元の人間にとって、コミューニティの喪失を意味することもある。

 

 

 

モラヴィアのワイン酒場 (1)

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photo by Jindra Jindrich

 くだものの果汁は、それじたい単糖類を含んでいるから、抛っておけばアルコール発酵がすすんでしまう。それが、おなじ醸造酒といってもビールや日本酒とは異なる点で、そういう意味でワインというのは、もっとも原始的な酒に属している。それだから不思議はないにせよ、モラヴィアのような文明から隔たった地でも、すでに2世紀にはワイン造りがおこなわれていた、とローマ人はつたえている。

 中世以降は、貴族が田舎に荘園と労働力を擁して、ぶどう園経営に励んだことから、ここでもワインは基本的に貴族の手にあった。1575年にニコルスブルク、つまりミクロフに所領を得たディートリヒシュタイン家などが好例である。したがって、1848年の革命で賦役労働が撤廃され、また貴族層の権勢も失墜すると、この地のワイン生産は急激に廃れた。ところが、貴族に代わって資本家が商売として取り組んでいったのもまた歴史のながれで、さいわいワイン生産は絶滅をまぬかれた。緯度が高いこの地方のワインが、ローマ人の口に合ったとはとうてい思えない。だが後年、オーストリア=ハンガリーの習慣の中で育まれたひとびとの嗜好には絶妙に合致したのだろう。じゅうぶんな商品価値があった。

 とはいえ、歴史を眺めれば、多くの品種や土壌や農業技術の改良を行うなどして、ワイン生産にもっとも力を入れていたのは、第二次世界大戦後の共産党政権だったようにも思える。ともかく、この時期にモラヴィアのワインはいわば離陸期をむかえ、品質や流儀や趣きに関して、微妙だったオーストリアン・ワインとの差異が拡大していった。資本主義経済における競争から隔絶されたことによる後進性は如何ともしがたいものの、いっぽうモラヴィアに特有のぶどう品種なども、地元にゆけば味わうことができるわけだ。近年では、品種によってもっと栽培に適したフランスに農地を得て、現地で醸造まで行ない、それを逆輸入するモラヴィアのワイナリーなども現れた。「フランス産のモレイヴィアン・ワイン」と言ってよいのかどうかはわからないが。これもEUというひとつの経済圏の恩恵でもあり、また文化の変容でもあろう。

 さて、ワイン処のモラヴィアに「ヴィノテーカ」といえば、日本にも最近はエノテーカという業態があるが、土地柄の相違もあってか、かならずしも一致などしない。「ヴィナールナ」と呼称すると、さらに居酒屋寄りの業態という語感が出てくる。もっと、ざっかけない店という感じになる。もっとも業態といっても厳密なものではないから、けっきょくたいして変わらぬのだ。オーナーとしては、専門性や高級感をアピールしたければヴィノテーカと、カジュアル路線の飲み屋ならばヴィナールナと号すればよい。

 このコロナ禍のなかで酒場が営業しうるとすれば、日本での緩やかな規制とは異なり、テイクアウト(テイクアウェイ)しかあり得ない。といっても、瓶入りの商品のみならず、もともと樽からボトルに注いで量り売りしてくれるのが慣いだ。客は自宅から容器を持参してもよい。このあたりは、ボヘミアのピヴォにも共通する文化である。

 ──つづく。

 

 

 

 

復活祭、スリヴォヴィツェ、ホロコースト

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photo by Marcela Lukášíková

 不安が人びとにとり憑くいっぽう、特定の商品の需給が逼迫している。それで、ドラッグストアの棚から衛生スプレーが消えてしまうと、どうにか安手の蒸留酒のたぐいで賄えないものかと考えてしまった。かといって、もっとも一般的なウォトカでもアルコール度数はせいぜい40パーセント程度。ジンや焼酎も同程度であるが、そもそも臭くて使えない。また、夾雑物の多い色の付いたものや、べたべたしたものは論外となる。殺菌消毒に用いるならば、アルコール濃度は60パーセント以上は欲しい。とまれ、たいていは度数が高くなるほどに価格も上昇するし、なによりそれだけ良質な蒸留酒であれば、倫理上の観点からも、ぜひ飲用して消費すべきではある。つまり手許にあったとしても、とくに特定の銘柄である場合には、とても消毒目的などでは浪費できまい。もったいない。──そういえば、クリスマス近辺にモラヴィアの知人などを訪れると、自家製のリキュールを貰うことがある。杏子を原料とするメルニュコヴィツェとか、林檎のヤブルコヴィツェとか……。香りは最高だが、アルコール分は50から53パーセントに稀釈してあると言っていた。

 ところで、モラヴィアという邦は、われら酒飲みには面白いところだ。ローマの葡萄酒と、ゲルマンの麦酒と、スラヴやバルカン半島の諸族の蒸留酒という、もとは三者三様であった文化が混淆する結節点のような地域である。映画『ボブレ』(トマーシュ・バジナ監督、2008)にも描かれたように、ワイン文化に疎いと言ってプラハからの一見さんを莫迦にしたりする連中もあるし、ふだんはもっぱら蒸留酒しか飲まないひともいる。そうかと思えば、ボヘミア人同然にピヴォを愛してやまない麦酒党もとうぜんいるわけだ。政党政治にも通ずるような多様な立場が見てとれるが、全体主義に懲りた住民たちには多様であること自体が、好ましいものであるようだ。

 パーレンカと総称される蒸留酒のなかでも代表的なものは、なんといってもスリヴォヴィツェであろう。スロヴァキア風にスリヴォヴィツァとも、あるいは日常ではスリフカとも通称される、要はプラム・ブランデーである。原料となるセイヨウスモモの類にはいくつかの品種が用いられるそうだが、どれもたいていプルーンの亜品種に属すらしいから、プルーンと言ってしまってもよいのだろう。かの地元では総称的にシュヴェストキと呼ばれ、ドイツ語では標準的にプフラウメの一種とされるも、南の地方ではツヴィチュゲなどと呼ばれる。ダマスカスを中心とするシリアに産したため、英語ではダムソン・プラムの名もあるが、それが代表的な品種を指すのかどうかは知らない。

 個人的にスリヴォヴィツェの洗礼を受けたのも今は昔。若い友人にスロヴァーツコの実家に招待された、この復活祭の季節であった。

 春といえども、その年の復活祭は寒かった。冬を象徴するという等身大につくられた人形を、小川に流して別れを告げる──という儀式がその町にはあったのだが、その年には雪解けの水もまだ少なく、思うように流れていってくれない。じっさいに春が到来しつつあれば水嵩も増しているはずで、ちゃんと流れ去ることになるわけだから、なるほど、よくできていると感心した。

 その不首尾に終わった儀式の模様を現場から中継して放映していたのが、家族経営のローカル局で、ネスヴァトバ氏というのがアナウンサー兼経営者であった。この苗字は直訳すると「非結婚」というような意味になるのだが、じつのところ氏は同性愛者でありながら既婚者で、奥方も娘も自前の放送局に勤務しているのだ、まあつまり非結婚でゲイで既婚──と、友人は馬鹿な漫談をしていた。いっぽう歌番組では、カレル・ゴットが元気に唄っていた。今年もどうせカレルが受賞さ、そういうことになっているんだ、と笑いながら教えてくれる。変わらない日常。それを支える伝統行事。共同体は再生産され、永遠に平穏な故郷。そういったものを、所与の制度として大切に受けとる者もあれば、厭う者もある。

 雪も舞うなか、城館など地元の名所旧跡を案内してくれたのち、帰ってくると、お母さんが腕を振るってくれた。コンソメにはじまり「ヴェプショ・クネドロ・ゼロ(焼豚・茹で饅頭・煮甘藍)」へとつづく、ご当地流のコース料理を用意してくれていたのだ。

 この地方でも、笞で未婚女性の尻を叩く風習がある。柳の枝を縒ってつくられたポムラースカなどと呼ばれる笞を携えて車に乗り、女と見るや道中で下車してはそれを実践しながら、友人の親戚の家々を挨拶して巡った。先ざきで山と準備されたフレビーチュキなるオープンフェイスのサンドウィッチを、あたかも陣中食のごとくいただいた。そこにいっしょに登場したのが、スリヴォヴィツェであった。東洋からの珍客とともに乾杯するのを、一様に喜んでくれた。掛け声につづいて、ショットグラスで一気に呷る流儀である。

 スロヴァーツコという地方は南モラヴィアの辺境に位置し、現在ではスロヴァキア共和国オーストリア共和国に接する。ふるくモラフスケー・スロヴェンスコとも呼ばれたが、これは「モラヴィア領のスロヴァキア」というニュアンスで、英訳では「モレイヴィアン・スロヴァキア」と称されたりもする。シレジアとかティロールとかにも似て、現行の国民国家の枠組みに収まりきらないという解釈もあるが、政治的な分離主義の話はまたいずれ、稿を改めたい。

 いずれにせよ、行政上の国境などあるにはあっても、人びとの生活にはさほどの意味はない。とりわけ葡萄の収穫期といった猫の手も要るような時節には、季節労働者の移動などは超法規的に、あるいは脱法的に行われてきたとも聞く。方言にしても、さすがにドイツ語はスラヴ語とは隔たっているものの、たとえばスカリツァなど国境沿いの町々に住むひとが話すスロヴァキア語を聞くと、ほとんどチェコ語との判別がつかない。酒場ではどの言語も飛び交う。名実ともにひとつの経済圏となった今では、パスポートももたず越境してきては、顔見知りと仲良く呑んだくれている。クロイないしトラハトと呼ばれる民族衣装も、村々による顕然たる差異こそあれど、スロヴァキアのはるか東からバイエルンに至るまでのひろい地域にある種の共通性が見出される。例によって今回は詳述しないけれども。要するに、習俗ないし文化とは、国家の境界線に沿って厳然と分けられる塗り絵のごときものにあらず。むしろ水彩画のグラデーションを思い浮かべていただきたい。とまれ、かのトマーシュ・マサリクを生んだ、多文化的ないしコスモポリタンの風のある田舎でもある。

 そのような土地柄にあって異彩を放つのが、少数派たるユダヤの文化的な貢献と社会的、経済的地位である。これがまた、モラヴィアのスリヴォヴィツェないしパーレンカの歴史とも、切っても切れない。

 話はさかのぼる。モラヴィアに技術がつたわって蒸留酒が造られるようになったのは、ヨーハン・フォン・ルクセンブルクやカール4世の御代ともいわれたり、あるいは13世紀ないし14世紀のことだともいわれたりしているが、正確なところはわからない。はじめは葡萄酒が原料であったが、のちには穀類、とりわけライ麦が用いられるようになり、できそこないの麦酒までもが原料となった。これらの製品は、ヴィノパロヴェー、ピヴォパロヴェー、モジピヴォヴェーなどと呼ばれた。これはしかし、まだ前史である。

 じつはバルカン半島からラキヤがつたわったのは、さらに何百年もあとの話で、17世紀ごろといわれている。これがモラヴィアにおける、件のプルーンを原料とするスリヴォヴィツェの起源となった。のち1680年の宮廷の布令で、蒸留酒製造は貴族の特権とされたものの、貴族みずから手をよごして生産に従事するわけもなく、特権は企業家に有償で貸与された。そのなかにはユダヤ人実業家も多かったのである。

 19世紀末に生まれたルドルフ・イェリーネクなどは象徴的な人物で、生産設備を買い取り、自らの名を冠したスリヴォヴィツェを製造販売しはじめた。いまではその名は、モラヴィア産スリヴォヴィツェとしては、おそらくもっとも知られた銘柄ともなっている。しかし当人はといえば、はじめテレーズィエンシュタットへ、そこから1944年の秋にはアウシュヴィッツに送致され、帰ってくることはなかった。享年52と推定される。あまりにも若かった。

 ──「ナ・ズドラヴィー(健康に)」と唱和したのち、スリヴォヴィツェを呷れば、アルコールに咽喉が焼けるような感覚があって、そのプルーン由来の爽やかな果実香が鼻に抜けるのだ。これをしこたま呑めばウイルスは死に絶える、というのはたちの悪いデマに決まっているが。いずれにせよ、みなコロナ禍などに負けず、心身ともに壮健であって欲しいものである。

V širém poli studánečka

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  • 発売日: 2019/12/13
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*追記:

www3.nhk.or.jp

消毒液の代わりにアルコール高濃度の酒使用認める 厚労省
2020年4月13日 15時25分

新型コロナウイルスの感染拡大で、アルコール消毒液が不足していることを受けて、厚生労働省は、アルコール濃度が高い酒を消毒液の代わりとして使用することを特例として認めることを決めました。

新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために必要なアルコール消毒液は、供給が追いつかず、各地の医療機関や高齢者施設から対策を求める声が出ています。

これを受けて厚生労働省は、やむをえない場合にかぎり、酒造メーカーがつくるアルコール濃度が高い酒を消毒液の代わりとして使用することを特例として認めることを決め、全国の医療機関などに通知しました。

具体的には、アルコール濃度が70%から83%の酒を対象とし、これより濃度が高い酒は、殺菌効果が落ちるため薄めて使うよう求めています。

この濃度に該当する酒はウォッカなどで、酒造メーカーでは、消毒液の代わりとして使用することを想定した製品の製造も始まっているということです。

厚生労働省は「主に医療機関での消毒液の不足を解消するための特例措置であり、一般の家庭では、引き続き、手洗いの励行を続けてもらいたい」と話しています。

消毒液の代わりにアルコール高濃度の酒使用認める 厚労省 | NHKニュース

 

消えゆく赤軍顕彰の像

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Czterech_%C5%9Bpi%C4%85cych_07.jpg

 承前ポール・ウェラーワルシャワのジャズ・クラブで「壁は崩れる」と呪いのことばを吟じてから4年後、はしなくも「壁」が崩れ去ったことは、周知のとおり。労働者独裁をやっている国はなくなった。アジアで僭称している政権などは除いて。

 友人のさそいにのるかたちでワルシャワ訪問がかなったのは、それからさらに何年も後のことではあった。「スターリングラード通り」はすでになく、「ヤギェウォ王朝通り」に変わっていたが、すくなくともその時点で《武装せる兄弟の記念像》はまだ健在であった。スタイル・カウンシルのプロモーション映像のなかで、スティーヴ・ホワイトがふしぎそうに見あげていた、ヴィルニュス広場の群像のことである。

1)ワルシャワ

 この兄弟像は、1945年11月に完成した。当初は、解放の記念碑、感謝の碑などとも呼ばれていたようだ。ところが、祖国解放の感動も感謝もしだいに薄れてきたものか、より写実的な名称に落ち着いた。といっても「兄弟」というのは、イデオロギー的な比喩にちがいないが。ともかく、協働してナツィの軍勢に対抗している画をあらわす、いかにも「していますよ」という情景描写は、いわゆるソーシャリスト・リアリズムのまがまがしい様式美だ。記念碑の頂では、PPSh-41短機を携える者と、手榴弾を投擲せんとする2名の赤軍兵士が進撃している。台座の四隅に立つのは、五芒星のついた鉄帽をかぶる赤軍兵士と、四角い制帽のポーランド人民軍兵士。俯きかげんの姿勢から、俗に「居眠り四人組」というふうにも呼ばれた。

 ドイツの第三帝国から解放されたと思ったら、それはソヴィエト・ロシアによる新たなる支配の始まりだった──東欧革命とは、さらにそこからの解放でもあるはずだった。結果、ソ連邦によるポーランド支配の象徴とも見なされるようになったがために、1990年代には早くも、記念碑を撤去する計画が持ち上がった。これは一度は阻止され、1994年には、記念碑の保全を主旨とするロシアとの外交的な協定の締結をみた。ところが2007年以降、こんどは地下鉄駅を整備するつごうから、記念碑を移転する計画がもちあがり、紆余曲折を経て2011年、いったんはすっかり撤去された。しかしながら、いずれの場所にもふたたび設置されることはなかった。なし崩し的に、撤去は恒久的なものとなったのだ。端から計画された「なし崩し的な恒久化」だったのかもしれないが、知る由もない。

 その後の2016年、「脱共産主義法」が成立し、似かよったソ連時代の記念碑や像が、全体主義体制を思い起こさせる過去の遺物として、軒なみ取り払われていった。これが内外で議論を呼んだことは、記憶にあたらしい。が、ひとりポーランドだけではない。同様に赤軍将兵を讃え、勝利や解放を記念する碑は、ベルリーン以東の欧州各地にも見られる。米ソ冷戦終結後には多くが、撤去するの、しないのといった問題をひきおこしている。

2)プラハ、ウィーン

 たとえばボヘミアプラハでは、解放35周年の1980年以来、同市6区のブベネチュに立っていた《コーニェフ元帥記念像》が、こちらも曲折を経て、つい先日、じつに2020年4月3日、最終的に撤去された。むろんロシアは外交ルートをつうじて抗議したが、「プラハの解放者」の撤去に反対していたボヘミアモラヴィア共産党からもまた、ならばウィンストン・チャーチル像も撤去せよ、という意表な声もあがった。

 いっぽう、ウィーンのシュヴァルツェンベルク広場にある《赤軍英雄記念像》は、ロシア政府とのあいだの協定によって撤去という選択肢が封じられた。だから代わりに、ホーホシュトラールの泉から高くふきあがる噴水によって隠され、市街中心部をゆく衆人の目に触れぬようにされているのだ──という噂である。じっさい見えない。

3)モラヴィア

 1945年のちょうど今ごろの時節、3月末から4月初めにかけて、ブラチスラヴァやウィーンを解放したのと前後して、赤軍モラヴィア攻略に着手する。戦争自体が終結する5月までに順に解放されていった町々では、赤軍兵士をかたどった大小の像を目にするのもしぜんで、この一帯だけでもおびただしい数にのぼるものと思われる。

 兵士単体のモティーフとしてはズノイモやブルノの銅像などが、町の規模のわりに大きい印象がある。とくにズノイモの《勝利の記念像》は、地元では「イヴァン」などと呼ばれ、鉄道駅と市街地のあいだの七叉路の中心に立ち、稀少なランドマークとして親しまれてきた。が、それはかならずしも、好かれているという意味ではない。そのかぎりで「イヴァン」とは、ニュアンスまでも汲めば「露助」と意訳してもよさげなくらいだ。

 赤い星のみを台座の上に戴くだけのシンボリズムの記念碑もあるし、それに兵士像を組み合わせた折衷主義のものもある。オロモウツに在るのはたしか前者で、オストラヴァのは後者である。オストラヴァの場合は、先達て半年ほどまえに、何者かによって像に赤いペンキがかけられたというニュースもあったから、憶えている。

4)ブラチスラヴァほか

 この周辺で例外的なものは、ブラチスラヴァの《スラヴィーン》である。これは施設の名とそこに設置された赤軍兵士像の名を兼ねている。像は全高およそ40メートルという台座に立つ、圧倒的なサイズだ。つまるところ戦没者墓地の廟であり、慰霊の碑でもあるから、余所とはすこしく趣きを異にするのだろう。ワルシャワにもじつは兄弟像とは別に、モニュメンタルな軍人墓地がある。こうしたケースでは靖国神社のようなものかとも思えば、あえて撤去するという計画など、寡聞にしてきかない。

 そのほか思わぬところで、小ぢんまりとした赤軍兵士を目にしたりもする。石造によるものは辺境の町などに多い印象で、それが学校のまえであったり、郊外のバス停のわきに目立たず佇んでいたりもするから、東欧の二宮金次郎か、はたまた共産党の創作地蔵か、といった風情がある。

 しかし、これらもひょっとすると風前の灯。はかない群小の文化財である。ワルシャワの兄弟像のように、いつの間にか消えていた、ということも今後ありうる。独ソ戦の延長戦は、真の解放を求める旧衛星諸国による闘いのようでもあり、また東西のせめぎ合いのつづきのようでもある。

 プラハの解放者コーニェフ元帥の像は撤去後、20世紀記念博物館に収蔵されるという話であったが、この施設じたいが最近は政治的な論争の的にもなっていて、どうも雲ゆきがあやしい。しかし、そもそも同市内には、共産主義博物館なる観光施設も建ち、インバウンド客でにぎわう昨今ではあった。どうせなら、東欧じゅうの類似した廃止済みの記念碑をどこか一か所に集めて保存、展示するというわけにはいくまいか。箱根彫刻の森みたいになったら、あんがい面白いと思う。ひろく東欧旧共産圏には「skanzen」という独特な語もあるが、教育施設化されたスウェーデンの要塞史跡に由来し、おおく野外博物館と訳される。明治村のような密閉されない屋外空間の博物館施設は、これからの脱パンデミック時代には向いている。廃棄してしまうよりは……とここまで空想してみたけれど、「ヴァンダリズムだ、蛮行だ」とも報じられるロシアで、かの地の世論が納得するとも、また思えない。いずれにしてもプーチンやラヴロフはよい顔はしないにちがいない。

  

*参照:

jp.rbth.com

www.lidovky.cz

www.idnes.cz

 

*上掲画像はWikipediaPomnik Braterstwa Broni w Warszawie

スタイル・カウンシルのワルシャワ

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photo by Charlie Galant

 春の陽気とコロナの憂鬱のなか、イースターがちかづいている。しかし、謎のウイルスに完膚なきまでに打ちのめされた人類に「復活の日」などやってくるのだろうか。

 ところで、最初にワルシャワを訪れたのが十何年かまえではあったのは確かであるものの、正確な憶えがない。季節についても、この復活祭の時分ではなかったかと漠然と思っていたのだが、たぶん記憶ちがいで、その理由もはっきりしている。友人がいっしょに来いというから、本場のジュブルフカ目当てで同行した。いまはプラハで勤め人をしている男だが、当時はスラヴ学の博士課程にも在籍しており、所用でたびたびワルシャワ大学に行っていた。となりの国といっても、旧東側の鉄道の連絡など知れたもので、むやみに長い道中の無聊をきらったのだろう。

 灰色の町という先入観をもっていたのも、無理はない。英国のバンド、TSCことザ・スタイル・カウンシルの楽曲「ウォールズ・コム・タンブリング・ダウン!」が、まず頭に浮かんだのだから。そのPVは、いまではYouTubeでも観ることができる。撮影されたのが、米ソ冷戦ただなかのポーランドの首都だった。アジテイションめいた歌詞に唄われたとはいえ、ほんとうに壁が崩れるなどとは、おそらく誰も夢想だにしていなかった。──政権にひび割れがおこって、支配体制は崩壊する。団結は力なんだ。光は消えゆき、壁は崩れ落ちてゆく。

 聴衆の拍手につつまれ、若きポール・ウェラーミック・タルボット、D・C・リー、スティーヴ・ホワイト、ヘレン・ターナーが、やおら曲を奏で、歌いはじめる。会場のうすよごれた窓の外には、そびえたつ《文化と科学の宮殿》が見下ろしている。地上42階、高さ237メートル。スターリンが寄贈したという醜悪な摩天楼である。はじめは硬い表情であった観衆も、西側の頽廃した音楽にあわせてリズムをとるようになってくる。ふと回想すれば、TSCのメンバーが、おのおのトラムに乗りこんで会場に向かっているところだ。ひとりミックは、街路に息を切らせてトラムを追いかけるが、追いつけない。背後の壁には「スターリングラード通り50番」と読める。おなじく描かれた乗用車は、ソ連製ラーダ・サマーラではないか。さて、停留所までたどり着くと、兵士の像を見あげながらスティーヴが所在なげにしていた。異国での再会に安堵して、ふたりは抱擁する。やってきたトラムにとび乗れば、都合よろしくほかのメンバーはそろっており、まもなく会場入りをはたす。映像は、たびたび演奏シーンにもどってくるが、気がつくとまた、走行しつづけるトラムの光景である。車窓から曇天の風景をながめるポールは物憂げだ。やがて小雨もやみ、スターリンの墓標のごとき塔にも、陽があたりはじめた──というところで曲もおわる。

 イアン・マンによる年表によれば、ロケーション撮影は1985年の4月におこなわれた。この年は4月7日がイースターで、それにつづく週のうち4日間が旅程にあたっている。

 1985年4月11日木曜日は、六曜では大安であった。この日、スタイル・カウンシルの面々はロンドン・ヒースロー空港からワルシャワに飛んだ。

 4月12日金曜日。赤口。到着の翌日は、トラムおよび市街地での撮影に費やされた。そこで、ミックが乳児を抱いた男にぶつかるというアクシデントに遭遇した。赤ん坊はトラム乗降口のステップ部分に落下したが、さいわい無事であった。その後、酔っぱらいが意図的に撮影を妨害し、警察を呼ぶ事態になったが、それまでは作業は順調につづけられていた。赤口

 4月13日土曜日。先勝。ワルシャワ唯一のジャズ・クラブであった「アクファリウム」で、収録がおこなわれた。地元ラジオ局とともに招待されたオーディエンスが、ディレクターのティム・ポウプにうながされて拍手するカットは、PV冒頭の場面に使用されることになる。

 4月14日日曜日。友引。ミックがトラムを追いかけるシーンは、ヒースローへ戻るフライトの直前に撮られた。まずまずの成果であったろう。

 けちをつけずに語りうるものなんか、ほとんどなかった。そんなに悪く言いたかないけど、さえないし、退屈だったな──とポール・ウェラーは述べている。滞在中ずっと雨が降り止まなかった。バーミンガムにいたほうがましだったかもしれない──と振り返ったのはヘレン・ターナー。貴重な体験ではあったけれども、英国での暮らしがいかに好いものか、保健サーヴィスや石油資源に恵まれていることが評価に値することだって、気づかせてくれた──という、いかにもブリティッシュな述懐は、スティーヴ・ホワイトであった。とまれ、ポップ・ロックのスターらには、鉄のカーテンの向こう側は散々だったようだ。

 数日後の4月17日は大安吉日。アルバム『アワ・フェイヴァリット・ショップ 』が完成した。のち、全英アルバム・チャートで1位を獲得することとなる傑作であった。件の「タンブリング・ダウン!」は、稀代の名盤をしめくくる14曲目に採録されている。

 ──つづく。

Walls Come Tumbling Down (Live at Live Aid, Wembley Stadium, 13th July 1985)

Walls Come Tumbling Down (Live at Live Aid, Wembley Stadium, 13th July 1985)

  • 発売日: 2018/09/07
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復活の日

復活の日

  • 発売日: 2013/11/26
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