ウラシマ・エフェクト

竜宮から帰って驚いたこと。雑感、雑想、雑記。

モラヴィアのワイン酒場 (1)

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photo by Jindra Jindrich

 くだものの果汁は、それじたい単糖類を含んでいるから、抛っておけばアルコール発酵がすすんでしまう。それが、おなじ醸造酒といってもビールや日本酒とは異なる点で、そういう意味でワインというのは、もっとも原始的な酒に属している。それだから不思議はないにせよ、モラヴィアのような文明から隔たった地でも、すでに2世紀にはワイン造りがおこなわれていた、とローマ人はつたえている。

 中世以降は、貴族が田舎に荘園と労働力を擁して、ぶどう園経営に励んだことから、ここでもワインは基本的に貴族の手にあった。1575年にニコルスブルク、つまりミクロフに所領を得たディートリヒシュタイン家などが好例である。したがって、1848年の革命で賦役労働が撤廃され、また貴族層の権勢も失墜すると、この地のワイン生産は急激に廃れた。ところが、貴族に代わって資本家が商売として取り組んでいったのもまた歴史のながれで、さいわいワイン生産は絶滅をまぬかれた。緯度が高いこの地方のワインが、ローマ人の口に合ったとはとうてい思えない。だが後年、オーストリア=ハンガリーの習慣の中で育まれたひとびとの嗜好には絶妙に合致したのだろう。じゅうぶんな商品価値があった。

 とはいえ、歴史を眺めれば、多くの品種や土壌や農業技術の改良を行うなどして、ワイン生産にもっとも力を入れていたのは、第二次世界大戦後の共産党政権だったようにも思える。ともかく、この時期にモラヴィアのワインはいわば離陸期をむかえ、品質や流儀や趣きに関して、微妙だったオーストリアン・ワインとの差異が拡大していった。資本主義経済における競争から隔絶されたことによる後進性は如何ともしがたいものの、いっぽうモラヴィアに特有のぶどう品種なども、地元にゆけば味わうことができるわけだ。近年では、品種によってもっと栽培に適したフランスに農地を得て、現地で醸造まで行ない、それを逆輸入するモラヴィアのワイナリーなども現れた。「フランス産のモレイヴィアン・ワイン」と言ってよいのかどうかはわからないが。これもEUというひとつの経済圏の恩恵でもあり、また文化の変容でもあろう。

 さて、ワイン処のモラヴィアに「ヴィノテーカ」といえば、日本にも最近はエノテーカという業態があるが、土地柄の相違もあってか、かならずしも一致などしない。「ヴィナールナ」と呼称すると、さらに居酒屋寄りの業態という語感が出てくる。もっと、ざっかけない店という感じになる。もっとも業態といっても厳密なものではないから、けっきょくたいして変わらぬのだ。オーナーとしては、専門性や高級感をアピールしたければヴィノテーカと、カジュアル路線の飲み屋ならばヴィナールナと号すればよい。

 このコロナ禍のなかで酒場が営業しうるとすれば、日本での緩やかな規制とは異なり、テイクアウト(テイクアウェイ)しかあり得ない。といっても、瓶入りの商品のみならず、もともと樽からボトルに注いで量り売りしてくれるのが慣いだ。客は自宅から容器を持参してもよい。このあたりは、ボヘミアのピヴォにも共通する文化である。

 ──つづく。